精一杯の丁寧な所作で助手席から降り立てば、昼間の盛夏の余韻を帯びた生ぬるい風が頬を掠めていった。黒一色の上品なワンピースが柔く揺れ、剥き出しになった膝を総レースの裾が優しく撫で付ける。少しくすぐったかった。

 まだ履き慣れないピンヒールを軽く鳴らしながら、広い路側帯に停車した車の後ろに回り込むようにして道路を横断する。その場で足を止めて呪術高専の正門に背を向けると、運転席の窓がゆっくりと開いた。雲間から覗いた月明かりが悟くんのかんばせを仄かに照らし出す。

「明日は午前八時に悠仁の部屋に集合で。朝食は悠仁の分も含めて適当に買ってくるよ」
「ありがとう。おやすみなさい、悟くん」
「おやすみ、。良い夢見ろよ?」

 丸いレンズのサングラスを軽く持ち上げて、悟くんはわざとらしいウインクをひとつを落とした。その気障な仕草にちょっと笑ってしまいながら、「悟くんもね」と小さく手を振って別れの挨拶を済ませる。

 長い歴史を感じさせる古びた正門をくぐり抜けると、点々と浮かぶ屋外灯を頼りに女子寮へ向かった。ピンヒールの地面を打つ音が虫の声と重なり、熱帯夜の風にそっと撫でられた素肌に汗が滲んだ。

 ほとんど何も入らない小さなハンドバッグを胸に抱きながら、わたしは緊張した肩の力を抜いて背中を軽く丸めた。どっと押し寄せる疲労感を、長いため息とともに身体の外へと押し出していく。

「疲れた……」

 公的な氏名が五条に変わってからというもの、夕食は外で食べることがほとんどになった。和食、洋食、イタリアン、フレンチに中華。さまざまな国の料理から果ては創作料理まで、毎晩異なったジャンルの料理を悟くんにご馳走してもらっている。

 とはいえそれが全て、五条家の人間として、そしてゆくゆくは国家の中枢を担う要人の側近術師として、自分ではなく食事をともにする相手に恥をかかせないような基本的マナーを身に付けるため――ともなれば、豪華で繊細な美味しい食事に舌鼓を打つ暇もない。

 ましてや店に入る前から立ち居振舞いのひとつひとつに助言が添えられるのだ。そのたび、恵くんの言っていた“五条として生きていく”ことの責任の重さを泣きたくなるほど痛感した。

「……あ、そうだ。真希先輩に連絡しなきゃ」

 歩き方がおかしいのか、単なる筋力不足か、はたまたその両方か。理由は定かではないけれど、高いピンヒールでの歩行がどうにも拙い。今日悟くんに会って開口一番「ダサい。そんなんで大好きな恵の隣を歩こうっての?」と鼻で笑われてからというもの、自分の歩き方が気になって気になって仕方なかった。

 “パリコレモデルのようにピンヒールで格好良く歩けるようになりたい”という旨のメッセージを真希先輩に送れば、すぐに“お前は何を目指してんだよ”という鋭いツッコミが返ってくる。返事を入力するより早く、“明後日、覚悟しとけよ”と背筋の凍るような言葉がスマホの画面に表示された。明後日の自分へエールを送りつつ、見なかったことにするようにバッグの底にスマホを押し込んだ。

 先月から“しごき”と称した修行が始まった。二年生である真希先輩、パンダ先輩、狗巻先輩の三人がわたしたち一年生をみっちり鍛えてくれているのだ。恵くんと野薔薇ちゃんは九月に控えた京都の姉妹校との交流会への参加を、わたしは秋分の日に斎行される宮中祭祀の警備への参加を目的として。

 その引鉄になったのは虎杖くんの存在だった。虎杖くんの“死”はわたしたちの心に深い爪痕を残した。強くなるためなら何だってする――わたしたちはそんな思いで、真希先輩たちからの容赦ないしごきに必死で喰らい付いているのだけれど。

「……恵くんに会いたい」

 羽虫の舞う闇夜に小さな呟きが撹拌する。無意識に漏れた心の声に、あっという間に顔が熱くなった。

 わたしは術式の特質上、恵くんや野薔薇ちゃんのように前線で戦うには全くの不向きだ。「ソシャゲで言うならバフ担当のサポートキャラ。のバフってキャラの性能をぶっ壊すレベルでチートだし、デバフも回復もそつなくこなすから重課金してでも絶対引きたいよね。自身の攻撃と防御は蠅頭以下のクソ雑魚だけど」と悟くんがよくわからないことを言っていた。褒められただけではないことは何となくわかる。

 皆のように呪霊を祓うことができないわけではないけれど、その代償として“最も大切な人の記憶が消える”となれば、可能な限り後方支援に徹したいというのが本音だった。そういうわけで、わたしは己の身を守ることを一番に考えた修行メニューを真希先輩に組んでもらっている。

 演習場での走り込みや下半身を強化するための筋トレ――つまりどんな不利な状況だろうと必ず逃げ果すことを目標とした内容だ。その極め付けの修行はパンダ先輩と狗巻先輩との“鬼ごっこ”だろう。

