「それってつまり五条先生とが兄妹になったってこと?急になんで?」

 談話室のソファに座って二個目のカップ麺を頬張る伏黒恵は、左隣から聞こえる芯の強い声音に辟易していた。その直後、まるで窘めるかのように「ガキの思い付きと一緒だろ」と、今度は恵の正面から男勝りな声音が放たれる。

 本来男子寮で聞くはずのない異性のそれが当たり前のように響いているのは、パンダか棘のどちらかがふたりに連絡を入れたせいだろう。恵は咀嚼し終えた細麺を喉奥に押し込めると、我が物顔でくつろぐ野薔薇を厳しく睨み付けた。

「禪院先輩はまだしも、なんで釘崎までここにいるんだよ」
「決まってるじゃない――面白いからよ!」

 得意げな顔と揺るぎない強い語調で断言するや、野薔薇は持ち込んだポテトチップスに手を伸ばしながらその理由を懇切丁寧に説明し始めた。

「重油まみれのカモメに火を付ける遊びにしか興味なさそうな伏黒が、人畜無害で病的なお人好しのに馬鹿みたいに振り回されてんのが最高に面白いの。娯楽の少ないここじゃ屈指の娯楽よ。もはや月9よ。つまんない恋愛ドラマ観るより百倍面白いんだから仕方ないでしょ」
「お前の娯楽にすんな。あと何だ重油まみれのカモメって」

 しかし野薔薇は恵の詰るような視線をひらりと躱し、「やっぱポテチはうすしおよね」とひとり感慨深げに呟く。疑問を完全に無視されたことに苛立ったのも一瞬のことで、恵は残ったカップ麺をあっという間に胃の中に収めた。常に我が道を行く野薔薇に対していちいち反応するだけ時間の無駄だろう。

 食事を終えた恵が「ありがとうございました。どっちも美味かったです」と右隣の棘に礼を告げている間に、野薔薇の凛々しい双眸は向かいに座るパンダを撫で付けていた。

「五条になったら何か変わんの?」
「御三家に仲間入りだからな、そりゃ色々変わるぞ」
「例えば?」
「そうだなぁ……野薔薇にもわかりやすいところで言えば、恵の恋が今よりずっと苦難に満ちたものになるとかな」
「えっ何それ!どういうこと?!」

 身を乗り出すようにして食い気味に尋ねた野薔薇を横目に、恵は自らの恋愛が恰好の玩具にされていることに対して触れることはしなかった。

 野薔薇にとって恵のどうしようもない片想いは、下世話な週刊誌の見出し記事やネットを騒がせるトップニュースとほとんど似たようなものなのだろう。野次馬根性を丸出しにする相手を不用意に刺激すれば、こちらが質問攻めに合うのは火を見るよりも明らかだ。それに恵自身、すでに突っ込む気力すら失せている。

 一日でも早く飽きてくれと胸の内で強く願う恵をよそに、パンダと野薔薇の不毛な会話は続いていく。

「御三家の中でも、五条家と禪院家は昔から仲が悪いことで有名なんだ」
「禪院家?……ああ、そういえば伏黒って禪院の血筋だったわね」
「恵から聞いたのか?」
「ううん、五条先生から」

 野薔薇がかぶりを振ると、パンダが呆れた様子で肩をすくめた。

「アイツの前じゃプライバシーも何もないな」
「しゃけ」
「悟からどこまで聞いてるかは知らんが、恵の術式は“十種影法術”――つまり禪院家相伝だ。が養子とはいえ五条家との婚姻なんてそう易々と認められるわけがない。絶対に揉めるぞ」
「しゃけしゃけ」

 深く腕組みをして首肯を繰り返す棘から視線を外し、頬杖を付いた真希が長い溜め息を吐き出した。

「あの馬鹿目隠し、それが目的なんだろ」
「いくら」
「生半可な覚悟でに手を出すなって牽制だよ。アイツ、が恵と仲良くしてると露骨に機嫌悪かったからな」
「結婚に猛反対する家族は恋愛ドラマには必須……ますます面白くなってきたわね……」

