「玉犬!」

 主人である伏黒恵から与えられた鋭利な声音に呼応するように、漆黒を塗り固めた式神“玉犬”がその顎を天高く持ち上げて遠吠える。突として空気を引き裂いた鳴声に“満象”は怯んだ様子でたたらを踏んだ。

 玉犬の遠吠えと同時に身を翻すや、恵は状況を呑み込めず呆然とするの手首を掴もうとして――すぐにやめる。焼け爛れたせいで赤いまだら模様になった腕には、いつの間にか複数の大きな水膨れができていた。

 目を背けたくなるほどのひどい熱傷だった。薄い表皮を押し上げるようにして隆起した薄橙色の水泡が、元来の指や腕の形をぶくぶくと歪に隠している。燃え盛る焼却炉に躊躇なく腕を突っ込んで火だるまと化した人間を引きずり出し、あまつさえなりふり構わず消火活動にあたったとなれば軽傷というわけもあるまい。

 俺のせいだと恵は奥歯を軋らせた。たとえ調伏前だろうが構わず満象を呼び出せば良かったのだ。人助けのこととなると周りが一切見えなくなるの性格はわかっているはずだったのに。一瞬の判断の遅れがこの結果を招いたことは、火を見るより明らかだった。

 しかし後悔に苛まれる暇はなかった。恵は鋭い声音を張って立ち尽くすを叱咤する。

「ひとまずここから離れるぞ!走れ!」
「う、うん!」

 囮役の玉犬と二手に分かれた恵は焼却炉の裏へ駆ける。あのまま負傷したを庇いつつ、物量で押し切ろうとする満象を相手にするのは容易ではない。態勢を立て直すためにも多少なりとも時間が必要だった。すばしっこい玉犬なら時間稼ぎに最適だろう。

 火の消えた焼却炉に身を隠しながら、恵は精一杯の素っ気なさを装って問いかけた。

「大丈夫か」
「大丈夫って?」
「その腕だ」

 恵の指摘でようやく気づいたのだろう、は己の両腕を覆い尽くさんとする複数の水膨れに小さく息を呑んだ。の双眸がゆっくりと持ち上がる。恵の反応を窺う視線が怯えたように揺れていた。

「……まだちょっと熱い気がするけど平気だよ。ごめんね、見て気持ち良いものじゃないよね……嫌なもの見せてごめんなさい」

 小刻みに痙攣し続ける焼け爛れた腕を背中に隠しながら、は気まずげにそっと瞳を伏せた。恵の軽蔑を恐れるのその態度に、恵は無性に腹が立った。沸騰した怒りがの目に触れぬよう、皮膚一枚の下へ強引に押し込む。

 嫌だった。に理解されていないことが。死者の尊厳を守るために負った傷を“気持ち悪い”と罵るような人間だと思われていることが、堪らないほど癪だった。

 少年院での惨状に激しく嘔吐したを介抱したのは恵だ。涙と涎と吐物を垂れ流すの心配はしても、嫌悪感を抱くことなど一切なかった。そんなことでへの気持ちが冷めるわけもなかったし、そもそもその程度で引き返せるなら恵は最初から悩んでいないだろう。

 の全く与り知らぬところで、もはや致命傷にも等しい熱傷を負ったのは恵のほうだ。進むことも戻ることもできず、しかし完全に壊死した感情を捨て去ることすらできず、今この瞬間もとの繋がりを浅ましく求め続けている。

 ――そんな火傷くらいで嫌いになれんならとっくに嫌いだ、馬鹿。

 決して口には出せない怒りがとめどなく溢れる。ここで恵が何を言ってもの慰めにならないことはわかっていた。

 横一文字の唇を固く結んだまま、満象と玉犬の足音に意識を向ける。まだこちらには近づいていない。

 痛覚が鈍るほどのひどい熱傷を抱えたを、一刻も早く医務室まで送り届けたかった。とはいえ満象はすでに恵とを攻撃対象として認識している。ならば可及的速やかに調伏を済ませるべきだろう。

