「失礼します」

 小さなノックの音とともに生真面目な声が耳を打ち、わたしは夜蛾学長と交わしていた他愛もない会話を中断した。振り返れば、すでに学長室に足を踏み入れていた伊地知さんが申し訳なさげに頭を垂れている。

「おはようございます。遅くなってしまって本当にすみません」
「いや、構わん。もちょうど今来たところだ」

 しかし夜蛾学長の言葉を額面通りに受け取ることなく、伊地知さんは落ち込んだ様子で肩を縮こませる。重い足取りで執務卓の前に立つわたしの隣に並ぶと、ひどく物憂げに唇を一文字に結んだ。

 約束の時間に遅れたとはいえ、たったの五分だ。誰かを傷つけたわけでもないのだからと思ったものの、それでも、常日頃より五分前行動に徹している伊地知さんにしてみれば間違いなく大失態なのだろう。一社会人としての徹底した姿勢を尊敬したし、今すぐ遅刻魔の悟くんに伊地知さんの爪の垢をたっぷり煎じて飲ませてやりたかった。

 傷を抉ることをわかっていながらも、湧き上がる好奇心に敗北したわたしは、疲労感に満ちた薄幸なかんばせをそうっと覗き込んだ。

「伊地知さんが遅刻なんて珍しいですね」
「聞いてください、さっき本当に酷い目に遭ったんですよ……廊下を歩いていたら運悪く五条さんに――って、あれ?さんの呪骸、そんなでしたっけ?もっと大きかったような……」

 憂鬱そうな表情に突として驚きの色が滲む。わたしは胸に抱いていたバクを模した呪骸に目を落とすと、目を丸くした伊地知さんへすぐに視線を戻した。篤厚な双眸に穿たれたままのそれを軽く持ち上げて、自慢するように小さく笑んでみせる。

「この間もらったばかりなんです」
「悟に頼まれていた新作だ。授業中も全く寝なくなってずいぶん経つからな」

 その指摘にばつが悪くなったわたしは、拙い苦笑いを浮かべて頷いた。持ち運ぶにはちょうどいい大きさに変わったバクの表情は相変わらずひょうきんなままだ。

 夜蛾学長お手製の呪骸が安眠枕として大活躍していたのは六月が終わるまでだ。カレンダーが七月に変わると次第に眠気そのものが襲ってこなくなり、夏休みに入る前には眠気とは全く無縁の日常生活を送れるようになっていた。まさに悟くんが言っていた通りになったわけである。

「成長したんですね」
「まだまだです。でも、そのお陰で夏休み前の期末テスト、なんとか赤点回避できました」

 伊地知さんの言葉に、わたしはかぶりを振って答えた。一睡もすることなく授業に参加できるようになったからだろう、期末テストは紙一重のところで全教科赤点を免れることができたのだ。

 ちなみに天才と持て囃される恵くんが全教科ほぼ満点だったのはもちろん、わたしと違って要領の良い野薔薇ちゃんも全て八十点前後と入学したばかりとは思えぬ好成績を残している。己の記憶力の悪さにひとり絶望したのはここだけの話だ。

 どれかひとつでも赤点だったら恵くんに勉強を教わる口実ができたのに――頭をもたげた浅ましい考えに内心苦笑していると、夜蛾学長とわたしの間で伊地知さんの視線が行ったり来たりした。

「今回の呪骸も呪力を吸収するんですか?」
「ああ。ただしその呪骸は人間から吸収した呪力を呪骸の核に溜め込む性質を持つ。呪力を吸収するとすぐに空気中に放散していた以前の呪骸とは少し違うな」

 巨躯にはそぐわないイスに背中を深く預けると、腕組みした夜蛾学長が唸るように言葉を継いだ。

「溜めた呪力を何に使うかは知らんが、悟のことだ、どうせ碌なことではないだろうな」
「……それはたしかに。さんは何か聞いていますか?」
「いいえ、何も。でも溜めちゃえばわかるかなって」

 お茶目なかんばせの呪骸に視線を落としつつ、わたしは場を和ませるように小さく笑んでみせる。悟くんはわたしに呪骸を与えた理由を何ひとつ言わなかった。当然ながら、呪骸の種類が変わった理由さえも。

 抱き枕にするにはちょうどいい、あの大きな呪骸を与えられた理由が、“膨大な呪力を瞬間的に作り出せるようになるため”だと知ったのはつい最近のことだ。

 一度目の花火の最中、恵くんから聞いた。花火の準備を手際よく進めていた彼は、普段着姿のわたしをしばらく見やると、何かに気づいたように口を開いたのだ。

「あの呪骸はどうした。何で置いてきた」
「もう眠くないから別に良いかなと思って」
「今すぐ持ってこい。アレはが……が呪力を安全に譲渡できるようになるための道具だぞ」

