明後日の方向へ視線を逸らし、含みのある苦笑を浮かべたに、恵はつい怪訝な声色を寄越した。面倒事ばかり押し付ける五条にどうせまた何か言われたのだろう。最初から学長である夜蛾に叱られるつもりだと言うなら尚更そうに違いない。

 白群の双眸が細くなり、を睨め付ける眼光がますます鋭くなる。退路を塞ぐようなそれにはぎこちなく笑んだまま、「花火の約束は守るからね」と最後まで詳細を濁し続けた。

 そうも頑なに口を割らないのは、自ら抱える厄介事に恵を巻き込みたくない一心なのだろう。主旨を逸らすような言葉に納得したわけではなかったが、恵はそれ以上を問い詰めることはしなかった。

 何か困ったことがあればのほうから言ってくるだろうと思って。五条にたった一言質問すれば解決するような、ミクロとマクロの意味をわざわざ恵に尋ねてきたときのように。

 呪術高専唯一の焼却炉が近付いていた。真剣な面持ちでゴミ袋を運ぶを怜悧な視線だけで一瞥すると、砂利道を進む恵の歩速がたちまち遅くなる。両手に掴んだゴミ袋がより重く感じ、自然と視線がつま先に落ちた。野薔薇と交わした樹の法要についての会話が、耳の奥でうわんと響いている。

「アンタどうせ暇でしょ?準備から何から結構大変なんだから、のこと少しは手伝ってやりなさいよ」

 伏せられた長い睫毛が色濃い影を作った。伊地知を始めとした高専関係者の指示によって執り行われた通夜と告別式を除いて、恵は一度も樹の法要に参加したことがない。

 任務があるわけでもないのに黒い制服を身に纏い、皺ひとつない喪服姿の伊地知と連れ立って高専から出て行くの背中を恵は何度も目にしている。樹が“本当の樹”ではないと知れ渡っても、は変わらず死んだ兄の忌日法要を続けていたようだが、恵に対して日程や場所などの知らせを出すことは決してなかった。

 当然だと思った。六月のあの日、兄の死について“わたしがお兄ちゃんでも同じことをした”“でも本当のことを言えばまだモヤモヤするときがある”と正直に告げたは、きっと今でも兄の死に深く関わった恵のことを本気で赦しているわけではないだろう。

 自ら囮となってその場に残ることを選択し、絶対に食い下がる恵の性格を熟知しているからこそ、次に狙われる最愛の妹を託すことで恵の“奥の手”を封じた樹。できることなら恵も法要に参加したかった。樹やに赦されるためではなく、最期の約束を必ず果たすと樹に誓い続けるために。善人である樹やの人生を滅茶苦茶にした罪を贖う覚悟を示すために。

 しかし恵は呼ばれなかった。知らされなかった。理由は明白だ。揺るぎないその事実がの真意を告げている。今さらどの面を下げて“法要に参加したい”となどと言えるのだろうか。

「恵くん?」

 戸惑いを孕んだ小さな声音が耳朶を打った。はっと意識を引き戻された恵が視線を持ち上げれば、数歩進んだ先で困惑した様子のがこちらを振り返っている。どうやら完全に足が止まっていたらしい。

 恵が硬直した足を動かすよりうんと早く、急ぎ足で駆け寄ってきたが次の言葉を継いだ。

「やっぱりそれ重いよね。ごめんなさい、わたし持つの代わるね」

 何か勘違いをしているがゴミ袋を奪い取ろうとして、恵は慌てて両手を後方へ引いた。

「いや大丈夫だ」
「ううん、任せて。焼却炉はすぐそこだからわたしでも――」
「違う。そうじゃねぇよ」

 の気遣いを遮った低い響きには無数の鋭利な針が潜んでいた。それに驚いたのはではなく恵のほうだ。完全に無意識だった。己に対する苛立ちをにぶつけるつもりなどなかったのに。

 瞠目したを視界から外すと、俯いた恵は込み上げる気まずさを堪えるように奥歯をきつく噛んだ。顔を伝う生ぬるい汗が一気に冷たくなったような気がした。

「何かあった?」

 責めるでもなければ心配するわけでもない、目の前の事実をただ事務的に確認するような淡泊な声音が響く。恵の心に土足で踏み入るつもりはないと告げるようなの優しさが肋骨の内側にじわりと滲む。たしかな温もりがそこにあった。

