今にもはち切れんばかりに膨らんだゴミ袋を両手にふたつずつ掴んで、伏黒恵は男子寮から少し離れた焼却炉を目指して黙々と歩き続けていた。蛇口をひねったように全身の汗腺から噴き出す汗を拭おうにも、両手が完全に塞がっているせいでそうもいかない。腕を軽く持ち上げ、額から滴り落ちる汗を黒いTシャツの袖口で拭い取るだけで精一杯だった。

 修行中に着用している長袖のジャージを脱いで正解だった。過重なゴミ袋を運ぶだけならまだしも、盛夏の炎天に容赦なく晒されるとなれば体温調節のために多量の汗をかくのは必至だろう。

 乱れ始めた呼吸の合間に、恵は粘り気のある唾を強引に喉奥に押し込める。もうすっかり喉が渇いていた。“脱水”の二文字が脳裏を過ぎり、自販機に立ち寄って戻ろうと熱の篭もった頭で考える。

 死んだ悠仁の遺品整理は、当初の予定よりもずっと早く終わった。悠仁が呪術高専で過ごした期間は僅か二週間。仙台から身ひとつでやって来たばかりの悠仁の遺品は、東京で買い揃えたと思わしき漫画やゲームといった娯楽品が大半を占めていた。使用済みのバスタオルやベッドシーツなどもまとめて無理に詰め込んだとはいえ、恵が使用したゴミ袋はたったの四枚だけだった。

 ゴミ袋の運搬を始め、遺品整理とその処分は全て恵が行っている。それもこれも「面倒臭くなった!」とごねた野薔薇に半ば強引に押し付けられたせいだった。文句は当然あったものの、「蠱毒」と恩着せがましく睨め付けられてしまえばもう何も言えまい。

「じゃ、後はよろしく~」と軽く手を振って部屋を立ち去った野薔薇は、きっと今ごろ冷房の効いた自室で快適に過ごしているのだろう。足を止めた恵は白い入道雲の浮かぶ碧落を仰いだ。噴いたばかりの生ぬるい汗が首を伝っていく。何だか無性に腹が立ってきた。

 さっさと済ませて何か飲もうと思ったところで、盛夏を映す視界の端に小柄な人影が差し込んだ。

「恵くん?」
「……あ?」

 一瞬、都合の良い幻聴かと疑ったほどだった。確かめるように汗の伝う首を向けた先に、喪服じみた制服姿のが立っている。

 驚いているのは決して恵だけではなかった。春の日差しにも似た穏やかな光の灯る両瞳を瞬いたのも束の間、は小さなゴミ袋を右手に掴んだまま、深い心配の色が浮かんだ面持ちで駆け寄ってくる。

「すごい汗だね、持つの手伝うよ」

 口早に言うや、に見入る恵の右手からゴミ袋をひとつ掠め取った。しかし予想以上の重さだったのだろう、はひどく驚いた様子で膨張したゴミ袋を両手で掴み直す。の眉間に深い皺が刻まれていた。

「恵くん、力持ちだね……」

 弱々しい感想を絞り出したに、恵は呆れた様子で肩をすくめた。よりによって一番重いゴミ袋を掴み取らずとも。

「重いだろ。無理すんな」
「ううん、大丈夫だよ。トレーニングにもなるから」

 見るからに痩せ我慢をしているは、言葉に説得力を持たせるように口元にぎこちない笑みを刻んでみせる。自ら手伝いを申し出た以上、もう後には引けないのだろう。

 恵は辟易したような、しかしどこか柔らかな色を含んだ双眸でを撫でた。左手に掴むふたつのゴミ袋のうち小ぶりなほうを、ごく自然な仕草でずいと胸の前に突き出す。

「だったらそれと交換してくれ」
「え?」
「これが一番重いんだよ」

 その言葉には微かに顔を引きつらせたが、すぐに意を決したように「任せて」と頷いた。今から特級呪霊祓徐にでも赴かんばかりの意気込みように、恵は思わず笑ってしまいそうになる。そしてそれと同時に、どんなに小さなことだろうと常に一所懸命なに対し、思慕と憧憬が深く入り混じった感情を抱いているのも事実だった。

