「ねぇねぇ、なんでそんなにニヤニヤしてんの?と何かイイコトでもあった?」
「してねぇよ」
「してるわよ。この世の春がまとめて来た!ってだらしない顔よ。自覚ないの?」
「そう見えてんなら今すぐ眼科行け」

 苛立ちに満ちた声音で話題を一刀両断しつつ、緩んだ表情筋を引き締めた恵は、階段から最も離れた二階の角部屋――つまり死んだ悠仁の部屋の前に立った。午後からは真希たちによる過酷な“しごき”が予定されている。たとえ天変地異が起ころうとも、決して遅刻など許されないだろう。

 さっさと片付けようと恵は外開きの扉の取っ手を軽く引いた。しかし金属が擦れ合う音が響いただけで、扉は一向に開かない。何度か取っ手を引いたが結果は同じだった。建て付けが悪いのではなく、しっかりと施錠が為されているのだ。恵の顔から血の気が失せる。

「……閉まってる。なんで」
「なんでって、そりゃ虎杖だって施錠くらいして出かけるでしょ。で、そのまま死んだ。今さら何当たり前のこと言ってんのよ。もしかして伊地知さんからカギ借りてないの?」
「そうじゃねぇよ」
「はぁ?アンタ何が言いたいわけ?」
「……虎杖が死んだ翌日に、伊地知さんが“部屋の鍵は開けておいた”って言ってたんだよ。俺たちがいつでも片付けられるように」

 抑揚に欠けた響きで説明を加えれば、野薔薇は厳しく眉をひそめた。

「……どういうこと?間違えて誰かが施錠しただけじゃないの?」
「釘崎、今ヘアピン持ってるか。できれば細いヤツ」
「あるわよ。ちょっと待って」

 野薔薇はポケットから細いヘアピンを取り出すと、それを恵に手渡した。中腰になった恵が折り曲がったヘアピンを力任せに伸ばし、その細い先端を小さな鍵穴に差し込む。ひどく険しい顔でヘアピンを細かく動かす恵に、野薔薇は怪訝な視線を送った。

「なんでピッキングなんて出来んの。アンタ何者?」
「……別に。必要に駆られたんだよ」
「必要?」
「何でもいいだろ」
「良くないわよ。まさかに夜這いでもするつもり?」
「するわけねぇだろ。常識的に考えろよ」
「アンタがムッツリスケベ野郎だって裏は取れてんのよ」

 まるで鬼の首を取ったような野薔薇の言葉に、恵はうんざりした様子で深いため息を落とす。野薔薇の言う“裏”とは、おそらく悠仁とふたりでメイド喫茶に行ったことを指しているのだろう。何度も言うようだがあれは不可抗力だ。望んで入ったわけではない。

 好奇心に満ちた野薔薇の追及から逃れられそうにない気配を悟ると、やがて観念したように恵は口を開いた。

「……が部屋のカギをなくしたことがあって、そのたびに開けてくれって頼まれた。だから仕方なく、必要に駆られて覚えただけだ。そもそもアイツが気づくの遅せぇんだよ。予備のカギ持ってる職員が帰った時間になって初めて“カギがないどうしよう”って……多分、今まで三回くらいあったんじゃないか」

 そう説明しながら、恵はヘアピンを小刻みに動かし続けた。仕掛けの簡単なシリンダー錠でなければ素人の恵にピッキングなど到底不可能だっただろう。寮が古い造りであることに感謝する他なかった。

 野薔薇は胸の前で腕を深く組むと、柳眉を寄せて疑問を投げる。

「カギって結構大事でしょ。普通そんなになくす?」
「知るか。俺に訊くなよ。気づいたらなかったって、言って……」

 開錠に集中させてくれと言わんばかりに毛羽立った声音が、突として尻すぼみになっていった。ヘアピンを持つ恵の手は完全に止まっている。何かを考え込むように白群の双眸を虚空へ落とすと、やや間を置いて小さな声で呟いた。

「……そういや、と出掛けた日ばっかだな」
「出掛けた日?」
「コンビニとかスーパーとか……高専の外に出た日に限って、カギがないって……」
「……ねぇ、それ本当になくしてたの?」

