「……雨?」

 英語の宿題に向かう手を休めて、わたしはカーテンの開いた窓の外を見やった。透明な窓を強く打った雨雫がゆっくりと垂れ落ち、遠くからは微かに雷鳴の音も聞こえる。本格的な雨になるような気がした。

「洗濯物、取り込まなきゃ」

 感情の失せた伽藍洞の声音でそう呟くと、ガラス製のローテーブルに手を付いて立ち上がろうとした。膝立ちになったちょうどそのとき、視界の端で何かが大きく動くのを捉える。すぐに視線を滑らせれば、白い壁に沿って置かれた液晶テレビにわたしの姿が映っていた。

 深く黙したテレビがひどく不鮮明に映し出す、わたしの姿。身に纏うのは量販店で買った部屋着でもなければ、胸ポケットに校章が付いた紺色のブレザーでもない。巫女服じみた黒い和装姿の自分が、たしかにそこにいた。

 どうしてわたしはこんな恰好をしているのだろう。何か催し物に参加する予定でもあっただろうか。

 釣り込まれるように手元へと視線を落とす。宿題である英語のプリントの氏名欄を埋めるのは“”の文字だった。。途端に違和感が噴いた。心にも身体にも染み付いた、けれど最近はとんと見聞きしなくなったその名が、たちまちわたしを正気に引き戻していく。

「……あれ?わたし、さっきまで……」

 血に霞んだような朧げな記憶を辿りつつ、わたしは辺りを見渡して愕然とした。見覚えがあるどころの話ではなかった。お兄ちゃんと暮らした1LDKの賃貸アパート。数ヶ月まではいつまでも続く不変の日常だと信じていた光景が、記憶と寸分違わずそこに広がっていたのだ。

「……どうして」
「うん、さっすが樹。完璧だね」

 戸惑うわたしの耳朶を打ったのは、ひどく爽やかな声音だった。しゅわしゅわと強炭酸が弾けていく感覚。その響きは人工的で甘やかな香りを孕んだ冷たいサイダーを思わせた。

「ふぅん……これがの精神、本当の生得領域……ここはアイツが絶対に帰ってくる場所だもんね。アイツのフリした俺が難なく這入れたのはそういうわけか」

 声の響くキッチンのほうへ首を向ければ、全く見覚えのない長髪の青年がキッチンカウンターに頬杖を付いていた。驚いたわたしは声もなくただ瞠目する。

 浮世離れした不思議な青年だった。生の息吹がまるで感じられない、血色の悪い肌に走る数多の縫い目。皮膚と皮膚を繋ぎ合わせた特徴的なそれは青白いかんばせにもおよび、青年の存在をより“憂き世”から遠ざけているようだった。

 世界中のあらゆる喧騒から距離を置いたような、しかし軽い思い付きでその喧騒の中心へと飛び込んでしまいそうな、倫理と秩序に欠けた強い好奇心。もはや狂気とも呼べるある種の危うさを、青年はその細身いっぱいに内包しているように見えた。

 わたしと視線が絡むや、風変りな服装の青年は子どもっぽい無邪気な笑みを浮かべる。血の気の失せた顔を横切る継ぎ接ぎが緩やかに歪んだ。青年は身体の前で小さく手を振りながら、どこか道化た口調で滑らかに挨拶した。

「やっほー。お邪魔してまーす」
「……あの、どちらさまですか」
「別に名乗るほどの者じゃないよ。不法侵入者であることは認めるけどさ」

 言うと、青年はひどく軽やかな足取りでこちらへ近付いた。半ば反射的に身を強張らせれば、「そんなに警戒しないで。嫌なら近づかないから」と優しい気遣いに満ちた清涼感のある声音が続く。

 おそるおそる床に腰を落ち着けたわたしを見やると、青年はわたしから少し離れた場所で膝を折るようにして屈んだ。きっと目線の高さを少しでも合わせることで、こちらを安心させようとしているのだろう。