 は持っていたゴミ袋を足元に置くと、恵の差し出したそれを恐々と掴み取った。恵の言葉を鵜呑みにしたその真剣な瞳が次第に大きく瞠られていく。

 拍子抜けした様子で何度も目を瞬くから視線を逸らすように、恵は上体をやや屈めての足元のゴミ袋をむんずと掴み上げた。蠱毒だったものを詰め込んでいるせいだろう、やけに重量のあるそれに恵の右腕の筋肉がよりはっきりと浮かび上がる。

 恵が小さく息を吐いて歩き出せば、は戸惑いを隠すことなく切り出した。

「……恵くん、あの、これ」
「これで多少楽になった。助かる」

 抑揚に欠けた素っ気ない口調で遮ると、少し間を置いて「……ううん」と花の綻ぶような優しい声音が耳朶を打った。遅れて気恥ずかしさに襲われた恵は熱を帯びた顔をやや俯ける。きっとうれしそうに微笑んでいるはずのの顔を、今ここで直視できるはずなどなかった。

 は急ぎ足で恵に追い付くと、喜びを噛みしめるように言った。

「恵くん、ありがとう」
「……だからそれはこっちの台詞だ」
「じゃあそういうことにしておきます。本当にありがとう」

 すぐ隣を歩き始めたに合わせるように、恵は歩く速度をうんと落とした。ゴミ袋を両手で掴んで運びつつ、は恵の持つ三つのそれに視線を送る。

「それにしてもすごい量だね。大掃除?」
「ああ。虎杖の部屋をな」

 その言葉には一瞬足を止めると、すぐに恵の顔を覗き込んだ。先ほどまで花が咲いていたはずの表情は一転、萎んだように笑顔が消えている。

「もう片付けたの?」
「いつまでもあのままってわけにもいかねぇだろ」
「……そっか。うん、そうだよね」

 納得した様子ながらも、ひどく寂しそうな顔で何度も頷く。芽吹いた罪悪感に恵が声を詰まらせたとき、は漫画やゲームが詰め込まれたゴミ袋をじっと見つめて問うた。

「それ、もしかして全部捨てるの?」
「捨てる。一応買い取りも考えたが、遺品だしな……」
「まだ綺麗だし、このまま捨てるのはちょっと勿体ないかも。だからね、もし良かったらこれ全部寄付しない?」
「……寄付?」
「そう、寄付。児童養護施設に」

 穏やかな声音が紡いだその単語に恵は眉を寄せる。詳細を促す白群の双瞳に、は快く応えてみせた。

「一般の児童養護施設じゃなくて、怖い化け物の――呪霊のせいで身寄りがなくなった子どもたちが暮らしてる施設が都心のほうにあるんだよ。暮らしてるのは目の前で家族が殺されたり、自分も殺されかけたり、そういう嫌な経験をして精神的に不安定になってしまった子たちばかりだけどね。わたし、お兄ちゃんと一緒に何度もボランティアに行かせてもらったことがあって……わたしがもう読まなくなった絵本とか小説とか、そういうものを持って行くと、毎回すっごく喜んでくれて。だからこの虎杖くんの漫画やゲームも、きっと喜んでもらえると思うんだ」

 少しでも説得力を持たせるようと言葉を尽くすに、恵は驚きの色が混じった声を返した。

「……お前、そんなこともしてたのか」
「お兄ちゃんの影響だよ」
さんの?」
「うん。わたし、ずっとお兄ちゃんみたいになりたかったんだ。お兄ちゃんの仕事が呪術師だなんて知らなかったけど、でも化け物と戦いながら困ってる人を助ける大切な仕事だってことは知ってたから。わたしもお兄ちゃんみたいに誰かの助けになりたくて。子どものわたしがボランティアなんてって悩んでたら、“じゃあ俺と一緒に行こう”って優しく背中を押してくれたんだ。“俺も他人事だとは思えないから”って言って」

 柔らかな口調で紡がれる言葉が恵の鼓膜を優しく震わせた。時おり相槌を打ちながら耳を傾け続けていた恵も、おそらく引っ掛かりを覚えることなどなかっただろう。死んだ虎杖悠仁の部屋から、“蠱毒”などという忌まわしい呪物が出て来なければ。

 ――“俺も他人事だとは思えないから”?

