「――そういうわけなので、ほとんどフラれたようなものですよ?」

 透明の窓に切り取られた盛夏の紺碧を見つめながら、わたしは悪戯っぽい声音で恵くんとのあらましを締め括った。心配をかけまいと明るく話したつもりが、それがどうやら裏目に出たらしい。耳を傾ける先輩たちの目にはひどく空元気な態度に映ったのだろう、二年生のホームルーム教室に漂う空気は窓から覗く賑やかな真夏のそれとは大違いだった。

 こちらを案じるような視線に内心苦笑する。パンダ先輩からもらったばかりの冷たい紅茶で、居た堪れない感情を強引に喉奥へと流し込んだ。飲みかけの水を医務室に置いてきてしまったことをふと思い出し、わたしはペットボトルの蓋を閉めながら目を伏せた。

 わたしの告白に対して彼は無言を貫き通した。それが彼の答えだった。

 悲しくないと言えば全くの嘘になるけれど、最初からわかっていたことだと思えば気が楽になったし、真希先輩に促されてパンダ先輩と狗巻先輩に経緯を説明していくうちに心はすっかり落ち着きを取り戻した。

 身体を廻る呪力の流れにも乱れはない。今ここで呪符を書けと言われても、普段と変わらぬ質の呪符を仕上げる自信があるほどだった。

 医務室を出た直後に野薔薇ちゃんと真希先輩に会えたことが大きかった。こんなにも早く失恋の悲しみに折り合いが付いたのは、ふたりの存在があってこそだろう。

 悟くんとの食事の帰りに何か美味しい洋菓子でも買ってお礼をしようと思っていると、イスに座る狗巻先輩がこちらの様子を窺いながら躊躇いがちに切り出した。

「高菜」
「はい、大丈夫です。さっき泣いたのでスッキリしました」

 言葉に説得力を持たせるように微笑んでみせれば、教卓に背を預けるパンダ先輩がかぶりを振った。

「けど、ちゃんと返事は聞いてないんだろ?」
「聞かなくてもわかりますよ。意地悪言わないでください」

 説明の最中にも何度も繰り返された質問に、わたしは拗ねて唇を尖らせる。

 恵くんが沈黙を貫いたということは、告白への答えは“ノー”もしくは“聞かなかったことにしたい”のどちらかだ。彼にはたびたび呆れ顔で「脳内お花畑」と小馬鹿にされてきたけれど、さすがに先ほどの彼の反応を“うれしすぎて言葉がなかった”と捉えられるほど楽観的な性格をしていない。

「別に意地悪じゃないんだけどなぁ」とパンダ先輩は尖った爪で頬を掻くと、数秒の間を挟んで気を取り直したように首を傾げる。

「次、恵と会う予定はあるのか?」
「会う予定、ですか?」
「そうそう。高専の敷地内ですれ違うとか修行でちょっと顔を合わせるとかじゃなくて、互いに腰を据えて話す機会はあるのかなと思ってさ。……ほ、ほら!も恵もやっぱ気まずいだろうし俺たちが先輩として何か助けになれたらって!なぁ棘!」
「しゃ、しゃけ!しゃけしゃけ!」

 話の途中で何故か急に狼狽え始めたパンダ先輩と、首がもげそうな勢いで何度も首肯する狗巻先輩。失恋した後輩をそこまで気遣ってくれる優しい先輩たちの姿に、胸がじんわりと温かくなる。

 狗巻先輩にも洋菓子を贈ろう。パンダ先輩は一体何が好きなのだろう。きっと笹ではないはずだ。あとでさり気なく真希先輩に尋ねてみようと思いつつ、わたしは前のめりで答えを待つふたりに応じるように恵くんとの予定を滑らかに紡いでいく。

「今夜、花火の約束しました。恵くん、来てくれると良いんですけど」

 小さく苦笑を滲ませたわたしを見るや、パンダ先輩と狗巻先輩がはっとした様子で顔を見合わせた。次の瞬間には互いが互いを勢いよく指差して声高に叫んでいる。

「それだッ!」
「ツナマヨッ!」

 まるで図ったかのように同時に叫んだふたりの姿に、わたしは思わず瞠目する。状況を飲み込めないわたしを置き去りにして、パンダ先輩と狗巻先輩は行儀悪く机に腰かける真希先輩へと視線を送った。

「真希!真希真希真希!」
「ツナツナ!」
「ぎゃーぎゃーうるせぇよ。お前らには悪いが、私は好きな女のために腹も括れねぇようなダセェ男にお膳立てしてやる気は一切ねぇからな。勝手にしろ」
「そんなつれないこと言うなよ。これから腹括るかもしれないだろ?」
「すじこ、こんぶ、明太子」
「……はぁ?ふたり揃ってやけに恵の肩持つじゃねぇか。アイツがそんな素振り少しでも見せんなら考えてやらねぇわけでも――」

 苛立ちを孕んだ真希先輩の声音が半端に途切れる。突然始まった口論を遮ったのは、わたしのポケットの中で震えるスマホだった。ひどく無機的な着信音が教室に響き渡り、三人の視線がこちらに集中する。わたしは逃げるように軽く顔を伏せた。

 内容は半分も理解できていないものの、三人が恵くんを巻き込む形でわたしの失恋を慰めようとしてくれていることはわかる。だからこそ話の腰を折ってしまったことがただ申し訳なかった。スマホの電源を切っておけば良かったと後悔がせり上がる。

