冷たくもひどく優しい驟雨が、一触即発の張り詰めた領域内を白く煙らせ続けていた。

 篠突く幻雨を浴びる背中に縫い付けられた白群の双眸は瞬きひとつしない。しかしその数秒後、雨音に撹拌しながら鼓膜を叩いた大袈裟な嘆息に、伏黒恵はたちまち意識を引き戻された。

 どこか芝居じみた溜め息を吐いたのはパンダだった。恵の傍らで事の成り行きを静観していたパンダは、狂気じみた殺気を放つの眼前に緩慢な足取りで進み出る。東堂との間に何食わぬ顔で割り込むや、まるで売れない舞台俳優のようにわざとらしく肩をすくめてみせた。

「ほら見ろ、お前がさっさと帰らないからが大層なおかんむりだぞ。帰った帰った。大きい声出すぞ、いや~んって」

 およそ緊張感に欠けたその口振りが、緊迫感に満ちた空気をほんの一瞬で和ませる。パンダのつぶらな瞳になぞられた東堂は目を逸らすと、すっかり毒気を抜かれた様子でうなじを掻いた。

「言われなくても帰るところだ」

 そう吐き捨てた東堂に注意を払ったまま、棘が血だらけの恵に「高菜」と小さく声をかける。の反転術式で傷が完治したことを示すように、恵は言葉もなく一度だけ首肯した。

 上着を探す素振りを見せたあと、ボトムスのポケットに手を突っ込んだ東堂がこちらへと鼻先を滑らせる。すでに値踏みを終えたその鋭利な双眸は恵とを順に穿った。

「どうやら退屈し通しって訳でもなさそうだ」

 それはあまりに不躾で不愉快な視線だった。思わず恵が苛立ちを篭めて睥睨すれば、パンダは己の顔前で手を振って東堂の言葉を否定する。

「残念だけどは交流会出ないぞ。宮中祭祀の準備があるんでな」
「……どういうことだ」
「だって秋は宮中祭祀が目白押しだろ?秋季皇霊祭に神殿祭、伊勢での神嘗祭に合わせた賢所の儀……特に神嘉殿での新嘗祭は術師にとっちゃ最も重要な宮中祭祀だ。蠅頭一匹入れただけでも高専の面目丸潰れ、責任問題で何人ものお偉方と術師の首が飛ぶ――って話はお前だって知ってるはずだけどな。は大掛かりな結界用の呪符書いたり呪具作ったり、とにかくまぁ忙しいんだよ」

 その説明に興が削がれた様子でかぶりを振ると、東堂は強い語調で明朗に告げる。

「それなら尚更乙骨に伝えとけ。“お前も出ろ”と」
「オレパンダ、ニンゲンノコトバ、ワカラナイ」

 わざと調子を外した声音に、棘が呆れ返った視線を寄越す。数秒前まで宮中祭祀について滔々と語っていたのは一体何だったのだろう。煙に巻くには適当にも程があるパンダの返答に、恵も少しだけ呆れてしまった。

 恵とを軽く一瞥し、東堂は無言で背を翻した。

 領域外へとあっさり去っていく巨漢を安堵した様子で見送ったあと、パンダは殺気を纏ったまま微動だにしないに目を向けた。そして、ここが敵陣のただ中であるように緊張し続ける細い肩にやや躊躇いがちに触れる。ひどく心配げな表情で顔を覗き込みつつ、優しく宥めるような声色で言い聞かせた。

、もう大丈夫だ。落ち着け。アイツ帰ったから」
「しゃけしゃけ」

 棘も首を何度か縦に振って同意を示す。その瞬間、耳馴染んだ機械音声が恵の脳髄に直接語りかけてきた。

【タイムイズオーバー。領域が消滅します】

 抑揚に欠けた言葉に呼応するように、降り注ぐ驟雨がぴたりと止んだ。白く霞んだような視界は一転、白い入道雲が浮かぶ灼熱の炎天にすり替わる。まるで何事もなかったかのように、けたたましい蝉の鳴き声が響き渡っていた。

 パンダは未だ黙り込むから恵へ視線を移した。お前が何とかしろという困り果てたその瞳に、恵は急いで言葉を探す。

 に対して謝るのは何か違うような気がした。反転術式に関しては感謝を伝えるべきだと思ったものの、だからと言っての行為全てに感謝するのは違和感が拭えない。に守られなければならないほど俺はそこまで弱くない――そんな恵の矜持がたしかに在るせいで。

