止んでいたのは、ほんの束の間のことだったらしい。

 再び降り始めた雨は激しく地面を打ち、瞬く間に世界を不明瞭に煙らせる。今度こそ本格的な雨になるような気がした。分厚い鉛色から落ちる大粒の雨雫に視界が霞んでも、伏黒恵の双眸は眼前の少年の輪郭をはっきりと捉えていた。

「……俺は、お前を助けた理由に、論理的な思考を持ち合わせていない」

 少し唇を動かすだけで、切れた口端に痛みが滲んだ。恵の身体は先の戦闘で限界まで消耗していた。勝ち筋の見えない、片っ端から奪われるだけの圧倒的劣勢の戦闘。たった数分で深く傷付いた肉体があちらこちらで苦鳴を上げている。呪力を籠めた拳で強烈に殴打された右顔面が、特に。

 だが、恵は明晰な声音で言葉を紡いだ。今ここで答えなければどうするという強い思いがあらゆる痛みを遠ざけていた。痛みを感じることよりずっと大切なことが目の前にあった。

 恵の脳裏で、ひどく騒がしくて他愛ない、しかし決して当たり前ではない日々の記憶が浮かんでは消えていく。「じゃあなんで俺は助けたんだよ!」と、あのとき恵の胸倉を掴んで問い質した少年の――虎杖悠仁の怒号が、篠突く雨と撹拌しながら耳の奥でたしかに響いている。

「危険だとしても、お前のような善人が死ぬのを見たくなかった。それなりに迷いはしたが、結局は我儘な感情論。でも、それでいいんだ」

 滔々と続けた述懐に対して、他でもない恵自身がそう結論付ける。まっすぐ前を見据える白群の瞳に真摯な光を湛えると、一切の迷いを含まぬ芯の通った声音できっぱりと告げた。

「俺は“正義の味方”じゃない。“呪術師”なんだ」

 それは相手だけではなく、恵自身にも言い聞かせるような口振りだった。恵は奥の手を使うために強く握りしめていた拳を解きながら、声の調子を変えることなく続ける。

「だから、お前を助けたことを、一度だって後悔したことはない」

 不平等に人を助ける。不平等な現実のみが平等に与えられているこの世界で、少しでも多くの善人が平等を享受できるように。そこにいくつかの迷いはあっても、後悔は何ひとつ存在しない。

 そっと手を下ろした恵の視界に映る悠仁の顔からは、“呪いの王”の顕現を示す忌まわしい呪印がほとんど消えていた。

「……そっか」

 眉尻を下げた悠仁が今際に浮かべた笑みは、やっと己の思いを語った仲間の肩に乗る重荷の大きさに呆れたようにも、これから進む道を案じたようにも見えた。

 ただ、仲間への想いが滲むその微笑は、虎杖悠仁という人間の本質を剥き出しにしていた。不平等が理不尽にばら撒かれる世界に対して、今さら恨み言を言うつもりなどないことはすぐにわかったし、だからこそ根っからの善人なのだろうと、ほとんど無意識に恵は小さく笑んでいた。

 悠仁は視線を明後日の方向に飛ばすと、左手で軽く後頭部を掻いた。

「伏黒は頭がいいからな、俺より色々考えてんだろ」

 少々ぶっきらぼうな口調になったのは、きっと照れ臭さやある種の気まずさを誤魔化すためだろう。ようやく胸の内を晒した恵に、悠仁は掠れ始めた声音で自らの考えを述べた。

「お前の真実は正しいと思う。でも俺が間違ってるとも思わん」

 何も言わずに悠仁の言葉に耳を傾ける恵の視界に、真新しい鮮やかな朱が混じる。悠仁は口からぼたぼたと大量の血液を溢れさせながら、「あー悪い。そろそろだわ」と何でもないことのように言った。

「伏黒も釘崎もも……五条先生――は心配いらねぇか」

 仲間の名を呼ぶ悠仁の身体が、力を失ったように大きくよろめく。真夏の太陽にも似た黄金色の双眸は昏く淀み、すでに恵を映していない。すぐそこまで迫った死を前にして、悠仁は明瞭な声音で自らの最期をこう締め括った。

「長生きしろよ」

 耳を打った言葉に瞠目した恵の双眸が、前のめりに倒れ込む悠仁を捉えた。それから遅れて鈍い音が濡れた地面に沈む。激しい雨音が急に大きくなったような気がした。途方もない無力感とともに、遠ざかっていた痛みがあっという間に戻ってくる。

