ひどく急いたような、しかし踊るように軽やかな足音が消え失せてしまえば、後に残されたのは夜の香りを纏った静謐な空気だけだった。

 伏黒恵は手元に視線を落とし、ホームセンターのレジ袋に詰められた大量の花火を見つめる。ほとんど減っていないそれの続きをに申し出たのは、他でもない恵だった。

「……何であんなこと」

 芽吹いた戸惑いを吐露するように呟いた瞬間、物柔らかな声音が耳の奥で響いた。

「帰って来たら悟くんとしようかなって」

 恵の小さな舌打ちが闇夜に撹拌する。最強を冠する男の胡散臭い笑みが脳裏を灼き、抱えきれぬほどの苛立ちが瞬く間に噴き出した。「クソ」と乱暴な手付きで後頭部を掻きむしる。

 そうしたところで気が紛れる訳もないとわかっていても、ほとんど抱いたことのないその感情を一体どう扱えば良いのか皆目見当もつかない。恵は吐き捨てるように自らを罵った。

「……ガキかよ」

 情けないほど、伏黒恵は五条悟に嫉妬していた。

 事の発端はおそらくの発言ではない。“五条”と印字された学生証を受け取ったあの瞬間に、その感情はしっかりと芽を出していたのだろう。恵の内側に広く深く根を這わせていたのだろう。

 の新しい学生証を手にしたとき、恵は何かの間違いではないかと自らの目を疑った。そのあと自分でも呆れるほど取り乱してしまったのは、単に同級生と担任教師が突然結婚したことに驚いたせいだとばかり思っていたが、冷静になって考えてみれば“同級生と担任教師が結婚した”という考えに至った自分のほうがどうかしていたように思う。

 五条はをいたく気に入っている。あまりに露骨な特別扱いはこれまで何度も目にしてきた。親しかった樹の妹だからか、謎の多い術式を持つを術師として買っているからか、それとも単純に恋愛対象のひとりとして見ているからか――その理由は恵の窺い知るところではない。

 いくら日頃の行いが悪いとはいえ、あの男は教師という職業にそれなりの責任感と矜持を持っているようだし、の言うように“未成年の教え子に手を出す”ほど倫理観が世間一般から外れているようには感じられない。

 となれば、やはり恵のほうがどうかしていたのだ。

 の名字が変わったのは五条家に養子に入ったからだという、冷静な頭で少し考えればわかるような恥ずかしい思い違いをした時点で、調子が狂っていることに気づけば良かった。しかしあのときの恵にそこまでの余裕はなかったし、平静な状態ではなかったからこそ、が突然五条家に養子に入った理由を聞き出すためにわざわざ花火を買いに行ったのだろう。

 唐突に花火がしたいと言い出したに対して、恵は文句のひとつも言わなかった。なりの理由があるのだろうと勝手に結論付けて、そもそも何故花火なのかという疑問すら口にしなかった。

 最寄りのコンビニに花火が見当たらなければ、品出しをしていた店員に尋ねてまで花火を買い求めた。まだ入荷していないことを知るや、結局ホームセンターまで足を運び、目当ての手持ち花火を手当たり次第に買い物カゴに放り込んだ。

 結構買ったなと思いながら、特に躊躇いもなく一万円札を財布から出した。五条との約束を控えているのために、全速力で走って呪術高専へ戻った。

 そして、の我儘のために奔走するその間――恵はたったの一度も、のために花火を買い求めることが面倒だとは思わなかった。

 きっとその時点で、何もかもおかしくなっていた。すっかりボタンを掛け違えていることに気づかなかった。手遅れな感情は早々に恵の手を離れ、恵の気も知らずに好き放題振舞っていた。だから。

「帰って来たら悟くんとしようかなって」

 のあの発言を、平然と聞き流せなかった。

 ――なんで俺じゃねぇんだよ。

 花火を買いに行ったのは五条ではなく自分だという気持ちが、どうしても拭えなかった。

 肋骨の内側を隅々まで蝕むほどの濁った衝動に突き動かされるまま、恵は立ち去ろうとするを引き留めた。どうにでもなれと半ば捨て鉢に花火の続きを申し出た。そして、そんな恵に対して、は。

 あのときのの反応を思い出したせいで、恵の思考が瞬く間に切り替わる。恵はから預かった荷物を片手に、遠くのほうで浮かぶおぼろげな明かりを頼りにして、男子寮へ向かってゆっくりと歩き出した。

