「“タメは初めて”って言ったわよね?」
「……は?」

 まだ朝だと言うのに容赦なく照り付ける真夏の炎天にうんざりしながら歩を進める一方、伏黒恵は訝るような色を孕んだ視線を前方へ投げ付けた。半歩前を歩く釘崎野薔薇は首だけで振り返ると、話の内容が一切理解できなかった恵に同情するように肩を落として嘆息してみせる。

 まるで野薔薇の話についていけない恵が悪いとでも言わんばかりの仕草だ。今の台詞だけで一体何を理解しろと言うのだろう。無言の反論を試みた恵に対し、野薔薇は自らの慈悲深さをひけらかすように言葉を付け足した。

「虎杖が死んですぐ、私が真希さんたちに初めて会った日よ。“仲間が死ぬの初めて?”って私が訊いたとき、アンタ“タメは初めてだ”って答えたじゃない」
「……ああ、そんなことも言ったな」
「あれってのお兄さんのこと?」

 その問いに恵は眉筋ひとつ動かさなかった。それが答えだった。野薔薇は再び前を向くと、目的地である男子寮を目指しながら事もなげに尋ねる。

「いつ亡くなったの?」
から聞いてねぇのか」
「はっきりとはね。、お兄さんの話は私にほとんどしないから。虎杖にはよく話してたみたいだけど。虎杖も身内を亡くしたばかりだったし、気兼ねなく話せたんだと思うわ」
「……さんが亡くなったのは、今年の四月だ」
「だったら、初盆じゃない」

 足を止めた野薔薇はひどく驚いた様子で恵を振り返った。耳朶を打った聞き慣れない言葉に恵は眉をひそめる。

「……初盆?」
「嘘でしょ、知らないの?四十九日を過ぎて初めて迎える盆のことよ。私が住んでたのはド田舎だったからこういう慣習には特にうるさくて……ていうか初盆はどこも法要すんのが普通でしょ。旧暦か新暦かで時期は変わるけど、、先月忙しそうな素振りもなかったし、きっと新暦の月遅れ盆じゃないかしら。アンタどうせ暇でしょ?準備から何から結構大変なんだから、のこと少しは手伝ってやりなさいよ」

 一方的に捲し立てられた恵は気まずげに声を詰まらせた。頭を過ぎったのはが悼むべき最愛の故人樹のことだ。樹の死に深く関わる恵が法要に参加するなど、ましてやその準備の手伝いを申し出るなど非常識も甚だしいだろう。

 にとって何より大切だった兄に想いを馳せる時間を邪魔するような真似はできない。それだけはどうしてもしたくない。

 恵が縦とも横ともつかぬ曖昧な首肯を返せば、野薔薇は田舎で体験してきた慣習について掻い摘んで話し始めた。おそらく慣習に疎い恵を思ってのことだろう。聞いているだけで嫌気が差すほど面倒なそれに、田舎に生まれなくて良かったと恵はつくづく思った。

 少しずつ近づいてきた男子寮を眺めつつ、野薔薇はどこか自慢げな口振りで告げる。

「家に帰ったら坊主が勝手に経を上げてたなんて、田舎じゃ普通のことよ」

 家に施錠はしないのかと疑問に思ったものの、余計なことは言わないでおいた。恵は適当で気のない相槌を打つと、これから男子寮で済ませなければならない用に対して意識を割いていく。

 死んだ虎杖悠仁の部屋を片付ける――そのために、恵と野薔薇は男子寮へ向かっていた。

 悠仁の部屋をどうするかという話は、悠仁の死後、一度だけも交えて話したことがある。さっさと片付けるべきだと主張した恵と野薔薇に対し、は頑として首を縦に振らなかった。「お願い。あの部屋はまだ虎杖くんに必要だから」と揺るぎない声音で反論し、そのときはの頑なさに恵も野薔薇も揃って白旗を挙げた。

 とはいえ、虎杖悠仁が死んで一月が過ぎようとしている。いつまでもそのままにしておくべきではないと言うのが学長である夜蛾を含めた大多数の意見だったし、恵も野薔薇もその大多数のひとりだった。悠仁と特に仲が良かったの気持ちはわからないでもないが、そろそろ頃合いなのは間違いなかった。

