誰もいない演習場の端で、わたしはたっぷりと水を張った銀色のバケツを見つめていた。夜間演習のために設置された投光器がここからずいぶんと遠く離れた場所にあるせいか、わたしの足元に届く人工的な白い光はひどく頼りなげだ。とはいえ、花火を楽しむならもう少し暗くてもいいかもしれないけれど。

 引火しやすい物が比較的少ない演習場であれば花火をしてもいい――そう許可を出してくれたのは伊地知さんだった。わたしはおもむろにスマホを取り出すと、既読を付けた伏黒くんからのメッセージに目を落とす。“今から戻る”という短いそれが届いたのは三十分ほど前だ。

 おそらく時期が早かったのだろう、最寄りのコンビニに手持ち花火がひとつも売っておらず、わざわざ近場のホームセンターまで足を伸ばしてくれたらしい。

 もうすっかり日が沈んだ北の空を見上げる。投光器の白光にも掻き消されることのない北斗七星を夜空に結ぶと、それを目印に北極星を見つけた。カシオペヤ座に焦点を移動させたところで、「遅くなって、悪い」と右側から息切れした声を掛けられる。

 鼻先を動かせば、肩で息をする伏黒くんと目が合った。悟くんとの予定を控えたわたしを気遣って、急いで戻ってきてくれたのだろう。前もって凍らせておいたスポーツ飲料の入ったペットボトルを差し出せば、「助かる」と言って、半分ほど溶けたそれを彼は躊躇なく口にした。

 暗がりでもわかるほど、顔に汗が滴っている。何もおかしなことはないのに自然と見入ってしまう。

 肋骨のずっと奥に甘い痛みが広がるのがわかった。不用意に見つめれば勘付かれるとわかっているのに、何故か視線を外すことができない。

 彼がスポーツ飲料を喉奥に流し込むたび、浮き出した喉仏が上下する。男性に多くみられる身体的特徴が、伏黒くんの輪郭を特別な対象として彩っていく。

 汗をかいたペットボトルから離れた唇に視線が移る。ほとんど反射的に、伏黒くんのかさついた唇の感触を思い出した。蘇った記憶があっという間に脳裏を占領する。

 ――わたし、伏黒くんと今まで平然と。

 無意識に自らの唇を触っていた。顔に熱が集中しそうになったそのとき、伏黒くんがペットボトルを片手に怪訝な表情を浮かべた。

「……これ、のだったのか?」
「ちっ、違うよっ?!」

 慌てて否定したせいだろう、声が少し裏返ってしまい恥ずかしくなる。“見惚れていました”などとは口が裂けても言えるはずもなく、さっさと話題を変えるために視線を移動させた。彼の右手に握られた大きな白いビニール袋はずっしりと重そうだ。

「花火、いっぱい買ってきてくれたんだね」
「どれが良いのかさっぱりだったからな」
「わざわざ遠くまでありがとう」

 足りるだろうかと思いつつ、用意していたお金を渡そうとすれば、「別にいい」と言って断られてしまった。しかしそれではわたしの気が済まないのでしばらく食い下がったものの、伏黒くんは「いらねぇ」の一点張りで決して受け取ろうとしなかった。

 渋々わたしが折れたところで、伏黒くんが眉根を寄せた。

「なんで花火」
「えーっと……夏の思い出作り?」
「……素直に言うこと聞いた俺が馬鹿だった」

 うんざりとした様子でそう言うと、彼は長いため息を吐き出す。しかし、意外にもそれだけだった。

 わたしの我儘に対して怒るわけでもなく、やっぱり花火代を渡せと言うわけでもない。その場にしゃがんで透明のビニール包装を破り、黙々と花火の準備を進めている。わたしは彼の隣で膝を折ると、束になった花火を一本ずつ解く無骨な手を見つめた。

「なんだよ」
「……怒らないんだなぁと思って」
「意味もなく花火したいって言ってるわけでもないんだろ。別に話したくねぇこと話せとは言わねぇよ」

 素っ気ない口調の奥に隠された優しさに、じんわりと胸が温かくなった。伏黒くんがわたしに向ける優しさが罪悪感故のものだとわかっていても、都合良く勘違いしてしまいそうになる。