 律義に呼称を正すと、何も知らないわたしのために言葉を尽くして説明してくれた。

の術式は他者に呪力を譲渡することでその相手を強化させるものだ。与える呪力量を増やすにはお前自身が作り出せる呪力量を増やす必要がある。術式の特性上、は相手に与える呪力のおよそ倍以上の呪力を瞬間的に作り出さなきゃならねぇからな」
「どういうこと?」
「例えばが10の呪力を俺に与えても、俺はその呪力を10のまま使えるわけじゃない。使える呪力はせいぜい3、多くて5だろう。呪力に損失が生じるせいだ」
「……損失?」
「電気を変圧器に通すようなイメージって言えばわかるか?エネルギー保存の法則に則れば入力電圧と出力電圧は本来イコールのはずだが、回路に少しでも抵抗があればエネルギーは熱に変わって逃げてしまう。その結果、出力電圧に損失が生じて入力電圧より電圧が弱くなる。の術式でもこれと全く同じことが起こるらしい」
「……同じこと」
「五条先生曰く、この場合の抵抗ってのはの呪力に対する出力側のごく自然な生体反応のことを指すそうだ。臓器移植の際に起こる拒絶反応と同じだな。の呪力を非自己、つまり抗原と認識して出力側の免疫細胞が働くんだ。そのせいで出力側の人間は発熱するし、どうしても呪力に損失が生じる。出力側の呪力量を増やすには抵抗を取り除くことを考えるより、入力側の呪力量を増やすことを考えたほうが手っ取り早いだろ。呪力が空になるのは術師にとって死活問題だ。それが呪いの前なら尚更な。だから五条先生はにそのための――って、おい!寝るな、起きろ!この花火どうすんだよ!」

 要するに、わたしが誰かに呪力をあげたとしても、その誰かはわたしがあげた呪力と同じだけの呪力を使えるわけではないということだ。相手が使える呪力はせいぜい三割、多くて五割だと恵くんが言っていたし、わたしが呪力を与えることで高熱が出てしまうとも聞いた。膨大な呪力を瞬間的に作れるようにならなければこの術式は上手く使いこなせないし、相手の負担になってしまうだけだろう。

 それに、呪力を過剰に与えるあの方法で呪霊を祓うためには、呪霊が耐えられないほどの呪力を瞬間的に作り出し、尚且つ流し続けなければならない。“特級”と目される鱗の呪いが相手となれば、祓除に必要となるその呪力量はおそらく想像を絶する量のはずだ。

 きっと悟くんは何もかも見据えて考えてくれているのだろう。全てはわたしの正しい復讐のために。

 だから呪骸が変わったことに対して悟くんに何も言わなかったし、溜めてしまえば何かがわかるはずだと信じて疑わない。ただわたしはこの修行が昨日より今日のわたしが強くなるために必要なことなのだと、自らに言い聞かせ続けるだけだ。

 わたしがバクを模した呪骸をより強く抱きしめれば、夜蛾学長は頭痛を堪えるように額に無骨な指を押し当てた。

「おそらくが相手では恰好の餌食だ。京都の連中に好き放題扱き下ろされるのは目に見えている。釘崎ほどとは言わんが、もう少し跳ね返りがあれば良かったんだがな……」
「……あの、わたし、京都校のひとに何かされるんですか?」

 京都校との姉妹校交流会の打ち合わせ事項の確認――学長室に呼び出された理由を頭でなぞりながら尋ねると、夜蛾学長はもちろん、伊地知さんまでもが気まずげに唇を結んだ。互いの呼吸音さえ聞こえそうなほど重く静かな沈黙が場を満たす。やがてわたしは弾かれたように手を打った。

「あ、たしかそういうの関西弁で“いけず”って言うんですよね。京都のひとにいけずされるなんて生まれて初めてです。京都の言葉で嫌味や悪口を言われたりするんでしょうか……何だかちょっと楽しみになってきました」

 今まで周囲に関西弁を喋る人間が誰ひとりいなかったせいだろう、不安よりも好奇心のほうがずっと大きかった。期待に胸を膨らませるわたしに、ふたつの不審げな瞳が寄越されたことに気づいた。まるで町中で異星人にでも遭遇したかのようなそれに居心地が悪くなる。思ったことを素直に口にしたのはどうやら得策ではなかったようだ。