 野薔薇の問いに恵はみるみる青ざめた。しかし今は施錠を外すことが最優先だった。死人のように白くなった無骨な指がヘアピンを強く掴む。プロの鍵師の如く物の五分で開錠するや、恵は野薔薇の準備を待たずして扉を勢いよく開け放つ。

 室内には噎せ返らんばかりの禍々しい呪力が充満していた。あまりの濃度に恵は息を止めたほどだった。青ざめた唇を横一文字に結んだ恵の隣で、野薔薇が顔を引きつらせる。

「うっわ、何よコレ?!虎杖の部屋だから?!宿儺の器怖っ!」
「……それにしたって呪力が濃すぎる。どう考えたって普通じゃねぇよ」

 狼狽した白群の双眸が間近な簡易キッチンを撫で付ける。歪な呪力の気配は部屋の奥から感じられた。先んじていた野薔薇がキッチンと部屋を隔てた一枚の引き戸を開く。清潔な天井灯を灯して開口一番、うんざりした様子で悪態を放った。

「部屋にポスター貼るとかないわー。性癖察しながら処分するこっちの身にもなれよ」

 野薔薇の言葉に導かれるように、恵は漆喰の壁に貼られたポスターを見つめる。水着姿の豊満な外国人女性が浜辺で扇情的なポーズを取るそれに呆れ返ったのも束の間、妙な違和感を覚えた恵は野薔薇の脇を大股で通り抜けていた。壁に沿って丁寧に貼られたポスターの前に立ち、穴でも開きそうなほどきつく睨み付ける。

「何?欲しくなったの?やっぱり伏黒もムッツリスケベね」
「違ぇよ」

 冷めた声音で吐き捨てるや、恵はポスターを破かんばかりの勢いで乱暴に剥がし――そして絶句した。その様子を後ろから見ていた野薔薇も恵と全く同じ表情をしている。

 ポスターが貼られていた壁一面に、呪符がびっしりと隙間なく貼られていた。重ね付けするように貼られたその数はおそらく百に近いだろう。

 酸化した黒い血文字で書かれた梵字がまだ真新しい和紙に踊る。ポスターで覆い隠すように貼られた大量の呪符はある種の結界として作用しているようだった。隣室の恵が呪力の気配に気づかなかった理由はこれだろう。

「呪力も残穢もコイツで室内に封じ込めてたわけか。黒だな」
「黒って?」
「この部屋のどこかに呪物があるはずだ。探すぞ」

 恵の言葉に野薔薇は真剣な顔で頷いた。ここまで回りくどい真似をする相手など、心当たりはただ一体の呪いをおいて他にいない。

 焦燥に駆られた恵が少年漫画が詰め込まれた本棚に目を滑らせたそのとき、視界の端で野薔薇が床に膝立ちになっている姿が見えた。振り返った恵は慌てて制止する。

「釘崎待て」
「何よ。ココが一番怪しいでしょ」

 呪力の気配が最も濃い場所、つまりベッドの下を指差す野薔薇の行動は呪術師として正しい。全くもって正しい。異論を唱える隙もないほど正しいのだが、恵に備わった“男の勘”というやつが嫌というほど働いていた。死屍に鞭打つこともないだろうと、恵は小さくかぶりを振った。

「悪いがそこは俺が探す。釘崎は別のところを探してくれ」
「あー……ハイハイそういうことね。じゃあそっちは任せたわ」

 言葉の裏に隠された本音を察したのだろう、野薔薇はすんなりとクローゼットのほうへ移動する。内心安堵した恵は禍々しい気配が渦を巻くベッドに近づく。

 健全な男子高専生、しかもたった二週間といえども術師として働き、その働きに見合った給料を受け取っていたのだ。何が出て来たところで不思議ではない。“何”が“何”を指しているのかは悠仁の名誉のために伏せておくが。

 床に這い蹲る形で恵はベッドの下を覗き込んだ。ベッドの下にはプラスチック製の収納ケースが横たわっている。悠仁の“代物”が入っているに違いない、見るからに怪しげなそれの隣に置かれた“とある物”が視界に入った瞬間、恵の顔に唖然とした色が走った。

