「あの、余計なお世話かと思うんですけど……大丈夫ですか?」

 盛夏の日差しが縁取る色濃い陰影に気取られていたせいで、わたしはすぐに反応できなかった。弓矢の射程距離よりうんと広い水堀を挟んだ架け橋で律動的な歩を緩めれば、なだらかな弧を描く古びた床板を踏む複数の足音もやや遅れてそれに続く。

 一日で最も気温が高いと言われる時間帯が近づくにつれ、もはや痛いほどの日射はさらに苛烈さを増していく。喪服じみた制服は下ろしたてのせいだろう、噴いた汗をそれほど多く吸い込んではくれない。汗ばむ肌の不快さに蓋をして半歩後ろへ視線を送ると、わたしは操り人形のようなぎこちなさで小首を傾げた。

「……えっと」
「その手です。包帯グルグル巻きなので」

 人好きしそうな長髪の女生徒――三輪先輩の黒目がちな双眸が心配げな色を湛え、わたしの手元をじっと見つめている。包帯に覆われた両手を隠すように身体に添わせると、前もって用意しておいた理由を滑らかに口にした。

「昨晩夏野菜の天ぷらを揚げているときにうっかり火傷を……大丈夫です。気を遣ってくださってありがとうございます」
「いえ、そんな。夏野菜の天ぷらかぁ、良いなぁ……とっても美味しそうですね」
「畑を借りて自分で作っているので、いつでも採れたてが食べられるんです。でも新鮮で瑞々しい分、天ぷらにするには少し相性が悪かったんでしょうか……油が跳ねて跳ねて……」
「オイルスクリーン――油跳ね防止ネットって使ってますか?アレすごく良いですよ。百均とかで安く買えますし、洗えば何度でも使えますし」
「そんなのあるんですか?今度試してみますね、情報ありがとうございます。お礼と言ったら何ですが、もし良ければ夏野菜をいくつか持って帰りますか?天ぷらにぜひ!」
「えっ、良いんですか?!お言葉に甘えて頂いて帰ります!ウチ貧乏なので助かります、ありがとうございます!」

 満面の笑みを浮かべて頷く三輪先輩に罪悪感が湧いた。数時間前に巻いてもらったばかりの包帯の下には、焼却炉の激しい猛火で焼かれた皮膚が眠っている。決して跳ねた天ぷら油で焼け爛れたわけではないそれを身体の影に隠した。夏野菜をたくさん持って帰ってもらおうと心に誓い、人の善い三輪先輩を騙した罪悪感に折り合いを付ける。

 わたしの火傷を目にした家入先生は呆れていた。

「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、そこまで馬鹿だったとはな。伏黒、君の監督不行き届きだよ」

 叱責の矛先は何故か当事者であるわたしではなく、医務室まで付き添ってくれた恵くんに向けられていた。調伏を終えた直後で疲労の色が走る怜悧な双眸を伏せると、恵くんは感情を抑えたような声音で言った。

「……はい、わかってます。すみません。のそれ、ちゃんと治りますか?傷痕とかそういうのも含めて」
「治らない。瘢痕は多少残るだろう」

 反転術式を使用しながら家入先生は断言した。家入先生は呪術高専屈指の優秀な医師だ、診察に間違いなどありはしない。しかし思いもよらない返答だったのか、恵くんは驚いたように切れ長の両瞳を持ち上げた。

「……えっ。残るんですか?……本当に?」
「ああそうだ。意外と傷が深いうえに時間も経ってるからな」
「…………そう、ですか」
「どうする?」
「……え?」
「だからどうするんだ。がこうなったのは君のせいだろう?」
「……どう、するって、そりゃ……俺が、ちゃんと……責任を取って……」
「責任?一体どうやって」

 家入先生の鋭い詰問に彼の首が深く落ちた。墨を溶かした無造作な髪から覗く耳がやけに赤い。

「…………さえ、嫌じゃない、なら……俺が」
「俺が?」
「……俺が……いや、俺と……」

 皮膚を移植することで火傷痕を目立たなくする手術もあるらしい。きっと手術代や入院費を出してくれるつもりなのだろう。紅潮しているのは払うべき大金の額に焦っているからに違いない。恵くんの心遣いに申し訳なさが込み上げた瞬間、彼がはたと白んだ顔を持ち上げた。

「………………ちょっと待ってください。本当は治るんじゃないですか?」
「おや残念、察しが良いな。治るよ。一晩も経てばすっかり綺麗に元通りね」
「……死ぬほど焦ったっていうか、なんでそんな下らない嘘……」
「決まってるだろ。君が――」
「いや良いです言わなくて良いですわかってるんで」
「そうか、がいるのにますます残念だ。しかしなんだ、五条たちがこぞって伏黒を揶揄う理由がわかるよ。これは想像以上に楽しいね」
「人で遊ぶのマジでやめてください……冗談抜きで寿命が縮むんですよ……」

 何故か急に不機嫌になった恵くんに午後からの修行を休むよう勧めたものの、「ちょっと疲れてるくらいで休めるわけねぇだろ」ときつく睨み付けられてしまった。

 虎杖くんがいつまで経っても野薔薇ちゃんの情緒がわからないと嘆いていたように、わたしにも恵くんの情緒が未だによくわからなかった。傷が治れば一銭も払わなくて済むのだから、そこは喜ぶところだと思うのだけれど。

