「学長の夜蛾を呼んで参ります。それでは失礼致します」

 応接室の引き戸を隙間なく閉めて、近場の給湯室へ向かう。わたしは短い嘆息とともに肩を落とした。

 悟くんの良からぬ謀のせいで、夜蛾学長が呪術高専に戻ってくるのは今から約二時間後だ。せめてお茶でも用意しようと、到着した給湯室の電気ケトルで早速湯を沸かした。開いた戸棚の中をつま先立ちで覗き込み、数種類の緑茶の中から最も高そうな煎茶を選び出す。

 手際良くお茶を煎れると、前もって悟くんに渡されていた茶請けの水羊羹、そして冷蔵庫で冷やしておいたおしぼりを一緒に並べて運び盆に乗せる。ああ憂鬱だ。悟くんに一杯喰わされた楽巌寺学長の怒りがありありと目に浮かぶ。

「だって老いぼれのジジィだよ?どうせ味なんてもうわかんないよ」と失礼極まりない発言とともに押し付けられた水羊羹に視線を落とした。こんなものでは損ねた機嫌は直らないだろうし、もっと高級な茶請けを用意しておくべきだったかもしれない。

 老いた亀の如く緩慢な足取りで廊下を歩いていると、「ー!案内お疲れ様ー!」と後ろからひどく軽薄な声が響いた。耳朶を打ったそれが誰のものであるかは明白だった。厳しい表情で振り返ろうとした次の瞬間、

「……え?」

 星辰の遥か彼方から金属を引っ掻いたような甲高い音が降り注いだ。意味の成さない音の羅列があらゆる思考を瞬く間に塗り潰す。それは人の言葉から遠くかけ離れたものだった。けれど何故か意味はわかるような気がした。激しい驟雨にも似たその音の連続が、怜悧なあのかんばせをはっきりと思い起こさせるから。

 怖気に震えた手から運び盆が滑り落ち、湯呑みの割れるけたたましい音が意識を穿つ。はっと我に返ったわたしの眼前にはすでに悟くんの姿があった。黒い目隠しにすっかり覆い隠された世界の果てを映す蒼い六眼に、ひどく心配げな色が滲んでいるような気がした。

 長身を屈めて顔を覗き込むと、悟くんは不思議そうに小首を傾げる。

「どうしたの?今朝の傷が痛んだとか?それとも眩暈?」
「……恵くんが」
「恵?」

 悟くんがその名を繰り返した瞬間だった。すぐ近くに大きな雷でも落ちたかのような凄まじい音が轟き渡る。まるで何かが吼えているようだった。腹の底にまで響くほどの苛烈な轟音が止むより早く、悟くんが不安に打ちのめされるわたしの頭頂に優しく手のひらを乗せる。

「なるほどね、未来予知――いや、神託ってやつかな」

 わたしは逸る感情に任せて言葉を紡いだ。

「悟くんごめんなさい、わたし」
「うん、行っておいで。床の掃除もちゃーんとやっておくから。伊地知が」
「ありがとう。伊地知さんにはわたしから謝っておくね」

 そう言って駆け出そうとすれば、悟くんが何かを閃いたように声を弾ませる。

「あ、そうだ!アレ使っていいよ!」
「え?でも、まだ一回も……」
「助けを乞う神仏さえ間違えなければきっと加護を受けられる。大丈夫さ。恋する乙女は絶対無敵――そうだろ?」

 茶目っ気たっぷりな笑みに面映ゆさを飲み込んで深く頷き返す。「いってらっしゃい!」と底抜けに明るい声音に背中を押されるように、わたしは年季の入った廊下を強く蹴った。左袖の中に忍ばせていた大量の呪符を引っ張り出すや、まるで視界を覆うように前方に勢いよく撒き散らす。