 青年が首を軽く傾けるだけで、束ねられた秘色の長髪がその動きに合わせて微かに揺れた。

「急にごめんね?ちょっと頼まれたんだよ。“玩具が壊れて心配だから様子を見て来て”って。君に何かあるとこっちにも支障が出るしさ。それで、君はそんなに悲しそうな顔をして一体どうしたの?」

 至極当然のように問いかけられ、わたしは戸惑った。青年はいつからここにいたのだろう。どうしてわたしを見ていたのだろう。そもそもこの見知らぬ青年は一体何者なのだろうか。一方的にわたしを知っているような口振りが引っかかる。おそらく、ただの不審者ということはないはずだ。

 自分ではなく、青年に対する疑問が次々に湧いていた。わたしが口を横一文字に結んで黙り込んだせいだろう、青年は何かを探すように視線を落とすと、すぐに血色の失せた唇で滔々と言葉を紡いだ。

「“私の情緒は、激情といふ範疇に属しない。むしろそれはしづかな霊魂ののすたるぢやであり、かの春の夜に聴く横笛のひびきである。”」
「え?」
「萩原朔太郎の“青猫”の序文だよ。人間である君は今、霊魂の郷愁に悩まされているのかなって。アレ?違った?」

 茶目っぽく尋ねた青年の青白いかんばせを食い入るように見つめる。「どしたの?俺の顔に何か付いてる?」と重ねられた質問は耳に入ってこなかった。わたしはしばらく継ぎ接ぎだらけの理知的な相貌を不躾に観察し、やがて躊躇いがちに唇を割った。

「……わたし、どこかであなたに会ったことありませんか?」

 その問いに青年はポカンとして、しかしすぐに大きく目を見開いた。

「えー何それ?!口説き文句にしては可愛すぎでしょ!」

 強炭酸が弾けるような清涼感たっぷりの声音とともに、左右で色の異なる蠱惑的な双眸が爛々と輝く。床に手を付いた青年は四つん這いで瞬く間にわたしの眼前まで接近するや、互いの鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離で捲し立てるように言った。

「ねぇ、もし会ったことがあるって俺が言ったら君はどうすんの?俺に運命感じてくれたりするとか?」
「……え、えっと」
「もしかしてそれ夏油や漏瑚相手でも同じこと言った?だとしたら妬いちゃうなー。俺が行くって駄々こねて正解だったかも」

 矢継ぎ早に紡がれる言葉の意味を半分も理解できなかった。たったひと息で距離を詰めてきた青年から逃れるように、わたしは大きく身を仰け反らせる。青年からは敵意や殺意が微塵も感じられないのに、何故かこれ以上は逃げられないという直感が働いていた。

 青年はごく自然に持ち上げた膝を、わたしの太ももの真横へと滑らせた。まるで跨るようにその痩躯ごとさらに肉薄するや、継ぎ接ぎだらけの顔が実に楽しげな笑みを刻む。

 近い。近すぎる。間違いなく初対面の距離感ではない。

 少しでも距離を取ろうと頭を引けば、限界を超えて上体を反らせたせいで視界がぐるりと回った。次の瞬間には後頭部に鈍い痛みが走り、目の前で小さく火花が散る。

 温かみを含んだ天井灯が瞳を刺したのも一瞬で、わたしの顔の傍らに血の気のない大きな手が落ちて我に返る。床に倒れ込んだわたしに覆い被さるようにして、青年がわたしをじっと見下ろしていた。

「なんだよ、こんなに可愛いならもっと早く会えば良かったな。邪魔したら怒られるかな?怒られるよなぁ……でも欲しくなっちゃったものは仕方ないと思わない?俺の仔も孕めるなら興味あるし。最悪殺してでも奪っちゃおうかな」
「……あ、あの、お話し中にすみません。そろそろ退いてくれませんか」
「なんで?俺はこのままが良いんだけど」

 束ねられた秘色のカーテンが天井灯を遮っている。薄闇の中から覗く倫理と秩序に欠けた双眸がわたしを射抜いていた。襲われる――とは思わなかった。喰われる、骨も残さず捕食される、そう本能が強く警鐘を鳴らしていた。

