「……貴方が、彼を?」

 全ての感情が失せた声音が伏黒恵の記憶の斬鉄を滑らかに起こし、

「領域使用」

 機械音声が感情的に聞こえるほど抑揚のない呪文がその引鉄を強く絞り込んだ。

 まるで状況の把握を拒絶するかのように、恵の脳髄が引きずり出した悠仁との他愛ない記憶。しかしそれも恵が眼前の光景に目を瞠った瞬間には跡形もなく霧散している。

 桁違いの膂力で後頭部を強打され軽く脳震盪を起こしたせいだろう、軽口を叩く余裕はかろうじて戻ってきているものの、靄がかかったような脳は完全に機能を取り戻したとは言いがたい。それでも不明瞭に鈍る思考を叱咤して、視界を覆う喪服めいた黒い背中に視線を向ける。

「領域展開――“千歳慰む慈雨”」

 直後、耳朶を打った氷点下の声音に恵は息を呑んだ。硬く凍結したそれが、地獄の釜の蓋が閉まる音にも等しく聞こえたような気がして。



* * *




「答えろ、伏黒。どんな女がタイプだ」

 一切の躊躇がない鉄錆びたような低い声音に、相手を恫喝しようとする気配は微塵も窺えなかった。ただそこにあるのは己の実力と実績に裏打ちされた確固たる自信だけだ。とはいえ、その凄まじい圧を一身に受ける者にとっては威迫以外の何物でもないのだが。

 問われた張本人である伏黒恵がそれに怯んだ様子はない。ただでさえ理解の及ばない状況をいかに穏便にやり過ごすか、今はそれだけに思考を割いていた。

 恵と野薔薇の前で堂々と悠仁の屍に鞭打ってみせた禪院真依、そして恵に対して全く意味不明な問答を吹っ掛けてきた東堂葵――ふたりはともに東京呪術高専の姉妹校、京都呪術高専に通う呪術師だ。真希の双子の妹である真依は二年、現在渡航中の憂太に並々ならぬ執念を抱く東堂は三年、つまり恵や野薔薇、の先輩術師にあたる。

 先ほど真依が「学長に付いてきちゃった」と発言していたことから、来月開催される交流会の打ち合わせか何かの理由で、学長楽巌寺嘉伸をはじめとした京都校の面々が東京校にやってきたのだろう。そして東堂と真依が恵と野薔薇に対して、後輩いびり・新人いびりとしか言いようのない陰湿な嫌がらせを始めたというわけだ。が言っていた“いけず”とはこのことだろう。

 が今日の修行に参加できないのは十中八九彼らの案内を任されたためだろうが、「夜蛾学長に怒られる準備かな……」と目を逸らしていたことは多少なりとも引っ掛かる。義兄となった五条にいとも容易く騙されるのことだ、“最強”を冠するろくでなしの企みにまたも利用されたのかもしれない。

 突として舞い込んだ想定外の厄介事に悪罵を吐きたい気持ちを飲み込みつつ、恵は眼前にひどく冷めた視線を送る。

 盛夏の炎天もかくやな暑苦しい空気を纏うパイナップル頭の大男は、すでに臨戦態勢が完璧に整っているようだった。恵の回答次第では、逃げる間もなく戦闘に持ち込まれることは火を見るよりも明らかだ。

「アレ夏服か?ムカつくけどいいなー」と小さく呟いた野薔薇を呆れた瞳で一瞥する。丸腰の野薔薇の手前、今ここで事を荒立てるのは避けるべきだろう。

 そうはいっても、「なんで初対面のアンタと女の趣味を話さないといけないんですか」という先の恵の問いに対して、東堂からこれといった満足のいく回答が得られたわけではない。一体どう答えるのが正解なのか皆目見当も付かず、恵の口から「何だコレ。大喜利かよ」とつい愚痴がこぼれ落ちてしまうのも無理はなかった。

 半ば諦めたように恵がやや目蓋を伏せれば、その長い睫毛が色濃い影を作り出す。面と向かって異性の好みを尋ねられたことはあっても、真剣に取り合った試しなど今まで一度もなかった。

 根がひどく真面目な恵にとって、一触即発のこの状況下で機知に富んだ返しをすることは困難を極める。となれば残すは正攻法――自らの心に嘘偽りなく異性の好みを答える他あるまい。

