伏黒恵にはわからなかった。一方的に想いを寄せている少女のかんばせに、あまりにも鮮やかな朱が差した理由も。まるで階段から転がり落ちるように、否定の語句を間断なく並べ立てられた理由も。

 いつだって恵を穏やかに捉える優しい眼差しが、今は何故か落ち着きを失ったようにただ忙しなく動き回っている。急に態度を変えたに、恵は全く理解が及ばない。

 口付けを介して呪力を譲渡するあの術式を使いたくないことはわかったが、にしては驚くほど“らしくない”判断だった。

 大幅に呪力を失った恵の疲弊に気づいているはずのが、呪力の譲渡を断固拒否――つまり、より安全にこの場を切り抜ける方法ではなく、あえて消耗した恵や深手を負った自らを危険に晒す愚を犯したのだから。

 とはいえ、が“帳”を下ろす作戦でも充分に勝算はあるし、恵としては元よりそのつもりだった。

 先月英集少年院にて特級呪霊に白の玉犬を、両面宿儺に大蛇を破壊され、恵の手札とも呼べる式神はほとんど半減している。恵が現在使用できるのは黒の玉犬、蝦蟇、鵺の三体だけだった。

 あの満象相手に力押しできるに越したことはないが、しかしそれが可能な式神は今の恵のもとにはいない。だからこそ恵は確実に調伏を済ませるために、相手の裏をかくような小細工に溢れた最も勝率の高い作戦を立てている。

 に術式の使用を仄めかしたのは一刻も早く式神調伏の儀を終えるためであり、全くないとは言い切れぬ下心に突き動かされたせいである。だから恵の提案を承諾されようが拒否されようが、本音を言えばどちらでも構わなかったのだ。

 だが、どうにも腑に落ちない。が強く拒否したことも、その不自然すぎる態度も。

 突として湧いた疑念があっという間に恵の頭を占める。その理由に心当たりがないわけではなかった。むしろ導き出される答えはそれただひとつだけで、他の可能性を考えるほうがきっと難しいだろう。

 しかしながら相手はだ。恵はとの花火の一件で、その可能性をすでに何度も否定している。恵がから何を奪ったのか。が恵に何を奪われたのか。憎悪と嫌悪は生まれても、それ以外など有り得ない関係性。不変の事実を忘れたことは一度たりともない。

 今回も同じように否定したかった。だがそれはできなかった。ひどく困惑した様子で羞恥に頬を染めるには、恵に対する嫌悪が一滴も感じられなかったせいで。むしろ恵の一挙手一投足を強く意識しているように見えたせいで。

 知識はあっても更地同然の恋愛経験しか持たぬ恵に、逸る心を宥めすかせるだけの余裕はなかった。そんなの無理に決まっている。夢に見るほど欲しかったものに手が届く可能性を見てしまったら、もう。

 いっそ暴いてしまいたい。この目と耳で確かめてしまいたい。

 冷静になれなかった。芽吹いた恋慕を摘み取ることができなかったように。肋骨どころか骨の髄まで根が達しても、から離れることを選べなかったように。に対する罪責感だとか墓場まで持って行くだとかを苦しめる可能性だとか、そんなことは今はもうただの御託でしかなかった。

 首をもたげた期待を押さえ付けながら、これは確認だと恵は腹の内で己に言い聞かせた。導き出したこの答えは、己が恋愛経験の乏しさ故の都合の良い勘違いではない、とは決して言い切れない――そんな子どもじみた建前で、本音をすっぽりと覆い隠して。

 たった数秒で思考を終えると、恵は自制心の限りを尽くして平静を装った。そして硬度を増した胡乱げな低音を端的に絞り出す。

「なんで」
「なんで?!」

 驚愕に仰け反ったの顔がますます赤くなった。柔らかな双眸が恵の唇を撫で、すぐに助けを求めるように宙を這う。痛いところでも突かれた様子に、恵の推論がとうとう確信めいてくる。

 ――……は?……マジで?

 恵は思わず目を瞬いた。

 ――……嘘じゃねぇ、よな?

 つい先ほど見たばかりの、幸福を溶かし込んだ華やいだ微笑が脳裏を掠めた。

「全然。むしろ大歓迎だし、恵くんがいないと寂しいよ?」

 耳の奥で茶目っ気たっぷりな声音が響いたような気がした。頭から一向に離れることのない、愛しい者にだけ向けるあの優しい眼差しが、恵の心拍数を面白いほど上昇させていく。

 もはや致死量の多幸感が全身を駆け廻っていた。不思議だった。今ここでと何かがあったわけではない。告白したわけでもなければ、告白されたわけでもない。ただ想いを寄せている人間が同じ感情を抱いているということを知っただけだ。

 けれど、たったそれだけのことが、こんなにもうれしいなんて。

 しかしその半瞬後には恵は我に返った。ぬか喜びかもしれないとは思わなかった。は他者のためなら自らのことなど簡単に度外視するような人間だ。ただ口付けが恥ずかしいだけならがこうも拒絶するわけがないのだから。

