伏黒恵は半ば忘我の中にいた。無理もなかった。恵がこれまで歩んできた十五年という短くも数奇な半生において、それほど真摯な想いを向けられた試しは一度たりともなかったから。

「わたし、恵くんが好きです」

 あらゆる迷いを断ち切った響きが耳朶を打ち、誘われるように白群の双眸が持ち上がる。

 恵と目が合うと、はその明眸に幸福に満ちた一途な笑みを滲ませた。柔い頬が淡く紅潮していく。他の誰でもない、恵たったひとりに捧げられた穏やかな表情。恋とも愛とも取れる慈愛に満ちたそのかんばせには、嘘や誤魔化しなどは一滴も含まれていない。

 は恵に恋をしている。は恵を愛している。にわかに信じ難いその現実を、の存在を構成する全てが明確に告げている。

 目を奪われていた。意識を絡め取られていた。己の何もかもがの手中にあるような錯覚を覚えるほど。すでにその瞬間から恵はに陶酔していた。無意識のうちに五感の全てを、目の前のただひとりに注ぎ込んでいた。

「誰よりも責任感が強くて、無愛想だけど優しくて、いつだってわたしを助けてくれる、世界で一番格好良い恵くんが好きです」

 その声音は決して大きくはなかった。しかし耳から入った優しく落ち着いた声音は、恵の意識野の奥深くまで心地好く届いていった。

 世辞ではなく本気で恵をそう捉えるの言葉に面映さを覚えるよりも早く、本当にの目には自分がそう映っているのかと驚きと喜びが滲む。

 きっとは気づいていないだろう。自分でも呆れてしまうほど、にだけ特別優しくしていることも。どんなときでもの助けでありたいという思いが、半ば無意識に行動に表れていることも。に情けない姿など見せられないという下らない矜持から、変に格好付けようとしてしまうことも。そしてもちろん――その理由も。

「嘘でも冗談でもなく本気で、人としても恋愛対象としても、恵くんのことが大好きです」

 魂に直接囁きかけるような響きが紡ぎ出すその告白は、一心に耳を傾ける恵に過剰な多幸感をもたらしていた。好きである理由をたっぷりと添えて、想いが真実であることを丁寧に付け加えて、何度も恵が好きだと繰り返したは最後に小さくはにかんでみせた。

 普段は度を越えたお人好しなところばかりが目に付きがちだが、は素直で真面目な性格も持ち合わせている。“好きです”という端的な一言で終わらせなかったのは、きっと自らの想いを寸分違わず恵に伝えるためだろう。

 陶酔から現実へと戻った恵は、視線を落としてじっと黙した。過熱した脳では情報処理が追い付かない。まさかが土壇場で腹を括って告白するとは全く予想だにしなかったせいで。

 隠しごとの苦手ながボロを出すことを心のどこかで期待していたし、うっかり口を滑らせたを回りくどく誘導すらした。きっとのことだから下手に誤魔化して話をうやむやにするのだろうと思っていたのに、どうやら恵はの思い切りの良さを甘く見ていたらしい。

 真摯な眼差しが恵を見つめている。何らかの反応を求められていることを理解していながら、恵はじっと黙り込んでいた。まるで糸できつく縫い合わされているかの如く、唇が開く気配は全くない。

 何を言えば良いのかわからなかった。言葉が見つからないのではなく、そもそも恵は返事となる言葉をひとつも用意していなかった。己が返事を用意していいような立場の人間ではないということは、充分に理解していたから。

 柳眉を逆立てるを見るまで、“伏黒恵は五条の日常に不可欠な人間だ”ということをまるで知らなかった。の未来に自分は必要のない人間だと信じていた。恵にとってはが必要でも、その逆はあり得ないだろうと、そう思い込んでいた。

 は恵に一体何を求めているのだろう。の告げた“好きです”という恋情の告白に、“付き合ってほしい”という“その先”は含まれているのだろうか。引くに引けないその場の流れでただ告白しただけで、恵からの明確な返答を求めていない可能性も決してゼロではない。

 好きだから付き合う恋愛があることも、好きだけど付き合わない恋愛があることも、知識のうえでは知っている。最愛の兄を奪い、享受すべき他愛ない日常を奪った仇のような人間と交際したいなどと本気で思うはずもない。にとって、恵は永遠に加害者なのだから。

 堅く口を閉ざす恵は唇をきつく噛んだ。しかしそうやって御託を並べて逃げようとしている自分には最初から気づいていた。

 ――だがもし、に恵と付き合う意思があったら?