 これは全く無意味な儀式だ。禪院家相伝の術式“十種影法術”における十種の式神、これらを従わせるには術師本人とすでに手に入れた式神のみで順番に調伏を済ませなければならない。つまり今回の恵とのように複数人で行う調伏――当の術師以外の人間が参加する調伏は完全な無効扱いとなるのだ。

 “十種影法術”四番目の式神“鵺”を従えた恵が次に目を付けていたのはあの満象だった。玉犬、蝦蟇、大蛇、鵺。どの式神も拮抗した戦況を覆す一手としてはやや物足りない。圧倒的物量で全てを押し流す満象を調伏できれば戦術にも幅が広がるし、きっと戦況が有利に傾くだろうという判断だった。

 他の式神に比べて術師の呪力を多く喰う満象相手に、残った呪力をいかに活用して調伏を済ませるか。姉妹校との交流会までに満象を調伏しようと策を練っていた恵にしてみれば、これは云わば前哨戦のようなものだろう。

 恵が思考に意識を割いていたそのとき、が頭を垂れるようにして上体をやや折り曲げた。巫女装束じみた制服の上衣、つまり黒い小袖を消火活動に使用したせいで、は今濡れすぼった白の半襦袢姿だった。

 夏用で生地が薄いうえに、肌に張り付くほど水気を含んでいるせいだろう、繊細なレースに彩られた水色の下着がくっきりと透けて見えている。加えて上体を屈めた姿勢のために豊かな双丘が重力に従って落ち、柔らかそうな膨らみに張り付いた半襦袢が深い谷間を刻んでいた。

 瞬く間に思考が途切れ、の胸元に恵の視線が集中する。しかしそれも一瞬のことで、恵は首ごと視線を背けた。腹の底で滲み出した劣情を塗り潰すように。

 この緊急事態にほんの一瞬でも内なる渇きに囚われたことが情けなかった。恵に深く根を下ろしたへの欲を、当の本人に直接向けてしまったことも。

 内心舌打ちしつつ、恵がそっと視線を戻せば――が苦しそうに低く呻いていた。丸くなった肩が何度か揺れ、濡れた髪の束からぽたぽたと水滴が落ちていく。恵は瞠目した。

「……?」

 呼びかけた直後、の足元が鮮血に染まった。散った血液の量はさほど多くなかったが、予想だにしない光景に恵の呼吸が止まる。

「……どうしてだろ」と半ば諦めたような小さな声音が恵の耳朶を打つ。は顔を持ち上げると、かろうじて水膨れのない右手の指先で朱に染まった口端を拭った。

「走って、傷が開いちゃったのかなぁ……」
「……傷?、どっか怪我して――」
「大丈夫だよ。全然大丈夫。ごめんなさい、大変お見苦しいものをお見せしました」

 恵の疑念を口早に否定しながら、は取り繕った笑みを浮かべる。引きつった顔に張り付いている水滴は満象から浴びせられた水ではなく、痛みを堪えんとするために噴いた脂汗だろう。恵はもう限界だった。

「……なんでもっと頼らねぇんだよ」

 無意識に苛立ちが口を突いていた。地鳴りにも似た低い声音に、空元気を出していたが驚いたように大きく目を瞠る。

 こぼれ落ちた本音はもう喉奥に戻ることはない。居た堪れない様子で恵は白群の双眸を地面に落とす。誤魔化すことも考えたがそうはできなかった。したくなかった。他でもないに、ほんの少しでも己の苛立ちをわかってほしかった。

 恵は目を背けたまま、感情を抑え込んだ声音でもつれるように言葉を紡いだ。

「お前より弱い俺じゃ頼りにならねぇのはわかってる。けどそうやって“平気だ”“大丈夫だ”って平気じゃねぇ顔で言うな。聴いてるこっちの身にもなれ。ミクロだとかマクロだとか変なことは頼るくせになんでこういうときだけ強がるんだよ。足手纏いだってわかんねぇのか。呪力はかなり喰われたが怪我したお前より俺のほうがずっと動けるんだ、だから少しは――」
「恵くん」

