あまりにも集中していたせいで、扉の開閉音には全く気がつかなかった。

 鼓膜は物音ひとつ拾い上げず、脳髄は星辰の彼方から届く意味不明な音の連なりだけを理解しようとしていた。人間のわたしには発音すら不可能な、甲高い耳鳴りにも似たそれには波とも呼べるような起伏がたしかにあって、その響きを静かになぞるだけで芯から心が温まっていく感じがした。

 冷たい床に額をくっ付けていても、厳めしい仏画からの視線は認識していた。不思議と恐怖はなかった。麗らかな初春の日差しをたっぷりと含んだ、ふかふかの布団に包み込まれている感覚。優しく見守られていると思った。いつの間にか、穏やかな感情が心の真ん中に横たわっている。

 自然とわたしの内側から外側へと意識が向く。朝、目が覚めたときと同じように。誰かと繋がる準備が整っていく。今なら自分自身の感情を完全に切り離して、伏黒くんや野薔薇ちゃんが抱える深い悲しみに寄り添える気がした。

 床に擦り付けていた額を浮かせ、ゆっくりと垂れた頭を持ち上げる。勇ましく武装した仏様に、胸の内で丁寧に感謝を伝えた。

 この場所は心を整えるには打ってつけだった。言葉と呼んでいいのかもわからない、到底理解できない音の並び。似たような響きは自室の神棚に手を合わせるときも時々聞こえるけれど、こちらのほうがもっと背筋が伸びる感じがする。なんとなく。

 土下座の姿勢を崩し始めて、そこでようやく人の気配に気づいた。扉のすぐそばに誰かが立っている。床と垂直になった背中をなぞる柔らかな視線。敵意や悪意もなければ、わたしを急かす様子も一切ないそれは、間違いなく“最強”を冠する呪術師のものだった。

「“お祈り”は済んだ?」
「うん」

 様子を窺うような質問に首肯を返すと、わたしは身体ごと後ろを向いた。両手に大きな紙袋をぶら下げた白髪の男に、屈託なく笑いかける。

「おかえりなさい、悟くん。出張お疲れ様でした」
「ただいま。お土産たくさん買ってきたよ。恵たちには内緒だぜ?」

 悟くんは唇を悪戯っぽく吊り上げながら、簡素な白い紙袋をこちらに差し出してみせた。わたしはすぐさま立ち上がると、悟くんに駆け寄った。和菓子や洋菓子が詰め込まれた紙袋を覗き込んで、無意識に声を弾ませる。

「わざわざありがとう!お兄ちゃんにお供えしてもいい?」
「もちろん。そのために買ってきたからね。ほら、今って術師の繁忙期だろ?今月の月命日は一緒にいられそうになくてさ。ってことで、何か食べに行かない?今晩とかどう?」
「やった!行きたい!」
「決まりだね。先月は僕に黙ってA5の黒毛和牛ステーキをたらふく食べたみたいだし、今月は焼肉でいい?」
「うっ……その節は大変ご迷惑をおかけしました……チェーン店の焼肉屋さんがいいな。お兄ちゃんが大好きだった、あのお店」
「異議なし。予約しておくから、樹の分まで食べられるように夜までお腹空かせておいて」

 茶目っぽい口調とともに、悟くんは髪を梳くようにわたしの頭を撫でる。当たり前のように、お兄ちゃんの大好物だったお肉を食べたいというわたしの我儘を汲み取ってくれた。まるでお兄ちゃんみたいに。

「悟くん大好き。ありがとう」と笑顔をこぼして言えば、「うん、僕もが大好きだよ」と悪戯な笑みが返ってくる。何物にも替えがたい安心感がそこにあった。

 くすぐったい気持ちを持て余すわたしを見つめたまま、悟くんは不思議そうに首を傾げた。

「恵たちと一緒じゃないの?」
「うん。ちょっとひとりになりたかったから」
「昨日の今日だもんね。でも悠仁が死んだことはの責任じゃないよ」
「ううん、そうじゃなくて」

 わたしは左右にかぶりを振った。悟くんならわたしの気持ちを理解してくれるはずだと、そんな淡い期待を込めて、訥々と言葉を紡ぐ。

「虎杖くん、まだどこにも行ってない気がするんだ。なんとなくだけどね。だから伏黒くんや野薔薇ちゃんと一緒に虎杖くんの死を悼むのは、なんかちょっと違うかなって」

 伏黒くんから虎杖くんが死んだと聞かされても、わたしはにわかに信じられなかった。現実を受け入れがたくて信じられないというわけではなく、単純に虎杖くんは死んでいないと確信していたのだ。