「何もないなら別に良いんだ。早くゴミ捨てて帰ろう?わたしの両腕、そろそろ千切れちゃうかも」

 間断なく続いた茶目っぽい言葉に顔を上げれば、眉をへの字に曲げたがゴミ袋を掴んだ両腕をぶらりと力なく垂らしている。冗談めかした態度は一向に変わらない。「もし千切れたら恵くんが責任持ってくっつけてね」と恵をやんわりと睨め付けるに、恵は一文字に固く結んだ唇を少しずつ解いていく。

 今さらどの面を下げて、と思う気持ちがなくなったわけではない。それでも言い出すなら今しかないような気がした。の無類の優しさが、目の前の恵たったひとりに向けられている今しか。

 恵がを見据えると、真剣な色の浮かぶ白群の双眸に何かを感じ取ったのだろう、はすぐに緩んだ表情を引き締めた。もう逃げ場はないと思った。今ここで言うしかない。

 あれほど重かったゴミ袋の重量など全く感じないほど緊張している。強張った表情を緩めるように小さく息を吸い込むと、恵は意を決して乾き切った唇を割った。

「今年、初盆だろ」
「うん」
「……さんの法要、俺も参加させてほしい」

 やや間を置いて紡がれた言葉に、が不思議そうに首をひねった。

「どうして?」

 刹那、恵の全身から音を立てて血の気が引いたのがわかった。身体を廻る熱という熱がことごとく霧散していた。この場で舌を噛み切りたくなるほどの後悔に打ちのめされる。

 は今まで一度も恵を法要に呼ばなかった。当然としか言いようのないその意味を嫌と言うほど理解していたはずなのに、どうして今なら受け入れてもらえるなどと都合の良い勘違いをしたのだろう。

 に寄せた期待の反動だろう、動揺のあまり次の言葉が出ない。声そのものを奪い取られたようだった。僅かに開いた唇を閉じるだけで精一杯だった。

 後悔に染まった無数の単語が浮かんでは消えていく。“悪い、忘れてくれ”とすら言えず、恵は逃げるように蒼白な顔を伏せた。首をもたげた惨めな感情に奥歯を軋らせたそのとき、の口早な声音が悔いる恵の脳髄を深々と穿った。

「ごめんなさい、違うの、嫌だとか駄目だとかそういう意味じゃなくて」

 焦燥に満ちた響きが恵の視線を強引に引っ張り上げる。今にも泣きそうな顔で何度もかぶりを振るの姿が目に入った。何故がそんな顔をしているのかわからなかった。恵が後悔に鈍った頭を廻らせる前に、は薄桃色の唇を開いていた。

「恵くん、今まで一度もそんなこと言わなかったから、ちょっと驚いちゃって。だから何かあったのかなって意味で訊いただけで、他に深い意味なんてなくて」
「……え?」

 思いもよらぬ言葉に表情を弛緩させた恵を見るや、視線を逸らしたは合点がいったように薄っすらと小さな苦笑を浮かべる。

「あ、そっか……わたしのせいだよね……」

 柔らかな瞳に色濃い自責の色が走ったのも一瞬のことで、はすぐに真剣な光を湛えた視線を恵に寄越した。恵が否定の言葉を紡ぐ間もなく、の頭が深々と垂れ下がる。

「今まで何も言わなくてごめんなさい。お兄ちゃんのこと、恵くんはきっと誰より思うところがあるだろうから、法要のことは何も言わないほうが良いだろうなって……それで恵くんの気持ちが沈んだり、負担になったりしたらすごく申し訳ないなって……だから恵くんの心の整理が付くまで待とうって決めてたんだ。勝手な考えを押し付けてごめんなさい。ずっと黙ってて、本当にごめんなさい」

 上体を腰から折って何度も謝るの姿に、恵はひどく当惑していた。は樹の法要について恵に“言わなかった”のではなく、“言えなかった”のだ。きっとまた自分を責めてしまうだろうからと、なりに恵を案じた結果だった。

 しかし恵の内側では真摯なの言葉でも拭い切れぬ不安がまだ燻っている。もっと直接的な答えが欲しかった。恵は乾いた唇をこじ開けて、僅かな隙間から掠れた声を押し出した。

「……俺が参加して、迷惑じゃないのか」
「迷惑?どうして?お兄ちゃんも恵くんに会いたいはずだよ」

 ようやく顔を上げたが柔らかに花笑んでみせる。

「恵くんさえ良ければ手を合わせてあげて。お兄ちゃん、きっと喜ぶと思うよ」

 そう付け加えて笑みを深めるや、は何かに気づいたように表情を一変させた。まるで売れない舞台俳優のように顔いっぱいに困惑した感情を浮かべると、「早く捨てないと恵くんの手が千切れちゃうね」と大袈裟な態度で焼却炉に向かって歩き出す。