 早く取れと言うように真希先輩が顎でしゃくる。小さく頷いて素早くスマホを取り出せば、画面に表示された名前がたちまちわたしの目を奪った。

 動揺に喉が張り付いて上手く話せる自信がない。わたしはスマホを顔の高さまで持ち上げて画面を示しながら、機械音に掻き消えそうなほどの小さな声音で発信者の名を紡いだ。

「……恵くんです」

 どうして今このタイミングで?――という疑問の答えは考えずともすぐに浮かぶ。きっと今夜の約束を断るためだろう。失恋はさておき、恵くんとの夏の思い出作りを楽しみにしていたわたしはひどく陰鬱な気分になる。

 心にどんよりとした暗雲が立ち込めたわたしをよそに、パンダ先輩と狗巻先輩はふたり揃って真希先輩に悪役さながらのしたり顔を向けていた。

「ほらな、俺たちの言う通りだ。恵は冷静な分エンジン掛かるのが人よりちょっと遅いだけなんだよ。どうするんだ真希。前言撤回するか?」
「いくら、すじこ、ツナマヨ」

 憎々しげに顔を歪めた真希先輩は舌打ちをひとつ落とすと、白刃にも似た鋭い双眸を狗巻先輩へと滑らせる。

「……棘!」
「しゃけ!」

 阿吽の呼吸で応じた狗巻先輩はイスから立ち上がるや、窓際でひとり悲しみに暮れるわたしの眼前まで移動する。そして大きく広げた手のひらをこちらへ差し出し、「いくら」とスマホを寄越すように言ってきた。一瞬迷ったものの、わたしは着信音を奏でるそれを「……お願いします」と手渡した。

 どれだけ落ち着きを取り戻したとはいえ、恵くんと話すのはどうしても緊張する。何せ恋が終わってまだ十五分も経っていないのだ。彼と普通に話せるだけの気持ちが整うにはもう少し時間が必要だろうし、それが約束の反故を伝える電話なら尚更だった。

 狗巻先輩が画面に指を滑らせると、無機質な着信音がようやく途切れた。代わりに話してくれるならありがたいと安堵した矢先だった。狗巻先輩は空いている左手で口元を覆い隠す薄手のネックウォーマーを引き下ろし、

「――“眠れ”」

と、全く躊躇なく電話越しに呪言を放った。

 古来より言葉には不思議な力が宿ると言う。言霊とも呼ぶべきそれに呪いを乗せた歴史ある呪術“呪言”を操る“呪言師”の一族――狗巻家。その末裔である狗巻先輩は唯一無二の己の武器を、あろうことか後輩相手に使用してみせたのだ。

 状況を把握できず唖然とするわたしの手に、狗巻先輩は「こんぶ」と曇りない笑顔でスマホを乗せた。そして一転表情を引き締めるや、「明太子」と力強く親指を立ててみせる。

 わたしは沈黙したスマホに目を落とした。狗巻先輩が一体何の目的で呪言を使用したのかさっぱりだし、おそらく脳を呪力で覆う暇もなかったはずの恵くんは、まともに受けた呪言のせいで今ごろ夢の中だろう。上から何かが落ちてくるような危険な場所に倒れていないかだけが心配だった。

「……あ、ありがとうございます?」とひどく曖昧な感謝を告げれば、狗巻先輩は演技めいた自慢げな顔つきでかぶりを振る。話す言葉が呪言と化さぬよう語彙を絞る狗巻先輩との会話は、内容が複雑化すればするほどそれに比例して難易度も上がっていく。それを差し引いても、何となく煙に巻かれているような感じがした。

 わたしを振った腹いせに呪言を使用したのだろうか。湧いた疑問に眉を寄せた瞬間、教室の扉が勢いよく開け放たれた。

「釘崎野薔薇、ここに帰還!」

 凛と澄んだ野薔薇ちゃんの声音が鼓膜を強く叩いた。穴だらけのジャージを身に纏う野薔薇ちゃんは後ろ手で扉を閉めながら、真希先輩にブラウントパーズの視線を投げる。

「真希さん、どこまで話進んでます?」
から状況を聞いたところだ。今から本題だな。仕掛けんぞ」
「待ってました!私もそのつもりだったんで」

 会話に名は出ようともわたしは完全に蚊帳の外だった。良からぬ企みの匂いが漂い始めていることくらいは理解している。一体何を始めるつもりなのだろうと目を瞬けば、野薔薇ちゃんがまっすぐこちらへ歩いてくる。目と鼻の先で歩みを止めると、わたしの顔を覗き込みながら悪戯な笑みを浮かべた。

「もう泣いてないわね」
「うん。少しでも良い女になりたいから」
「伏黒を見返すために?」
「そうだね。あんな良い女フるんじゃなかったって思わせたいかも」

 精一杯の茶目っぽい笑顔を返せば、ブラウントパーズの華やかな瞳に心配の色が滲む。見返すつもりなど毛頭ないことを容易く見抜かれたわたしは強引に話題をすり替えた。

「恵くんの様子、どうだった?困ってなかった?……あ、フラれたのにいつまでも“恵くん”なんて呼ぶのは図々しいかな」

 野薔薇ちゃんは自虐めいた苦笑を付け加えたわたしの両肩を掴んだ。野薔薇ちゃんよりやや背の低いわたしと目線を合わせるように頭の位置を変えると、ひどく真剣な色を灯した宝石の明眸でわたしを深々と穿った。