 気乗りしないまま思考を廻らせたその瞬間、落ちたインクが滲むように、眠りに付いていた記憶がゆっくりと花開いた。

「人を許せないのは悪いことじゃないよ。それも恵の優しさでしょう?」

 きかん気な弟を宥める柔らかく穏やかな響き。他愛ない幸福を溶かし込んだ、どこまでも透明な笑顔。

「たしかに人を許せないのは優しさだと思う。でもね、それを自分に向けるのは優しさとは言わないよ?」

 優しくもどこか茶目っぽい口調に添えられた、穏やかな春の日差しにも似た屈託ない微笑。

 不平等な現実のみが平等に与えられたこの世界で、ごく当たり前の幸せを、平等を享受すべき善人。誰よりも幸せになるべき、疑う余地もない善人。恵が遠く伸ばした指の先で、守ることはおろか触れることすら叶わず、目の前であまりにも呆気なく砕け散った当たり前の日常。

 たったひとりの姉と初めてできた想い人の笑顔が、黙する恵の脳裏にはっきりと浮かび上がっていた。ひどく幸せそうなその笑みが消えるより早く恵は顎を持ち上げるや、矢で射るように正面をまっすぐ見据えてみせる。

「別に好みとかありませんよ」

 口を突いたその響きは沈毅でひどく滑らかだった。眼前を穿つ白群の双眸に迷いのない光が強く宿る。

「その人に揺るがない人間性があれば、それ以上は何も求めません」

 あまりにもひねりのないそれは、しかし恵の本心からの言葉だった。やや遅れて羞恥が噴いたものの、何やら偉そうに評価する野薔薇への苛立ちであっという間に塗り潰されてしまった。恵の片思いを揶揄する野薔薇のことだ、今夜中にはにまで伝わっているに違いないとひどく気が重くなる。

 とはいえ、その回答は出題者である東堂にとっては全くの不正解だったようで、「退屈だよ、伏黒」と瞬く間に敵意が殺意に転じたわけだが。



* * *




 ――揺るがない人間性。

 腕で支えるように上体を起こした恵は、ほんの数分前に自らが口にした言葉の意味をはっきりと目の当たりにしていた。

【領域使用条件クリア】
「領域使用」
【音声コマンド入力完了。呪力消費開始――現在地を中心に領域展開準備完了。選択対象に使用される術式全てを即時無効化、及び損傷部位を反転術式にて修復します】
「領域展開――“千歳慰む慈雨”」

 眼前の光景に愕然とする恵の脳髄に囁くように響いた、平板的な機械音声。抑揚に欠けたそれが感情的に聞こえるほど、の声は冷たく凍り付いていた。

 一体どこが縁もわからぬほど現実との境界線がひどく曖昧な領域が広がるや、ぽつっと冷たい何かが恵の頬を優しく打った。懸造の舞台がぱらぱらと軽快な音を上げ始め、降り注ぐ驟雨のせいで辺りはあっという間に白く煙る。

 しかし甚雨を受けた身体はもちろん、建物や地面が濡れそぼつ気配はない。ただ雨粒に触れた箇所から毛羽立った精神が安らいでいくような、戦意が削がれていく不思議な感覚がした。

 それは幻の雨だった。人の心を癒す慈雨。争いを嫌う術師の心を映した生得領域には、鎮静の雨が降り注いでいた。

 雨粒が恵の身体を打つたびに心が和らぎ、鋭い痛みが引いた。確かめるように前髪の生え際を指でなぞれば、深く走った傷が痕も残らず綺麗に塞がっている。反転術式による治癒が行われたのは、今回の選択対象が恵だからだろう。

 は音もなくゆっくりと立ち上がり、恵の盾となるようにさらに一歩前へ進み出た。闇を溶かした黒い袴から伸びる細足が舞台の木板を強く踏み付けるや、甲高い悲鳴じみた軋んだ音が激しい驟雨と撹拌する。

 交流会を控えての揉め事は避けたい。

 そのためにあれやこれやと恵が思考していたのも東堂に煽られるまでだった。単純な膂力に呪力と殺意を上乗せしただけの東堂の攻撃を一方的に浴び、それに加えてこれでもかと言うほど煽られ続け、それでも冷静でいられる恵ではなかった。

 下手に出てりゃ偉そうに。沸々と煮えたぎった憤怒を呪力に変えた瞬間、パンダと棘が半ば強引に乱入してきた。

 そのうえ「なんで交流会まで我慢できないかね――って、今何か聞こえて……おい恵っ!上っ!」と東堂の説得を始めたパンダの言葉を遮る形で、何故かが空から落っこちてきた。聴力に長けたパンダがの絶叫を捉えていなければ、恵はを受け止めた衝撃を上手く受け流すことができず、さらに傷を重ねていたに違いない。

 交流会を控えての揉め事は避けたい。

 いくら恵のピンチを察知して駆け付けたとはいえ、事なかれ主義のならば必ずやその考えに至ると思っていた。恵が生きていることに安堵するだけで事が終わるはずだと予想していたし、たとえ事を起こしたとしても東堂に何か文句を言うだけだろうと高を括っていた。