 妙に納得した顔でひとり呟く野薔薇に対し、とうとう恵が口を挟んだ。

「なんで結婚の流れになってんだよ。するわけねぇだろ。もっと常識的に考えろ」

 すると野薔薇が途端に顔をしかめる。

「は?なんでよ。結婚しなさいよ」
「は?逆になんでしなきゃいけねぇんだよ」
「決まってるじゃない――最高に面白いからよ!」

 聞いた俺が馬鹿だったと言わんばかりに、恵は盛大に嘆息した。きつく眉根を寄せたまま、抑揚に欠けた低音を絞り出す。

の意思を尊重しろ」
「おかか」
「……狗巻先輩?」
「お、か、か」

 話の腰を折るように差し込まれた棘の指摘に、真希が即座に同意を示した。

「たしかに棘の言う通りだな。五条になったのにって呼ぶ必要もないだろ」
「……けど、そう呼べって言ったのはですよ」
「おかか、こんぶ、すじこ」

 は恵に気を遣っているだけだ――と、棘は首を左右に振って否定した。まるで説得を試みるかのように、「いくら、ツナ、おかか」――つまり“の覚悟を無下にするのか”と真面目くさった表情で言葉を続ける。

 話が嫌な方向に向かいつつあることを察した恵が唇を開くより早く、野薔薇がポテトチップスをつまみながら厳しい視線を寄越した。

の意思を尊重しろって言うなら、五条として接するべきでしょ」
「だからそれは――」
「五条先生の思惑なんて知らない。でもこれが虎杖が死んだことと何か関係があるんだってことも、自分以外の誰かのためを思ってが決めたんだってことも、何となく分かるわよ。だったらなおさらの気持ちを汲んであげるべきなんじゃないの?」

 それは決して恵を茶化すような言葉ではなかった。変わらずと呼んで良いと言ったのはたしかにだが、のこれからを考えるなら五条と呼ぶべきだろう。五条家の人間として生きていくことを決めたに対して、他でもない恵自身が“慣れろ”と言ったことが頭を掠めていく。

 野薔薇の正論に返す言葉もなかった。ばつが悪くなった恵は視線を逸らすと、逃げるように口を噤む。しばらく流れた沈黙は黙りこくった恵を気遣うものだった。野薔薇が黙々とポテトチップスを咀嚼する軽やかな音だけが談話室に撹拌する。

 刻々と眉間の皺を深くする恵を見かねたのだろう、パンダが頬を掻きながら切り出した。

「そんなに難しく考えることなのか?」
「……すみません。名前で呼ぶのは、どうしても抵抗が」

 顔を歪めた恵が蚊の鳴くような小声を押し出す。まだ呼称を変えてもいないのに、すでに心臓の辺りがひどくむず痒くなっていた。

 数ヶ月前には恋人を装ってを名で呼んだこともあるが、あのときと今では状況がまるで違う。への気持ちが全く違う。とにかく気恥ずかしいのだ。恵にとっては名字で呼ばれることを厭う真希を名で呼ぶほうがずっと気楽なくらいだった。

「今しかないわよ」

 そう言いながら、野薔薇が悪戯っぽく口端を吊り上げてみせる。

「名前で呼び始めるには絶好の機会じゃない。もっと彼氏面するチャンスよ」
「してねぇよ」
「ていうか何がそんなに嫌なわけ?減るものでもないでしょ」
「それは……」

 野薔薇の勢いに思わず恵は言い淀んだものの、自分の中の何かが確実に減るという確信だけは持っていた。かぶりを振って自らの発言を否定すると、どこか不機嫌そうな表情で言葉を継ぐ。

「それなら五条って呼ぶほうがマシだ」

 言うや否や、野薔薇ではなく二年生が口々に反論し始めた。

「やめとけ。面白がった悟が反応する」
「すじこ、いくら、ツナ」
「棘の言う通りだ。“恵って僕のことを呼び捨てにできるほど偉くなったの?”って言い出すだろうな。悟が飽きるまでオモチャにされるのがオチだ。恵も嫌ってほど分かってると思うが、そうなったアイツを相手するのは死ぬほど面倒だぞ」
「しゃけ」
「……もう俺に選択肢なんてないじゃないですか」

 途方もない羞恥心より想像を絶する面倒臭さに軍配が上がったそのとき、無機質な機械音が恵の耳朶を打った。談話室に響き渡るそれが己のものだとすぐに気づくと、ポケットから素早くスマホを取り出す。画面に表示された名に片眉が動いたのとほとんど同時に、両隣のふたりが恵のスマホを覗き込んでいた。

からね」
「ツナマヨ」

 含みのある笑みを浮かべるふたりに、恵は頭が痛くなっていた。ここでからの着信に応じるのはどう考えても得策ではないだろう。面倒事を回避したい一心で席を立とうとした恵の肩を、しかし野薔薇と棘が両側から勢いよく押さえ付ける。膝が伸び切る前に動きを完全に封じられ、恵の身体は為す術もなく再びソファに沈んだ。

「やましいことは何もないんでしょ?だったらここで話せばいいじゃない」
「すじこ、明太子、いくら」
「ちょっと何言ってるかさっぱりだけど、狗巻先輩も同じ意見みたいね。多分」
「しゃけしゃけ」

