業火にも似た炎熱の息を吐き出す朱に触れた途端、あまりの熱さに痛みが指先から灼き切れていくのをはっきりと感じた。以前、清掃員の佐藤さんが「焼却炉の温度は八百度を超えるんだよ」と教えてくれたことを思い出す。想像の中だけだったはずの猛火がまるで枷のように、わたしの両腕に強く深く絡み付いていた。

 無我夢中だった。奥歯で苦鳴を噛み殺しながら、八百度に達した焦炎の中で懸命に藻掻き続けた。今度こそ誰かの当たり前の幸せを守るために。誰の物ともつかぬ肉の焦げる異臭だけが肺をいっぱいに満たしていた。

 熱かった。思考すら白く灼き切れるほどの熱さだった。

 でも――きっと今のほうが、ずっとずっと熱い。

「それって、恵くんがわたしと……」

 緊張で掠れ切った声音では言葉を最後まで紡げなかった。到底紡げるはずもなかった。その先を言葉にしてしまえば、たちまち現実になるような気がして。

 躊躇いを含んだ白群の視線がまっすぐに穿つのは、強張ったわたしの唇だった。

 恵くんに何を求められているかなどすでに察しが付いている。わたしが術式を使うにはそうするしかないのだとわかっていても駄目だった。身体が内側から沸騰したように熱い。噴き出す感情の処理をとっくに諦めた脳髄がみるみる高熱に侵されていく。

 朱に染まっているであろう火照った顔を隠すことも忘れ、動揺と混乱に押し潰されたわたしは心の中で甲高く絶叫する。

 ――野薔薇ちゃんお願い、助けて!



* * *




「どうして好きになっちゃったんだろう」

 息苦しさを堪えるように独り言ちたその言葉はあまりにも月並みで、どこか演技めいた響きさえ伴っていた。ほとんど無意識にこぼれ落ちた伽藍洞のそれは、しかし間違いなくわたしの本心だった。

 一拍遅れて得も言われぬ羞恥と後悔がせり上がり、わたしは折り畳んだ膝を胸に引き寄せて両腕できつく抱え込む。紅潮した顔を隠すように熱い額を膝に押し付けると、間髪入れずに凛とした声音がわたしの鼓膜を叩いた。

「理屈じゃないのよ」

 それは開け放たれた引き戸の向こう、手狭な簡易キッチンから響いていた。端的ながらも真理を突いたそれに下唇を噛む。わたしは膝をより強く抱きしめて、「……うん」と小さな相槌を打った。

 今さら理由を求めてもどうにもならないことは、自分が一番よくわかっていた。それでも何かに責任を押し付けたかった。この感情の行き場を探していた。そうでもしないと、理解の及ばない自分の心をぐしゃぐしゃに握り潰してしまいそうだったから。

 静かな足音が聞こえる。時間をかけて重たい首を持ち上げれば、両手に美しい江戸切子のグラスを持った野薔薇ちゃんと視線が絡んだ。

 淡い桜色のカップインキャミソールに、フリルの付いたショートパンツ。そして白練のように真っ白な薄手のカーディガン。可愛いルームウェアの有名ブランド、その新作を全身に纏ったこの部屋の女主人が、わたしの隣にそっと腰を下ろした。

「はいどーぞ。ミルクと砂糖たっぷりで良かったわよね?」
「さすが野薔薇ちゃん。もう覚えてくれたんだね、うれしい」
「当たり前でしょ。にはいつでも遊びに来てほしいっていう私の計算高い下心よ」
「ありがとう」
「どういたしまして」

 受け取ったお洒落なグラスからは、熟れた林檎の芳醇な香りが淡く立ち昇る。白く濁ったアイスティーを傾けると、丸みを帯びた氷が擦れ合って耳触りの良い音が響いた。可惜夜を迎えた統一感のある部屋に、瑞々しい清涼感が満ちていく。