 花笑むような柔らかな響きが恵を遮る。はっきりと名を呼ばれた恵が視線を持ち上げれば、は軽くかぶりを振った。

「わたし、恵くんのことちゃんと頼ってるよ。仙台のホテルでも言ったけど、“もっと周りを頼っていい”って恵くんに言われる前からずっと。今だってそうだよ?」
「どこが」

 間髪入れずにきつく睨み付けるや、は小さく笑んでみせた。とてもうれしそうに。けれども、ひどく寂しそうに。

「“頼る”と“甘える”は全然違うよ、恵くん」

 その言葉は深々と恵の心を抉った。恵は虚を突かれたように表情を弛緩させ、すぐに引きつった顔を伏せての穏やかな双眸から逃れる。手のひらに爪が喰い込むほど強く握りしめた両の拳が震えていた。

 恵はずっとに甘えられたかったのだ。超が付くほどのお人好しでお節介、そのくせ誰より歪な狂気を内包するの本心を隠すことなく明かしてほしかった。つまりこれはただの浅ましい独占欲。どれだけが遠くなっても、その柔らかな心だけは恵のそばに置いていてほしかったのだ。

「甘えてもいいなら甘えるけどね?」

 茶目っ気たっぷりな声音が耳朶を打つ。その響きにはの本心は一握りも含まれていないような気がした。場を和ませるための冗談だとわかっているからこそ、途方もない空しさが恵を襲った。のその言葉を真に受ける権利はお前にはないと断言されているようだった。

 恵は口を結んで深く俯いたままだったから、が諦念を含んだ寂しそうな瞳で恵を見つめていることに全く気がつかなかった。との間に横たわる気まずい沈黙が消え去るのをじっと待つので精一杯だった。

 数秒も経たぬうちに「調子に乗りました。ごめんなさい」と小さく苦笑すると、はすぐに気を取り直した様子で優しく問いかけた。

「さっき言ってた調伏ってどうするの?」

 至極当然の質問に恵が落ちた頭をゆるゆると持ち上げれば、は焼却炉に背中を張り付けるようにして満象の様子を窺っている。視線を合わさずに済むよう、きっと恵を気遣っているのだろう。とはいえ、スパイ映画の主人公さながらの体勢を取る必要があるのかは甚だ疑問だが。

 背筋が伸びたせいでやけに強調されているのふたつのそれから焦点を逸らしつつ、恵は目だけでの視線の先を追いかける。すばしっこい玉犬相手では狙いが定まらないのか、満象の鼻は水を噴き出すことなく持ち上がったままだ。

 足元を走り回る玉犬を踏み潰そうと満象が足を鳴らすたび、湿った音とともに細かい泥が飛ぶ。「逃げて逃げて」と小声で玉犬を応援するの横顔を見つめる。手に汗を握るその表情は、傀儡呪術学の授業で夜蛾の巨大な呪骸に追い回されていた野薔薇を応援していたときのそれと何ひとつ変わらない。

 普段と全く変わらぬの姿に、張り詰めていた気が少し緩む。相手に感情を引きずらせまいとするのこの気遣いが好きだ。の気持ちに応えるように、気まずさをひと息に飲み込んだ恵がいつも通りの声音を押し出した。

「式神を倒せば調伏できる」
「倒しても大丈夫なの?白い玉犬みたいにならない?」
「そこは心配しなくていい。調伏の目的は破壊じゃなくて服従――確固たる主従関係を構築するためにこっちが上だってことを認めさせるだけだからな」
「そっか、それなら安心です。じゃあ、あの子どうやって倒すの?近付くだけでも苦労しそうだよ?」
「作戦がある」
「作戦?」