 悔しさを滲ませるようにやや丸くなった伏黒くんの背中の向こうで、虎杖くんは冷たい雨に打たれていた。たったひとり、うつ伏せの状態で。

 青白くなった虎杖くんの胸の真ん中には、ぽっかりとひどく大きな穴が開いていた。けれど、何故か空っぽな感じはしなかった。死んだお兄ちゃんや虎杖くんのおじいさんを前にしたときとは全く違う感覚。

 虎杖くんはまだそこにいた。心臓をくり抜かれた身体の中に。死んだと表現するのは少し違うような気がした。だからと言って、再び目を覚ます確証はなかった。昨夜、眠りの底で宿儺さんと会えなかったことが、その理由のひとつだった。

 虎杖くんの“死”をどう受け止めるのが正しいのか、わたしにはよくわからなかった。

 家入先生が教えてくれた。“死の三徴候”――つまり、人の死を決定付ける三つの要素について。心拍の停止、呼吸の停止、瞳孔反応の消失。この三つの要素を満たしたとき、人は死んだと判断されるそうだ。

 医学的な“死”の要素。その全てを満たしているにもかかわらず、わたしはそれでも“虎杖くんは死んだ”とは言いたくなかった。虎杖くんは死んでいるけれど、死んでいない。きっとそういうことだと思ったし、それ以外に表現しようがなかった。

 けれど深い悲しみに沈む伏黒くんと野薔薇ちゃんに、根拠もない無責任なことを易々と言えるはずもなく、わたしはこの蔵でひとり心を落ち着かせていたのだ。顔一面に嘘を張り付けて、伏黒くんたちと一緒に虎杖くんの思い出話をするために。

 いつだって何もかも見透かしたような態度を取る悟くんの反応はと言えば、一体何がそんなに可笑しいのか、くつくつと喉を鳴らしている。わたしは眉間を寄せながら尋ねた。

「悟くん?」
「いや、の勘は本当に良く当たるなと思ってさ。宿儺が覚醒したせいかな、ますます感度が良くなってる」

 意味深な言葉に思わず息を呑んだ。

「……もしかして」
「そう、その“もしかして”だよ。さっきちょうど悠仁が生き返った」

 わたしは紙袋の持ち手をきつく握りしめ、よろばうように悟くんに一歩詰め寄った。

「……本当?本当に本当?」
「本当に本当」

 こちらを安心させるように深く頷いた悟くんに、ふにゃっとした気の抜けた笑みを返す。

「良かったぁ……宿儺さんが助けてくれたんだね」
「だろうね。悠仁に不利な誓約を結んでないと良いけど」

 少し引っかかる言葉だったものの、気にしている暇はなかった。わたしには今すぐ行くところがあったから。悟くんの脇を足早に通り過ぎようとしたとき、手首を軽く掴まれた。反射的に足が止まる。

、どこ行くの」
「伏黒くんと野薔薇ちゃんに教えてあげなきゃ」
「悪いんだけど、それ、ちょっとだけ待ってくれない?」

 思わぬ言葉にわたしは耳を疑った。目を瞬かせながら悟くんを見上げる。巧妙な企みを隠した軽薄な表情。手首を掴む力はひどく優しいのに、絶対に振りほどけないような気がした。

「昨日の任務は悠仁を消したい上層部が画策した、ようするに嫌がらせだ。悠仁が生きていると面白くない人間がわんさかいるこの状況で、生き返った事実を触れ回るのは得策じゃない」
「死んだことにしたほうが都合が良い、ってこと?」
「今バラせば同じことの繰り返しになるだけだからね」

 そう言った悟くんから視線を落とすと、手首がふっと軽くなった。わたしの足は床に縫い付けられたように動かない。悟くんは「ありがとう」と呟いた。

 虎杖くんの突然の死を悲しむ伏黒くんと野薔薇ちゃんに嘘を吐くのは嫌だった。けれど、昨日と同じように虎杖くんたちがまた危険な目に遭うほうが、ずっとずっと嫌だった。

「昨日の報告書、読んだよ。奴延鳥に似た呪いをひとりで祓ったんだって?しかも特級。すごいじゃん」
「……うん」
「浮かない顔だね?」
「……だって、円だったから」

 足のつま先に目を落として言うと、少し間を置いて「……そうか」と抑揚のない低音が耳朶を打った。その声に驚いたわたしが顎を持ち上げれば、悟くんはその口元にいつもと変わらぬ軽薄な笑みを刻んでいる。