 そんな“たられば”からは永遠に目を背けていたかった。この無意味な感情に未来はないと強引に切り捨て何も考えないようにしていたからこそ、の告白への答えに困ってこうして黙り込んでいるのだ。

「恵くんがいないと寂しいよ?」――優しくもどこか茶目っぽい口調に添えられた屈託ない微笑。
「今すぐお引き取りを」――恵を傷つける人間を容赦なく穿つ狂気さえ孕んだ強烈な殺意。
「わたし、恵くんが好きです」――未だかつて向けられたことのないほどの恋と愛を過分に含んだ、真摯で一途なその想い。

 はたして自分は、の想いに応えられるだけの人間なのだろうか。

 過去はなかったことにならない。樹のことは一生付いて回るだろう。それでも恵がと付き合うということは、もうどこにも逃げられないということだ。

 世話になった樹を囮に逃げたこと。樹に受けた恩を何ひとつ返せなかったこと。を復讐に走らせてしまったこと。お人好しのを呪術界に引きずり込んでしまったこと。きっと今まで以上に兄妹を直視しなければならなくなるだろう。

 はたして自分は、を二度と悲しませることなく幸せにできるのだろうか。

「頼んだぜ、伏黒君」

 穏やかな笑みを宿した血染めの唇が脳裏を掠める。樹は決してそういう意味で妹を恵に託したのではない。だからこそ恵は樹に顔向けできないと思った。恵を庇って死んだ樹が己の命よりも大切にしていた妹のと付き合うということは、恵にとって非常に大きな意味を孕んでいた。

 贖いの感情からに応じるなど論外だ。償いと言えばそれまでだが、そんなものは逃避と何も変わらない。必ずを傷つけるだろうし、樹に合わせる顔がない。

 この返答だけは誰にも委ねてはならない。軽はずみな気持ちで応えることは許されない。それはのためではなく、咎を背負った自分自身のためだった。

 恵はと向き合う覚悟を問われていた。他の誰でもない、自分自身に。

 深く黙して思考に没頭する恵だったが、カーテンの開く音に意識を穿たれ我に返る。ふと見れば、ベッドはすでにもぬけの殻だった。

 瞬間的に噴いた焦燥が全身を駆け廻る。ほとんど反射的に医務室の扉へと視線を滑らせ、革草履に足を通すの華奢な背中を見つける。思わず恵は丸椅子から立ち上がって名を呼んだ。

「……っ」

 まだ答えは出ていない。二の足を踏む恵はその先の言葉を忘れたように口を噤んだ。ここでを引き留めてどうするつもりだと、もうひとりの自分が氷塊を沈ませた目で俯瞰しているようだった。

 扉を開けようとしていたの手が止まる。しかしそれも瞬く間のことで、は振り返ろうとする素振りなど一切見せず、恵の惑う心を置き去りにして医務室を颯爽とあとにした。

 扉の閉まる金属音だけが深い静寂の中に響き渡り、恵は全身の力が抜けたように再び丸椅子に腰を落とした。何もかも間違えたという自覚だけが遅れて襲ってくる。

「追わなくていいのか」

 耳朶を打った家入の言葉に奥歯をきつく噛みしめた。思考に耽るあまり恵はの告白に無言を貫き、結果それがにとっては恵の返答になってしまった。こんなつもりではなかったのに。

 返す言葉はいくらでもあったはずだ。“それは付き合いたいという意味でもあるのか”“答えを考える時間がほしい”“とのことを自分なりに考えたいから待って欲しい”――そう、きっと言葉はあったはずなのだ。

 しかしあの場で返事を保留にすることを恵の下らない矜持が拒んだ。その場ですぐに応えることが覚悟なのだと思い込んでいた。

 全ては判断を誤った自分のせいだった。虚無感に打ちのめされる恵が「……はい」と小さく頷けば、家入は「余計なことを言ったな。すまない」とだけ言って事務作業に戻った。

 何よりも欲しかったものを掴み損ねた深い喪失感に苛まれる。今さら悔いたとて遅い。だからといってを追う度胸はない。話を蒸し返してをさらに傷つけるほうが怖かった。

 ただいつまでもここでじっとしているのは違うような気がした。鉛のように重い腰をのろのろと持ち上げたのとほぼ同時に――扉が開いた。

 が戻って来たのかと僅かな期待が頭を掠めたが、しかしすぐにそんなことは有り得ないと抱いた可能性を一蹴する。恵の目算通り、医務室の扉を開いたのはではなく野薔薇だった。その双眸に獰猛な肉食獣の如く剣呑な光を宿した野薔薇がそこにいた。