 恵は助けを求めるように向かいに視線を送ったが、真希とパンダは声を揃えて「早く取れ」と言うだけだった。ここには恵の味方など誰ひとりいない。この状況を打破するために頭を巡らせるのも馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 機械音を奏で続けるスマホの画面を骨張った指がなぞる。濃い諦念の色を滲ませた声音で、恵はとうとうからの着信に応じた。

「……どうかしたのか」

 一秒でも早く通話を切り上げるためにそう問いかければ、

「今からそっちに戻るねって伝えたくて。ごめんなさい、今忙しかった?」

と、すぐに通話に応じなかった恵を気遣う優しい声が返ってくる。の柔らかな声音。ただそれだけで心が満ちていったが、決して顔にも態度にも出さずに「飯食ってただけだ」と平然と告げる。

 すると直後、パンダと野薔薇が空になったカップ麺を指差してわざとらしく首をひねった。どうやら嘘を吐いたことに対して何か言いたいことがあるらしい。恵は見なかったことにした。

「用件はそれだけか?」
「ううん。夜更かし付き合わせちゃうけど大丈夫かなって、ちょっと心配で」
「俺から誘ったんだ。気にすんな」

 口が滑ったと思ったときにはすでに遅い。“俺から誘った”という言葉を耳聡く拾い上げた両隣が目を輝かせている。詳細を求める好奇の視線から逃れつつ、恵は頭痛を堪えるように額を手で押さえながら会話を続ける。

「そんなこと訊くためにわざわざ電話して来なくても」
「そういうわけにはいかないよ。僕の健気で可愛い妹に手を出そうとする不届き者にはきつく言い聞かせておかないとさ」

 突として耳を打った軽薄な声音に、「……げ」と恵は顔を引きつらせた。スマホの向こうでは「悟くん、スマホ!スマホ返して!」とが悲鳴を上げている。どうやらスマホを奪い取られたらしい。

 しかしすぐに「あ、コンビニ発見。お金あげるからお菓子でも何でも買っておいで」と五条の声が続けば、の悲痛な叫びはぴたりと止んだ。簡単に買収されたに呆れつつ、恵は不快感を剥き出しにした響きで明瞭に告げる。

「何度も言ってますけど誤解です。に手を出すつもりはありません」

 恵は“そこはだろ!”と正面からも両隣からもきつく睨み付けられたが、すでに恵の意識は厳しい視線から逸れていた。「うん、今はそうだろうね」と全てを見透かしたような五条の言葉に恵の神経が集中していたせいで。

「どういう意味ですか」
「言葉通りの意味だよ。据え膳喰わぬは何とやらって言うでしょ。そういう意味で、僕は恵を一切信用してないからね」
「……はい?」

 万が一にもあり得ない可能性に対して釘を刺す意味がよくわからない。何か別の意図や目論見でもあるのかと訝しんで訊き返した恵だが、スマホから聞こえたのは「え、早っ。秒じゃん」とひどく驚いたような五条の声だった。五条が紡ぐ言葉の矛先は恵からへと移動していた。

「嘘、もう買ってきたの?」
「うん。だからスマホ返して」

 意外にも、は氷塊を沈めたような響きで明朗に告げた。恵の耳にも届くほどの声量を伴って。温和なにしては珍しく怒っていたし、スマホを奪い返すためにさっさと買い物を済ませてきたのは明らかだった。

 スマホを取り戻したは乱れた呼吸を整えると、先ほどとは打って変わって柔らかな調子で話し始めた。

「あ、もしもし伏黒くん?……悟くんが急にごめんなさい。えっと、あの……わたしのことで、何か変なこと言われなかった?」

 何か思い当たる節でもありそうなの口振りに、恵は僅かに眉をひそめる。先刻の言葉は間違いなく恵に向けられたものだが、五条はについても何か言うつもりだったのかもしれない。むしろそちらが本題だったのではないだろうか。現金を握らせてまでを追い払ったのだ、十中八九そうだろう。

 五条が何を言おうとしていたのか少し気にはなったものの、恵はこの場で余計な詮索をするつもりはなかった。どうしても恵に伝えたいことがあるなら、五条から改めて接触があるだろうと予想して。