 実戦を想定した修行の一環として、あの巨体からは想像も付かぬ機敏さで動くパンダ先輩と短距離走のオリンピック選手も舌を巻きそうな俊足を誇る狗巻先輩から一分間逃げ続けるという、文字通り“地獄の鬼ごっこ”がほぼ毎日開催されている。けれど悲しいかな、一度も逃げ切れた試しがない。気づいたらすでに目の前にいた、なんてことは常である。彼らから逃げ果せることなど、もはや一生かかっても無理かもしれない。

 わたしのトレーニングは基本的にひとりで行うものばかりだから、必然的に恵くんや野薔薇ちゃんとの会話は少なくなっていた。女子寮で頻繁に顔を合わせる野薔薇ちゃんはまだしも、恵くんと言葉を交わす機会はめっきり減少している。

 まだまだ練習途中の食事風景を見られたくないがために、食堂からうんと離れた空き教室を借りて、マナー講座の動画を観ながら朝食や昼食をひとりで摂るようになった。加えて夜は外食ばかりで食堂にも居付かなくなったせいだろう、恵くんと挨拶は交わしても以前のように話すことはほとんどない。

 ひどく寂しい気持ちが込み上げて、わたしはその場で立ち止まった。感傷に浸るように視線を周囲に這わせれば、遠くのほうに人工的な白い光が見える。それが演習場の投光器だと思い至るや、切ない感情がわたしの口端に苦い笑みを刻ませた。

「……花火、したいな」

 もうしばらく、恵くんと花火をしていない。最後に一緒に花火をした日のことは昨日のことのように鮮明に覚えていても、それがずっと前の、それも先月半ばの出来事だと思うとひどく物悲しい気持ちが心を占めていく。

 花火の約束した日に一度、その三日後に一度。恵くんと花火をしたのはまだたったの二回だけだ。彼の部屋に保管されているはずの花火は、まだまだたっぷり残っているだろう。

 外食に行くと、悟くんは思い付いたように寄り道をする。行き先は遠くのコンビニだったり、スイーツの美味しいファミレスだったり、あとは行く当てもないドライブだったり。だから帰宅時間が読めなくなって、花火の約束をするのが少し難しくなった。恵くんを夜更かしに付き合わせるのが申し訳なくて、わたしは自分から約束を取り付けなくなった。

 それは恵くんも同じだった。急に忙しくなったわたしを気遣ってくれているからか、それとも単純に言葉を交わす機会が減ったからか、花火の話題を口にすることはない。けれど、理由はそれだけではないような気がした。

「……余計なことだって、わかってたのにな」

 こうやって距離を置かれることは最初からわかっていたことだった。深い悲しみに沈む彼をどうしても放っておけなかったのだと心の中で言い訳を繰り返し、肋骨の中から溢れそうになる寂しさを紛らすようにハンドバッグをきつく抱きしめる。

 真夜中を間近に控えて濃密さを増した闇の中に、赤と青の眩い光が弾けていく。周囲に薄っすらと白い煙が垂れ込めて、燃えた火薬特有の酸味を含んだ尖った匂いが鼻孔を掠める。

 ――最後に恵くんと花火をした記憶が、色鮮やかに甦った。



* * *




「……少年院に行ったとき、死んだ収容者の母親を見ただろ」

 最後の一本になった手持ち花火をこちらに差し出しながら、恵くんは全く表情の浮かばぬ顔で口火を切った。それまで続いていた取り留めのない会話が途切れて、彼との間に流れる心地好い沈黙に浸っていたときだったから、突然のことにわたしは少しだけ驚いてしまった。

 数日前の記憶を呼び起こすまでもなく、ハンカチを握り締めて涙する女性の姿が瞬く間に脳裏に浮かぶ。それから、上半身だけになった少年の惨い遺体も。

 わたしはゆっくりと視線を落として、赤い火花を散らし始めた花火を見つめた。彼の会話の邪魔にならぬよう、「……うん」と口数少なく相槌を打つ。身体に廻る全ての神経を彼の声音に集中させるようにして。

 やや間を空けると、彼は抑揚に欠けた静かな口調で二の句を継いだ。

「その母親に……一昨日、会いに行った」

 花火の音に掻き消えそうなほど小さい声音を、わたしはそうっと拾い上げる。どうして――とは、訊かなかった。きっとお兄ちゃんが死んだときと同じように、大切な子どもを亡くした母親に深々と頭を下げたのだろう。助けられなかったことを一心に詫びたのだろう。

 誰より責任感の強い彼らしい行動だと思いながら、訥々と続く言葉に耳を傾ける。

「話せることだけ、正直に話した。俺は、善人ではない人間を……少年院の人たちを助けることに、懐疑的だったこと。けど、お前たちはそうじゃなかったこと。待っている家族のために、遺体を持ち帰ろうとしたこと」
「……うん」
「アイツが……虎杖が言った通り、遺体もなしで“死にました”じゃ、残された家族は納得できないと思った。だから、虎杖を置いて逃げる途中に、遺体から千切った名札を……あの母親に、渡した。別に罪滅ぼしとか、罪悪感から逃れたいとか、そういうわけじゃない。ただ何となく……そうするべきだと思ったからだ」
「……うん」
「そうしたら、あの母親は、息子が死んで悲しむのは自分だけだ、って言って……声を上げて、泣いて……」
「……うん」
「それで、俺は…………」

