「これではどちらが怪我人なのかわからないな」

 取手付きの扉を片肘だけで器用にこじ開けた伏黒恵を一瞥するや、医務室の女主人はどこか揶揄するように柳眉を持ち上げてみせた。

 負った傷は全ての反転術式で治癒しているし、溢れた血液は棘が丁寧に拭い取ったはずだ。微かに眉を寄せた恵が視線を落とせば、訓練用のジャージがところどころ派手に破れている。皺ひとつない制服を身に纏うと見比べれば、家入の反応も頷けた。

 空調の効いた医務室を半歩進み、恵は塩ビタイルのたたきでスニーカーを脱いだ。懸造の舞台から一直線に駆けてきた恵の肌に浮かぶ汗の粒が、冷気に触れてたちまち小さくなっていく。上がり框を踏もうと足を持ち上げ、そこで恵はふと思い至る。

 深い眠りについたの無事はすでに確認している。恵はの治療がしたいわけではなく、ただ単にを横たえる場所を探していた。どんな理由があろうと勝手にの部屋に入るのは憚られるし、だからといって恵の部屋にを運ぶのは非常識にも程がある。そもそもに対して否定できない劣情を抱く恵自身が、密室でとふたりきりになることを忌避していた。

 つまりを安全に再起動するための場所として、恵は医務室を選んだだけだった。

 家入に何と説明すべきか黙考していると、抱えたの身体が引っ張られる感じがした。恵が視線を持ち上げれば、家入がの足から鼻緒の厳かな革草履を引き抜いている。家入は恵に目を向けることなく淡々と告げた。

「手前側のベッドを使うと良い」

 そのひどくあっさりとした口振りに、家入はの術式について五条からある程度は聞き及んでいるのかもしれないと思った。恵はその場で小さく頭を下げると、を空のベッドにそっと横たえる。

「大層ご立腹だったな、君のお人好しなお姫様は」

 呪力充填中らしいを目でなぞった家入は含みのある口調で言った。懸造の舞台から身を乗り出し、そのうえあれほどの声量で絶叫すれば、たとえ呪術高専のどこにいようともの子どもじみた呪詛が耳朶を打ったはずだろう。

 冷やかしの言葉を真に受けるはずもなかったが、ここで何らかの反応を返せば家入の思うつぼのような気がした。家入の意味ありげな瞳も含めて黙殺した恵は、壁際にまとめられた医療用カーテンに視線を送る。

「……すみません。カーテン閉めても良いですか」
「ああ。何なら席も外すよ。小一時間ほど留守にしようか?」
「そういう気遣いは1ミリもいらないんで」

 白群の双眸を死魚のように濁らせると、恵はカーテンを勢いよく閉めて家入を視界から一瞬で追い出した。精神的な疲弊が小さなため息となって口から溢れた。恵はすぐに鼻先を滑らせ、白藍色のカーテンから昏々と眠るへと焦点を移動させる。

 ベッドの傍らにぞんざいに置かれた丸椅子を引き寄せていると、「伏黒」と気だるげな声がした。振り返れば、閉めたカーテンの隙間から家入の細腕が生えている。その手には飲料水の入った冷たいペットボトルが握られていた。おそらくに飲ませてやれという意味だろう。

「……どうも」とそれを受け取って、恵はゆっくりと丸椅子に腰を下ろした。深呼吸を数回繰り返すと、薄っすらと割った唇を微かに動かしていく。

を再起動したい」
【生体認証開始――完了。対象を“最も大切な人”――“伏黒恵”と断定。システムの使用を許可します。システム管理者の再起動のため、直ちに呪力を投与してください】

 予想していたこととはいえ、いざ改めて指示されると全身に緊張が走った。羞恥と高揚を訴える心臓がひどくうるさい。大きく脈打つそれを宥めるように呼吸を整えながら、目蓋をきつく閉じたの唇に視線を落とす。

 恵は今までと交わしたどんな口付けよりも緊張していた。幾度となく重ねたの柔らかい唇に、深い意味が宿ってしまったせいで。

 呪力を譲渡するための義務的な行為に、全く別の意味が与えられようとしていた。固く封をして墓場まで持って行くことを誓った、恵の最も望んだ意味が。しかしそのことには目を伏せて、恵は丸椅子からおもむろに腰を持ち上げる。

 やや伸びた膝が過度な緊張で笑っていた。脈打つ心臓の音がすぐ耳元で聴こえる。恵はの顔を覗き込むと、その柔らかな頬に手を添えた。

 たしかな温かさを持った滑らかな肌を、親指の腹で数回撫で付ける。繊細なガラス細工にでも触れるような優しい手つきで。こうして遠慮なくの温度を感じられるのは、今この瞬間だけだった。

【システム管理者の再起動のため、直ちに呪力を投与してください】

 急かすように脳裏を穿った機械音声に意識を引き戻され、を撫でる無骨な手の動きがやや躊躇いがちに止まる。恵はしばらくを眺めやって緊張を抑え込むと、上体を緩やかに倒しながら頭を垂らしていった。