 わたしが野薔薇ちゃんの部屋の扉を叩いたのは、恵くんとの花火を終えて寝支度を済ませたあと、つまり日付が変わる直前のことだった。

 事前に連絡を入れていたとはいえ、誰かの部屋を訪ねるには非常識な時間帯だということはもちろん理解していた。けれど、どうしても心に溜まった澱を今日のうちに吐き出してしまいたかったのだ。

 今日は色々なことがあった。虎杖くんが生き返ったこと、五条家の養子になったこと、悟くんから術式の詳細を聞いたこと、そして――全て忘れるとわかったうえで恵くんと花火をしたこと。こんなにぐちゃぐちゃの気持ちのままでは一睡もできるはずがない、そんなことは最初からわかっていたから。

 野薔薇ちゃんは嫌な顔ひとつせず、わたしを部屋へ招き入れてくれた。美容のゴールデンタイム真っ只中にもかかわらず、申し訳程度の手土産であるお気に入りのアップルティーのティーバッグと茶請けのアイスワッフルをとてもうれしそうに受け取って。

 センスの良いローテーブルの上に置かれたアイスワッフルに手を伸ばしつつ、野薔薇ちゃんが亜麻色に染まった江戸切子に怪訝な視線を送った。

「それ、五条先生に買ってもらった無駄に高い紅茶なんでしょ?こんなにミルクも砂糖も入れたら高級茶葉が泣くわよ」
「でも野薔薇ちゃんの前で無理して大人ぶるの嫌だから。内緒にしてね」

 照れ隠しするように小さく笑んでみせれば、ワッフルにかぶりついていた野薔薇ちゃんの目がたちまち細くなった。

「……、アンタそういうとこよ。そういうとこがアイツを心を掴んで離さないんだわ」
「アイツ?……悟くん?」

 しかしわたしの疑念に野薔薇ちゃんはうんともすんとも言わず、ふたつめのアイスワッフルを幸せそうに頬張りながら事もなげに尋ねた。

「伏黒のこと、いつから好きなの?」

 走る緊張をゆっくりと解すように、わたしはアイスティーを一口含んだ。過剰なミルクと砂糖に溺れてもなお、林檎の爽やかな風味は舌の上に残っている。

「いつからだろう……きっと術式を使った昨日から――大切だった誰かを忘れた瞬間から好きなんだろうけど、実を言うとよくわからなくて」
「わからない?」
「そう。好きだって気づいたのは昨日だよ。目が覚めたら目の前に恵くんがいて、“ああ好きだな”って思った。でもいつから好きなのか自分でもよくわからないんだ。もっと前から好きだったような気がして……ごめんね。わたしの記憶、ちっとも当てにならないね」
「告んないの?」
「えっ?!」

 驚きのあまり肩が震え、危うくアイスティーをこぼしそうになる。きっと次は恵くんの好きなところを尋ねられるに違いないと身構えていたせいだろう。その話題が廻ってくるのはもう少し先だとばかり思っていたのに。

 動揺を隠し切れないわたしはグラスをテーブルの上へ避難させると、野薔薇ちゃんの澄ました顔を見つめて否定の言葉を執拗に繰り返した。

「しないしない!告白なんかしないよ!するわけないよ!」
「そこまで否定されると逆に告白しそうなんだけど」
「しないよ!告白なんて絶対しません!」
「それって伏黒にこれ以上余計なモノを背負わせたくないから?」