「そうだ、改めて名前訊いてもいい?君の口から直接聞きたいんだよね」
「……。五条です」
「五条?じゃなくて?」
「養子になったので……」
「そうなんだ。人間は色々と大変だね」

 青年は同情するように眉尻を下げてみせた。戸籍ごと変わった名字に言及されたことから、わざわざ名を尋ねずともわたしが何者であるかはすでに知るところだったのだろう。ようやくはっきりと危機感を覚えたわたしは、ごく自然な素振りを装って質問を返した。

「……あなたは?」
「俺?俺は真人。“真なる人”って書いて、真人だよ。が一生忘れられない名前になると良いなと思ってる」

 およそ人とは思えぬ青年の――真人さんの青白い手がわたしの視界を覆い隠した。次いで己の唇に柔らかな感触を覚える。

 口付けられたことに気づいたのは、角度を変えて唇のあわいから熱を貪られた瞬間だった。恵くんの怜悧な双眸が脳裏を掠め、かっと目頭が熱くなった。

 ――嫌だ!恵くんじゃなきゃ嫌だ!

 下肢をばたつかせて懸命に暴れながら、真人さんの身体を両手で力一杯押し返した。少しかさついたその感覚が遠のくや、わたしは手の甲で唇を何度も拭った。きつく閉じた目蓋の隙間から滂沱と涙が溢れるのがわかった。

 やがて暗澹とした暮夜が訪れていたはずの視界に光が差した。目と鼻の先にある継ぎ接ぎだらけの顔は涙のせいではっきりしない。真人さんの口端に浮かぶ不吉な、しかしどこまでも無邪気な嗤笑だけが、解像度の低い世界でたしかな輪郭を持っていた。

「またね、。次はもちろん現実で」



* * *




 目蓋の裏の暗闇を払い除ければ、白く輝く天井灯と目が合った。瞳の奥に痛みを感じるほど清潔なそれを和らげるように瞬きを繰り返せば、つんとした消毒液の匂いが鼻腔を掠めていく。

 硬いベッドに横たわる自分を認識しながら、すでに記憶野から消えつつある夢の内容を手繰り寄せようとした。けれども“ひどい悪夢だった”という漠然とした印象が残っているだけで、その詳細は一向に思い出せない。

 “まひと”――わたしがはっきりと覚えているのは、まるで人の名のように短い言葉。ただそれだけだった。

 後味の悪さを拭えぬまま、わたしはもう一度目蓋を上下させる。医務室の天井からぶら下がる医療用カーテンを、エアコンの冷たい風が微かに揺らしていた。記憶と重なるあれは秘色――もう少しだけ昏い青だったような気がした。

 揺れるその白藍色が消失しつつある悪夢の輪郭を浮き彫りにしようとした、そのとき。

「起きたか」

 熱のない響きが思考に没頭する意識をひと息に引き上げた。無視をしたと思われるのが嫌で、「……ん」と不明瞭な頭を揺らして小さく頷く。“うん”と言ったつもりだったのだけれど、喉を酷使したときのように声は掠れ切っていた。

 憤怒に染まった記憶を辿りながら上半身を起こそうとすれば、即座にベッド脇の丸椅子から立ち上がった彼が背中を支えてくれる。わたしの顔を覗き込む白群の双眸には、ひどく心配げな色が滲んでいた。

「……そっか。倒れたんだ、わたし」

 状況を飲み込むように独り言ちる。とはいえ赤黒い憤慨の記憶はおろか、パンダ先輩と狗巻先輩の制止も無視して懸造の舞台で喚き散らしたこともかなり曖昧だった。

 そこにどんな事情があろうと、感情的になるなど呪術師失格だ。ましてや怒りに我を忘れるなど。

 東堂先輩にひどいことをしてしまったと思った。東堂先輩はまだ高専内にいるだろうか。楽巌寺学長が呪術高専にいる以上、先に帰るということはないと思いたいのだけれど。

 あとで謝ろうとひとり内省していると、視界の中央に500mLのペットボトルが飛び込んでくる。見れば、やや視線を逸らした恵くんが澄まし顔で小さく促した。

「ほら。熱々のホットじゃねぇから安心しろ」

 盛夏の碧落に向かって絶叫したことを思い出しつつ、わたしはさり気なく質問を滑り込ませた。

「……うん、ありがとう。恵くんがここまで運んでくれたの?」
「ああ」
「重かったでしょ?迷惑かけてごめんなさい」

 悟くんと夕食をともにするようになってからというもの、わたしの体重は気のせいでは済まないほど増加し続けている。真希先輩たちとの修行のお陰で付いた脂肪はすぐ筋肉に変わっているので、見た目ではそう判断できないと野薔薇ちゃんは言うけれど。