 こうなったらの隙を狙うしかない。が多忙であることを良いことに、恵と野薔薇はついに悠仁の部屋の片付けに乗り出したというわけである。

 我が物顔で男子寮の玄関扉を開いた野薔薇が、ふと何かを思い出したように言った。

「あ、そうそう。最近とハマってる漫画があるのよね。“まほらは月の向こう”っていう少女漫画なんだけど」
「何だいきなり」
「最近と話してないんでしょ。話題になるんじゃないかと思って」

 突拍子もなく切り替わった話題に恵は怪訝な表情を浮かべたが、常に我が道を行く野薔薇に対して理由を求めるだけ無駄であることは充分に理解していた。浮かんだ疑問を即座に脳内のゴミ箱へ放り込んでいく。

 一歩先を行く野薔薇に「部屋は?」と尋ねられ、恵は「二階だ」と端的な答えを返す。野薔薇はやけにゆっくりと階段を上りつつ、も読んでいるという少女漫画のあらすじを語り始めた。

「主人公の女の子は不慮の事故に遭ったことが原因で、満月の日になると“好きなひとの記憶だけが消える”特異体質になってしまったの。幼馴染の男の子は女の子のことがずっと好きだったんだけど、今まで通りそれを隠しながら特異体質になった女の子の恋の応援をするのね。で、何度目かの満月のあと、女の子はなんと幼馴染の男の子を好きになってしまうわけ。紆余曲折を経て付き合い始めたふたりが、次の満月までの時間をどう過ごすのかって話が胸キュンで面白いのよ。どう?伏黒も読む?」
「読むわけねぇだろ。だいたいそれの何が面白いのかわかんねぇ」

 野薔薇の問いかけをばっさりと切って捨てると、恵はひどく険しい表情で言葉を継いだ。

「そもそもなんで記憶が消えるような相手と恋愛しようって話になるんだよ。好きな奴の記憶が消えなきゃ自分のことを好きにならなかったような相手だろ?そんな奴と付き合おうなんてよく考えられるな。相手がまた自分を好きになるとかならないとか、そういう話がきっとお前らにはウケてんだろうけど……俺には全く理解できねぇよ」
「……そう。まぁそう言うと思ったけど」

 階段の踊り場で静かに足を止めた野薔薇は、恵を一瞥もせずそう言い放った。手すりに添えられていた野薔薇の健康的な手が僅かに強張ったことに、恵は一切気がつかない。

 ただ、あまりに素っ気ない声音が返ってきたことには妙な引っ掛かりを覚えていた。自分の感想に何か思うところでもあるのかとでも言いたげに、野薔薇を短く問い質す。

「何だよ」
「ううん、何でも。アンタがどうすんのか気になっただけよ」
「だから読まねぇって言ってんだろ」
「あっそ。だったらこの話も絶対しないでよね。無神経な伏黒じゃの楽しみを奪うだけだから」

 厳しい口調で念を押された恵は、「……するわけねぇだろ」と小さな声で吐き捨てる。そもそもと話す機会それ自体がないのだから、そこまで釘を差したところで無意味だろうに。恵はひどく空虚な感情を抱えたまま、二階の廊下を緩慢な足取りで進んでいく。

 が五条家の養子になってからというもの、多忙を極めると会話する機会は激減した。今月に入ってからは挨拶を交わす程度で、他愛もない会話をする暇もほとんどない。

 御三家のひとつである禪院家の術式、それも相伝“十種影法術”を継いだ恵だが、今のほど“御三家としての振る舞い”を強く求められた記憶はなかった。恵と禪院家の間に入った五条の思惑もあっただろうが、それ以前には五条の術式を継いでもいない全くの赤の他人である。

 となれば、寄せられる期待の大きさが違うのだろう。今の術師がほとんど持ち得ない神仏との高い感応能力、そして仲間の支援と回復・防御に完全特化した“呪い”ではなく“祝い”の術式。何せはあの“最強”五条悟が認めるほどの術師なのだから。

 一朝一夕では埋められない隔たりを感じ、自然と恵の足が止まった。術師としての己の弱さを眼前に突き付けられた気分だった。自分ではなく誰かのために、五条家の養子になることを選んだとの覚悟の差も。

 得も言われぬ空しさに襲われたそのとき、ポケットに入れていたスマホが僅かに振動した。メッセージの受信を知らせるそれに気づくや、恵はスマホを取り出して光る画面に目を落とす。ロック画面に表示された意味不明のメッセージに、思わず呆れ返ってしまった。

“ヘイ恵くん。ミクロ。マクロ。意味”