 真新しい記憶を辿るたびに増していく違和感に、きつく眉根を寄せる。

「……、変だったな」

 恵の申し出に対して、はまるで子どものように喜んでいた。そのあと夜目にもはっきりわかるほど顔を真っ赤にして、聞いてもいないのに「伏黒くんと花火できるのがうれしくて、つい……」と大声を出して喜んだことへの謝罪と言い訳まで口にしていた。

 たしかにあのとき、恵自身が普通とは言いがたい状態だった。いつもの冷静な恵とはかけ離れていた。判断能力も観察眼もすこぶる鈍っていたことを加味したとしても、のあの様子は間違いなく変だった。恵に対する態度が普段のそれとは大きく異なっていたのだ。

 恵を追う視線の柔らかさ、どこか緊張したような優しい声音、ふとした瞬間に滲み出すひどく寂しげな表情。

 なかでも特に違和感を覚えたのは、恵に対する視線の向け方だった。は恵の一挙手一投足に神経を張り巡らせていた。元よりは他の誰より他者に目を配る性格だが、それでも恵に対してあれほど真摯に視線を向けていたことが今まで一度でもあっただろうか。

 まるで“あなたはわたしの特別です”とでも言わんばかりの、優しさと熱っぽさに縁取られた煌めくような瞳。

 産まれてからこのかた、恋愛にとんと興味のなかった恵でも薄々察してしまうほどのそれは、しかし相手がだからこそ確信を持てないでいた。

「……んなわけねぇだろ」

 樹の穏やかな笑みが脳裏を掠める。どういう経緯であれ、からあの笑顔を奪ったのは恵だ。

 加害者と被害者。憎悪と嫌悪を向けられて当然の関係性。そこに厭悪は生まれても恋慕が生まれる道理はない。万が一にも――有り得ない。

 他人の不調を嗅ぎ取ることに特別長けたのことだ、きっといつもと様子が違う恵のことを、病人を労わるように明るく優しく気遣っていただけだろう。昨日聞いたばかりの、抑揚に欠けた機械音声が紡ぎ出した“好きな人”という単語も、きっと恵の聞き間違いに違いなかった。

 その場で足を止めた恵の視線が、再び花火へと落ちていく。口端に自虐的な笑みが浮かんだ。

「手遅れにも程がある……」

 相手の一挙手一投足に神経を張り巡らせ、あまつさえ、そのひとつひとつを都合の良いように解釈していた自らの愚かさに吐き気がした。どう足掻いても引き返せないならこの感情は墓場まで持っていく――そう決めたというのに、こうも調子を崩していてはに勘付かれるのも時間の問題だろう。

 決して気づかれてはいけない。誰にでも優しいは、きっと恵を拒絶しないから。心の奥底でたとえどんな感情を抱いていたとしても必ず相手の気持ちを優先する、紛うことなき善人だから。

 恵はスマホを取り出した。花火の続きを申し出た本当の理由を隠したいなら、今すぐにでも適当な理由を付けて断るべきだろう。

 わかっているのに、一向に指が動かなかった。

 に気づかれないように振る舞えば良いのではないか。が今日勘付くとは限らないし、そもそも恵を恋愛対象外として見ているからこそ気づく可能性は恐らくかなり低いはずだ。人を疑うことを知らないなら、適当な嘘を重ねておけばきっと誤魔化せるだろう。

 恵の頭を延々と廻るのは、その場を乗り切るための駆け引きばかりだった。

 首をもたげた浅ましい欲に抗うことがまさかこれほど難しいとは思ってもみなかった。自分で考えているよりもずっと、とふたりで過ごす時間を楽しみにしているらしい。

 恵は長くて重い嘆息をひとつ落とした。手に負えない感情を相手にするのももう限界だ。慣れない疲労感のせいか、徐々に足取りが重くなっている。

 諦めるように思考を放棄すれば、途端に腹の虫が鳴き出すほどの空腹感に襲われた。男子寮へ向かう道すがら食堂を覗いてみたものの、時間が時間だからだろう、完全に消灯した室内に人の気配はない。

 どうせまた使うからと男子寮の軒先に荷物をまとめていると、軋むような音とともに玄関の扉がゆっくりと開いた。白群の視線を持ち上げた先で、棘とパンダがわざわざ恵を出迎えていた。