 できればもうちょっと痩せたいし、もっともっと可愛くなりたい。本気で恵くんに振り向いてもらうのは土台無理な話だから、きっとこの願いには何の意味もないだろう。

 けれど、恵くんがパンダ先輩たちとの話の中で「高専で恋人にするなら誰か」と問われたとき、渋々でもわたしの名前を一番に挙げてほしいと思うのだ。他の誰でもなく、五条を選んで欲しい。そのためだけの小さな努力。結局はただの自己満足だ。

 それに自己満足だろうと、今後今日のような日がないとも言い切れないなら、きっと全くの無駄というわけでもないはずだ。我を忘れるほど怒り狂って、挙句の果てにはこうして倒れて迷惑までかけて。せめて多少なりとも可愛くなければ許されないだろう。とはいえ恵くんは人の美醜に拘るタイプではなさそうだから、可愛くても許されないだろうけれど。

 恵くんが中心の終わりの見えない思考を廻らせながら、差し出されたペットボトルを受け取る。脳内でダイエット計画を組み立て始めたそのとき、険を孕んだ鋭い視線がわたしを深々と穿った。

「なんであんな無茶したんだよ」
「……ごめんなさい」
「運が良いからってあんな高さから落ちたらさすがに死ぬだろ。遊園地のときみたいな奇跡がいつでも起こると思うな」
「……うん。本当にごめんなさい」
「五条先生に聞いた。の領域、ただでさえ呪力喰うんだろ?一日に二度も領域使えば呪力切れでぶっ倒れんのは当たり前だ。もっと使いどきを考えろよ」

 矢継ぎ早の言葉には窘める響きは含まれていたものの、心から非難するような無数の針は全く感じられない。きっと心配してくれているのだろう。ただし最後に付け足された言葉にだけは頷くわけにはいかず、「……ううん」とわたしは大きくかぶりを振った。

「使いどきだったよ。領域使ったこと、何も後悔してないよ」

 東堂先輩には本当に悪いことをしてしまった。しかしそれはわたしの大人げない言動や態度のことであって、恵くんを助けるために領域を使用したことに関しては正しい判断だったと今でも本気で信じている。

 魂の一部が欠けていく、あの喪失の恐怖が滲んだ。恵くんが生きていることをこの身で感じたかった。生の息吹を。たしかな温もりを。わたしは彼に向かって手を伸ばしたものの、しかし彼の無骨な手がわたしの想いに応えることはついぞなかった。

 最初からわかっていたことだと落ち込む自分に言い聞かせる。恵くんは居た堪れない様子で目を伏せていた。ただ困らせたことを深く悔いながら彼のかんばせを覗き込み、わたしは茶目っぽく首を傾げてみせた。

「ちゃんと生きてる?」
「……ああ。ちゃんと無事だ」
「良かった」

 硬い表情と声音ながらも返事が返ってきて安堵する。恵くんが生きているならそれでいい。その想いは間違いなく本心だった。

 やや嗄れた声を潤すため受け取ったペットボトルの蓋を開けていると、「あの瞬間移動、自力か?」と彼がいつもの素っ気ない調子で尋ねた。どうでもよさげに質問されただけなのに、それが堪らなくうれしかった。締まりのない笑みを浮かべようとする表情筋を叱咤し、わたしは平静を装って答えていく。