「天ぷらの油跳ね程度で大袈裟すぎじゃないかしら」

 耳を打った婉然とした声音に意識を引き戻される。鼻先を三輪先輩からやや右へと滑らせれば、真希先輩とよく似たかんばせを持つ双子の妹、真依先輩と視線が深く絡んだ。

「まぁでも仕方ないわよね。こんなにひ弱な術師でなきゃ、半分呪いの穢らわしい人外と仲良く呪術師なんて出来っこないでしょうし」

 たっぷりと悪意を垂らし込んだ言葉にわたしは目を瞬いた。“なんや変わったおひとと仲良ぅしはってよろしいなぁ”と言って扇子で口元を隠すような、察する文化の根強い京都ならではの婉曲的な嫌味を期待していたというのに。初めて直接耳にする関西弁での嫌味を超が付くほど期待していたというのに。

 真依先輩の勝ち誇った微笑を見つめたまま、わたしは軽く眉をひそめた。

「これが本場のいけず?ちょっと期待外れかも……」
「何ですって?!」
「いいえ何でも」

 途端に声を荒げた真依先輩から視線をさっと背ければ、わたしたちの会話などどうでも良さげな様子で欄干から水堀を見下ろす巨漢が目に入る。先ほどから一言も発しない東堂先輩は、眠気を堪えるように大欠伸をひとつ落とした。

 過剰な手当てを施された両手を隠しつつ、わたしは視線をさらに右へと移動させた。一体齢いかばかりだろうか。杖を突いて緩慢に歩くこの和装の老人こそ、京都府立呪術高等専門学校学長、楽巌寺嘉伸そのひとだった。

 ほとんど終わりに差しかかった架け橋の底板を杖先で軽く打つや、老いて窪んだ眼窩をこちらに向ける。豊かに茂る白眉が生み出す影のせいで、瞳の色がはっきりと窺い知れない。楽巌寺学長はしわがれた声音にスプーンひとさじ程度の嫌味を乗せた。

「失礼だとは思わんか。そうも人の顔をじろじろと」
「この炎天下での長旅、楽巌寺学長のお身体に障ったのではと少しばかり気掛かりで……お気を悪くさせてしまったこと陳謝致します。大変申し訳ございませんでした」

 橋の上で足を止め、恭しく頭を下げること数秒。ゆっくりと持ち上げた首に悟くん仕込みの如才ない微笑みを拵えれば、楽巌寺学長は軽く鼻を鳴らして再び歩き出した。

 三輪先輩のひどく申し訳なさそうな視線に小さくかぶりを振ると、わたしは先を行く楽巌寺学長を足早に追いかける。先んじて高麗門の僅かな段差の近くに立ち、「足元にお気を付けください」とにこやかに注意を促した。

 炎で激しく損傷した遺体の身元は、意外にもすぐにわかった。

 家入先生の治療後、領域を使用したわたしの眼前で倒れていたのは五十路半ばの男だった。若いころは持て囃されたであろう苦み走ったかんばせが特徴的で、今にも目を覚ましそうなほどとても安らかな死に顔だった。

 一糸纏わぬ全裸の遺体から反射的に目を背けていると、家入先生が顎に手を当てて呟いた。

「驚いた。上層部の人間だな」
「……上層部、ですか?」
「しかもこの男とはな」

 そう言って家入先生は窓際の三段ボックスから白いシーツを取り出した。広げたそれを遺体に覆い被せながら、淡々と言葉を継いだ。

「先月の特級案件……たち一年派遣を最初に打診したのはコイツだってもっぱらの噂だよ。保守派も保守派、あの五条を常に目の敵にしていたからな、嫌がらせができる絶好の機会だとでも思ったんだろう。用意周到に仲間の保守派を大量に取り込んで、たちの派遣に断固反対する学長を権力で押さえ付けた。最終的にはあの楽巌寺の口添えで経験の浅い一年にお鉢が回ったらしいよ」
「楽巌寺って、京都校の楽巌寺学長ですか?」
「そうだ。午後から案内するんだろう?例の呪霊と関係があるかどうかはわからないが、目を配っておいて損はないんじゃないか」

 鱗の呪霊のことはひとりで何とかするつもりではあるものの、今回の焼死体の件については恵くんも深く関わっている。その場にいた彼に何も報告しないのはさすがに怪しまれるような気がした。

 一足先に医務室を後にしていた恵くんにメッセージを送れば、“そういうことか。やっと繋がった。花火のときに話す”と何かわかったらしい返信が返ってきた。彼に全て頼りたい気持ちが疼いたけれど、すぐにかぶりを振って決意を込めたメッセージを送り付けた。

“恵くん、わたし頑張る!”
“何を”
“いけずされても負けない!”
“いけず?なんでいきなり関西弁”

 恵くんとのやり取りを思い返しながら、杖を突いて緩やかに歩を進める楽巌寺学長を視界の端に捉える。鱗の呪霊と何か繋がりがあるかもしれない、そんな疑いの眼差しを常に光らせて。

 しかし特にこれと言って何かが起こるわけもなかった。東堂先輩と真依先輩が“所用がある”とか何とかで、楽巌寺学長や三輪先輩とは全くの別行動を取り始めたくらいだ。少し気になったものの楽巌寺学長の案内が最優先事項だったので、「あまり遠くには行かないでくださいね」と軽く注意するに留めておいた。

 わたしは応接室の扉を開いて楽巌寺学長と三輪先輩を恭しく迎え入れた。冷房の効いた応接室から漏れる空気だけで、噴いた汗がみるみる引いていく。楽巌寺学長が黒革製の高級ソファに腰を下ろしたことを確認するや、わたしはその場で丁寧に一礼した。