 しかし、その先の言葉が紡がれることはなかった。視線を持ち上げると、恵くんは感情の凪いだかんばせで消えた手持ち花火の先端をじっと見つめていた。やがてわたしの手元で弾けていた花火が消えて、辺りに沈黙が垂れ込める。視線に気づいたように彼は白群の瞳をこちらへ寄越すと、すぐに気まずげな様子で目を逸らした。

「……悪い。結局、何が言いたいんだろうな」

 己と対話するように小さく独り言ちるや、恵くんは手際良く花火の後片付けを始める。深く俯いているせいだろう、長めの前髪に遮られて彼の表情が全くわからなかった。

 あっという間にゴミ袋の口を結んでしまうと、彼は踵に力を入れるようにして折り曲げた膝を伸ばした。砂利を踏みしめる音がやけにはっきりと聞こえた。しゃがみ込んだままのわたしを視界に入れて、居た堪れなさそうに深く顔を伏せる。

「何も考えずに話し始めて悪かった。今日の分も終わったし、これで」

 まるで言葉でも失ったかのように、恵くんの声音はそこで再び途切れた。代わりに、彼の手に握られていたゴミ袋が地面に落ちる音がする。彼は小さく息を呑んだ。

「……なん、で」

 わたしは恵くんを真正面から抱きしめたまま、囁くような柔らかい口調で答えを返す。

「わたしがね、今ちょっと泣きそうだから」

 “わたしが”という言葉を殊更に強調すると、呆然とする彼の背中に優しく腕を絡めて、己の額を彼の身体にそっと預けた。思い切った行動に出たせいだろう、激しく脈打つ心臓がひどくうるさい。一拍遅れて、不安が頭をもたげた。彼が好きだということが勘付かれるかもしれないし、彼に嫌われてしまう可能性も決してゼロではない。

 それでも、滲み出した後悔を拭うように、わたしは恵くんを少しだけ強く抱きしめた。

「わたしが泣きそうなときは、いつもお兄ちゃんがこうやって抱きしめてくれたんだ。悲しい気持ちは半分こすると良いんだよ、って言って。悲しい気持ちをずっとひとりで抱えておくのは、本当に大切なものまで見失ってしまうからあんまり良くないんだって」

 お兄ちゃんの穏やかな笑みを思い返しながら、優しい声音で言葉を続ける。

「だからね、わたしの悲しい気持ち、恵くんにもちょっとだけ受け取ってほしいなって」

 一心に子どもの身を案じていたあの母親に会いに行った話を、恵くんはわたしが相手だから話したわけではないだろう。今日のようにひどく静かで優しい暮夜は誰をも感傷的な気分にさせる。こうして話してくれたのはきっと感情の整理のためで、彼にとっては誰が相手でも良かったはずだ。

 わかっていても、わたしを話し相手に選んでくれたのがうれしかった。恵くんが滅多に見せることのない心の隙を、心の一番柔らかい部分を、わたしだけに見せてくれたようで。

 だからこそ、ひどく苦しそうな彼の表情を見ているのがつらかった。恵くんはわたしのように弱い人間ではない。家族を殺された復讐に生きるような人間ではない。わたしからの慰めも気休めも必要ないと、ただ迷惑になるとはっきり理解していたのに、身体が勝手に動き出すのを止められなかった。

 恵くんの深い悲しみを少しでも和らげられる方法があるなら、何でもしたいと思ったのだ。そう、わたしにできることなら何でも。どうしても、恵くんをひとりぼっちにしたくなかったから。

 黒いTシャツを一枚隔てた向こうから、彼の体温がたしかに伝わる。触れている場所全てが優しい温かさを帯びていて、わたしはつま先を僅かに前進させて、その身体をより強く抱きしめた。それ以上何も言わなかったし、何も言わなくても伝わると信じていた。

「……別にそんなんじゃねぇよ。お節介」

 やがて、背中を丸めた恵くんがわたしの左肩に軽く頭を預けた。跳ねた黒髪が首元をくすぐる。決して泣いているわけではないだろう。それでも、彼の内側が深い悲しみの中にいるのが手に取るようにわかる。虎杖くんの“死”も彼に追い打ちをかけているのだろうと思った。

 わたしは曲線を描いた背中をとんとんと優しく叩いた。ゆっくりとした一定のリズムで。いつもお兄ちゃんがそうしてくれたように。彼の中から暮夜にも似た深い悲しみが少しでも遠ざかることを願いながら。

「……
「ん?なぁに」
「……何でもねぇ。呼んだだけだ」

 左肩に乗った重みが増して、腰の辺りが温かくなる。簡単に振り解けるほどのひどく弱い力で腕を回されたことに遅れて気づく。躊躇いがちな指先がわたしの安っぽいTシャツに触れて、そのまま軽く握りしめたのがわかった。

 恵くんの悲しい気持ちが、少しだけ、わたしに移ったような気がした。