 不毛な感情を抱く自分に胸の内で苦笑しながら、わたしは適当な花火を手に取った。準備を終えた伏黒くんがライターを手に、わたしを軽く睨め付ける。

「絶対こっち向けんなよ」

 その言い草にむっとする。人のことを何だと思っているのだろう。心外だと憤る間もなく、地面を見つめる花火の先端に橙色の火が灯る。

 一瞬だった。白い煙とともに勢いよく閃光が迸る。伏黒くんの瞳よりも鮮やかな青は、薄暗い闇夜に美しい直線を描いていった。

「……懐かしいな」

 小さく呟かれたその言葉に引っ張られるように、わたしの焦点が移動する。青に照らされた彼のかんばせに目が釘付けになって、花火を持つ手に自然と力が入る。何かが擦れ合うような騒がしい花火の音が鼓膜を打ち続けるのに、心臓から響く音のほうがずっとずっとうるさかった。

 わたしは花火に目を落とすと、声量を抑えて言った。

「火の近くで話した言葉は、鱗の呪いに聞かれることがないんだって」
「……ってことは、今から聞かれたくないことを話すのか」
「うん」

 頷くわたしから白群の双眸が外れた。伏黒くんは自らの手に持った手持ち花火に火を点ける。橙をほんの少し混ぜたような目映い黄色が一直線に激しく弾けた。微弱な風に乗って火薬の臭いが広がり、鼻腔の奥を掠めていく。わたしは青と黄の花火に見入ったまま唇を開いた。

「わたしね、五条家の人間として、“帝付き”の術師になるんだ」
「……は?“帝付き”って」

 彼の顔を見ずとも、耳を打った掠れた声音だけで、彼が今どんな表情をしているのかがわかった。わたしは勢いを失いつつある青い花火の先端に、次の花火のそれをぴたりとくっ付けた。奪い取るように新しい花火に火を灯せば、今度は彼のと同じ黄色が迸る。とうとう消えた青い花火を地面に置くと、ゆっくりと説明を加えた。

「この国の“象徴”の警護が主な仕事だよ」
「……もしそれが失敗したら――」
「最悪の場合、元号がころっと変わるかもしれないね」

 言葉を失っている伏黒くんの気持ちはよくわかる。こうして説明をしているわたしだって、現実味のない話と未だにどう向き合えば良いのか、全く手探りの状態なのだから。

「わたしの領域はちょっと特殊だから、修行すれば複数同時に展開できるようになるって悟くんが言ってた。将来的には皇居も国会議事堂も各省庁も、全部まとめて守れるようになるよって」
「……この国の中枢をお前ひとりで守れって?」
「ほらね、責任重大で大変でしょ?」

 茶目っぽく笑いかけながら、わたしは次の花火に火を点ける。彼は燃え尽きた花火を一向に掴んだまま、軋んだ声音を押し出した。

「……なんでを政治の道具に」
「政治?……伏黒くん、あの、これ多分そんなに深刻な話じゃなくて」
「お前それ本気で言ってんのか」

 氷点下の響きに頬をぴしゃりと打たれる。その剣幕に気圧されたわたしが低く呻くと、彼はひとつ嘆息した。そして纏う空気を和らげつつ、手早く花火を持ち替えていく。

「……はその話をどう理解してんだ」
「ニュースに取り上げられるような偉くてすごいひとたちをわたしが守るってこと」
「小学生の回答かよ」
「えっ、小学生はひどくない?」
「本気で何もわかってないんだな。その話には利権が絡んでんだよ。真っ黒の利権が」
「……真っ黒の利権?」

 言葉をなぞりながら、わたしは首を傾げた。そういえば悟くんが昼間そんな話をしていたことを薄っすらと思い出す。“多額の金が回って来なくなる”だとか“莫大な利権を失う”だとか、わたしの理解が到底及ばないことを言っていた。伏黒くんが指摘しているのは、つまりその話のことなのだろう。

「要するに呪いの見えない要人を守ることを条件に莫大な金銭を貰ってるってことだ。術師や補助監督の給料がどこから出てんのか、一度も考えたことないのか」
「……うん」
「だろうな。期待なんかしてなかったが」
「……それはそれで悲しいね」
「話を戻すがお前の養子縁組の件。帝付きに選ばれるのはほとんどが御三家の人間だ。五条家に養子に入ることが高専の利権を守るためだってことくらい俺にもわかる。が何もわかんねぇ馬鹿だからって、あのひとも一体何のつもりだ」
「……何もわからない馬鹿」
「そもそもなんでいきなり……まさか虎杖が死んだことと何か関係があるのか?」
「えっ」