 恵に余計な気を遣わせないための下手な演技だった。の気遣いに水を差すとわかっていながら、恵はどうしても尋ねておきたかったことを口にした。

「……お前は?」

 数歩進んだが足を止めて振り返る。「わたし?」と小さく首を傾げるに心臓が大きく脈打つ。ゴミ袋を掴む手が汗ばんでいるのは決して暑さのせいだけではないだろう。やや躊躇ってから、先ほどよりも小さな声音で恵は言葉を付け足した。

「お前は……は、俺がいても嫌だとは思わねぇのか」

 勢いに任せるように紡がれたそれに、は数秒だけ目を瞬いた。兄の話ばかり持ち出したの本心が知りたかった。答えを待つ時間が嫌に長く感じる。恵はを見つめながら、やがて言葉を間違えたことに気づき一瞬で青ざめた。

 恵の言葉に他意はない――つもりだった。たったひとつの単語さえ間違えなければ。

 “迷惑”を尋ねるのと“嫌”を尋ねるのとでは、まるで意味が違う。そこには恵に対するの好意を確認したいという浅ましい願いが無意識に含まれていたし、それは発言した恵自身が遅れて気づいたことでもあった。

 ――“迷惑”かどうか訊きたかったのに、これじゃまるで。

 まるで相手の告白を促すような質問に血の気が失せる。しくじったと思った。そこまでが欲しいのかと自嘲する余裕すらない。

 穿った見方をしなければ、何のこともないありふれた質問だ。質問の裏に隠された恵の真意を深読みすることなく、が恵の言葉をそのまま受け取っているなら構わないのだが。そうは思ってもあまりの失態に言い訳をすること以外思い浮かばない。

 出来得る限りごく自然に弁明しようと慌てて口を開いたものの、しかし恵はその先の言葉を何も言えなかった。が幸福を溶かし込んだような華やいだ表情で、恵を真剣に見つめていたせいで。

 は小さくかぶりを振ると、春の陽だまりにも似た穏やかな声音で、瞠目する恵に茶目っ気たっぷりに告げた。

「全然。むしろ大歓迎だし、恵くんがいないと寂しいよ?」

 先刻まで白んでいた恵の顔に全身の熱が集中する。の視線から逃れるようにそっぽを向いた恵は、「そうかよ」と無愛想に吐き捨てて大股で歩き出した。浮き立つ感情のせいで焦点が定まらない。溢れ出す感情を抑え込むように唇を強く噛んだ。

 恵を見つめるのひどく幸せそうな双眸が網膜にくっきりと焼き付いている。勘違いするなと自らを何度も叱咤したが、乱れた感情は一向に落ち着かない。嫌悪感はおろか恵への気遣いすらない、剥き出しのの本心を見たのだという確信が恵の心にのさばっているせいで。

「置いていかないで」とがすぐに追いかけてくる。がすぐ隣を歩くだけで五感が鋭くなった。の言葉と態度の意味を裏打ちしようとするように。

 どうせまた都合の良い勘違いだと恵は何度も自分に言い聞かせた。から告白されたわけでもなければ、ましてや恵がに告白することは絶対に有り得ない。墓場まで持って行くと決めた以上、ここでの好意を確認して一体何の意味があるのだろう。

「本気になるつもりもないならのことは潔く諦めたほうが良いよ」

 冷静になることを促すように、脳髄がいつか聞いた五条の忠告を再生していた。樹のことはなかったことにはならない。これからも一生ついて回る。から最愛の兄を、善人が享受すべき平等を奪った恵が本気になったところで、を苦しめる結果になるのは明白だった。

 ――だから、これ以上、のことを考えるな。

 手に余る思考にすっかり疲弊しながらも、恵はに対していつも以上に気を払っていた。だからこそすぐに気づくことができたのだ。隣を歩くの異変に。

 抜け落ちたように表情の失せたが、焦点の定まらない虚ろな視線を右へ左へと彷徨わせている。辺りに呪いや何かがいるというわけでもないのに、懸命に何かを探し当てようとするようなその素振り。の尋常ではない態度に恵は妙な胸騒ぎを覚えた。