 返事の代わりにわたしが曖昧な笑みを浮かべれば、野薔薇ちゃんは理解できないとでも言いたげな様子で大袈裟に肩をすくめる。

「気持ちはわからなくもないけど、は伏黒にそれだけのモノを背負わせて許されるだけの権利を持ってるじゃない」

 わたしはすぐにかぶりを振った。

「お兄ちゃんが死んだのは恵くんのせいじゃないよ」
「でも少なからず伏黒にだって責任があったと思ってる。違う?」

 そう問いかけた野薔薇ちゃんの声音はあくまで優しかった。けれどその響きには一切の隙がなく、つまらない嘘や誤魔化しはたちまち見抜かれるだろうと直感した。

 わたしはグラスに手を伸ばして干乾びた喉を少しだけ潤すと、諸手を挙げて降参するように小さく苦笑する。

「……野薔薇ちゃん、やっぱり鋭いね」
「ちょっと安心したわ。が私の前では“良い子”じゃなくて」

 凛然とした横顔にどこかうれしそうな色が滲む。わたしはそれを瞳の端で捉えながら、折り畳んだ膝を再び抱え込んだ。

「恵くんは誰よりも優しい人だし、お兄ちゃんのことでわたしに負い目があるから、告白すればきっと付き合ってくれると思う。多分わたしが別れようって言うまで、最後まで根気強くわたしの恋人を演じてくれる。わたしの我儘にだって真面目に応えてくれる。たとえ、わたしのことが嫌いでも」
「……そうね」
「でも、それは絶対に恵くんを深く傷つける。好きじゃない人と付き合うなんて恵くんが可哀想だよ。それにね、恵くんにはわたしのことなんか一日でも早く忘れて、一秒でも早く前を向いてほしいんだ。だからわたし、告白なんてしないよ」

 感情の凪いだ柔らかな声音で、しかしきっぱりと理由を告げれば、幕が垂れるようにしんと沈黙が落ちた。

 万華鏡のような江戸切子のグラスが白い照明灯を眩く反射する。美しいそれに視線を奪われていると、「“どうして好きになっちゃったんだろう”」と野薔薇ちゃんが小さく呟いた。その台詞がわたしを示唆するものだと気づいた瞬間、芯の通った声音がさらに鼓膜を震わせる。

「本当は伏黒を好きになったことを後悔してるから告白したくないんでしょ?」
「…………え?」
「伏黒のため伏黒のためって言うけど、私にはが自分のために伏黒を忘れようとしているようにしか思えないわ」

 それは決して責めるような口振りではなかった。ただ自分の考えを淡々と述べただけの、ひどくあっさりとした口調。野薔薇ちゃんなりにわたしとの距離を測ろうとしてくれているのだと思った。わたしは首を傾けて野薔薇ちゃんを見つめた。

「……笑わないで聞いてくれる?」
「当たり前でしょ。ていうかそれ言いたくてここに来たくせに」

 唇を尖らせた野薔薇ちゃんに小さく笑みを返すと、わたしは視線を落とした。何十兆もの細胞の隙間から滲み出した陶鬱とした感情が、心の柔らかい場所を一気に混濁させていく。

「……恵くんへの気持ちは、お兄ちゃんの死の上にあるから」

 野薔薇ちゃんが息を呑んだのが手に取るようにわかった。努めて平静を保ちながら、わたしは微かに割った唇から震える声音を押し出した。

「お兄ちゃんが死ななきゃ、わたしは恵くんと出会わなかった。だからわたしのこの気持ちは、お兄ちゃんの死の上に成り立ってるんだよ。お兄ちゃんが死んだから、わたしは恵くんを好きになったんだよ」
「……
「恵くんはすごく素敵なひとだよ。責任感が人一倍強くて、無愛想だけど誰よりも優しくて。きっとどんな出会い方をしても、わたしきっと恵くんを好きになってた。好きにならないなんて無理だった。……でも」

 あっという間に視界が白んだ。前髪で顔を隠すように頭を深く伏せると、剥き出しになった膝小僧に雨が降り始める。わたしは濡れた膝をきつく抱え込んで、見たくなかった心の澱をすくい上げる。

「どうして恵くんを好きになっちゃったのかなぁ……どうして、恵くんじゃなきゃ、駄目だったのかなぁ……」

 堰を切ったように涙が溢れた。急に細くなった息を整えようとしても無駄だった。震える声が詰まるのを堪えながら、わたしは懸命に言葉を紡いだ。

「お兄ちゃんの死を認めたみたいで嫌だ。納得したみたいで嫌だ。受け入れたみたいで嫌だ。わたしまだ一度もお兄ちゃんの死を認めてない。誰のことも何ひとつ赦せてない。時間が解決するなんて嘘だよ。無理だよ。急に奪われて、お別れもちゃんと言えないで、心に折り合いなんて付くはずない。それなのに、恵くんが好きだってこの気持ちを、恵くんへの想いを、わたしが、わたしがここで認めたら」