 一向に切り出す言葉が見つからない。視線を落として沈思したそのとき、恵の視界に映るの細い手が固い拳を作った。はっと顔を持ち上げれば、パンダが柔く掴んだ華奢な肩が小刻みに震えている。

「……許せない」

 小さな声音が耳朶を打った。ようやく言葉を発したに視線が集中するより早く、継いだ二の句が真夏の乾いた空気を容赦なく切り裂いた。

「許せない!」

 青白い怒りに燃える響きに恵は大きく瞠目する。は首だけで勢いよく振り返るや、その場に座り込んだままの恵と視線を絡める。人好きのする瞳を憤怒一色に輝かせ、溶岩のように煮え滾った言葉を強い語気で吐き出した。

「一発殴ってやりたかった!恵くんにここまで大怪我させて、しかも謝りもしないで!」

 血が出そうなほど両の拳をきつく握り締めるの姿に、恵はぎょっとする。普段は驚くほどお人好しで温厚、虫一匹殺すことすら躊躇しそうなからは全く想像もつかぬその態度。パンダと棘が憤慨するを見つめたまま耳打ちする。

「……いや殴るどころか殺そうとしてなかったか?」
「……ツナマヨ」

 は恵から視線を外し、東堂が去った方角を眼光鋭く睨み据えた。迸る怒りを抑えられないを宥めようと、パンダと棘がやや引きつった声を絞り出す。

「た、高菜!」
「そ、そうだぞ、落ち着いて――」
「無理です、落ち着けません!一方的にこんな……傷害罪ですよ?!れっきとした犯罪です!パンダ先輩も狗巻先輩もどうしてそんなふうに落ち着いていられるんですか?!」

 ぎゃんと勢いよく吼え立てられたふたりは言葉に窮したように肩を縮こませた。返す言葉をなくし悄然とした先輩たちの姿を見て冷静さを取り戻したのだろう、は鬼の形相をすぐに弛緩させると、握り締めた拳をゆっくりと解いていった。

「……“反転術式を使えば大丈夫だ”とか“反転術式さえあれば何とかなる”とか、そういう考え方、わたしは好きじゃないんです。だって反転術式は万能じゃないから。死んだら全部おしまいなんです。消えた命は元には戻らないんです。恵くんまで死んでしまったら、わたし……」

 尻すぼみになって消えた声音は僅かに震え、湿り気すら混じっていた。の頭が俯きがちに落ちる。押し黙ってしまったを見つめながら、恵は「……」と小さく名を呼んだ。己が無事であることをたしかに証明するように。

 恵の呼声に意識を引き戻されたは、緩やかに頭を持ち上げた。ひどく乱暴な手付きで目元を何度か拭うや、己の左側にいた棘を押し退けるようにしてまっすぐ突き進んでいく。その双眸が映すのは盛夏に満ちた美しい碧落だけだった。

 罪もない舞台の欄干を両手で強く打ち、は大きく身を乗り出した。まさか飛び降りるつもりか。青ざめた恵が弾かれたように立ち上がった瞬間、の絶叫が呪術高専にこだまする。

「東堂先輩のバーカ!今から呪術師らしく呪ってやるから覚悟しろーっ!」

 高らかに宣言したはさらに深く息を吸い込むと、もはや飛び降りんばかりに身を乗り出して腹の底から叫んだ。

「服の前後を間違えて恥ずかしい思いをしろ!先生を“お母さん”って呼び間違えて気まずい思いをしろ!急いで入ったお手洗いでトイレットペーパーがなくて心底焦れーっ!」

 高専敷地内に響き渡る、まるで幼児並みに程度の低い罵倒。それに心底焦ったのはパンダと棘のほうだった。欄干に手を付いたの肩を両側から掴んで引きずり下ろそうとしながら、焦燥に満ちた声音で懸命に宥めすかせる。

「よーしよしよし良い子だから!な?!」
「高菜高菜」
「ここの自販機で飲み物買ったって熱々のホットしか出ないからなーっ!ざまあみろーっ!」
「この季節それ地味に嫌だろうな――じゃなくて!」
「おかか!」