 野薔薇のジャージには無残にも複数の穴が穿たれている。まるで銃撃でも浴びたようなひどい有り様だった。修行の最中に「可愛いジャージを買いに行かせろ!」と叫んで買いに行ったジャージは、まだ着用を始めてそう時間は経っていないはずだ。東堂に襲撃された恵同様に野薔薇もまた、真依から嫌がらせとして容赦なく攻撃を浴びせられたのだろう。

 土埃を被った髪の下で琥珀の両瞳が怒りに燃えている。一方的な襲撃に腹を立てているのだろうと思ったのも束の間、野薔薇は何故か家入の前を通り過ぎて恵の目と鼻の先で立ち止まる。訝しむように恵が眉を寄せた次の瞬間、激怒に煮え滾った低音が鼓膜を震わせた。

「おい伏黒。お前何のこと泣かしてんだよ」
「泣かせた?……何の話して――」

 しかし言葉は最後まで紡げなかった。気づいたときには視界が大きく回転し、恵は床へと横転していた。身体の側面に鈍い衝撃が走り、喉奥から小さな苦鳴がこぼれる。拳で左頬を激しく殴打されたことに気づいたのは、口端の切れた痛みが遅れてやってきたあとだった。

 あまりに突然のことに痛みよりも驚きが勝る。すぐさま揺れる視線を持ち上げれば、野薔薇は明後日の方向を見つめて首をひねっていた。

「あーなんか蝉がうるさくてよく聞こえなかったわ。――もういっぺん言ってみろ」

 激発する感情を叩き付けるように、野薔薇は瞳孔を大きく開いて恵を威嚇する。

 今日は朝から散々な一日だった。もうすでに恵の心には余裕がなく、普段なら受け流せたはずの野薔薇のその態度が恵の神経を執拗に逆撫でる。

 瞬く間に苛立ちが噴いた。「……関係あんのかよ」と地鳴りじみた声音が血に濡れた唇からこぼれ落ちる。恵は一瞬で顔色を変えると、こちらを見下ろす野薔薇を憎々しげに睥睨した。

「お前に何の関係があるってんだよ」
「は?関係大アリだよ」

 獰猛な毒蛇の如く伸びた繊手が喉首を引っ掴むや、目線の高さを合わせるように恵の上体を力任せに引き上げる。背を丸めて前のめりになった野薔薇は膝立ちの恵を射殺さんばかりに睨み付け、憤怒を露わにして唇を捲り上げた。

は私の親友だぞ?人の親友泣かせといてその言い草はねぇだろ」

 聞き間違いではなかった“泣かせた”という言葉に、恵は大きく目を瞠った。は決して恵に泣き顔を見せようとしない。恵を一瞥することもなく立ち去ったの急いた背中が脳裏に呼び起こされ、形容しがたいほどの自責の念に駆られる。首が絞まって窒息しそうなことも忘れ、恵はただ呆然と呟いた。

「……、泣いてたのか」

 掠れた声音でかろうじて絞り出された問いに、野薔薇は小さく舌打ちを落とした。恵を乱暴に突き放すや、苛立ちを含んだ言葉を吐き捨てる。

「号泣だよ。誰かさんのせいで」
「…………悪かった」
「謝る相手が違うだろうが」

 もっともな罵倒が恵の頬を強く打った。茫然自失として床に座り込んだ恵から視線を外した野薔薇は、裾を引っ張るようにして穴の開いたジャージを家入に示してみせた。

「硝子さん、一応診てもらっても良いですか?ばかすか撃たれたんで」
「構わないが、伏黒はどうする?」
「ちょっと待ってください」

 言うと、野薔薇は顎でしゃくって恵にベッド脇まで移動するよう促した。端から拒否権などない恵が大人しく従ったことを見届けると、医療用カーテンを力強く掴んで厳しい目付きで威嚇する。

「わかってるわね?1ミリでも覗いたら五臓六腑引きずり出して殺すわよ。あとにあることないことたっぷり言いふらしてやるから」

 物騒極まりない警告とともにカーテンが引かれた。僅かな沈黙を挟んで、「ねぇ伏黒」と野薔薇が普段の調子で名を呼んだ。その場に立ち尽くしていた恵がカーテンに視線を向ければ、どこか呆れた様子の質問が付け加えられる。