 呪力を移すイメージを頭で描き、の唇に軽く触れるだけの口付けを落とす。十秒も経たぬうちに細い喉から小さな呻き声が漏れた。我に返った恵は即座に唇を離すや、何食わぬ顔で丸椅子に深く腰かける。あたかも最初からそうしていたかのように。

 落ちた目蓋が痙攣するように震え、やがて露わになった柔らかな瞳が清潔な天井灯を映した。瞬きを繰り返して状況把握に努めるに、恵がそっと声をかけた。

「起きたか」
「……ん」

 恵は腕を使って上体を起こそうとするの背を支えた。やや猫背気味に身体を起こしたは、「……そっか。倒れたんだ、わたし」と自分に言い聞かせるように呟く。重く沈んだ声音だった。思い詰める暇など与えぬよう、恵はの眼前にペットボトルをずいと差し出した。

「ほら。熱々のホットじゃねぇから安心しろ」
「……うん、ありがとう。恵くんがここまで運んでくれたの?」
「ああ」
「重かったでしょ?迷惑かけてごめんなさい」

 は弱々しく笑うと、どこか躊躇いがちにペットボトルを受け取った。が一体自らの行いの何を責めているのか、恵にはわからなかった。自責の念に駆られるに当たり障りのない言葉をかけるのは簡単だったが、それはかえってを傷つけるような気がした。

 言葉を選びながらも、恵は思ったことを素直に口に出した。

「なんであんな無茶したんだよ」
「……ごめんなさい」
「運が良いからってあんな高さから落ちたらさすがに死ぬだろ。遊園地のときみたいな奇跡がいつでも起こると思うな」
「……うん。本当にごめんなさい」
「五条先生に聞いた。の領域、ただでさえ呪力喰うんだろ?一日に二度も領域使えば呪力切れでぶっ倒れんのは当たり前だ。もっと使いどきを考えろよ」
「……ううん。使いどきだったよ」

 変わらず大人しいのはその声音だけだった。両の瞳に強い光を灯したがかぶりを振れば、険しく寄った恵の眉が開いていく。「領域使ったこと、何も後悔してないよ」と揺るぎない口調で付け加え、恵に向かって手を伸ばした。

 愛しい者を求めるようなそれに視線が落ちる。恵も手を伸ばそうとしたが、すぐに拳を作って思い留まる。

 が恵を好きだという事実を知っただけで、恵とは恋人でも何でもない。に堂々と触れていい理由を持ち合わせていない今、ここで軽々しく触れてはいけないと思った。きっとどこかで歯止めが効かなくなるような気がして。

 黙殺した恵を見つめるの口元に、ぎこちない苦笑が浮かんだ。伸びた繊手がひどく寂しげに引き戻っていく。手を取れば良かったとすぐに後悔して目を伏せれば、は恵の顔を覗き込むように問いかけた。

「ちゃんと生きてる?」
「……ああ。ちゃんと無事だ」
「良かった」

 鼓膜を叩いた柔らかな声音に視線を持ち上げる。恵の言葉に安堵したのだろう、は花笑むように顔を綻ばせていた。やっぱり手を取れば良かったと恵は悔いた。

 を目覚めさせるという目的は果たしたのだから、これ以上の長居は不要だった。しかし腰が上がらない。それどころか恵は頭を廻らせ、医務室に留まる理由を探していた。軽く眉根を寄せてペットボトルの蓋を開けるに視線を戻すと、恵は尋ねなくてもいいことを尋ねた。

「あの瞬間移動、自力か?」
「ううん、違うよ。愛染明王にお願いしたんだ」
「愛染明王?なんでよりにもよって」
「それ、呪符書いてるとき悟くんにも言われたなぁ」

 は楽しげに思い出し笑いをしたあと、飲料水で軽く口を潤した。ペットボトルの蓋を閉めながら、恵に茶目っ気たっぷりな視線を送る。

「愛染明王は恋する乙女の心強い味方なんだよ?今回のことはたしかにちょっと強引だったけど、恵くんが好きっていうわたしの気持ちを愛染明王なりに汲み取ってくれた結果だったのかなぁって」

 そこで言葉を切るや、はっと弾かれたように表情を変えた。は申し訳なさそうに眉尻を下げて、「恵くんの上に落ちたのは大失敗だったけどね。痛くなかった?」と小首を傾げる。

 恵は何も答えなかった。数秒の間を挟んだあと、は伏し目がちに黙り込んだ恵の顔をそうっと覗き込んだ。

「恵くん、どうしたの?やっぱりまだどこか痛む?」
「……、今何て言った?」

 全く自覚のないに話を合わせることもできた。だが、その瞬間を心のどこかでずっと待ち望んでいた恵にとっては到底不可能な話だった。が戸惑った様子で言葉を紡ぐ。

「えっと、今?まだどこか痛むって訊いて……」
「……いや、その前」
「その前?……わたし、何か変なこと言って……………………あっ」

 自らの発言を辿ったの口から小さな声がこぼれ落ちる。白群の双眸には、鮮やかに紅潮したのかんばせがはっきりと映り込んでいた。

「えっ?!」