「特に何も」
「そっか。それなら良かった」

 恵の端的な返答に対して、は安堵した様子で言った。それから少しだけ間を置くと、妙に畏まった口調でおずおずと切り出した。

「わざわざ電話したのはね、伏黒くんにひとつ、提案がありまして」
「提案?」
「そう、提案。さっきは夜更かし大丈夫って言ってくれたけど、きっとものすごく時間がかかると思う。花火、たっぷりあるから」
「まぁ、そうだろうな」
「だからね、その……少しずつ花火をしたほうが良いんじゃないかなと思って」
「日を分けて花火をしたいってことか?」
「うん。伏黒くんが暇なときで全然構わないから」

 にやついた顔で聞き耳を立てる四人を視界に入れないようにしつつ、恵はスマホを持つ手に力を込めた。緊張で舌が回らなくなる前に、一息に言葉を紡いでしまう。

「わかった。がそうしたいなら最後まで付き合う」
「……えっ」

 予想していたというのに、不意を突かれた驚嘆を実際に聞くとひどく焦った。言わなければ良かったという後悔があっという間に心を飲み干していく。が一言も発さなくなったことに焦りと不安を覚えたまま、平静を装って言い訳を口にしていく。

「よく考えてみたんだが、今まで通りって呼ぶのはやっぱり変だろ。馴れ馴れしくて不快なら五条って――」
「不快じゃないよ!全然!ちっとも!」

 早口で紡がれる弾んだ声音に、今度は恵が驚いてしまった。日暮れに交わされたばかりの、似たようなやり取りが頭を掠める。は恥ずかしそうに言った。

「ごめんなさい、今日は急に大きな声出してばっかりだね……本当にごめんなさい。あ、そうだ。伏黒くんが名前で呼んでくれるなら、わたしも伏黒くんのこと名前で呼んじゃおうかな。恵くんって」

 場を和ませるための提案だとわかっていても、恵は自然な反応を何ひとつ返せなかった。心の隅々まで根を張った浅ましい欲が頭をもたげる。のその態度が、決して恵を気遣っているだけではない可能性に期待を覚えてしまう。

 黙りこくった恵を案じてか、は気まずさを拭うように茶目っぽい口調で言った。

「なんてね。ごめんなさい、調子に乗りました」

 呼称についての会話はそこで終わるはずだった。きっと普段の恵なら何も言わなかっただろう。しかし恵は口を開いていた。今日の自分はどうかしているのだと自覚しながら。どうせ勘違いだろうが、今ならの心に手が届きそうな気がしたのだ。

 四方から好奇の眼差しが向けられていることも気にせず、恵は視線を足元に落としてぼそぼそと告げた。

「……どっちでもいい」
「えっ」
「好きに呼べばいいだろ。名前なんて個を識別するための記号なんだから」

 かつて聞いた樹の言葉をなぞって言えば、遅れて羞恥と後悔に襲われた。をどこまでも許してしまうのは、恵が同じようにに許されたいからだ。行き場のないこの感情を、できることなら、に受け止めてほしいからだ。蓋をしていたはずの感情が止めどなく溢れ出していた。今日の自分はやはり、どうかしている。

 これ以上の墓穴を掘る前にと、恵は淡々とした口調で話を切り上げた。

「……同じ場所で、準備して待ってる」
「うん。また後でね――恵くん」

 耳朶を打った単語に目を瞠ったときには、スマホは完全に沈黙していた。恵はスマホをポケットへ滑らせると、肺に溜めた空気を長く細く吐き出した。早鐘を打ち続ける心臓が少しでも落ち着くことを願って。

 居た堪れないほどの好奇の目を払い除けるように、恵は顔をしかめながら低い声を絞り出した。

「……何ですか」
「べっつにー?」

 重なり合った白々しい声音に嘆息するや、恵はソファから立ち上がった。空になったカップ麺の容器やら割り箸やらを抱え、棘の前を横切って扉のほうへ向かう。恵の後ろで野薔薇たちの楽しげな声が聞こえた。

「あー結婚式、何着て行こうかしら。持ってないのよね、そういう服」
「俺も一応蝶ネクタイとかしたほうが“らしい”か?」
「そうね。パンダ先輩はデフォが全裸だから――」

 絶対に来るはずのない未来の話で盛り上がる談話室の扉をゆっくりと閉めた。野薔薇たちが喜々として描く未来予想図がどれだけ現実味のないことか、それは他でもない恵が一番よく知っている。

 だからこそ、この約束の間だけは、と花火をするほんの短い時間だけは、とともに過ごしたいと願う浅ましい心に少しくらい従ってみても良いかもしれない。が恵に好意的だという都合の良い勘違いを起こしても、どうせ束の間の夢だ、ばちは当たらないだろう。

 頭の隅で自らへの言い訳を重ねて、恵はとの約束の場所へ向かう。歩く速度が普段よりもずっと速い有り様に、少しだけ呆れながら。