、アンタはどうしたいの?」
「……えっと、できれば今まで通り“恵くん”って――」
「そうじゃなくて」

 肩を掴む繊手に力が篭もり、わたしは僅かに身を強張らせる。しかし戸惑いに視線が揺れたのも一瞬で、わたしは野薔薇ちゃんをまっすぐに見据えると硬度を備えた声音できっぱりと告げた。

「……正しく復讐したい」
「それは伏黒のことを忘れたいから?」
「ううん、違うよ。わたしが呪術師になったのは正しく復讐するためで、恵くんと楽しく恋愛するためじゃない。むしろフラれて良かったと思ってるんだよ?迷いがひとつ減ったんだから」
「そう。じゃあもうこれで心置きなく死ねるってことね」
「…………え?」

 鼓膜を叩いた凛然とした響きに耳を疑う。言葉を詰まらせたわたしを見るや、肩をすくめた野薔薇ちゃんが大袈裟に嘆息してみせた。

が自分の信念に殉じようとしてることくらい、ここにいる全員が最初から知ってんのよ。なんでバレてないと思ったの?」

 呆れた様子の野薔薇ちゃんの肩越しに教室を見渡せば、わたしたちの会話に耳を傾けていた先輩たちと視線が絡む。初めに唇を割ったのはパンダ先輩だった。

「仇討ちのために入学したって聞いた時点で薄々とはな。まぁなんだ、悪いことは言わんから犬死にも道連れもやめろ。きっと目の前じゃなくたって、今の恵にとっちゃ最悪の呪いになる。一生引きずるなんてもんじゃない、来世どころか来来来世まで引きずるからな」
「おかか」

 馬鹿な真似はやめておけと、狗巻先輩が険を孕んだ真剣な首を左右に振る。悪戯な笑みを浮かべた真希先輩は硬直するわたしの隣に立つと、筋肉質なその腕をわたしの首に引っかけて顔を寄せた。

「別に死ぬなとは言わねぇし、お前が死ぬのを止めもしねぇ。信念貫いて死ぬのが本望だって言うならな。けど本当にそれで良いのか?恵との楽しい恋愛を自分から捨てて後悔はねぇのかよ?」

 底意地の悪い表情で紡がれる悪魔のような囁き。恵くんの怜悧なかんばせが脳裏を掠め、固く蓋をしたはずの浅ましい欲が外へ出ようと暴れ始める。

 真希先輩の言葉に耳を塞ごうとした。彼の幸せを考えれば、彼の返答を思えば、わたしの願いがいかに身勝手なものかはあまりに明白だ。わたしは渇いた唇をゆっくりと開いて、真希先輩のそれに何とか反論する。

「……自分から、って。わたし、さっきフラれて」
「でも、まだちゃんと返事は聞いてないんだろ?」

 どこか呆れを含んだ穏やかな口調で、パンダ先輩がわたしの物言いをやんわりと遮る。幾度となく投じられた質問に、深く俯いたわたしは下唇を噛んだ。深く黙した彼の姿が言葉以上の答えだった。期待を抱く余地などどこにもないのに、どうしてそう何度も詮無いことを訊くのだろう。

 パンダ先輩は咳払いをひとつ落とすと、低い地声にさらに渋味を加えた声色で「えー諸君」とやけに仰々しく口火を切った。己に視線が集まったことを確認して、すぐに芝居がかった口調で言葉を継ぐ。

「高専内のどこかで倒れている恵がそろそろ可哀想になってきたので、この鈍感勘違い娘に真実を伝えて回収に向かおうと思うが、異論はないな?」
「しゃけー」
「どうぞー」
「言ってやれー」

 やる気のない間延びしたヤジが次々に飛ぶ。わたしがそうっと視線を持ち上げれば、パンダ先輩が大袈裟に肩をすくめてかぶりを振った。

「人間じゃない俺の目から見てもよくわかる。、完全に脈アリだぞ」
「……えっ」
「つまり誰の目から見ても恵はが好きだし、気づいてないのはくらいのもんだ」
「……えっ?」
「あと噂をわざわざ耳に入れんのはアレかと思ってずっと黙ってたんだが、高専の職員とか術師、補助監督連中の間では“伏黒恵は樹の妹と付き合ってる”ってことになってる。否定したってもう誰も信じないレベルで広まってるからな?」
「……えっ?!」
「付き合ってないと思ってんのは、当事者であると恵、それから事情を知ってる俺たちや一部の教職員くらいだ。あとはみーんな付き合ってると思ってるぞ?」
「……えぇっ?!」