「こんぶ」
「おかえり。遅かったな」
「コレ置きに来ただけです」

 恵は素っ気ない口調で言うなり、流れるように踵を返した。パンダが慌てて声を掛ける。

「出かけるのか?今から?」
「晩飯食い損ねたんで、コンビニ行ってきます」

 首だけで振り返って質問に答えると、恵は用は済んだとばかりに歩き出した。花火の有無を尋ねた店員が店にいないことを頭の隅で祈ったそのとき、「明太子!」と棘の大声に引き留められる。足を止めた恵が振り向くより早く、棘はおにぎりの具を付け加えていた。

「すじこ」
「……え?」
「すじこ!」
「そこで待ってろって、それどういう――」

 ポカンとした恵の言葉に最後まで耳を傾けることなく、棘は慌てた様子で寮の中へ消えていった。思わぬ足止めを喰らった恵はパンダに視線を送ったものの、パンダも棘の意図を計り兼ねているのだろう、困ったように肩をすくめるばかりだった。

 およそ三分も経たぬうちに、棘は恵のもとへ戻ってきた。大きな段ボール箱を両腕にしっかりと抱えた状態で。

「ツナマヨ」

 目元に淡い笑みを刻んだ棘は、蓋の開いた段ボール箱を恵にずいと差し出した。怪訝な色を浮かべた恵がその中を覗き込み、驚いたように目を瞠る。

 段ボール箱には即席ラーメンが隙間なく詰め込まれていた。カップ麺に袋麺、加えてその味の種類もさまざまだったが、恵が特に気になったのはコンビニやスーパーで目にしたこともない即席ラーメンがほとんどだということだった。

 どこで買ったものだろうと疑問を覚えれば、恵の心を読んだように棘が即座に説明を付け足した。

「すじこ」
「ご当地限定のラーメン?出張のたびに買ってたんですか?」
「しゃけ。ツナツナ」
「好きなのどれでもって……でもコレ、狗巻先輩が食べるために――」
「おかか、ツナマヨ、明太子」
「……じゃあ、そこまで言うなら遠慮なく。ありがとうございます」

 恵はしばらく段ボール箱を覗いたあと、「すみません、腹減ってるんでふたつ食べても良いですか?」と言って、ご当地限定カップ麺をふたつ取り出した。棘とパンダは“たくさん食べることは良いことだ”とでも言いたげな顔をして、一階の給湯室へ向かう恵のあとに続いた。

 袋詰めされたかやくやスープを取り出した恵は、すぐ後ろに立っている棘とパンダに視線を投げる。何故ふたりはここまでついてきたのだろう。カップ麺に湯だけ注いで自室に戻るつもりだった恵は、ふとそんな疑問を抱いていた。ひどく嫌な予感がする。

「ひとつ確認して良いですか?コレ食べたからって別に見返りとか求められませんよね?」
「すじこ」
「例えば?……例えばって言われても、ぱっと思い付きませんけど……」

 気まずげに視線を逸らして言い淀む恵に、パンダは「考えすぎだろ。棘はそんな奴じゃない」と朗らかに笑った。そう言われてしまえばこれ以上言及するのは失礼な気がした。恵はどこか腑に落ちないままカップ麺に湯を注いでいく。

 蓋をしたカップ麺を映す恵の視界に突然、棘の顔が入り込んできた。普段は伏し目がちな瞳をカッと見開いた表情はまるでホラー映画のそれだった。驚きのあまり声も出せず硬直する恵を至近距離で見つめながら、棘がゆっくりとカップ麺を指差した。

「ツナツナ」
「……は?」
「おかか、いくらっ!」

 声の調子を変えた棘が“残念、そんな奴でしたっ!”と茶目っ気たっぷりに笑えば、いつの間にかすぐ隣に立っていたパンダが「湯を入れたからには話してもらわないとなぁ」と演技めいた口調とともに恵の肩に手を置いた。決して恵を逃がさぬよう、人間によく似た指が強張った肩を力強く鷲掴んでいく。

 状況を何とか飲み込んだ恵はやや掠れた声を押し出した。

「……話すって、何を」

 その言葉にパンダと棘がにやりと笑う。人を弄する道化師じみた軽薄な笑みは、最強を冠するあの男にそっくりだった。

「さっき演習場でと花火してただろ。何があったのか詳しく聞かせてもらおうか」
「しゃけしゃけ」

 恵の嫌な予感は、見事に的中した。