 置いてきぼりを喰ったように、恵はただひとりポカンとしていた。欄干に身を乗り出して東堂を呪うの背中を食い入るように見つめる。

 お人好しのにとっては精一杯の不幸を願った罵倒なのだろう。しかしながらあまりにも悪意も殺意も少なすぎて、ただ揶揄しているようにしか聞こえない。どこか呪術師らしくなのか、恵にはさっぱりわからなかった。

「先生を、お母さんって……」

 遅れて笑みが込み上げ、恵は顔を背けてふっと小さく息を漏らした。高専生にもなってその間違いは恥ずかしいだろうと思いつつ、飽きることなく東堂への精神攻撃を試み続けるへと視線を戻す。恵の表情が柔らかくなっていることに気づいたのだろう、パンダが猫撫で声を出しながら恵を指し示した。

「ほ、ほーら、ちゃーん?だーいすきな恵くんを見てごらん~?!ちゃんと生きてるし楽しそうに笑ってるし、の反転術式でちゃんと治っ――」
「血だらけじゃないですかっ!」
「棘っ!早く恵の血を拭けっ!」
「しゃけっ!」

 口早な指示に棘は素早く右手を頭の横にかざし挙手注目の礼を行うや、ポケットから取り出したハンカチで有無を言わさず恵の顔を力強く拭き始めた。指紋の付いた窓ガラスでも拭くような力の篭めように、恵は「狗巻先輩痛いです」と短く抗議したがあっさりと無視された。

「ツナツナ」と手を上下させて乾いた血を拭う真面目くさった棘の、その気だるげな双眸に茶目っぽい色を見る。ああ遊ばれてんだなと半ば諦めた恵の耳朶を、渾身の叫びが激しく乱打した。

「東堂先輩なんかに恵くんが負けると思うなよーっ!恵くんにちゃんと謝れーっ!」

 抜けるような青空に糾弾の絶叫が響き渡った、その直後だった。まるで操り人形の糸でも切れたように、の痩躯が膝から崩れ落ちる。予想だにしない突然のそれに恵の呼吸が止まった。脇で宥めていたパンダが倒れたを咄嗟に抱え、はっと振り返った棘がその光景に目を瞠った。

?!」
「高菜!」
【生体認証開始――完了】

 鼓膜を一切通すことなく脳髄まで直接響く機械音声が喋り始めるよりずっと早く、ほとんど疾走するような勢いで恵はに駆け寄っていた。きつく目蓋を閉じたのかんばせを見るや、うるさく音を立てて血の気が引く。

 ――なんで急に。

 しかし恵の焦燥を汲み取るはずもなく、機械音声はあらかじめ設定されたような台詞を滔々と紡いだ。

【対象を“友だち”――“パンダ”及び“狗巻棘”と断定。エラー。対象にはシステムの使用権限がありません。現在システム管理者以外にシステムの使用が認められているのは“最も大切な人”のみです。システムを一時的、もしくは緊急的に使用する場合は管理者コードを入力してください】

 突として名を呼ばれたパンダと棘が揃って首をひねる。

「エラー?……エラーってどういう意味だ?ていうかは一体どうなったんだ?」
「すじこ、こんぶ、明太子」
「術式のせいでたまにこうなるんですよ。けど、俺もその台詞聴くのは初めてです」

 何らかの理由で“強制終了”したらしいを恵はじっと覗き込んだ。パンダがの頬をむにむにと指でつつきながら、不思議そうに質問を重ねる。

「じゃあ恵はどうなんだ?条件が“最も大切な人”ならもしかして使用権限持ってるんじゃないか?」
「……いや、多分俺は無理です」
「なんで」
「なんでって……別に良いじゃないですか、何でも」
「なんでだよ、言えよ。言わなきゃ今度こそいや~んって大きな声出すぞ」
「すじこ」

 パンダと棘は退路を奪うような厳しい視線を恵へと投げ付けた。眉を曇らせた恵はを見つめて頭を廻らせる。

 先月、そぼ降る雨に濡れた己の耳ではっきりと聴いたあの言葉を思い起こしていた。詰るような目つきに追及を躱すことは困難だと即座に悟るや、恵は顔いっぱいに気まずげな色を滲ませる。やや間を置いて、ひどく歯切れの悪い調子で切り出した。