「ううん、違うよ。愛染明王にお願いしたんだ」
「愛染明王?なんでよりにもよって」
「それ、呪符書いてるとき悟くんにも言われたなぁ」

 そこで言葉を切ると、ペットボトルを軽く傾けて冷たい水を喉奥に流し込む。まだ少し喉が渇いていたものの、彼との会話に必要以上の沈黙を設けることが惜しく、わたしはすぐに蓋を閉めた。

「愛染明王は恋する乙女の心強い味方なんだよ?今回のことはたしかにちょっと強引だったけど、恵くんが好きっていうわたしの気持ちを愛染明王なりに汲み取ってくれた結果だったのかなぁって……恵くんの上に落ちたのは大失敗だったけどね。痛くなかった?」

 事もなげに投げかけた質問に、恵くんは全くの無反応だった。鼻先を少し落としてただじっと黙している。きっとわたしの無茶な行動に対して思うところがあるのだろう。至極当然だと思った。

 やや間を置いて、わたしは様子を窺うように怜悧な顔をおそるおそる覗き込んだ。

「恵くん、どうしたの?やっぱりまだどこか痛む?」
「……、今何て言った?」
「えっと、今?まだどこか痛むって訊いて……」
「……いや、その前」

 その小さな声音は彼にしてはどこか自信なさげで、加えて内容がどうにもはっきりしない。ひどく回りくどいそれに眉をひそめながらも、わたしは言われた通りに記憶を辿っていく。

「その前?……わたし、何か変なこと言って……………………あっ」

 無意識の内に墓穴を掘ったことに気づいた瞬間、全身を廻る熱という熱が顔へと一点集中する。燃えるように熱い唇から「えっ?!」と素っ頓狂な驚声が転がり落ちた。気まずげに鼻先を逸らす恵くんは何も言わない。あまりの羞恥に脳髄が焼き切れそうだった。

「い、今のはその……」

 上手い言い訳をしようにも混沌と化した思考が思惑通りの働きをするはずもなく、咄嗟に切り出した言葉はあっという間に尻すぼみになった。黙し続ける彼の無表情からは感情がはっきりと読み取れない。ただ喜びとは程遠い感情を抱いていることだけは、何となく察していた。

 わたしの失言を聞き逃してくれなかったということは、きっと彼なりに何か思うところがあるのだろう。それも、否定的な何かが。

 仕方がないと思った。わたしは樹の妹だ。彼の嫌な記憶を思い起こさせ、いつまでも彼を罪責感に苦しめる。そんなわたしから好意を向けられるのは迷惑以外の何物でもないだろう。

 事態を収束させる方法が全く思い浮かばない。ああ嫌われた。引かれた。野薔薇ちゃんごめんなさい、わたしヘマしたみたいだよ。恵くんを傷つけるつもりなんてなかったのに。混乱する思考はずぶずぶと底なしの泥沼へと沈んでいく。

 しかしそうして嘆いたところで、事態がまるで好転しないのもまた事実だった。

 わたしは恵くんに背を向けるようにベッドの上で身体の方向を変えると、伸ばしていた足をすぐに冷たい床へ下ろした。そして弾かれたように立ち上がるや、頭髪や制服の乱れをその場で手早く直していく。羞恥も後悔も全て置き去りにして、わたしは足袋を履いた足を大きく一歩踏み出した。

 覚悟はすでに決まっていた。沈黙する恵くんの眼前で歩を止めて、背筋をぴんと伸ばす。白群の双眸が持ち上がるより早く、わだかまりを吹っ切った張りのある声音で言葉を紡いでいった。

「急にごめんなさい。わたし、恵くんが好きです」

 恵くんを傷つけることはわかっていた。だからこそ下手に誤魔化すよりも、彼を深く傷つけたことを真正面から詰られるほうが良いと思った。向けるべき感情の矛先があったほうがずっと楽になれることを、わたしは身をもって知っているから。

「誰よりも責任感が強くて、無愛想だけど優しくて、いつだってわたしを助けてくれる、世界で一番格好良い恵くんが好きです。嘘でも冗談でもなく本気で、人としても恋愛対象としても、恵くんのことが大好きです」

