「おーっす伏黒。ここ座っても良い?」
「もう座ってんじゃねぇか」

 どこか呆れた響きとともに伏黒恵がテーブルの向かいを軽く睥睨すれば、悪びれる様子など全くない悪戯な笑みが返ってくる。

 正面からは作り立てらしい豚の生姜焼き定食の、食欲を無尽蔵に引き出すような香ばしい匂いが漂う。恵の鼻腔は容赦なく焦がされ、同じものを食べているはずなのに舌の上にじわりと唾液が滲んだ。

 半ば釣り込まれるように自らの食事トレーに視線を落とせば、ほとんど胃袋に消えてしまったそれに得も言われぬ深い喪失感を覚えてしまう。

 今宵、食堂の厨房に立つのはいつものパート従業員ではない。つまり今夜限定の特製生姜焼き定食だと思うと名残惜しかったし、それが恵の好みを見抜いたような病み付きの味わいとあらば尚更だった。大盛りと言わず特盛りで作ってもらうべきだったかもしれない。

「いっただっきまーすっ!」

 元気良く手を打ち合わせた虎杖悠仁は「うまそぉ」と声を弾ませるや、目にも止まらぬ速さで箸を手に取った。そしてパンチがありながらも豚の旨味を損なわない上品なタレがたっぷり絡んだ生姜焼きと、山のように盛られた炊き立ての白米を口いっぱいに頬張る。次の瞬間にはそのあまりの美味さに目を輝かせ、食べ応えのある豚肩ロース肉の生姜焼きをさらに豪快に掴み上げた。

 いっそ清々しい食べっぷりに気取られていたのも一瞬で、恵は思い出したように食事を再開した。

 残り一枚になった生姜焼きで、付け合わせの千切りキャベツを覆い隠すように巻き上げる。それをたった一口で咥内に押し込めると、恵はただ無言で咀嚼した。

 摺り下ろした生姜の風味がしっかりと効いた甘さ控えめのタレが、己の存在をたしかに主張する厚みのある豚肉と、シャキシャキとした歯応えを残しながらも肉の余熱でしんなりとしたキャベツをうまく繋いでいる。世辞抜きで美味い。

 艶やかな白米をかき込んだあと、恵は具沢山の豚汁に手を伸ばした。パンチの効いた生姜焼きとは全く異なる、たちまち緊張が和らぐような長閑で優しい味が口の中に広がる。指先にまで充足感が行き渡っていく感覚。恵はゆっくりと息を吐き、百塩茶色のタレだけが残った白い大皿を名残惜しげに見つめた。

 “まだ食べられる”のではなく、“まだ食べたい”。羨むように真向かいにそっと視線を送れば、たっぷり盛られていたはずの生姜焼きの姿はもうほとんど見当たらなかった。

 決して早食いしているわけではなく、ただ単に箸が止まらないだけらしい悠仁は、いつの間にか黒いTシャツ姿になっていた。食事の途中で暑くなったのだろう、先ほどまで羽織っていた梔子色のラフなパーカーは隣席の背もたれに引っ掛けられている。

 半袖のTシャツから伸びる筋肉質な太い左腕、その肘窩にはおよそ二センチ角の白い保護テープが貼られていた。注射後に貼られることの多いそれを、白群の双眸が数秒じっくりと撫で付ける。

 恵が視界を持ち上げたそのとき、運悪くと言うべきか、悠仁の瞳と真正面から視線がぶつかってしまった。咄嗟に目を逸らした恵の顔がやや曇る。物言いたげなその様子に何かを感じ取ったのだろう、先んじて悠仁が口火を切った。

「何ともなかった」

 あっけらかんとした気さくな響きに一瞬ばつの悪さを滲ませたものの、恵はすぐに澄ました表情を繕って小さく相槌を打った。

「……そうか」
「まぁ検査つっても学校の健康診断と似たようなもんだしな。身長体重と視力聴力、それから心電図、採血、胸のレントゲン……あと何だったかな、呪力量?なんかよくわかんねぇけど着替え含めても一時間かからん。看護師さん超テキパキしてんのな」
「次は?」
「来週。しばらくは週一でやるって五条先生が」

 悠仁はこの日、呪術高専と連携協力している外部の自治体病院で検査を受けた。“呪いの王”両面宿儺の死後千年の時を経てようやく現れた逸材は、本来なら死刑となるはずが実質無期限の猶予を与えられている。歩く呪いと化したが故に要監視対象である悠仁は、その健康面まで呪術高専に細かく監視されることになったらしい。