?」
「……呼んでる」

 ほんの僅かに開いた唇から小さな声が押し出されたその瞬間、

「うわあああああ!」

 耳をつんざくような裂帛の悲鳴が一帯に響き渡った。一瞬早く反応したのはのほうだった。まるで打たれたように虚ろな瞳に生気を灯すや、ゴミ袋をその場に捨て置いて声のした方向へ凄まじい速さで疾駆する。

 以前のとは比べ物にならない俊足は真希たち二年生との過酷な修行の賜物だろう。感心したのも束の間、恵もすぐに地面を蹴ってに続いた。

 焼却炉へ伸びる通路の角で、汚れた作業服を着た白髪頭の男が腰を抜かしていた。「佐藤さん!」とが男の名前を呼んで駆け寄れば、老いた男は小刻みに震える腕を持ち上げてただ一点を指差した。

「ひ、人が……」

 恐怖に折れ曲がった人差し指を追って瞬時に鼻先を移動させ――恵は凍り付いたように絶句した。

 人が燃えていた。それは間違いなく人だった。鉄扉の開いた焼却炉に頭を丸ごと突っ込んだ体勢で人が燃えている。恵の目に見えているのは後ろ姿だけで、あれが誰なのかはもちろんのこと性別さえもわからない。ただ黒い着物に燃え移った炎が勢いよく噴き上がり、力なく投げ出された四肢を今にも呑み込まんとしていた。

 そのとき、顔を叩き付けるような猛烈な風が勢いよく通り抜けた。火の粉を振り撒く熱風が恵のほうまで飛んでくる。突風のせいで着物の裾が大きく捲れ上がり、まだ燃えていない左足のふくらはぎが露わになった。

 ほんの一瞬のことだった。しかし恵はたしかにその目で見た。ふくらはぎを覆い尽くす異質なそれを。灼熱の太陽を反射するように煌めく、色鮮やかな鱗の連なりを。

 蠱毒のせいだと直感した。野薔薇の手で完膚なきまでに破壊された呪物に何の意味があったのかは定かではない。だが蠱毒が壊されたことで鱗の呪いが動いたのだ。全ての証拠を消すつもりだと思い至った次の瞬間、一切の感情が失せた声音が耳朶を打っていた。

「――助けなきゃ」

 はっと我に返った恵が制止しようとするもすでに遅く、の背中は火だるまになった人間のすぐそばにあった。は一片の躊躇を覚える様子もなく、燃え盛る人影を焼却炉から助け出さんとばかりに何も纏わぬ素手をまっすぐ伸ばしている。

 瞬く間に仙台での記憶が呼び起こされた。ビルから飛び降りた人間の下敷きになったの痛ましい姿が脳裏を過ぎったときには、恵は猛然と地面を蹴っていた。

 華奢な指先が業火のような炎熱に触れる直前、血相を変えた恵がを後ろから羽交い絞めにした。人影を覆い尽くすその火勢を目の当たりにしては、の行動がいかに無意味なことかは子どもでもわかっただろう。それでも拘束から逃れようと暴れ狂う痩躯を押さえ付けながら、恵はの耳元で懸命に叫んだ。

やめろ!」
「嫌だ離して!お願いだから離してよ!」
「見てわかんだろ!あれじゃもう――」
「わかってるよ、もう身体は空っぽだってこと!あの人はここにはいないってこと!そんなの最初からわかってる!」
「だったら!」
「でも嫌なの!全部燃えたら何も戻せない、反転術式が使えない!あの人を待ってる誰かのところへ帰してあげられない!」
「お前まで死んでも良いってのかよ!」

 恵の放った怒号には僅かに動きを止めた。項垂れたように落ちる頭からはの表情を窺い知ることはできない。深沈とした空気を纏ったまま、は一切の感情が凪いだ静謐な声音で滔々と告げた。

「そうだよ。自分の信念を貫けないなら生きる意味なんてどこにもない」

 一片の隙も無い痛烈な言葉だった。花笑むような普段のからはかけ離れた姿に呼吸を忘れていた。それはかつて霊安室で見たものとまるで同じだった。狂気。の凪いだ感情の向こう側に潜む、狂気としか形容しようのない何かをたしかに感じたせいで。