さんなら意外に何とかなりそうな気がしてきました」
「樹に感謝するしかないな。アイツの教育はある意味正しかったと言える」

 ひどく神妙な顔つきで頷き合うと、夜蛾学長は気を取り直すように咳払いをひとつ落とした。黒いサングラス越しにこちらをまっすぐ見据え、低い声音で一片の隙もなく告げる。

「誰に何を言われても何をされても一切気にするな。あまりに非道いようならすぐ申し出るように。とにかく、午後からの打ち合わせは頼んだぞ」
「はい、任せてください!」
「到着予定は午後一時だったな。ひとりにさせて悪いが、は正面ロータリーで出迎えを――」
「……あの、夜蛾学長」

 話の腰を折って小さく名を呼べば、緊張を覚えるほどの強面で「何だ」と問いかけられる。気圧されそうになるのをぐっと堪え、頭の中で素早くまとめた言葉をそのまま声に乗せていく。

「お話を遮ってしまってごめんなさい……わたしの聞き間違いかもしれないので、先に確認させてください。到着時間は午後三時ではないですか?悟くんには午後三時に正面ロータリーへ行くようにと指示されたんですけど……」
「……午後三時?いや、午後一時だったはずだが」

 確認するように凛々しい視線がすぐ隣へ移動すると、しゃちほこばった伊地知さんが脇に抱えていたタブレット端末を何やら操作し始める。画面を見つめるその表情はまるで冬山で遭難しかけた登山者のそれだ。

「さ、昨夜遅く楽巌寺学長から“時間を変更したい”という旨の連絡がありまして……すみません、私の伝達漏れです」
「ということは、の言う通り午後三時で間違いないと?」
「はい、その通りです」
「そうか、わかった。この打ち合わせが終わり次第少し留守にするが、その時間までには必ず戻る」

 引き攣った顔で首を上下させる伊地知さんに、夜蛾学長は深く頷いてみせた。そして簡単な打ち合わせを滞りなく済ませると、わたしと伊地知さんは学長室を後にする。

 受け取った打ち合わせ資料に改めて目を通しながら、わたしはのろのろと歩を進めた。打ち合わせのメンバーに選出された以上、内容はきっちり頭に入れておくべきだろう。もちろん覚えられるかは別として。

 一日目に開催される団体戦“チキチキ呪霊討伐猛レース”のルール詳細を読み進めていく。命名はどうせ悟くんだろうなと思いつつしばらく廊下を歩いたところで、隣を歩いていた伊地知さんが気の抜けたような口調で小さな声を絞り出した。

さん、嘘を吐くのが見違えるほど上手になりましたね……」
「……えっ、嘘?」

 資料に意識を集中していたせいで反応が一拍遅れた。わたしは視線を持ち上げると、やっと血の気が戻ってきた伊地知さんのかんばせを食い入るように見つめる。

「嘘って何の話ですか?」
「えっ?……えぇっ?!じゃあ到着時間が変更になったってアレは……ま、まさか五条さん、さんを騙したんですかっ?!」

 再び青ざめた顔で、伊地知さんは素っ頓狂な声を上げた。はっとした様子で学長室を振り返るや、周囲を警戒しながら階段の踊り場までわたしを急かした。

 伊地知さん曰く、予定時刻に変更があったというのは悟くんの真っ赤な嘘だそうだ。今朝酷い目に遭ったと伊地知さんが言っていたのは“夜蛾学長に嘘の予定を伝えろ”と悟くんに脅されたことらしい。悟くんは時と場合によっては手段を全く選ばないけれど、今日がきっとその“時と場合”だったのだろう。伊地知さんに少し同情した。

 一体何のために悟くんは到着予定時刻を、姉妹校交流会打ち合わせの開始予定時刻を二時間も早めたのだろうか。あとで訊いてみようと疑問を頭の隅に置いた直後、伊地知さんが申し訳なさそうに口を開いた。

「すみませんが、さんは午後一時に正面ロータリーへお願いします。さすがに二時間もズレれてしまうと打ち合わせに支障が出るのは必至です。が、その辺りは五条さんが何とかしてくれると信じましょう……」

 絶対に何とかしてくれないから、信じてもきっと無駄だと思うけどな――とは言わないでおいた。一縷の希望だろうと摘み取らず残しておくのが優しさだろう。それが伊地知さんのためになるかどうかは別として。

 夜蛾学長にこっ酷く叱られる悟くんと伊地知さんの姿がありありと目に浮かぶ。それから一拍遅れて、多分わたしも叱られるんだろうなとまるで他人事のように思った。