 予想だにしない“真実”にわたしは素っ頓狂な驚声を上げ続ける。話の内容を頭では理解できても心がまるで付いていかない。パンダ先輩は今何と言ったのだろう。恵くんがわたしを、好き?――瞬きひとつできず硬直していると、深いため息を落とした野薔薇ちゃんがわたしの頬を軽くつねった。まるで夢ではないと告げるように。

「好きでもない女のために誰が夜中にわざわざ電球なんか変えんのよ。なんで気づかないの?馬鹿じゃないの?」
「えっ、夜中に好きな女の子の部屋に入って何もなかったのか?ハグとかチューとか一切なし?」
「何もしてないってちょっとイライラしながら言ってたわよ、伏黒が。きっとアレね、本当は何かしたかったのよ」
「恵の理性って何で出来てるんだ。鋼か?」
「いくら、すじこ、ツナ」
「しかもアイツ、のためにピッキングまで覚えてんの。つまり夜這いし放題ってわけ。それなのに――」
「おかかっ!」
「そうその通り!何もしていない!理由は明白ね、に嫌われたくないからよ!」

 真犯人を追い詰めた名探偵の如く、声高に盛り上がる野薔薇ちゃんたちの会話に呆然とする。真希先輩はわたしの顔を覗き込むと、眼鏡の奥の涼しげな双眸に茶目っぽい色を浮かべた。

、最近はずっと悟と外食で夜は必ず出掛けてんだろ?修行の合間にさり気なく訊かれるんだよ、“アイツ昨日はちゃんと帰ってきましたか?”って。恵、が心配で仕方ねぇんだろうな」

 わたしは思わず目を伏せた。期待を抱いた心臓が軽やかなステップを踏み始めている。頬に羞恥の朱が差しているような気がした。しかし告白に対して沈黙を返した恵くんの姿が目に焼き付いている。まだ信じられない。

 指先まで熱くなった手を揉み合わせ、すっかり持て余した激しい渦のような感情を落ち着けようと試みながら、歯切れ悪く反論を口にする。

「そ、れは、その……全部、め、恵くんの、優しさで……」
「私そんなに優しくされたことなーい。真希さんは?」
「はぁ?あるわけねぇだろ。棘だって一回もないよな?」
「しゃけしゃけ。ツナ」
「え、俺か?俺なんか初対面で“中に人とか入ってんすか”って真顔で訊かれてるからなぁ」

 場を満たす和やかな空気の中で、わたしはひとり重苦しく視線を落としていた。深く黙した彼の姿。そして罪悪感に溺れた白群の瞳。わたしを尻込みさせるには充分すぎる理由が恵くんとわたしの間に横たわっている。抑えたはずの涙が再び世界を白く濁らせ始めた。

「でも、わたしはお兄ちゃんの妹で、わたしといると恵くんはきっとこれからも嫌なことを」
「明太子」

 大丈夫、とひどく優しい声音が鼓膜を叩いた。手を引かれるように顔を持ち上げると、目から大粒の涙がこぼれ落ちる。目蓋を軽く上下させるだけで視界を覆う涙が落ち、解像度の低さが幾分マシになる。

 黒いネックウォーマーを引き下げた狗巻先輩が、丸い双眸にも見える呪印の刻まれた己の唇を人差し指で何度か軽く打った。次いで酸素を求める金魚のようにその唇をぱくぱくと何度か開閉したあと、わたしを見つめて柔らかく笑んでみせる。

「ツナマヨ」
「……会話?」
「しゃけ」

 緩やかな弧を描いた唇が肯定の語句を結んだ。耳のずっと奥で「……っ」とわたしを引き留めようとする焦燥に満ちた声音がうわんと響く。

 自分だけ言いたいことだけを言って、何か言い募ろうとした彼から逃げて来たのはわたしだった。彼からの着信に応じることを拒んだのもわたしだった。

 静かに泣きながら目を伏せると、野薔薇ちゃんがハンカチを差し出しながら呆れた様子でわたしを説得する。

「狗巻先輩の言う通りよ。伏黒がどう思ってるか、直接訊いたわけじゃないんでしょ?」
「……うん」
「だったらアイツの気持ちを勝手に決めんな。これがもし逆の立場だったら――なんてこと、言わなくたってわかるんじゃないの」
「……うん。嫌だし、多分すごく怒るよ。わたしはそれでも恵くんが大好きだからそばにいたい、って」

 草木柄の刺繍に彩られたタオル地のハンカチを受け取ったわたしは、それを優しく押し当てるようにして涙を拭っていく。

 野薔薇ちゃんたちからどれだけ優しい言葉をかけられようと、どうしようもない不安が付き纏うのは、それらが全て恵くんの唇で紡がれた言葉ではないからだ。答えは野薔薇ちゃんたちの中にも、わたしの中にもない。恵くんの言葉だけが、今のわたしにとってたしかな真実だった。