 また救えなかったのだと思った。すぐ傍にいたのに。誰よりも恵が傍にいたのに。伏黒津美紀も、樹も、虎杖悠仁も。本当に救いたい善人ばかりが、平等を享受すべき善人ばかりが、恵の手のひらからこぼれ落ちていくようだった。呪術師としての自らを支える柱が、心の中から蒸発してしまいそうだった。

 恵は泣き続ける鉛空をゆっくりと仰いだ。頬を濡らすひどく冷たいこの雨が、暮夜にも似た深い喪失感を流し去ることを期待して。



* * *




ッ!いるなら返事しろッ!ッ!」

 悠仁の亡骸は伊地知に託し、恵は一心不乱に行方不明のを探していた。

 負傷した野薔薇を病院へ送り届けた伊地知は、「なるべく早く戻ります」という言葉通り、少年院にとんぼ返りしている真っ最中だった。「伏黒くんはすぐにさんを」と電話越しに伊地知は焦燥に駆られた様子で口早に告げた。そこには補助監督としてではなく、樹の旧友としての強い思いがはっきりと透けて感じられた。

ッ!」

 窓を叩き付ける激しい雨音をかき消すほど、恵は大声を張り上げる。第二宿舎内にの姿は見当たらない。恵たちがあの生得領域で見つけた少年三人の惨殺死体すらも。

 呪胎から成ったと推測される特級呪霊の死により、建造物が増殖を繰り返したような不完全な生得領域は跡形もなく消滅した。おそらく、それとともに少年たちの遺体も消えたのだろう。加えて、奴延鳥によく似た特級呪霊が展開した領域もことごとく消え失せていた。

 ――だとしたら、は。

 嫌な想像が脳裏を過ぎる。恵は奥歯を軋らせると、薄暗い階段を一段飛ばしに駆け下りた。

 兄である樹と同じように、笑って恵を逃がした。悔しいがあれが最善だった。特級呪霊の足止め役、そして負傷により歩行困難な野薔薇を抱えて逃げる役。恵とのどちらかが、白いだけのあの領域に残る役目を担わなければならなかった。

 片腕を失い、尚且つ腹部に大怪我を負ったに、野薔薇を抱えて逃げることは不可能に等しい。だからといって、恵があの場で奥の手を使うわけにもいかなかった。

 本来ならば呪いとして祓われるはずだった悠仁を助けたのは、他でもない恵だ。だからこそ、万が一のときには恵が悠仁を必ず始末すると決めていた。奥の手なしに“両面宿儺”の器である悠仁を祓除できるはずもない。どうしても生きて領域を出る必要があったのだ。初めて好きになった女を盾にすることになっても。

 ――俺が、もっと強ければ。

 吐き気を催すほどの自己嫌悪と後悔が押し寄せた、そのとき。

「……あれは」

 恵の足がぴたりと止まる。俄かに険しくなった白群の双眸は、階段の窓から地上を撫でていた。宿舎のちょうど裏口の辺りに人影が見える。坊主頭の少年がふたり、地面に倒れ込んでいた。ここからでは屋根に遮られてはっきりとは確認できないが、そのすぐ近くには人間の腕のような青白い何かが無造作に放り出されている。

 予感が落雷のように全身を駆け廻った。恵は呼吸も忘れて宿舎の中を疾駆した。引き千切られた右腕だけがぽつんと残された、とびきり醜悪な想像ばかりが脳裏を掠めている。考えれば考えるほど現実になるような気がした。全てを置き去りにするように建物内を全速力で駆け抜ると、勢いよく裏口の扉を手前に引いた。

 思わず息を呑む。目と鼻の先で、血塗れのがうつ伏せに倒れていた。恵はその傍らに膝をつき、急いでを抱き起こした。雨音の隙間から微かに呼吸音が聞こえる。安堵に胸を撫で下ろした恵の視線が、濡れた地面に倒れたままの少年ふたりを撫でた。

「……お前ひとりで助け出したのか」

 胸に抱きかかえたの、ひどく青ざめた顔に目を落としながら、恵は身体の内が伽藍洞になっていくのをはっきりと感じた。が進んであの場に残ったのは恵と野薔薇を逃がすため、そして行方知れずだった少年ふたりを助け出すためだったのだろう。はすでに反転術式で五体満足に戻っている。おそらくあの特級呪霊を祓ったあと、眠っている間に切り落とされた右腕を再生したに違いない。