 の質問攻めに嫌な顔ひとつせず、恵は滔々と説明を続ける。

「俺の“十種影法術”の式神は、式神って言っても自然界の動物と似通った部分が少なくない。実際存在する動物を模した式神は特にな。、動物園でゾウを見たことは?」
「あるよ。お兄ちゃんだってそこまで過保護じゃないからね?でも満象はわたしが知ってるゾウより小さいしお洒落だし、なんか親しみやすくて可愛いね」
「動物じゃなくて式神だからな。が知ってるアフリカゾウやインドゾウなんかに比べりゃ満象は小柄だが、一般的なゾウと同じで四本足で何とか自分の体重を支えている状態だ。三本足じゃ歩行は困難、だから足を折って動きを封じたところを一気に攻め切る。隙を突く方法には“帳”を使う。アイツは物音には敏感だが視力が弱く、しかも高専の資料によれば認識できる色は二色だけらしい。他の式神よりも夜目が効かないことを積極的に利用する。“帳”を下ろして疑似的な夜を作り出し、体毛の黒い玉犬が闇に紛れて足を――って、どうした」

 そこで恵が言葉を止めたのは急にが視線を寄越したからだった。ひっくり返した宝石箱の輝きにも似た光を、大きく見開かれた両の瞳に惜しげもなく灯している。恵が眉をひそめるより早く、が喜々として弾んだ声音を上げた。

「恵くんすごいね!動物博士だね!」
「……動物博士」

 のことだ、決して嫌味ではなく本心からの称賛なのだろう。馬鹿にされているわけではないとわかっていても、恵は全くの無表情だった。そんな言葉で素直に喜ぶのは幼い子どもだけである。

「あ、でも蛇のことなら負けないよ?わたしだって小学生のころは“蛇博士”って呼ばれてたんだから」と勝手に張り合い始めたにはあえて何も突っ込まず、恵はに淡々と指示を出した。

「合図したらは“帳”を下ろせ」
「うん、わかった。でもどうしてわたしが?」
「満象を呼び出して呪力をかなり喰われた。ついでに言うなら今も喰われ続けてる。これ以上無闇に呪力を使いたくねぇってのもあるが、“帳”に関してはのほうが向いてるからだ。結界術の実技、俺より成績良かっただろ」
「うん!実技だけ百点満点花丸!」
「……筆記は目も当てられなかったけどな」

 呆れ返った様子で恵は肩をすくめる。一体何をどう勉強すればそうなるのか、夏休み前の筆記テストでは全教科ほぼ赤点に等しい成績を叩き出した。結界術の授業を受け持つ伊地知が「くんに顔向けできません」と気の毒なほど青ざめていたことを恵は忘れていない。

 華奢な指の表皮を押し上げる複数の水膨れに白群の視線を這わせる。“帳”を下ろすには片手で印を刻む必要がある。が指を合わせることで水泡が破れないかどうかだけが気がかりだった。

「無理なら俺が下ろす。けど、そのための呪力は――」

 その先を紡ぐことなく、恵がを見つめる。目を合わせるように深く絡んだ視線はすぐに解け、恵のそれだけがの唇へ落ちていく。先を見越した心臓が瞬く間に暴れ始めた。

 今ここで呪力を確保しておきたいのは本心だった。

 玉犬を闇に隠すためにも一度術を解く必要があったし、再度顕現させれば恵の呪力はほとんど底を突くだろう。作戦が上手くいかなかった万が一の可能性を考えるなら、残った少ない呪力では苦戦を強いられるのは必至だ。がこれ以上の深手を負うことは絶対に避けたかった。

 別に正当な理由を盾にと口付けようとしているわけではない。の術式の特質上致し方ないのだ。必要に駆られているだけで口付けが目的ではない。断じて下心などない――とは恵自身言い切れないせいで、にきっぱりと「呪力を分けてくれ」とは言えなかったのだが。

 仄めかされたは内容を確かめるように小さな声で呟いた。

「それって、恵くんがわたしと……」

 言葉はあっという間に尻すぼみになり、の顔がみるみる赤く染まった。今までのようにあっさりと受け入れられると思っていた恵は虚を突かれたように目を瞬く。は何度も強くかぶりを振ると、しどろもどろに拒絶の言葉を繰り返した。

「お、下ろします下ろしますわたしが“帳”を下ろしますっ!だからアレはしません使いませんっ!ぜ、絶対っ!」