 ひと際大きくしゃくり上げると、心臓のあたりから溢れ出した言葉を衝動のままに声に乗せる。

「“お兄ちゃんが死んで良かった”って言ってるみたいで……わたし、もう……」

 言葉は尻すぼみに消えていった。自分が嫌い、自分が赦せない、自分が憎い――途方もない自己嫌悪が強烈な破壊衝動となって自らの首に輪をかけている。膝を抱え込んだ指先が生ぬるいぬめりを捉え、爪が皮膚を破ったのだと遅れて悟った。

 丸めた肩を震わせて嗚咽を噛み殺したそのとき、

「……馬鹿ね。アンタたち本当に似た者同士、お似合いすぎて笑っちゃうわよ」

 ひどく優しげな声音が耳朶を打った。気づけば、身体が触れ合うほど近くまで野薔薇ちゃんが移動している。わたしの頭の上に指の長い手が柔らかく落ちる。寄り添う野薔薇ちゃんはわたしの頭を自らのほうへ引き寄せた。こめかみが細い首に軽くぶつかって、華やかで甘い香りが鼻孔をくすぐる。

「伏黒との出会いはお兄さんの死の上に成り立ってんじゃない。伏黒との出会いは、大好きなお兄さんがのために遺してくれた“縁”よ」

 野薔薇ちゃんは自らの頬をわたしへ寄せると、わたしの髪をゆっくりと指で梳き始めた。

「お兄さん、のことよく分かってたんでしょ?だったらがお兄さんの死を受け入れられないことも、が伏黒を好きになることも、きっと全部お見通しだったはずよ。伏黒は重油まみれのカモメに火を点ける遊びばっかしてる男だけど、好きな――心を許した相手には優しいと思うわ。周りが引くほどね。伏黒だから、を託したのよ」
「…………」
「伏黒だけじゃない。今回の養子の件だって、伏黒は利権絡みだって言ったかもしれないけど、私には五条先生がの帰る場所を作ったようにしか思えなかった。だって他人に気ぃ遣ってばっかのが気兼ねなく帰れる場所って言ったら“家族”のところじゃない?それに“家族”の記憶の優先順位が“恋愛対象”よりも低いなら、が恋をし続けている限り“家族”のことは覚えていられる。お兄さんの代わりに、五条先生がの居場所になってくれたんだと思うわ。がもうひとりぼっちにならないように」

 凛然とした優しい声音が鼓膜を震わせるたび、わたしの頬に涙が伝った。身体中の水分を絞り尽くすようだった。顔が涙と鼻水でべとべとになっていく。野薔薇ちゃんが小さく笑いながらわたしの頭に頬を強く寄せた。

「あーあ、もうぐっちゃぐちゃ。その顔、伏黒には絶対見せらんないわね」
「……うん。ちょっと無理」

 わたしは乱れた呼吸の合間で言葉を返すと、瞳をそっと持ち上げた。恵くんの怜悧なかんばせが脳裏を掠める。やや間を置いて、涙に濡れた小声を控えめに押し出した。

「……好きでいてもいいのかな」
「良いわよ。お兄さんが許さなくても私が許すわ」
「うん……ありがとう、野薔薇ちゃん。すっごく心強いや」

 野薔薇ちゃんに身体を任せるように、わたしは首を少しだけ傾ける。

「……恵くんのこと、忘れたくないなぁ」

 独り言ちた小さな吐露を拾い上げた野薔薇ちゃんが嘆息する。呆れた様子でわたしの髪をぐしゃぐしゃと乱暴に撫で付けた。

「なんでそこで“わたしの分も覚えていて”って言えないのよ。恋愛はひとりでするもんじゃないでしょ?」
「それは、そうだけど……でも、わたしの場合は片想いで」
「はぁ?!あんなにわかりやすいのに?!ああもうじれったいわね!」