 素っ頓狂な声を漏らして、すぐにしまったと後悔する。伏黒くんの鋭い言葉に胸を抉られ続けていたせいだろう、その流れで思わず素の反応を返してしまった。帝付きの術師になるために五条家に養子に入ったという情報だけで、そこまで行き着くとは思ってもみなかった。

 伏黒くん恐るべしと心の内で呟いていると、白群の瞳がこちらを鋭く睨め付けた。

「関係あるんだな?」
「……あるような、ないような」

 ひどく曖昧な笑みで誤魔化しつつ、鮮やかな赤い閃光を放つ花火を見つめる。地面ばかりを映す視界に青い光が混ざり始めたとき、伏黒くんがどこか諦めたような声音で言った。

「どうせ五条先生に“帝付きになれば今回みたいな等級違いの仕事を回されないようになる”とでも言い含められたんだろ」
「……どうしてわかるの?」
「お前が頷く理由なんて、それくらいしか思い付かねぇよ」

 上層部の嫌がらせに真っ向から立ち向かうより、嫌がらせをされないほど偉くなって発言力を持てばいい――それが悟くんの考えた作戦だった。

 義妹のわたしが帝付きの術師になれば、悟くんは虎杖くんの処遇にもっと強く意見できるし、昨日のように等級に見合わない任務が割り当てられることもなくなる。伏黒くんや野薔薇ちゃんを危険に晒す可能性がぐっと減るのだ。大切なひとが死んでしまう危険を少しでも減らすことが出来るのだ。

 伏黒くんたちの当たり前の幸せを守れるなら、政治の道具になろうと真っ黒な利権に関わろうとも構わなかった。わたしに出来ることなら何でもする。その言葉に嘘偽りはない。

「先輩たちとの修行、わたしも明日から参加する。真希先輩にはもう伝えてるからよろしくね」
に守られなきゃならねぇほど、俺も釘崎も弱くねぇからな」

 砥いだばかりの刃物のように双眸を鋭く煌めかせる彼に、「うん、知ってるよ」とわたしは柔和な笑顔を返した。

 この選択はわたしの我儘で、ただの自己満足だ。伏黒くんや野薔薇ちゃんからすれば、ありがた迷惑というやつかもしれない。たとえそうだとしても自分で決めたことを最後までやり遂げよう、そう思ったとき、持っていた花火の光が瞬く間に消えた。

 仕事を終えた花火ばかりを集めていると、ちょうど火が消えた花火を持ったまま、伏黒くんが抑揚に乏しい調子で尋ねた。

「……もう良いのか」
「本当はちょっと名残惜しいけど、話すことは全部話したから。つまんないことに付き合わせてごめんなさい」

 自らの発言に傷つくことは最初からわかっていたから、こちらの表情がわからないように姿勢を変えて後片付けを本格化させる。伏黒くんはわたしと花火をしたところで楽しくも何ともないだろう。つまらなかっただろう。考えるだけで、ひどく胸が痛んだ。この痛みが全て、この薄暗い夜に溶けてしまうことを祈った。

 花火をしたい理由について、“夏の思い出作り”と答えたのはあながち嘘ではない。伏黒くんと花火をしたかったのだ。他の誰でもない、伏黒くんが相手でなければ意味がなかったから。

 前もって用意していたゴミ袋に使い終わった花火を入れる。肋骨のずっと奥に根を張る、不毛でどうしようもないこの感情も、用途を終えた花火と一緒に捨てられたら良かったのに。そうすれば、少しは綺麗な思い出になったのに。

 わたしはゴミ袋を口を閉めながら、ホームセンターの袋に残った大量の花火に目を送った。

「残った花火、もらってもいい?」
「ああ。でもどうすんだ、それ」
「ずっと残しておけるものでもないし、帰って来たら悟くんとしようかなって」

 本当は伏黒くんと遊び尽くしたかったけれど、それこそ我儘というものだろう。両手に花火を持って子どものように騒ぐ悟くんの姿が容易に想像できる。それもそれで楽しそうだなと思いつつ、残った花火とゴミ袋、それから水を捨てたバケツを持って立ち上がる。

「こんな時間までごめんなさい。じゃあ、また明日」

 伏黒くんの返事も待たず、わたしは足早に歩き出した。スマホを見れば約束の時間がすぐそこまで迫っている。ゴミ袋を焼却炉に放り込んで、花火とバケツを寮に置いて、高専の駐車場で待つ悟くんと急いで合流しなければならない。