 特級呪物を取り込んだことで、人としての身体機能に何らかの変化があったかもしれない。もしそれが取り返しのつかない変化だったら――己が巻き込んだという罪責感から悠仁の検査結果が気がかりだった恵は、表情には一切出さなかったものの内心安堵していた。何ともないならそれでいい、そう思いながら残っていた豚汁を全て飲み干す。

 悠仁は「あ、でもレントゲンだけは半年後だって」と付け足すと、何かを思い出したように前のめりになって話し始めた。

「ていうか聞いて?!学校と違って体脂肪率も教えてくれんだけどさ!伏黒、驚くなよ?――俺の体脂肪率なんと一桁台でしたっ!すごくね?!」
「ふうん」
「なんで驚かねぇの?!」
「驚くなよって言ったのお前だろ」
「え、フリじゃん……」

 ひどく素っ気ない言葉に表情を引きつらせた悠仁が心底悲しげに呟く。無反応を決め込んだ恵が右から左へ聞き流せば、気を取り直したように黄金色の双眸が食堂の厨房を撫で付けた。食事を終えた恵が席を立つより早く、悠仁が不思議そうに首を傾げる。

「なんでが厨房にいんの?パートのおばちゃん誰もいないし、また手伝いとか?」
「似たようなもんだな。パートさんの休みと早上がりの希望がたまたま被って夕食の提供は中止、夜は勝手に食べてくれって伊地知さんに言われたんだよ」
「伊地知さん?」
「補助監督だ。嫌でもそのうち会うだろ」

 疑問に答えた恵は再び腰を椅子に深く落ち着けると、グラスに入った飲み水を一口含んで話を続けた。

「食堂閉まってるし外で食べるかって話になったんだが、釘崎がどうしてもの手作りが食いたいって暴れて」
「暴れるほど食いたかったのか、の手料理……」
「作る人数も少ないからって、結局食堂開けてもらってが作った。今は明日の仕込みの最中らしい」
「なるほど、そういうことか。さっきジャガイモ潰してたってことは明日はポテサラ食えんのかな。すっげー楽しみ」
「いやコロッケとかマッシュドポテトって可能性もあるし、ポテトグラタンの線も捨てきれねぇだろ」
「お前芋料理詳しいな……」
「そもそも俺に訊く必要あったか?すぐそこにいるんだから直接訊けよ」
じゃなくて伏黒に訊くことに意味があるんだろ。で、伏黒は何か手伝ったわけ?」

 含みのある笑みと付け加えられた下世話な問いで、悠仁の思惑をようやく理解する。恵はたっぷり数秒の沈黙を挟んで「……米洗って、生姜摺った」と渋々答えた。

 生姜焼きには決して欠かせない生姜を摺り下ろすという大任を果たしたのは恵だった。「丸く円を描くように摺ってね。辛味が出てすっごく美味しいんだよ」と教えられた通り、生姜の繊維を潰すように黙々と摺りながら、手際よくキャベツを千切りするの真剣な横顔を何度か盗み見たことは伏せておきたい。

 ちなみに野薔薇は味見担当――つまりはただの冷やかしで、今の悠仁と全く同じ顔で恵とを興味津々に観察していた。当然のようにスマホでふたりの写真を撮りながら。

 しばらく悠仁はにやにやとした顔を恵に向けていたが、はたと表情を一変させる。

「アレ?そういや暴れた釘崎は?」
「もう部屋に戻った。何か観たいテレビがあるとかって妙に急いで――って、まさかアイツ」

 口端を引きつらせた恵の言葉を引き取るように、悠仁がポンと軽く手を打った。

「なるほど!ふたりきりにして同棲カップル気分を味わわせようって魂胆か!さっすが釘崎!ちょっと物理的距離がありすぎる気がするけどまぁそこはな!」
「お前らのその気遣いマジでいらねぇから今すぐやめろ」

 しかし氷点下の冷気を宿した視線は呆気なく躱され、殊更のんびりとした質問を投げかけられる。

「この生姜焼きって、伏黒のリクエスト?」

 ほんの一瞬、恵のかんばせをきまり悪げな苦い感情が流れ落ちた。瞬く間のそれを悠仁の瞳が捉えたかどうかは定かではない。居た堪れなさを誤魔化すように恵はグラスの水を口に含むと、悠仁の質問に対して肯定とも否定ともつかぬ返答を淡々と返した。