 とはいえ今は調伏の儀の真っ最中である。これ以上冷静さを欠くことは避けたかった。落ち着けと自らを強く叱咤し、恵は表情を引き締める。

 眉尻を大きく下げたが視線をあちらこちらへ動かし、次の言葉を探すその仕草に、恵は庇護欲を掻き立てられた。そしてそれと同時に、その困り果てた様子をもう少しだけ見ていたいと願う気持ちが、肋骨の中でたしかに滲んでいる。

 好きな子ほどいじめたい――時として人間にはそんな加虐的な恋愛心理が働くこともあると言う。

 初めてその話を聞いたとき、それはただ人間として幼稚なだけなのではないかと恵は思った。本当に好きならいじめるのではなく大切にするはずだろう、とも。あのときはそんな恋愛心理を馬鹿馬鹿しいと一蹴したが、今やっと理解できた。

 決して気を引くためなどではない。これはある種の独占欲だ。恵ひとりのためにがそうも感情を乱しているのを見るのは、正直言って堪らなかった。

「……な、“なんで”って、なんで?」

 やっとこぼれ落ちた苦し紛れの質問に、恵はもう確信せざるを得なかった。これで当人は隠しているつもりなのだから、いじらしいと言うか何と言うか。さて一体どこでボロを出すのかという興味すら湧いてくる。

 当初の予定通りが“帳”を下ろす方向へ話を戻すことも考えたが、やめた。ここは呪術高専の敷地内だ。“帳”を下ろせば確実に誰かが気づくだろうし、ポケットに入っているスマホの充電はほとんど減っていない。二年生に助けを求められる今の状況なら、恵とが命を落とす可能性は限りなく低いだろう。

 の熱傷の具合は気になるものの、水膨れができているなら皮膚はまだ壊死に至っていない。反転術式を使用すれば瘢痕はひとつも残らないだろう。だからあともう少しくらいなら会話に時間を割いても平気なはずだ。恵は腹の内で玉犬に謝った。悪いがあと数分だけ時間を稼いで欲しい、と。

 深手を負ったを身勝手な会話に付き合わせる罪悪感が滲んだが、それは今さらのような気もした。思考をまとめた恵は普段と変わらぬ口調を装いながら、にきっぱりと告げる。

「質問を質問で返すな。こっちが先に訊いてんだ」
「あ、うん、そうだね……ごめんなさい……」

 詰るような恵の言葉に、悲しげに項垂れたが小声で謝罪する。底意地の悪いことを言ったかもしれないと途端にばつが悪くなった。そしてがどう感じたのかが気になって仕方がなかった。に嫌われるのがただ怖くて。そんなこと、と出会った当初は微塵も思わなかったのに。

「さっきの吐血――腹の怪我したときに呪力を使ったのか」
「……ううん、違うよ」
「だったらその火傷のせいか」
「そういうわけでもないけど……」

 様子を窺うように問いかければ、歯切れの悪い言葉が返ってくる。紅潮したの視線はふらふらと覚束ない。決していじめたいというわけではなかったが、恵はちょっとした興味本位で、本音を隠し通そうとするに揺さぶりをかけることにした。

「じゃあなんで」
「も、戻ってきちゃったな……」

 困り果てた呟きに恵の表情が険しさを増す。負けず嫌いの血が騒いだ。納得できる答えが聞き出せるまで何度でも戻してやるからな――とに対抗したそのとき、

「だって全方位からモテる恵くんにそんなことしたら絶対わたし夜道で刺されるよ?」

と、追い詰められたが突然訳の分からないことを言い出した。ポカンとする恵を置き去りにしたまま、「まだ死にたくない」と蚊の鳴くような小声で付け加える。を見つめる恵の頬が引きつっていた。

「……は?いや今まで何回もしただろ」

 まるで恵を黙らせるように交わされた口付けは一度や二度ではない。それこそ杉沢病院で執拗にされた口付けは舌こそ入れられていないものの、恋人同士のそれと言っても過言ではないほどの熱を孕んでいた。理性が焼き切れそうになったあの数分をなかったことにされるのは、被害者とも言える恵にとっては何とも許しがたかった。

「特に杉沢病院でのアレ。絶対に忘れたとは言わせねぇからな」
「わ、忘れてま……すん」
「どっちだよ。つーか今まで一度でも刺されたことがあんのかよ」
「うっ、それはそうだけど……」

 釈然としない感情を白刃じみた鋭利な言葉に変えれば、は逃げるように目を逸らした。そうやって誤魔化そうとしても無駄だ。逃走を図るの首根っこを掴むが如く、恵は氷塊を沈めた声音で先刻の発言の矛盾を指摘する。

「それにお前まだ外出許可出てねぇよな?そもそもひとりで夜道も歩けねぇのにその前提条件はおかしいだろ」
「ぐっ……言い返す言葉がもう何もない……」

 子供向けヒーロー番組の悪役じみた台詞を吐くと、は悔しげな様子で下唇を噛んだ。次の言葉を待つ恵は己が勝利を確信していた。あまりにも下らない意地の張り合いに終止符が打たれる――かと思いきや、は一切の反駁を許さぬ視線で真正面から恵を穿ってみせる。

「でも、その……と、とにかくしません!絶対しません!モテモテな恵くんにそんな失礼なことできません!」