 逸る気持ちが足を急かす。廻る頭が焼却炉までの最短距離を割り出したとき、足を止めるには充分すぎる声量が夜闇に響いた。

「……!」

 伏黒くんに呼び止められたわたしは、振り返るや「どうしたの?」と首をひねる。彼は苦り切った表情を浮かべていた。花火の代金でも請求されるのだろうかと思っていたら、意外な言葉が耳を打った。

「それ、やっぱり俺がもらう」
「えっ?」
「俺が買ったんだから別に良いだろ」
「……それは、そうだけど」

 口早に紡がれた有無を言わせぬ言葉に声を詰まらせつつ、わたしは花火の入ったビニール袋を差し出した。何故か複雑そうな顔でそれを受け取った彼の様子に違和感を覚える。気づけば悟くんとの約束も忘れて、わたしは質問を投げかけていた。

「野薔薇ちゃんたちとするの?」
「……そういうわけじゃねぇけど」
「じゃあ、ひとりで?」
「何でそうなるんだよ」
「捨てるつもりならわたしが買い取って――」
「違う」

 否定とともに伏黒くんは視線を逸らすと、僅かな沈黙を挟んだのち、どこか居た堪れない様子で呟いた。

「……名残惜しいって言ったの、お前だろ」
「え?」
「そもそも俺に花火買って来いって言ったのはだ。だったら最後まで責任持て」

 訊き返したわたしに強い語気で投げ付けられた彼の言葉がうまく理解できなかった。聞き間違いかと思うほど、わたしにとってうれしいものだったせいで。導き出される可能性に期待しそうになるものの、どうせ都合の良い勘違いだろうという思いが拭えない。

「それって、この花火全部、ふたりで一緒にしよう、ってこと?」

 平静さを装うこともできず、子どものようにたどたどしく尋ねれば、伏黒くんは急にばつが悪くなったような顔をする。

が嫌なら――」
「嫌なわけないよ!すっごくうれしい!」

 大声で遮ってしまったせいだろう、驚いた彼が目を点にしている。本日二度目の失態に羞恥で身体が熱くなるのを感じながら、わたしは口の中でもごもごと謝罪と言い訳を紡いだ。

「あ、えっと……また、大きな声出してごめんなさい……伏黒くんと花火できるのがうれしくて、つい……」

 伏黒くんは顔を逸らしたまま、何も言わずに唇を結んだ。ぎこちない笑みを浮かべていたわたしも彼の無反応に心が折れて、自らの失態を胸の内で詰りながら地面に目を落とした。わたしに同情して提案してくれたのだとすぐに思い至らなかったことが、少し情けなくて。

 心臓がむず痒くなるような、手持ち無沙汰な沈黙が流れる。頭の片隅に何かが引っかかっていることに気づき、記憶を手繰り寄せるや否や、雷にでも撃たれたかのように悟くんとの約束を思い出した。忘れていたなどと言った日には駐車場にひとり置いてけぼりにされるだろう。

 スマホで時刻を確認したそのとき、伏黒くんがやっと唇を開いた。

「……五条先生と約束してるんだよな?それ、俺が片付けとく」
「でも」
「いいから早く行け」
「ありがとう!なるべく早く帰ってくるね!」

 言いながら、すでにわたしは駆け出していた。地面を蹴る足が驚くほど軽い。足だけではない、身体そのものが重力を忘れたように軽かった。わたしにそんな魔法をかけた、ただひとりのひとを振り返る。

 伏黒くんはわたしの両手から移動した花火やバケツを片手にまとめて持っている。その姿を目にしたわたしは瞠目した。彼の表情がいつもと変わらぬ澄ましたそれではなく、どこか呆れたような柔らかいものだったから。

 わたしと同じように、少しでもうれしいと思っていてくれたら――あまりにも都合が良すぎる思考に内心苦笑しつつ、わたしは大きな声を張り上げた。

「どの花火からするか、考えておいて!」

 弾む心を表すように地面を蹴った。勝手に頬がだらしなく緩んだ。伏黒くんとの思い出が増えることが単純にうれしくて。深緑に冷やされた夏の空気が汗ばむ額を撫でていく。この夏の間に、伏黒くんとの思い出をたくさん作りたいなと思った。

 ――近いうちに、伏黒くんのことを全て忘れてしまうとしても。