「……手軽な豚肉料理の定番だろ」
「お手軽で定番だからこそ逆に奥が深くて難しいんだよな。臭み消そうと思ってタレに漬け込みすぎたら豚の旨味まで消えるし、チューブの生姜使えば楽なんだけど何となくパンチに欠ける気がするし」
「何が言いたいんだよ」
「お前、この間行った中華料理屋で生姜が好きとか何とか言ってたなと思って」
「…………」
「伏黒のリクエストねぇ……へぇ、そっかぁ……ふぅん……」
「そのだらしねぇ顔今ここでぶん殴っても良いか?」

 地鳴りにも似た低音を腹底から絞り出してもなお、好奇心旺盛な悠仁の質問攻めは終わらない。

「好きな子の――の絶品手料理食べてどんな感じ?」
「どんなって……別に……」
「別にって。美味いとか不味いとかもないわけ?食レポしてよ、食レポ」
「……なんで虎杖に言わなきゃなんねぇんだよ」
「良いじゃん、別に減るもんでもねぇし。には黙っとくからさ」
「フリか?」
「まさか」

 どこか演技めいた様子でかぶりを振った悠仁を厳しく睨み付けると、恵は諦念に満ちた小さな嘆息をひとつ落とした。

 ここでに余計なことを吹き込まれるほうが面倒だった。野薔薇に誘導されたとはいえ、一方的に想いを寄せる相手に自らの好物である“生姜に合う物”をリクエストした、という目も当てられないような事実を知られるのは自死したくなるほど気恥ずかしい。

 糸が落ちたように目蓋をやや伏せて、恵は感情を極限まで消した平板な声で言葉を紡いだ。

「……かなり美味い、と思う。正直店出せるレベルだろ。とにかく生姜が効いてるのが良い。白米もキャベツも勝手に進む。釘崎はもう少し甘くても良いって言ってたが俺はこの味が良い。この味が口に合う。今まで食った生姜焼きの中で間違いなく一番美味いし、いくら食べても飽きが来ない。だから毎日でも――」
「えっ、毎日?」
「何でもねぇよ今すぐ忘れろ」
「えぇー毎日でも食いたいってそれもうプロポーズじゃん。しかも滅茶苦茶語るし」
「は?食レポしろっつったのお前だよな?」
「あーあ、胃袋まで掴まれたら以外の子なんて一生無理だな。伏黒お前どうすんの?それでも墓場まで持ってくって?」
「だから忘れろって言ってんだろ」

 悠仁のにやついた顔が無性に恵の神経を逆撫でる。悠仁は胸の前で深く腕を組んで何やら知ったような口で延々と喋り続けているが、恵はテーブルの上に置いた拳を震わせて沈黙するだけだった。迂闊に口を割った自らを責める感情より、次第に目の前の男をいかに黙らせるかというその一点のみに思考が割かれていく。

 こうなったら実力行使で記憶を飛ばしてやろうかと切れ長の双眸に不吉な青い光が灯ったそのとき、悠仁が嬉々として声を張り上げた。

ー!伏黒がすっげぇ美味いってー!」
「おい!」

 フリではないと否定したのは一体どこのどいつだ。憤然とした色が恵の相貌にくっきりと浮かび上がる。これ以上余計なことを言われるのは我慢ならない。

 こうなったら悠仁を食堂から連れ出すしかないと結論付けた恵の思考を、「えっ、本当?!」と花笑むようなひどく明るい声音が穿った。ほとんど反射的に首を向ければ、白い調理服を着たがうれしそうに言葉を続ける。

「今日のは特に自信作なんだ!おかわりもあるからいっぱい食べてね!」

 弾むような響きが耳朶を打ったその瞬間、恵はテーブルに手を付いて勢いよく立ち上がった。その黒い頭がやや垂れ下がっているせいだろう、は途端に表情を強張らせて視線を泳がせる。手を付いたまま沈黙し続ける恵の様子を窺うように、戸惑いを過分に含んだ声音を恐々と押し出した。

「……ふ、伏黒くん?」
「あんのか。おかわり」

 顔を持ち上げた恵はを見据えてきっぱりと問うた。それは一片の隙もない明朗な声音だった。白刃じみた強い眼力に面喰らいながらも、は壊れた人形のように何度も首肯を繰り返す。

「……う、うん。あるよ。虎杖くんもたくさん食べるかなと思って多めに作ったんだけど……」
「米もキャベツも豚汁も?」
「うん。あ、でも残った分は伊地知さんに持って帰ってもらうことになってるから無理しなくても――」
「食べる」
「えっ?」