「悠仁を復学させるには悠仁自身に強くなってもらうだけじゃ足りない。ねぇ、そもそもどうしてお偉方は悠仁が目障りなんだと思う?」
「……虎杖くんが宿儺さんの器だから。大勢の人が死んでしまう可能性があるから」
「そうだね。でもおそらく本音は違う」

 勿体ぶるように言葉を切ると、悟くんはますます笑みを深くしてみせた。

「本当に守らなければならない人間が巻き込まれる可能性があるからさ。そうなれば呪術高専の面子丸潰れもいいところだよ。多額の金が回って来なくなって、呪術師は職業として成り立たなくなる。大半の術師や補助監督があっという間に路頭に迷う。冥さんみたいにフリーランスで仕事ができる術師なんて、僕を含めほんの一握りしかいない。上としては、悠仁ひとりのために莫大な利権を失うわけにはいかないんだろ」

 悟くんの言いたいことは半分も理解できなかった。けれど、悟くんがわたしにその話をした理由だけは明確に理解していた。

「わたしは何をすればいい?」
「僕の言いたいことをわかってくれてうれしいよ」

 意味ありげな微笑を拵えて、悟くんは言い聞かせるようにゆっくりと言葉を継いだ。

にお願いしたいことは山ほどある。でも大前提として、の“正しい復讐”は悠仁が復学するまで先延ばしになる。それは構わないの?」
「うん。わたしも少し時間がほしい」

 今の弱いわたしのままでは、また誰かを巻き込んでしまうだろう。何ひとつ守れない自分でいるのはもう嫌だった。悔いのないように、殺し損ねることのないように、露ほどの禍根も断つように正しく復讐するためには、きっと悟くんと同じくらいの強さが必要だ。術師としての覚悟は、とっくのとうに出来ていた。

「それに、虎杖くんがこうなってしまったのは弱かったわたしのせいだから。罪滅ぼしってわけじゃないけど、わたしに出来ることならなんでもする」
「なんでも?」
「なんでも言って」

 決意を込めて頷けば、事もなげに悟くんはポケットから茶封筒とボールペンを取り出した。ボールペンをわたしに握らせると、長い膝を折りつつ茶封筒から取り出した薄っぺらい紙を床に広げる。

 身体の大きな悟くんの影が落ちているせいで、それが一体何の書類なのか判別が付かない。わたしは悟くんと同じようにその場にしゃがみ込んだ。

「じゃあまずはここにサインしてくれる?あ、判子はコレ使って」

 無骨な人差し指が書類の空欄をトンと叩く。書類をじっくり見るより早く、「なんでもするんでしょ」と悟くんがわたしを急かした。「うん」と頷いたわたしの視線が悟くんの指先に固定される。わたしは床に這いつくばるような姿勢で、“届出人署名押印”と記された長方形の枠に自らの名を記入していく。

「僕、が心配だよ」
「どうして?」

 捺印を終えたわたしが床から判子を離すと、広げた書類を回収しながら悟くんが肩をすくめた。

「人を疑えとは言わない。でも自分が何の書類にサインするのかくらい、ちゃんと確かめたほうが良いよ。知らないうちに借金の保証人なんかにでもされたらどうすんの」

 ある種の予感が一気に背中を駆け上がる。嫌な感じはしないとはいえ、何か大きなことに巻き込まれたのだという確信はあった。書類の記入漏れを探す悟くんに恐る恐る声をかける。

「……悟くん、あの、その書類って」
「婚姻届」
「えぇっ?!」

 腹の底から素っ頓狂な驚声を上げると、呆れ顔の悟くんに額を人差し指で軽く弾かれた。わたしは思わず呻いた。デコピンにしてはちょっと痛い。

「バーカ、なに信じてんだよ。冗談に決まってんだろ」

 痛みを追いやるように額を擦るわたしから視線を外し、悟くんは「その手もあったけどさ」と小声で独り言ちる。その声音には淡い寂寥感のようなものが息づいていた。わたしが口を開こうとしたとき、見せつけるように書類を掲げた悟くんが唇を弦月の形に釣り上げた。

「コレ、ちょっとズルするつもりだから、今日から法的に認められるよ」

 わたしは視線を滑らせ、薄い用紙の左上に太字で印字された届出名を読み上げる。

「……養子縁組届?」

 にんまりと笑んでいる悟くんに焦点を移動させると、まるで耳を疑うような言葉が鼓膜を叩いた。

「ってなわけで、、今日から僕の義妹ね」
「………………えっ?」