「……何だ、アレ」

 掠れ切った声が無意識にこぼれていた。恵の頭が入る程度のベッドの隙間に両腕を突っ込んで、それを急いで引っ張り出す。上体を起こした恵は血相を変えて叫んだ。

「釘崎!」
「ハイハイうるさいわね、そんなに大声で呼ばなくたって聞こえてるわよ。やっぱりエロ本でも見つけたの――って、それ……」

 肩をすくめて振り返った野薔薇は目を瞬いた。驚きのあまり言葉も出ないのだろう、クローゼットの扉を掴んでいた野薔薇の手が重力に従って落ちていく。ブラウントパーズにも似た明るい双眸が、恵が引っ張り出してきたそれを食い入るように見つめていた。

 それは保存瓶だった。梅干しや果実酒を作る際に用いられる1L用の保存瓶は、横たえればベッドの隙間に何とか入る大きさだった。ただその瓶に入っているのは果実酒ではない。曇るように薄汚れた瓶の中で蠢く細長い生き物をしばらく見やると、野薔薇は驚愕に揺れた小声を押し出した。

「……瓶詰めの、黒蛇?」
「違う。“蠱毒”だ」

 一切の表情が失せた顔で、恵はきっぱりと断言した。保存瓶の蓋に貼られた梵字の呪符は、壁に貼られた呪符と同じく血文字で書かれたものだろう。恵は咥内の水分がなくなっていくのを感じながら、淀みない口調で説明を加える。

「“蠱術”や“巫蠱”とも言われる、古代中国で用いられた人を呪うための呪術だ。蛇や蛙、百足に蜘蛛、とにかく蟲という蟲を同じ容器の中に入れて共喰いさせ、最後に残った一匹を使って人を呪う。呪術って言うより呪詛だな。今でも一部の呪詛師が好んで使ってるらしい」
「もう使われてんの?」
「ここまで呪力が漏れてりゃ十中八九そうだろう。けど用途はわかんねぇ。コレは人を呪うだけじゃなくて触媒にもなり得るからな。隣室の俺を呪い殺そうとしたってわけでもなさそうだ」

 説明しながらスマホを操作し始めた恵から目を逸らすと、野薔薇は戸惑ったように声を震わせる。

「……それって必ず蛇が生き残るってわけでもないんでしょ?」
「そうだな」
「じゃあもしかして……」
「ああそうだ、鱗の呪いが絡んでる可能性が高い。クソ……やっぱりねぇか」

 軽く舌打ちをした恵に野薔薇は再び視線を送った。

「やっぱり?」
「コレと同じ“蠱毒”が高専に登録されてないかを確認した。案の定未登録の呪物だ。この呪物の等級は準一級、もしくは一級だろう。このレベルの呪物が高専のセキュリティを突破するとは考えられない。つまりコレは外部から持ち込まれたんじゃなく、この高専で一から創られたものだ」
「……高専内部に鱗の呪いと繋がってる人間がいる?」
「おそらくな」

 恵は頷くと、汚れた瓶の中で周囲を警戒するように胴を迂曲させる黒蛇に目を落とす。闇に濡れたように艶やかな黒鱗が、天井灯の清潔な光を眩く反射していた。

「このまま回収して五条先生か伊地知さんに――」
「だったらこの釘崎野薔薇の出番ね!」

 勢いよく叫ぶや否や、野薔薇はどこからともなく取り出した金槌と五寸釘を胸の前で構える。心臓のシンボルであるハートマークが刻まれた鈍色の金槌と錆びた五寸釘は間違いなく野薔薇の得物だった。

 得意げというよりむしろ邪悪ですらある笑みを浮かべる野薔薇に、恵は極寒の冬山にも似た厳しい表情を寄越した。

「おい。なんで持ってんだ」
「だって虎杖の部屋よ?絶対ヤバいものが出るだろうと思って準備しておいて正解だったわ。さすが私よ。さぁ褒め称えなさい!崇め奉りなさい!」
「回収するって言ってんだろ」
「はぁ?アンタ何言ってんの。それ呪物なんでしょ。このままにして誰か死んだらどうすんのよ」
「そりゃそうかもしれねぇけど、だからって迂闊に――」
「あっそ。なら言い方変えるわ。もしに何かあったらどうすんの?」