 そもそも初心に紅潮していたの“好き”は、恵がに対して抱くそれとは質も量も明らかに違うように感じた。幼女向けの恋愛漫画のような甘酸っぱさだけを詰め込んでいる。だからそこに情欲など存在するはずがなくて、単なる羞恥故に口付けを拒んだのだろう、と。だからが揉め事の中心になるはずがないと、恵は勝手にそう思い込んでいた。

 だが、違った。

 恵はの想いを測り間違えていた。質も量も全て。恵を深く傷つけられたが故の激怒はすでに臨界点に達している。東堂に対しては強い敵意を向けていた。全ての感情が凪いだ先で、何度も見たあの狂気がたしかに息を潜めている。

「彼を傷つけた目的は問いません。ただご自身の胸に手を当ててよくお考えになってください。貴方が今しがた行ったのは本当に正当性のある行為ですか?」

 まるで氷塊そのもののような響きに詰問の意図は含まれていなかった。何度考えてもわからないから尋ねているだけだと言うような、ひどく淡々とした口振りだった。

 は一拍置くと、さらに滑らかな口調で問いかける。

「“神と仏の前で正当性のある行為だったと誓って断言できますか?”」

 その瞬間、時間が止まった。目を瞠った恵は周囲に視線を這わせて自らの感覚をすぐさま否定する。違う。降り注いでいた雨粒が突として宙に固定されたせいで、どうやらそう感じたらしい。

 恵はの背中越しに東堂を見る。無数の雨粒が浮かぶ世界で、東堂はただひとり意味ありげに口元を吊り上げていた。極端に呪力を抑え込まれた気配に恵は察する。

 ――問答による不可侵の強制か!

 領域内故に必中効果を付与された問答。しかし東堂は笑みを深めて傲然と言いのけた。

「正当性はなかった――そう言えばどうなる?」
「……左様ですか」

 その回答にが動じることは一切なく、ただ深く納得した様子でゆっくりと頷いただけだった。刹那、固定されていた全ての雨粒が重力に従うように落下する。再び泣き始めた天を仰いで、はまるで歌うように唱え始めた。

「――幽世の大神、憐れみ給い恵み給え。幸魂奇魂、守り給い幸い給え」

 直後、の身体に膨大な呪力が廻った。東堂と対峙する華奢な背中が負うのは強烈な殺意だった。あの少年院にいた特級呪霊など比にならない。あのとき恵を一方的に蹂躙した両面宿儺でもまだ足りない。

 ほどんど無意識的に身体の震えを抑えていた。指先ひとつでも動かせば、直ちに素っ首を捻じ切られると思った。東堂を睨む永遠の沈黙が恵の首筋にまで指を這わせているようだった。

 猛烈な殺意に穿たれた東堂は目を瞠る。がそっと右腕を持ち上げるだけで、全身を刺すような緊張感がさらに張り詰めていった。恵の位置からではの顔は見えないが、きっと人形のように感情が失せているに違いない。

 恵のそれよりうんと小さな手のひらを泣き続ける空へ向けると、ちょうど右斜め前方の通路を示す。目を凝らさずともそこだけ結界が破れていることはすぐにわかった。がわざと結界の縁を壊したのだろう。硬く凍結した声音が東堂に対して滑らかに促す。

「どうぞ、お帰りはあちらです」

 恵は改めて理解した。呆れるほどのお人好しであるの根底。揺るがない人間性。

 が命を賭して他者の日常を守ろうとするのは、他愛ない日常の尊さを誰よりも知っているからだ。遺体に強く拘るのは、残された者の感情を知っているからだ。他者の幸せを一心に願うのは――自らもまた幸せで在りたいからだ。

 偽善でもなければ、自己犠牲でもない。自分の命や人生を他者のそれより軽く捉えているわけでもない。全く等しいのだ。自らの人生を大切にするように、他者の人生を大切にしているだけなのだろう。

 驚くほど温厚なが狂気さえ孕んだ強烈な殺意を抱くに至ったのは、想いを寄せる恵が傷つけられたことよりも、“伏黒恵が存在する五条の他愛もない日常”を脅かされたことが理由であるような気がした。

 恵はの背中を見つめる。伏黒恵という日常を懸命に守ろうとする華奢なそれに、得も言われぬ感情が肋骨から止めどなく溢れ出した。

 は恵がただ“好き”なのではない。日常の一部にするほど、人生の一部にするほど、恵を必要としている。最愛の兄を奪ったはずの恵を。それはきっと、恵と同じくらいに。

「今すぐお引き取りを」

 一寸の隙もない絶対零度の声音が耳朶を打つ。痛いほど張り詰めた空気の中で恵はやっと報われたような気がした。との関係性が変わったわけでもなければ、との間に何かがあったわけでもない。何ひとつ変わっていない。それでも。

 ただに必要とされていることが、恵には堪らなくうれしかった。