 恵が怯んだ一瞬の隙を突くように、は緩んだ拘束から逃れて火だるまの人影に駆け寄る。そして躊躇なく業火に身体を突っ込むや、燃え上がる身体を焼却炉から力任せに引きずり出した。

 動けなかった。指一本動かせなかった。それがほんの数秒のこととはいえ、恵はの異様な気迫に完全に呑まれていた。

 地面に縫い付けられたような恵の足が動いたのは、艶やかな刺繍の入ったの袴に橙色の炎が引火した直後だった。しかしは些事を気にする様子もなく、脱いだ制服の上衣で火だるまになった人影を一心不乱に叩いている。制服を掴む細い手はすでに真っ赤に焼け爛れていた。

 激しい焦燥に駆られた恵が周囲に視線を這わせたが、消火器などひとつも見当たらない。喪服じみた難燃性の制服に絡む炎が少しずつ火勢を増している。多少なりとも風を起こせる鵺を喚び出したところで火に油を注ぐ結果になるだけだ。もはや恵に選択の余地はなかった。

、最後まで付き合えよ」

 そう短く告げるや否や、恵は素早く両手を眼前に伸ばした。指の先端にまで大量の呪力を送り込みながら右手の甲に左手を重ね、動物を模すように指を折り曲げる。

「――“満象”」

 落ちた黒影から召喚されたのはまさしく象だった。動物園で飼育されるようなアジアゾウやアフリカゾウよりもうんと小柄な象の硬質な肌には、念入りに粧し込んだ洒落た模様が至るところに刻まれている。

 視界の端で満象の両頬が大きく膨張したのが見えた。瞬間、恵のつま先が地面を強く蹴る。消火にのみ意識を割くのもとまで疾駆するや、炎に呑まれ始めたを腕の中に閉じ込めた。

 袴に触れた下肢に耐え難い炎熱を感じたのとほぼ同時に、満象の長い鼻から大量の水が噴出される。凄まじい流れとなったそれは恵とを押し流さんと牙を剥いた。

 脅威と化した水は燃え盛る炎をいとも容易くたった一息で呑み込んでいく。奔流に負けじと膂力の限りを尽くして恵は踏ん張った。心の準備もなく水を被ったせいだろう、腕の中のが「わぶっ」と変な声を出す。

 吐き出された水が引くや否や、血相を変えたが「あの人は?!」と濡れた首を左右に振った。恵の拘束を乱暴に振り解き、奔流に押し流された人影に駆け寄る。濡れそぼった地面を踏みしめる湿った音だけが響いていた。

 黒く炭化した躯体のそばに膝を付くと、は悲しみを堪えるように目を伏せながら、焼けて激しく損傷した頭部に焼け爛れた己の右手を添えた。皮膚の剥がれた手の痛みなど最初から感じていないかのように、焼けた頭部を何度も優しく撫で付ける。

「遅くなって本当にごめんね。すぐ元通りにするからね。大切な人のところへ一緒に帰ろう?」

 その柔らかな響きに先刻の狂気はない。いつもと変わらぬの声音に安堵したのも束の間だった。はっと振り返った恵の視線の先で、頬を膨らませた満象が再び攻撃体勢に入っている。恵は腹の底から声を張った。

「反転術式は後にしろ!」
「……え?」

 たった一瞬で視界が大量の水に埋め尽くされた。踏ん張りも効かず簡単に押し流されたの手首を何とか掴み取り、恵は腕の中に閉じ込めるように再びを強く抱きしめる。目蓋を開けていられないほどの凄まじい水圧が通り過ぎれば、恵は視線を落としての無事を確かめた。

「大丈夫だな?!」
「……うん。でも、鼻に水、入って……痛い……」

 蚊の鳴くような小声で頷いたは、すぐにずぶ濡れの顔を怪訝な色に染めた。

「どうしてわたしたち攻撃されてるの?だってあの子は恵くんの――」
「言っただろ、最後まで付き合えって」

 恵が口早に遮れば、は丸い目を何度も瞬いた。

「……何に?」
「全く意味のねぇことだ」
「意味がないって?」

 言葉を繰り返して小首を傾げるに全てを説明している暇はない。濡れた手を重ね合わせれば、落ちた影の中から瞬く間に漆黒の玉犬が姿を現す。鋭利な牙を剥いた玉犬が地鳴りにも似た低い唸り声を上げて満象を激しく威嚇する。

 恵はの盾となるべく一歩前へ進み出た。

「今から俺とでコイツを調伏する」