 全ての言葉を取り上げられたように、恵はたちまち黙り込んだ。瓶を掴む手に力が加わる。

 正論だった。今まで幾度となくを陥れた鱗の呪霊の狡猾さを、恵は嫌というほど知っているはずだった。

 あの霊安室でを守ると言ったのは、善人である樹に託されたからだ。しかしを絶対に守り抜くと腹を括ったのは、も兄と同様疑う余地もない善人だからだ。恵は自らが信じる良心に従ってそれを決めた。決めたのは自分だというのに、一体今さら何を日和っているのだろう。

 結論はすぐに出た。――弱いからだ。あの少年院でを置いて逃げた恵の弱さのせいだった。「頼んだからね、伏黒くん」と優しい声音が耳の奥で響いた。喪った兄によく似た穏やかな笑顔が尾を引いていた。ひとり覚悟を決めてどんどん遠くへ行くの背中を追っている自分は、にとって何の役にも立たないのではないか――そんな疑いの種が、恵の中に芽吹いているせいだった。

 奥歯を軋らせる恵の手から蠱毒を強引に奪い取ると、野薔薇は氷点下の視線で唇を一文字に結んだ恵を真正面から穿った。

「好きな女に告白のひとつもできない臆病者はそこで大人しく見てろ」

 致死毒を塗した鋭利な言葉を放つや、野薔薇は右足を軸に半回転し恵に背を向ける。野薔薇の手から保存瓶と五寸釘が離れた。それと同時に歯を食いしばった野薔薇が右手に握った金槌を大きく振りかぶる。ブラウントパーズの瞳に明確な殺意が宿っていた。宙を舞った蠱毒めがけて、野薔薇は振りかぶった金槌で眼前に浮かぶ五寸釘を力一杯打ち込んだ。

「芻霊呪法――“共鳴り”!」

 甲高い金属音とともに五寸釘が保存瓶を突き破る。その先端は黒蛇の頭を深々と抉り、勢いよく噴き出した鮮やかな血飛沫が汚れた瓶を真っ赤に染め上げた。砕けた瓶が重力に従って床に落ち、次いで頭部に釘が刺さった蛇の死体が床に沈んだ。

 野薔薇の“芻霊呪法”は呪詛返しの術式だ。野薔薇に打ち返された呪詛は対象本体のもとへ帰り、確実に致命傷となっているはずだろう。

 やり遂げたように短く息を吐いた野薔薇に、恵はやや間を置いて問いかけた。

「手ごたえは?」
「あった。ここからそう遠くない高専の中よ。伏黒の睨んだ通り高専関係者で間違いなさそう。でも私の呪力が爆ぜたとき、何かすごく変な感じがした……呪力がぐちゃぐちゃって言うか……」
「場所はどの辺だ?」
「えーっと……あれ?」

 “共鳴り”の繋がりを辿ろうとした野薔薇は、不思議そうに首をひねった。

「……消えた」
「“死んだ”の間違いじゃねぇのか」
「違うわよ」

 恵をきつく睨み付けた野薔薇はしばらく難しい顔をしていたが、やがて諦めたように「考えたって仕方ないわね」とさっぱりした口調で言った。床にぶちまけられた呪物だったものを嫌悪感に満ちた表情で見つめると、

「それ、もう普通に捨てていいわよ」

と顎でしゃくって恵に片付けを促した。日和った負い目がある恵は大人しくそれに従う。

 分別したほうが良いような気がしたが、呪物だったものを今さらどうこうしたくなかった。壁から剥ぎ取った大量の呪符で瓶の欠片を丁寧に包み、ついでに死んだ蛇も呪符で包んでゴミ袋の底に押し込んだ。野薔薇がクローゼットから取り出した悠仁の少ない洋服とキッチンから持ってきたらしい食用油を乱雑に放り込む。

「これでよく燃えるでしょ」

 膨張したゴミ袋の口をしっかりと閉めながら、恵は「そうだな」と無機的な返事を返した。