 恵はの発言に眉をひそめた。児童養護施設での思い出を語り始めたから、意識を僅かに思考に割く。妙な胸騒ぎがしていた。

 樹のその言葉は、本当に“樹”としての発言だったのだろうか。

 もちろんと年の離れた兄としての“樹”は、鱗の呪いによって親をどちらも喪っている。の双子の兄が発見される数ヶ月前までは“そういうことになっていた”のだ。だからその意味で“他人事だとは思えない”のは間違いないだろう。

 ただしとも家とも血縁関係のない“樹に成り代わった第三者”としての発言だったなら、先の前提は覆されて疑問だけが残る。彼にとって“他人事だとは思えない”とは一体どういう意味を指していたのか。恵の脳裏にひとりの人間の名が浮かび上がっていた。

 ――“刀祢樹”。

 舞台で“蛇神”を演じる直前に行方不明になったという例の男子中学生は、鱗の呪霊によって家族を全員殺されている。“他人事だとは思えない”という発言に何ら矛盾はない。しかもがスカウトマンに聞いた話によれば、“神童”と呼ばれるまでに演技に秀でていたと言う。

 もし刀祢樹が何らかの理由で樹に成り代わっていたのだとしたら――地に足のついた仮説に思考が及んだそのとき、笑顔のが恵の顔を覗き込んできた。春の陽だまりにも似た穏やかなそれに意識が引き戻される。

「どうかな?ただ捨てるより、虎杖くんもきっと喜んでくれると思うよ」
「……じゃあ、そうするか」
「うん!」

 はうれしそうに頷くと、「花火の前に送る準備しようね」と楽しげな口振りで付け足した。寄付が決まったならわざわざ焼却炉まで運ぶ必要はないだろうと、恵は娯楽品が詰め込まれたゴミ袋を通路の脇に置いた。背中越しに余韻を含んだ穏やかな声音が響く。

「……花火、久しぶりだね」
「そうだな」
「まだ捨ててないよね?」
「当たり前だ。捨てるわけねぇだろ」

 その言葉を引鉄に、二度目の花火の記憶がまざまざと甦る。暮夜の孤独な空気に流されるように心の澱を吐き出した恵を、は優しく笑って抱きしめた。恵の気が済むまで、ずっと。心許ない力でのTシャツの裾を握りしめたときの、くたびれた綿特有のあの柔らかな感触が、今たしかに手のひらに浮かび上がっている。

 どうしてあんなことを口走ってしまったのか。そのうえ、の優しさに付け込んでしまうなど。

 理由はわかっていた。花火の間だけはと浅ましい心に従ってしまったせいだった。自ら犯した失態に全身を押し潰されていく。恵は焼却炉を目指して再び歩き出すと、堪え切れなくなった羞恥を誤魔化すように話題を変えた。

「そういやお前、なんでここに」
「えっ、今?」
「悪かったな。訊くタイミング逃したんだよ」
「わたしも焼却炉に用事があって」

 導かれるように、恵はの手元に視線を落とした。半透明のビニール袋からは食べ終えた菓子類の袋を押し退けるように、おそらく日本で最も有名なファーストフードチェーンのロゴがはっきりと透けて見えている。無造作に詰め込まれた無数のゴミが、購入したハンバーガーやサイドメニューの大量さをありありと物語っていた。

「……それ、朝飯か?」
「そうだよ。悟くんがいっぱい買ってきたんだ」
「よくふたりで食べ切れたな」
「……お、お腹ペコペコだったからね!」

 ぎこちない回答に恵はやや眉根を寄せたものの、すぐにが意外にも健啖家だったことを思い出した。A5ランクの仙台牛ステーキを恵に負けず劣らず食べ続けたことは記憶に新しい。は困惑したように目を伏せていた。きっとたくさん食べたことを知られて気恥ずかしいのだろうと思い、恵は朝食の話題から離れることにした。

「今日、午後から修行は?」
「ごめんなさい。今日はちょっと無理かも。あ、でも夜は絶対に時間作るから大丈夫だよ。ミクロとマクロの意味も知りたいからね」
「修行サボって何するんだよ」
「夜蛾学長に怒られる準備かな……」
「は?」