 溢れんばかりの想いを乗せて、囁きかけるように優しく告げた。恵くんに少しでも届きますように――そう願わなかったと言ったら嘘になる。けれどもう叶わなくても充分だと思えるほど、わたしの気持ちはすっきりとしていた。

 まるで微動だにしない恵くんを一瞥すると、閉め切っていたカーテンを勢いよく開けた。含みのある笑みを浮かべる家入先生と目が合って、急に照れ臭くなったわたしはぎこちない笑みを返す。

 逸る気持ちに急かされるように素早く革草履を履いて、扉の取っ手に指をかけたそのとき、

「……っ」

 恵くんの焦燥に満ちた声音が耳朶を打った。引き留める意志の感じられる響きに小さな期待を抱いたのも一瞬で、そんな都合の良い展開など在りはしないとすぐに己を叱咤する。

 今ここで振り返る勇気は残っていない。責め句を平然と受け流す自信はどこにもないし、樹の妹だからと罪悪感を向けられても空しいだけだ。

 遅れて失恋の痛みが襲った視界はすっかり淡く滲んでいた。気を抜けばすぐに嗚咽が漏れそうだった。それくらい恵くんのことが好きだった。わたしは振り向くことなく扉を開け放つと、無我夢中で廊下を駆け出した。

 震える唇をきつく噛みながら走っていたのは、きっと三十秒にも満たなかっただろう。涙でぼやけた廊下の真ん中に、見覚えのあるふたつの人影を見つけたせいで。

 深い安堵から解像度の低い視界がさらに不明瞭になる。揃って驚いた表情を浮かべたふたりに飛び込むようにして、わたしはようやく足を止めた。

「野薔薇ちゃん真希先輩どうしよう」

 息切れした声で口早に切り出しただけで、大粒の涙が頬を伝った。ただならぬ空気を感じ取った野薔薇ちゃんと真希先輩は何も言わず、わたしの二の句を静かに待っている。

「……言っちゃった」
「何を?」
「恵くんに言っちゃった……」

 取り返しの付かないことをしたのだと改めて理解した。一緒に花火ができるような、ミクロとマクロの違いを気軽に尋ねられるような、そんな心地好い関係が終わったのだと思うともう駄目だった。膝から崩れ落ちそうになるわたしの身体を、野薔薇ちゃんが咄嗟に抱き留める。

 涙は次から次へと溢れた。真希先輩に短く「返事は?」と訊かれ、すぐに小さくかぶりを振った。真希先輩は野薔薇ちゃんへと視線を移動させ、間断なく指示を飛ばした。

「野薔薇は先に硝子サンとこ行ってろ。で――」
「もちろんわかってますって。伏黒のほうは任せてください」

 泣きじゃくるわたしからそっと身体を離すと、野薔薇ちゃんは「そんなことで泣くな。良い女が台無しでしょうが」と細い指でわたしの額をぱちんと軽く打った。そして悪戯っぽい笑みを残し、長い廊下を疾駆していく。

 瞬く間に小さくなったその背中を呆然と見つめていると、真希先輩の凛とした声音が鼓膜を震わせた。

「あーパンダか?私だ。がかなり面白いことになった。いや、どうも逃げてきたらしくて話がちゃんと終わってねぇ。は?そりゃ恵が悪いに決まってんだろ。つーことで今から作戦会議すんぞ。二年の教室集合、ついでに飲み物もな。仕方ねぇだろ、パシリが医務室送りになったんだから」

 沈黙したスマホから耳を外した真希先輩が呆れた視線をこちらへ寄越す。その双眸には微かに好奇の色が滲んでいるように見えた。わたしは徐々に勢いを失いつつある涙を手の甲で乱暴に拭うと、訝しむように眉を寄せて尋ねる。

「……あの、真希先輩。ちょっと面白がってませんか?」
「いーや全然?」
「でもさっき“かなり面白いことになった”って……」
「聞き間違いだろ。ほら行くぞ」

 弦月のように吊り上がった口端はきっと見間違いではないはずだ。逃げる間もなく真希先輩に首根っこをむんずと掴まれたわたしは、引きずられるようにして二年生のホームルーム教室へと連行された。