 言葉を遮られたが驚いた様子で目を瞬かせた。恵は先ほどより少し声量を上げて「食べる」と繰り返すと、食事トレーを両手に掴んで行儀よく並んだテーブルの間を一直線に歩き出した。すっかり空になったそれをの眼前に差し出して、淀みない口調で淡々と告げる。

「まだ全然食える。伊地知さんと虎杖の分、まとめて乗せてくれ」
「ちょっと待って?!俺もおかわりしたいからな?!」

 慌てて立ち上がった悠仁を一瞥すらせず、恵は戸惑うを説得するように続けた。

「あれは幻聴だから気にすんな」
「いや幻聴じゃねぇから!お前どんだけ食いたいの?!の生姜焼きそんなにお気に召しちゃった?!」
「こういうのは早い者勝ちだろ」
「そういうのを独り占めって言うんだよ!」
「後から来た奴が何言ってんだよ」
「検査だったんだから仕方ねぇだろ」
「はぁ?」
「あぁ?」

 こめかみに青筋を立てて睨み合うふたりを交互に見つめるや、半歩後ずさりしたが「いっぱいあるから……」と引きつった笑みを浮かべる。蚊の鳴くような小さな声がふたりに届くはずもなく、は地面に視線を落として「野薔薇ちゃん……」と今にも泣きそうな様子で呟いた。

 結局残っていた生姜焼きをふたりで仲良く等分する形で落ち着いたものの、恵としては納得できるはずもなかった。とはいえ、「豚汁の具、伏黒くんの分だけちょっと多めに入れておくね」とに耳打ちされて、悠仁への苛立ちは遥か彼方へ消え去ったわけだが。

「そういや伏黒ってが怒ってるとこ見たことあんの?」
「……いきなりなんだよ」

 突として耳朶を打った質問に食事の水を差され、恵は思わず顔をしかめた。今宵限定の特製生姜焼き定食故に、ただ純粋に食事だけを楽しみたかった。一旦箸を止めて、白米を口に放り込んだ悠仁へ言葉の先を促す視線を送る。

 咀嚼したものを飲み込むや、悠仁がどこか不思議そうに続けた。

、全然怒んねぇから。釘崎は情緒がアレだから比較対象にするにはちょっと問題あるけど、それにしたって怒んねぇなと思って。さっきのだって、釘崎だったら絶対にキレてんだよな。“うるさい!”って」
「だろうな。けどだって五条先生にはよく文句言ってるだろ」
「たしかに“もう!”とか“怒るからね?!”とか言うけど、あんなの小っちゃいポメラニアンがきゃんきゃん吠えてるみたいなもんだろ?伏黒にとってはただのご褒美だし。そんなんじゃなくてマジギレ見たことあんのって話」
「ご褒美って何だよ」
「え、アレ可愛くね?俺、毎日でも言われたいよ」
「…………」
「冗談だから無言で睨むのやめて?!呪い!すっげぇ呪い篭もってる!その視線だけで呪霊祓えるからな?!」

 大袈裟に騒ぎ立てる悠仁を黙殺すれば、すぐに落ち着いた声が返ってきた。

「ほら、優しい人間ほど怒ると怖いって言うじゃん。テーセツって言うんだっけ、こういうの」
「別にそうだって決まってるわけじゃねぇし、“定説”より“俗説”が正しい気がするけどな」
「で、あんの?」

 問いかけられた恵の脳裏に冷たい霊安室での光景が過ぎる。感情が全て抜け落ちたような伽藍洞、その向こうに滲むのは狂気としか言いようのない何かだった。普段のからは想像もつかぬ狂気。白群の視線が自然と落ちる。乾いた唇を突いた声音はひび割れていた。

「……ないことも、ない」
「ふーん。怖かった?」

 重ねられた問いから恵は目を逸らした。あのとき感じたのはただ純粋な恐怖ではなかったが、だからと言って、抱いた感情をどう言葉にして表現すればいいのかわからなかった。そもそも入り組んだ複雑な感情を一言で表すのは不可能にも思える。

「……さあ」と適当に言葉を濁して、恵は箸を持つ手に力を加えた。タレの滴る生姜焼きを頬張りながら、明日の仕込みに精を出すをじっと見つめる。その柔らかな双眸に見たはずのものは、どれだけ目を凝らしてみても、終ぞ見つけ出すことはできなかった。