と何があったのよ」
「……から聞いてんだろ」
「アンタからも聞かなきゃフェアじゃないでしょ」

 意外な言葉に恵は微かに片眉を持ち上げた。どうやら野薔薇が激怒していたのは“恵がを泣かせた”という事実に対してだけであるようだった。が泣いたことを知らなかった恵の態度が、“を泣かせておいて平然としている姿”に見えたからこそ、野薔薇は容赦なく恵をぶん殴ったのだろう。

 真の公平性を求めるならこの場にいた第三者である家入に尋ねるべきだと思ったが、野薔薇は当事者である恵の感情も含めて詳細を聞き出そうとしているのかもしれない。何にせよ、この状況で黙秘など絶対に許されないだろう。また殴られるのは真っ平御免だ。

「好きだって告白された。それだけだ」

 小さな声音で白状すれば、野薔薇が矢継ぎ早に質問を重ねた。

「アンタに何したの?」
「何って……」
が自分から言うわけないのよ。だから伏黒が何かしたんでしょ?」

 ことごとく見透かされている状況はむしろ恵の口を軽くした。「……俺のせいだ」と恵はそう短く切り出すと、目を伏せながらぽつぽつと続ける。

「無自覚に口を滑らせたに、俺が問いただした。今何て言ったのか、って」
「はぁ?何よそれ。今まで散々“には言うな”とか“墓場まで持って行く”とか偉そうに言っておいて、から好意向けられた途端に手のひら返したってこと?マジで意味わかんない。はなんでこんな奴がいいの?」
「……同感だな。アイツの見る目を本気で疑う」

 自虐的な言葉を吐き出せば、野薔薇は虚を突かれたように黙り込んだ。恵の自嘲に深い葛藤を見たのかもしれない。重苦しい沈黙がしばらく場を支配していた。「後ろを向いて」と指示する家入の抑揚に欠けた声音がやけにはっきりと聞こえたとき、カーテンの向こうで再び野薔薇が口を開いた。

「それで、これからどうすんの」
「どうもこうもねぇだろ。もう話は終わってんだから」
「終わってねぇよ。勝手に終わらせんな」

 ひどく乱暴な口振りで否定した野薔薇は、やや間を置いてゆっくりと言葉を継いだ。

、泣きながらわたしと真希さんにこう言ったの――“恵くんに言っちゃった”って。“恵くんにフラれた”とは一言も言わなかった。だからまだ終わってないのよ、の中では」
「……」
「別に付き合えないなら付き合えないでもいいと思うわ。だってそこはアンタたちふたりの問題だし。けど私が言いたいのは終わらせるならちゃんと終わらせろってことよ。の愛情深さはもう嫌ってほど知ってんでしょ?どっかで区切り付けてあげないと、いつまでも伏黒のこと引きずるわよ」

 弁舌の勢いが増す野薔薇に対して恵は沈黙を返し続ける。硬く握った拳が震えていた。家入による治療が済んだらしい野薔薇はカーテンに近づくと、白藍色を一枚隔てた向こうで説得を試みるように告げた。

「ちゃんと終わらせてあげるのも優しさでしょ?」

 カーテンに映る黒い影が足音とともに遠ざかっていく。やがて扉が閉まる音が鼓膜を叩き、恵は野薔薇が医務室を去ったことを知った。時間をかけて緩慢に立ち上がり、どこか躊躇いを含んだ手つきでカーテンを開く。何かの資料をまとめていたらしい家入は恵に視線を送るや、垂れ目がちの瞳に小さな笑みを浮かべた。

「春が青いな」
「……騒がしくしてすみません」
「いや、構わないよ」

 それ以上は何も口にしない家入の気遣いに感謝して、恵は医務室をあとにした。誰もいない廊下を歩きながらポケットからスマホを取り出す。通話履歴の一番上に表示されたの名に指で触れ、すぐにスマホを耳に押し当てた。

 まだ何も答えは出ていなかった。そもそもこれ以上考えたところで満足できる答えが出るとも限らないし、うまい言葉は見つからないような気がしていた。しかしだからこそに会いたかった。今ここで会わねばならなかった。下らない矜持をかなぐり捨ててでも。区切りを付けることで引きずるのは自分のほうだという確信があるからこそ。

「……伏黒だ」

 無機的な呼び出し音が途切れた瞬間、恵は騒ぎ立てる心臓を押さえ付けながら努めて平静に名乗ってみせた。何も言わないに頭が真っ白になりそうだった。恵は廊下を早足で歩きつつ、掻き集めた勇を振るって何とか切り出した。

「……、その……さっきのことで今すぐ話が――」
「――“眠れ”」

 耳朶を打ったのが棘の呪言だと認識する暇もなく、恵の意識は暗闇へと真っ逆さまに落下した。