「――オンマカラギャ・バザロシュニシャ・バザラサトバ・ジャクウンバンコク!」

 何度も練習して覚えた真言を淀みなく唱えながら、何十枚もの呪符にたった一文字記された同じ梵字にありったけの呪力を篭める。

 呪符を書くことになった先月の終わり、悟くんはどの神仏に願っても構わないと言った。わたしは一切悩まなかった。今のわたしの願いを聞き届けてくれる仏様は、今のわたしが力を借りるに相応しい仏様はきっとただひとり。その願いに恵くんが関わっているというなら、尚更。

「愛染明王お願い!わたしを恵くんのところまで連れていって!」

 切迫した願いに呼応するように、宙を舞う呪符が発火し視界が白く瞬いた。悟くんのそれと比べれば遥かに劣る限定的な瞬間移動。けれど今はそれで充分だった。

 連絹に灼けた世界が次第に色付く。一拍も置かず視認した紺碧の美しさに息を呑んだのも束の間、すぐに妙な違和感を覚えた。つい先ほどまで木板を踏んでいたはずの足の裏が、何も捉えていないような。

「…………え?」

 重力に逆らえなかった身体が百八十度旋回し、そこでようやく空中に放り出されたことに気づく。戸惑いを過分に含んだ自らの悲鳴が鼓膜を強く乱打した。

「ええええええぇぇぇぇっ?!」

 上下が完全に逆転した世界で、恵くんとともに観覧車から飛び降りた記憶が甦る。しかしあのときは彼に命懸けで庇ってもらったのだ。受け身の参考になど全くならない。ああ即死だと思った。今日は神様と仏様の機嫌が特別悪かったに違いないと自分を慰めた瞬間、下界を映す視界にたしかな青を見た。

「……ッ?!」

 痛いほどの風音に混じってわたしの名を呼ぶ声を聞いた気がした。死に際の幻聴だと奥歯を噛み締める。地面への直撃は免れないと悟ったときにはすでに目蓋をきつく閉じていた。

 少しでも痛くありませんようにと祈りを捧げたその直後、縮こまったわたしの身体に凄まじい衝撃が襲った。何が何だかわからなかった。一瞬飛んだ意識を懸命に掴み取ると、わたしは割れるように痛む頭を押さえて上体を起こす。

「……い、生きてる?」

 掠れた声を押し出しながら周囲を見渡せば、敷地内の至る場所に植えられているはずの樹木がひとつも見当たらないことに気づく。地面からうんと離れた視界の高さから、どうやら自分が呪術高専の敷地中央に建つ懸造の舞台に落下したらしいことを認識する。

 まだ頭がぐらぐらと揺れているような気がする。小さく呻きながら鼻先を動かすと、顎が落ちそうなほど口をあんぐりと開くパンダ先輩、そして珍しく驚愕に表情を崩す狗巻先輩の姿を捉えた。

「えっ何どういうこと?!何でがここに?!ていうかいま空から降ってきたよな?!」
「高菜!すじこ!明太子!」

 状況を上手く飲み込めないのはわたしも同じだった。痛みを振り払うように頭を何度か揺らすと、唖然とするふたりにここに至るまでの経緯を説明していく。

「神様と仏様から恵くんがピンチだって聞いたので、愛染明王にお願いして瞬間移動を――って恵くんは?!」

 電流でも流されたかのように自らの目的を思い出すや、焦燥に急かされたわたしは素早く首を左右に振った。パンダ先輩と狗巻先輩、そして何故ここにいるのかは不明だが京都から来た東堂先輩を捉えるばかりで、当の恵くんがどこにもいない。彼の呪力の気配はたしかに感じられるのに、一体どこへ行ってしまったのだろう。

 込み上げる焦りに視界が淡く滲んだ瞬間、パンダ先輩と狗巻先輩が揃って地面を指差した。ふたりの足元に視線を送ったものの、当然ながら恵くんの姿はどこにも見当たらない。

 ひどく立派な舞台には人がひとり通れそうなほどの巨大な穴が穿たれている。まさか恵くんはあの大穴から落ちたのだろうか。腰を持ち上げるために地面に手を付き、身体を支えようとして――はたと気づく。