 何がわかりやすいのかを問う間もなく、野薔薇ちゃんはわたしの身体を引っぺがすや鬼の形相へと変貌する。突然のことに虚を突かれたわたしの頬を、その細く長い指で左右に思いきり引っ張ってみせた。

「つーか好きな女に一度や二度忘れられたからって“はいそうですか”ってあっさり離れるような男なんか最初から選ぶな!“何度だって惚れさせてやる”って息巻くくらい気概のある男を選べ!わかったか馬鹿!」
「いひゃい、いひゃい、いひゃいれす」

 このとき神仏の“加護”が発動しなかったのは、きっとこれが野薔薇ちゃんなりの愛情表現だったからだろう。解放されてもひりひりとした痛みの残る両頬を撫でながら、わたしはぎこちない苦笑を刻んで言った。

「……野薔薇ちゃん、ごめんね。次は絶対そういう恋にする。約束する。でもきっと今日のことも忘れちゃうから、また同じこと言ってね」

 すると野薔薇ちゃんが大袈裟に肩をすくめて再び嘆息した。

って本当に馬鹿よね。次なんてないから安心しなさい」
「……もう二度と恋はできないってこと?」
「そうよ」

 きっぱりと断言されたその言葉は不思議と腑に落ちた。大切な人の記憶が消えてしまうと言うなら、最初から大切な人を作らないように行動するかもしれない――何だかそんな気がして。

 わたしにボックスティッシュを差し出しながら、野薔薇ちゃんはにっこりと笑んでみせた。

「だからはこれからも思う存分伏黒に恋すると良いわ」
「……うん、そうする」

 それは本心からの言葉だった。心を占める澱はもうどこにも見当たらない。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったひどい顔のまま、わたしはすっきりとした茶目っぽい笑顔を浮かべた。

「最後の恋、いっぱい楽しむね!」



* * *




 状況が理解できない。

 虎杖くんの部屋のゴミを捨てようと焼却炉へ向かう途中、わたしは恵くんとばったり遭遇した。ふたりで他愛もない話をしながら焼却炉を目指していると、佐藤さんの悲鳴が聞こえてきた。わたしはそこで信じられないものを見た。焼却炉で誰かもわからぬ人が燃えている。おそらく辺りに消火器がなかったのだろう、恵くんが“満象”というゾウにそっくりな水を操る式神を召喚。まるで津波のような水の塊で消火を終えたまでは良かったものの、“調伏”という儀式を終えていないとか何とかで、わたしは恵くんとふたりで満象を倒すことになった。恵くんが立てた作戦の話を聞いて、それで――と、一から回想して状況が理解できるなら、わたしはこれほどの大混乱に陥ってなどいないだろう。

 この場にいない野薔薇ちゃんが助け舟を出してくれるはずもなく、わたしは首が千切れるかと思うほど何度も繰り返しかぶりを振った。舌がもつれるかと思うほど素早く、拒絶の言葉を流れるように絞り出す。

「お、下ろします下ろしますわたしが“帳”を下ろしますっ!だからアレはしません使いませんっ!ぜ、絶対っ!」

 並べ立てられた否定の言葉に、恵くんは僅かに眉をひそめた。形の良い唇を割るや、どこか不満げな低音が転がり落ちる。

「なんで」
「なんで?!」

 予想外の反応にわたしの口から思わず頓狂な声が飛び出す。さらに深くなった彼の眉間の皺に目をやりながら、わたしはおそるおそる問いかける。

「……な、“なんで”って、なんで?」
「質問を質問で返すな。こっちが先に訊いてんだ」
「あ、うん、そうだね……ごめんなさい……」

 真っ当な指摘に小さな声で謝罪する。喉に引っかかった魚の小骨のように、違和感を含んだたしかな疑念が拭えない。どうしてわたしが“帳”を下ろすという話でまとまらなかったのだろう。

 恵くんは作戦を説明する際、あの満象に「呪力を喰われた」と言っていた。きっと呪力がほとんど底を尽きているのだろう。わたしの身勝手な我儘のせいで彼を苦しめたくなかった。心に迷いが生じたそのとき、こちらの身を案じるような視線を感じた。