「……なんつーか、その」
「うん」
「ツナ」
「……俺は」
「俺は?」
「いくら」
「…………の、“好きな人”なんで」

 目を逸らした恵は途方もない羞恥を沈めた言葉をかろうじて絞り出す。口の中がからからに乾いていた。他の誰かに言われるならまだしも、自ら“の好きな人”を名乗らねばならないのは堪らないほど恥ずかしい。

 今日は殊更に運が悪いと恵は思った。野薔薇然り、家入然り、パンダと棘然り、何故かとのことを詰問されてばかりだ。そのうえ東堂に訳の分からない質問までされ、挙句の果てには回答が気に入らないという理由で散々痛め付けられている。今日は間違いなく厄日だろう。

 ということは、と妙な胸騒ぎに手を引かれるように、恵は持ち上げた視線を滑らせる。案の定、パンダと棘の双眸には恵を揶揄する色がくっきりと浮かび上がっていた。

「だとしても物は試しだろ」
「明太子」

 にやにやと下卑た笑みを刻んだパンダと棘が両側から恵を肘で小突いた。容赦ないそれが地味に痛いし、その顔が何とも腹立たしい。

 眉根を寄せた恵は「やめてください。わかりましたから」と渋々言うと、小さな嘆息をひとつ落とした。ふたりに気取られない程度に呼吸を繰り返して逸る心臓を落ち着かせたあと、昏々と眠り続けるにそっと声をかけた。

「……、起きろ」
【生体認証開始――完了。対象を“最も大切な人”――“伏黒恵”と断定。システム管理者は現在呪力充填中のため一時的に活動を停止、外部との応答は一切出来ません。再起動しますか?】

 先刻とは全く異なる平板的な台詞に、パンダと棘が揃って深く頷いた。

「ほーらやっぱりだ。これこそ愛の力だな」
「しゃけしゃけ」
「なんでそうなるんですか」

 恵はひどく呆れ返った声音を返すと、毛並みの良いパンダの胸に収まるへと両腕を伸ばした。「お?」と首を傾げたパンダには何も言わず、単なる呪力切れで眠りこけているを横抱きの形で軽々と両腕に抱えてみせる。

「お姫様だっこで牽制か。やるな恵」と口端を持ち上げたパンダが目を光らせれば、「ツナマヨ」と棘が親指と人差し指を交差するようにして小さなハートマークを作る。無反応を貫くことに決めた恵は感情の死んだ声音で淡々と告げた。

「今ここで目覚めさせてまたパニック起こしてもアレなんで、とりあえずこのまま医務室まで運びます」

 歩き出そうとした恵を引き留めるように、パンダが口を開いた。

の気持ち、知ってたんだな」
「……さすがにわかりますよ」
「そうか」

 ふっと口角を緩めたパンダが安堵の色を含んだ柔らかな声を落とす。恵は微かに眉を寄せると、遠慮することもなくパンダに怪訝な視線を送った。

「何ですか」
「いや。恵、ちょっと良い顔してるなと思ってさ。吹っ切れたって感じだ」
「しゃけ」

 恵の怜悧なかんばせから険が引く。眠るに目を落とし、感情の凪いだ表情でゆっくりと言った。

が本気でキレてんの見てたらどうでも良くなりました」
「そうだな。が東堂に散々キレてくれたお陰で、俺たちもかなり胸が空いたし」
「すじこ、ツナマヨ、明太子!」
「おう!交流会で倍返しだッ!」
「しゃけッ!」

 当の恵以上に雪辱を誓うパンダと棘を数秒眺めやって、「パンダ先輩、狗巻先輩」と恵はふたりの名を呼んだ。自らへと視線が集中したことを確認するや、肋骨に湧いたくすぐったさには見て見ぬふりをして、感情をできる限り抑え込んだ淡泊な響きで礼を告げる。

「ありがとうございました。その、色々と」

 その言葉にふたりは驚いた様子で顔を見合わせたが、すぐに恵に向き直って不敵な笑みを浮かべた。

「可愛い後輩のためだからな」
「こんぶ」

 憂太のように手放しで尊敬できる先輩ではない。しかしこれほど心強い先輩は他にいなかった。誰より頼りになるふたりに軽く会釈すると、を抱えた恵は家入の待つ医務室へと歩を急いだ。