、もう一回訊くぞ?――恵との楽しい恋愛を自分から捨てて、後悔はねぇのかよ?」

 真希先輩の迫るような詰問に、わたしは大きくかぶりを振った。浅ましい欲望の蓋は完全に開いている。お兄ちゃん、と心の中で小さく呼びかける。お兄ちゃんごめんね、わたし恵くんのこと諦められない。あんなに素敵な人を他に知らないから。ハンカチをきつく握りしめると、わたしは涙に濡れすぼった声を躊躇いがちに絞り出した。

「……ば……、………ますか?」
「あ?そんなんじゃ聞こえねぇよ。もっとはっきり言え」

 低音で放たれた鋭い恫喝に怯えることは一切なかった。もはや睥睨する勢いで真希先輩に向き直り、涙に濡れた唇を大きく開いてわたしは恵くんとの甘い未来に手を伸ばす。

「……押せば、まだ何とかなりますか?」

 すると真希先輩の唇がにやりと弦月の形に吊り上がる。待ってましたと言わんばかりのそれに身体が強張った瞬間、パンダ先輩が手を大きく打ち鳴らして教室内の空気を一変させた。

「よし。そうと決まれば俺と棘で恵の回収だな」
「しゃけ」
「医務室の近くにいるだろ、多分」

 言うと、パンダ先輩は狗巻先輩と連れ立って緩慢な足取りで扉へと向かう。

「すじこ、いくら、明太子」
「え、林檎飴?夏祭りの定番だけど作ったことないからなぁ。焼きそばとかたこ焼きなら比較的簡単だし一緒に作るか」
「しゃけ、ツナ、高菜」
「うーん、そうだな……蔵に何か鉄砲型の呪具あっただろ?アレで射的とかはどうだ?蠅頭を的にしてさ。きゃ~恵くんカッコイイ~的な」
「ツナマヨ!」
「採用ありがとうございま~す!」

 ひどく楽しげな会話が教室から消えていく。ポカンとするわたしをよそに、野薔薇ちゃんが真希先輩に軽快な口調で話しかける。

「真希さん、浴衣って持ってます?」
「ねぇな。悟まだ高専にいるんだろ?アイツの五条パワーでどうにかさせるか。花火の場所と諸々の道具の手配も含めて私から頼んでおくから、野薔薇は――」
「もちろんのヘアメイク完璧にやりますよっ。だから着付けだけお願いしても良いですか?真希さんのほうが得意そうだし」
の素材を存分に活かした“あざとカワイイ”で攻めるぞ。恵、どうせ正攻法に弱いだろ」
「出来栄えは狗巻先輩にチェックしてもらいましょ。あと伊地知さんにも。メイク、こういうのはどうですかね?チークでじゅわっと血色を足す感じ」

 困惑する視線がふたりの間を行ったり来たりする。パンダ先輩も狗巻先輩も、野薔薇ちゃんも真希先輩も、みんながわたしのために行動を起こしてくれていた。喜びよりも驚きが勝る。

「……どうして、わたしなんかのために、そこまで」とたどたどしい言葉を絞り出せば、真希先輩とスマホを見つめていた野薔薇ちゃんがこちらを向いた。

「だってまだに死んでほしくないから」

 さっぱりと告げられた返答に声もなく瞠目する。野薔薇ちゃんのそれに説得力を加えるように、真希先輩が悪戯な明眸でわたしを軽く睨み付けた。

「そうだよ。が死んだらせっかく用意した祝儀袋が無駄になるだろ」
「奮発して可愛いの買ったのに渡せないなんてマジ最悪」

 げんなりとした顔で口早に言い放つと、腰に手を当てた野薔薇ちゃんはブラウントパーズの瞳を細めて拗ねたような口調で続けた。

「ていうか、が早く自由に外出できるようにならなきゃ、一緒に全身脱毛行けないでしょ」
「……脱毛?」
「ペア割って言って、友だちと一緒に通うと安くなるのよ。あーあ、夏から始められると思って楽しみにしてたのに。私の脱毛が遅れた分、映えるパフェとかパンケーキとか絶対に奢ってもらうから覚悟しろよ」

 口調は乱暴でも優しさに満ちたその言葉に、止めどなく涙が溢れていく。涼しい目をした真希先輩がわたしの背中を軽く叩いた。野薔薇ちゃんはスマホをポケットに仕舞いながら、顎をしゃくっていつもの調子で促した。

「ほら、さっさと行くわよ」
「……うん!」