「さっきの吐血――腹の怪我したときに呪力を使ったのか」
「……ううん、違うよ」
「だったらその火傷のせいか」
「そういうわけでもないけど……」
「じゃあなんで」
「も、戻ってきちゃったな……」

 繰り返される同じ質問に困惑しながら、わたしはふらつく視線を宙に這わせる。大好きな恵くんとキスをするのは照れ臭いから――などと本音を正直に言えるはずもなく、わたしは何とか彼を説き伏せようと懸命に頭を回転させる。

「だって全方位からモテる恵くんにそんなことしたら絶対わたし夜道で刺されるよ?まだ死にたくない」
「……は?いや今まで何回もしただろ。特に杉沢病院でのアレ。絶対に忘れたとは言わせねぇからな」
「わ、忘れてま……すん」
「どっちだよ。つーか今まで一度でも刺されたことがあんのかよ」
「うっ、それはそうだけど……」
「それにお前まだ外出許可出てねぇよな?そもそもひとりで夜道も歩けねぇのにその前提条件はおかしいだろ」
「ぐっ……言い返す言葉がもう何もない……」

 天才だ何だと持て囃される頭脳明晰な恵くんを、特別弁が立つわけでもないわたしが真正面から説き伏せようとしたこと、それ自体がそもそも愚かだったのだ。一枚も二枚も上手な彼にいとも容易く反論の余地を奪われてしまったわたしは、それでも食い下がるように子どもじみた言葉を尽くした。

「でも、その……と、とにかくしません!絶対しません!モテモテな恵くんにそんな失礼なことできません!」

 毅然とした態度で主張すれば、険しい表情の恵くんが蒼い視線を逸らす。やや俯き気味になったせいだろう、垂れた長い前髪が彼の目元をすっかり覆い隠してしまった。

「……が言うほどモテねぇからな」
「多分それ恵くんが気づいてないだけだと思うよ」
「……別にどうでも良い奴にモテたって仕方ねぇだろ」
「それはたしかに……」

 その言葉にわたしは神妙な顔で何度も頷き、そして一拍遅れて気づく。待て、わたしたちは一体何の話をしているのだろう。こんな下らない会話のために、図体の大きな満象相手に孤軍奮闘している玉犬が不憫でならない。

 わたしは会話の流れに抗うように次の言葉を繰り出した。

「恵くんよく考えて。ここには知り合いがいっぱいだよ?ほら何て言うか、へ、変な勘違いとかされたら、恵くんに迷惑が――」
「……それくらい、別に」
「別に?!」
「緊急事態だからな。割り切る」
「そ、そっか……」

 ようやく顔を持ち上げた恵くんの表情は欠けている。動揺の一滴すら浮かばないそれにたちまち空しさが込み上げた。彼は調伏のためにただ呪力が欲しいだけで、口付けに対して何の意識もしていないのだろう。彼の反応は間違いなく正しい。こうして変に意識して戸惑っているわたしがおかしいのだ。

 すぐに恵くんはこちらを慮るように口を割った。

が勘違いされて嫌だって言うなら――」
「嫌なわけないよ!全然嫌じゃないよ!き、緊急事態だから仕方ないね?!」
「だったら」

 怜悧なかんばせが渋面に変わる。険を含んだ表情で彼は足を一歩前へ踏み出し、わたしとの距離を詰めた。今すぐ逃げ出したかった。思わず上体を逸らせば焼却炉に背中が強くぶつかる。火の消えたそれに背中を預けているせいでこれ以上後ずさりすらできない。退路は完全に断たれていた。

「で、でも、わたし、は……」

 わたしが“帳”を下ろすという話は一体どこへ行ったのだろう。あれはもしや幻聴だったのだろうか。恵くんの眉間の皺がますます深くなる。きっと最後になるだろうこの恋を楽しむと野薔薇ちゃんと約束したものの、だからと言って恵くんにおいそれと口付けられるはずもない。

 もはや泣きそうになりながら、わたしは再び心の中で甲高く絶叫する。

 ――野薔薇ちゃんお願い、早く助けて!