 一体は人のことを何だと思っているのだろう。のAIアシスタントになった覚えは全くないのだが。恵は画面を食い入るように見つめて沈黙する。送り付けられた悪ふざけに不思議と悪い気はしなかった。これっぽっちも。

 きっと悪ふざけでも何でも良かったのだろう。がこうして恵に連絡を入れるのは実に一週間ぶりだ。最後の連絡はひどく事務的なもので、“マナー講座に出席するので今日の修行はお休みします。真希先輩に謝っておいてください”という簡素な内容だった。何故真希に直接連絡しなかったのか、恵には終ぞわからなかったのだが。真希に何か言われるのが怖かったのかもしれない。

 恵に対するの興味はおそらくまだ失せていない。どうでもいい人間だとは思われていない。そのことに安堵している自分に気づいた瞬間、野薔薇が恵の顔を覗き込んできた。

から?」
「……なんでわかるんだよ」

 勘付かれたのは野薔薇の優秀な観察眼のせいではなく、単に恵のわかりやすい態度のせいだろう。当のに知られていないのがまだ救いだった。

 まるで何事もなかったように恵がスマホをポケットに戻そうとすれば、野薔薇がひどく不満げな様子で眉をひそめた。

「先に返事してあげたら?、待ってるわよ」
「別に急用じゃ――」
にとってはきっと急用よ。ほら早く」

 急かすように野薔薇は顎をしゃくる。野薔薇に見られたのが運の尽きだと潔く諦めて、恵はその場で素早くスマホを操作した。

“ネットで調べろ”と送れば即座に既読が付いた。が恵の返事を今か今かと待っていたのだと思うと、そのいじらしさに息が詰まる。には決して伝えられぬ感情が大きく波打っていた。

 どうせ下らない話だろう。ならば尚更直接会って話したかった。肩を震わせて楽しそうに笑うが見たかった。浅ましい欲が頭をもたげたことには気づかぬふりをして、恵はいたって平静を装いつつ、十秒も経たぬうちに送られてきた返事に意識を向けた。

“冷たい”
“ちゃんと教えた”
“それは教えたって言いません”
“ネットで調べたほうが早いだろ”
“調べたけどわかんなかった”

 悲しみをより表現するための泣いた絵文字付きのその答えに、恵は同情するように“まぁ馬鹿だからな……”と噛み締めて思ったものの、本音は胸の内に仕舞っておいた。

 廊下の真ん中で伸びをしている暇そうな野薔薇に視線を送る。こうしていつまでもやり取りを続けるわけにもいかないだろう。話を切り上げるための文章を入力していく。

“今取り込み中だ。また後で返信する”
“やだ”

 瞬く間に表示された二文字の我儘に、恵の心臓は大袈裟に脈打った。鬱陶しいとは微塵も感じていない自分に嘆息する。にすっかり頭が沸いた自分に、呆れを通り越して笑いすら出そうだった。

 もうどうしようもないところまで来てしまったと内心自虐しながら、恵はスマホを握りしめたままの返信を待ち続けた。何か一言でも余計な言葉を返してしまえば、があっという間にそっぽを向いてしまうような気がして。

“直接教えてください”

 やや間を置いて浮かび上がった予想だにしない言葉に、恵は思わず目を瞠った。恵の思考は一瞬で疑問に埋め尽くされていた。

 いつどこで。会って教えるという意味で間違いはないか。そこまでミクロとマクロの意味を知りたい理由は何だ。忙しいにそんな時間があるのか。どうせまた五条先生に何か言われたんだろう、何故五条先生に訊かなかった。そうやってわざわざ俺に訊くのは――もしかして何か深い理由でもあるのか。

 しかし取っ散らかった思考を整理する間も惜しかった。を待たせてしまうのが嫌だった。恵はひどく端的な疑問を送り付ける。

“いつ”
“今夜。恵くんが暇なら”
“わかった”
“じゃあ花火しようね!また連絡します、ありがとう!”

 笑顔の絵文字に彩られたその言葉を確認して、恵はスマホをポケットへ滑らせた。ほとんど反射的に了承しただけの恵は、やり取りが終わった今になって今夜の予定を頭の隅で辿っている。五条が聞けば失笑間違いなしだろう。

 特に予定はなかったはずだと安堵に満ちた結論を出したそのとき、恵はようやく野薔薇の下世話な視線を感じ取った。嫌な予感が全身を駆け抜ける。瞬く間に恵との距離を詰めるや、野薔薇は憎たらしいまでの満足げな笑みを浮かべた。