 地面が妙に柔らかいような。自然ならではの木の温もりと呼ぶにはあまりにも温度が高い気がするし、この真夏の炎天を仰いでいたにしてはひと肌の温もりに留まっているような。

 不審に思いながら視線を足元に落として、「……め、恵くんっ?!」とわたしは弾かれたように素っ頓狂な悲鳴を上げる。慌てふためきながら身体を移動させれば、数秒前までわたし専用の座布団と化していた恵くんが数回咳き込んだ。

「気づくの遅すぎんだよ……口から内臓出るかと思っただろ……」

 仰向けに倒れたままひどく浅い呼吸を繰り返す血塗れの彼に、途方もない安堵と申し訳なさが募る。パンダ先輩と狗巻先輩がわたしの肩に優しく手を置き、まるで安心させるようにきっぱりと告げる。

「大丈夫だ、。恵は口から内臓が出ても生きていけるから」
「しゃけしゃけ」
「ナマコと一緒にしないでください……」

 乱れた呼吸の隙間から恵くんが不服そうに異論を唱えた。わたしは上体を起こそうとする彼の背を支える。おそらく頭のどこかから出血しているのだろう、額を伝う真新しい鮮血が彼の白いかんばせをたちまち朱色に染めていく。霊安室で見た白い布を被ったお兄ちゃんの姿が脳裏を過ぎり、途端に心臓が嫌な音を立て始めた。

「恵くん、血……血が……」
「……ああ、そうだな」

 ひどくあっさりとした口振りが容赦なく耳朶を打つ。どうしてそうも平気にしていられるのかがわからなかった。軽い混乱に陥ったわたしの喉がひゅうひゅう鳴っている。動揺を隠せぬ視線をあちらこちらへ這わせながら、わたしは今にも泣きそうな声で言った。

「わ、わたしのせいで恵くんが血だらけに」
「馬鹿。違ぇよ」
「じゃあ誰が――」

 言葉はそこで途切れる。消去法だった。わたしは鼻先を滑らせると、まるでこちらを観察するかのように無言で佇立する半裸の巨漢を視界の中央に収める。

「……貴方が、彼を?」

 それは自分でも驚くほど冷めた響きだった。氷塊をどれだけ沈ませても足らぬほどに。

 全ての感情が抜け落ちた抑揚のないそれを拾い上げると、男は意味ありげに口端を吊り上げてみせる。

「そうだと言ったら?」

 その低い声音が蓋をしていたはずの記憶を引きずり出す。霊安室の静けさ。誰もいない廊下。忌々しいほど鮮やかな鱗。すすり泣く弔問客。灰に埋もれた白い骨。胸に抱えた骨壺の冷たさ。喪失を認められず切り離された感情の全てが、どこか遠くへ行ってしまう感覚。

 また喪うのかと思うと、また奪われるのかと思うと、もう駄目だった。とびきり醜悪な悪夢を見ている感覚に呑まれる。魂の一部が砕かれ、すり潰され、ばら撒かれていく。

 恵くん。恵くんを助けなければ。怪我をした恵くんを助けなければ。虚ろな思考が小声で何度も呟いたとき、脳髄に直接機械音声が響いた。

【領域使用条件クリア】
「領域使用」

 誰かが何かを言っている。感情が死んだような女の声。彼女が何を言ったのかよくわからなかった。血で霞んだような頭ではもう何も考えられない。ただ孤独を恐れていた。恵くんの優しさが手のひらがこぼれ落ちていくのは耐えられなかった。

【音声コマンド入力完了。呪力消費開始――現在地を中心に領域展開準備完了。選択対象に使用される術式全てを即時無効化、及び損傷部位を反転術式にて修復します】
「領域展開――“千歳慰む慈雨”」

 幻影の驟雨が降り始めたこともわからぬほど、わたしの頭は激情で真っ赤に染まっていた。