 少年たちの遺体を運び出そうとしたの真剣な横顔が蘇る。が我を通せたのは、少年ふたりを助け出せたのは、間違いなく強いからだ。が遠くにいると思った。今の恵にはどれだけ手を伸ばしても指先すら届かぬ遠い場所。強いからこそ我を通すことができたのだと確信した。

 込み上げる悔しさを飲み込んで、恵はの身体を軽く揺さぶった。

、起きろ」
【生体認証開始――完了】

 うっすらと予感していた。鼓膜を通すことなく脳髄へ直接響いた機械音声は、あらかじめ設定されたような台詞を淡々と紡いでいく。

【対象を“好きな人”――“伏黒恵”と断定。システム管理者は現在損傷部位自己修復のため一時的に活動を停止、外部との応答は一切出来ません。再起動しますか?】
「……好きな、人?」

 淀みない無感情な言葉に耳を疑った。隠し切れない動揺を含んだ声音が、乾いた唇からこぼれ落ちる。

「なんで……俺が?」

 前回はたしか“友だち”だったはずだ。聞き間違いだと思った。の“好きな人”が、最愛の兄を奪った自分であるはずがない。呆然とする恵を置き去りにして、機械音声は抑揚のない声音で続ける。

【再起動しますか?】
「あ……ああ」
【システム管理者における損傷部位90%の修復を確認――緊急措置として対象“伏黒恵”のシステム使用を限定承認します。再起動のため、直ちに呪力を投与してください】

 聞き覚えのある機械音声からの指示に、恵の怜悧なかんばせがたちまち渋面に変わる。

「……やっぱりそうなるのかよ」

 恵は持ち上げた視線を左右に滑らせ、しんと耳を澄ませた。自分でも呆れるほど緊張しているところを誰にも見られたくなかったし、今だけはへの好意を隠し通せる自信がなかった。周囲に人の気配がないことを確認して、濁った朱に染まった唇に自らの唇を押し当てる。

 薄い皮膚の向こうにたしかな熱を感じた。が生きているという実感がそこでようやく訪れ、恵はきつく目蓋を閉じたまま、奥底に眠る熱を少しでも感じようとした。辛酸、喪失感、後悔、恐怖、無力感、恥辱、劣等感。肋骨の内側で混ざり合う恵の負の感情が少しずつ解けていく。春の穏やかな木漏れ日のような、の柔らかな笑顔が目蓋の裏に浮かんでいた。

 恵が唇を離したのは、の喉が呻くように軽く震えた直後だった。やがて長い睫毛が上下し、焦点の合わない優しげな双眸にぼんやりと光が宿る。

 は恵の顔を捉えると、「……あ、伏黒くんだ」と弱々しく頬を綻ばせた。恵はその気の抜けるような微笑に釘付けになるのを自覚しながら、何かを確かめる様子で恵の頬に触れるの指先をしたいようにさせてやる。その動きは愛しい者に触れるような、ひどく繊細な手つきだった。

 機械音声の紡いだ“好きな人”という言葉のせいで、妙に心拍数が上がっていた。身体が変に強張っている。あまり意識すると舌が上手く回らなくなるような気がして、恵は自制心の限りを尽くして平静を装ってみせた。

「良かった。無事だったんだね」
「ああ」
「虎杖くんと野薔薇ちゃんは?」

 それは当然の問いだったが、どれだけ覚悟していても息苦しさを覚えるものだった。お前が弱いせいだと無力感を突き付けられるようで。

「釘崎は病院で治療を受けてる。けど、虎杖は……」

 目を深く伏せながら、恵は言い淀んだ。その先を口にするのが恐ろしかった。は重い沈黙の間も真摯に耳を傾けていた。その優しげな視線は恵が何を言っても責めることはないと恵に強い確信を与えた。恵は頭を垂れるように俯いて、悔しさの滲む声を懸命に押し出す。

「……悪い。また助けられなかった」

 透き通った笑みを浮かべたは、恵から手を離すと小さくかぶりを振った。

「ううん、きっとそんなことない。だからそんなに悲しい顔しないで。虎杖くんと野薔薇ちゃんを助け出してくれてありがとう」

 柔らかく顔を綻ばせたまま、は恵の手を握りしめながら立ち上がる。「救急車呼ばないとね」とが少年ふたりを見つめて呟いた。白群の双眸はの横顔だけを見つめていた。激しい雨にくすんだ世界の中で、だけがたしかな輪郭を持っていたせいで。

 耳触りのいい声音が、恵の鼓膜をそっと優しく叩いた。

「帰ろう。呪術高専に」