悪意に塗れた耳障りな嗤笑が、浅い眠りの底から意識を勢いよく引き上げた。

 目蓋の裏で眼球を動かしながら、背面に広がる激痛を認識する。喉奥から自らのものとは思えぬような、ひどく淀んだ呻き声がこぼれ落ちた。

 片足をたった半歩動かした瞬間に弾き飛ばされ、受け身も取れずに背中から硬い壁に叩き付けられたことを思い出した。凄まじい衝撃音とともに全身の骨が軋むような悲鳴を上げたのを最後に、わたしはほんの少しだけ気を失っていたらしい。

 まだ朦朧とする意識が視界を濁らせていた。すぐ目の前に虎杖くんの左手が落ちている。ガラスのように滑らかな切断面から鮮血が溢れ、地面に小さな血だまりを作っていた。短剣めいた呪具を握り締めたままのそれから視線を外し、特級呪霊と対峙するふたりへと焦点を素早く移動させる。

「伏黒!釘崎と連れてここから逃げろ!」

 血の滲むような声が耳朶を打ち、澄んだ夏空によく似たお兄ちゃんの笑みが脳裏を過ぎった。わたしは目を伏せて奥歯をきつく噛み締める。

 それは本来わたしの台詞だった。身勝手な我儘を言ってみんなをこの場に留まらせてしまったのはわたしだ。運悪く特級呪霊と遭遇してしまったのはわたしのせいだと思ったし、何よりわたし以上に呪術や呪霊のことを知らない虎杖くんに、命懸けの決断をさせてしまったことがただ悔しくて情けなかった。

 あのとき悟くんの言うことを聞いていれば――とは、思わなかった。単純にわたしが弱いせいだと思った。わたしがもっと強かったら、悟くんと同じくらい強かったら、死んだ人たちをもっと早く助け出せただろう。野薔薇ちゃんが行方不明になることもなかっただろうし、虎杖くんに大怪我を負わせることはおろか、そんな決断をさせずに済んだはずだ。

 何ひとつ守れない自らの弱さを理解した。術師としての覚悟が足りないことも。

 記憶の底で、群青に映えた白百合の花弁が揺れている。誰かの当たり前の幸せをちゃんと守れるような呪術師になること。たった二週間足らずであの誓いを破るつもりはなかった。死への恐怖を飲み込んで必死に絞り出したであろう虎杖くんの想いに、必ず報いなければならないと強く思った。

【術式使用条件クリア。直ちに呪力を投与してください】

 待ち望んだ機械音声が脳髄に直接響いた。痛みに乱れた息を整えながら、冷たい地面に右手をつく。硬直した腕を支えにして何とか上体を起こすと、力を入れすぎたせいだろう、爪先が軽くひび割れた。それでもわたしは震える膝を叱咤し、勢いに任せて一気に立ち上がる。

「三人が領域を出るまで俺がコイツを食い止める。出たら何でも良いから合図してくれ。そしたら俺は宿儺に代わる」
「出来るわけねぇだろ!特級相手に片腕で!」

 虎杖くんの提案を握り潰さんとする咆哮が伏黒くんの喉から迸った。しかしそれには耳を貸さず、むしろ己の言葉に説得力を持たせようとするように、虎杖くんはさらに掠れた声を絞り出した。

「よく見ろって」

 その言葉に促され、額から滝汗を滴らせる虎杖くんから特級呪霊へと視線が移る。まるで踊るように大きく両腕を広げている呪いを見据えたまま、眼前の事実を明朗に告げた。

「楽しんでる。完全に舐めてんだよ、俺たちのこと。時間稼ぎくらい何とかなる」

 焦燥を滲ませる伏黒くんとは対照的に、虎杖くんは落ち着いている。わたしが地面を蹴った直後、顔を歪めた伏黒くんが低く呻いた。

「駄目だ――」
「伏黒!」

 迷う仲間を容赦なく叱咤する雄叫びが轟き、そして。

「頼む」

 生への執着も死への怯えも、遥か彼方へ置き去りにした透明な表情。そこには覚悟があった。説得の余地などない強い覚悟。声を詰まらせた伏黒くんは、底知れぬ敗北感に打ちのめされたように下唇をきつく噛みしめる。

 伏黒くんがこちらを向いたときには、わたしは虎杖くんの眼前まで肉薄していた。余裕綽々といった様子で特級呪霊はわたしを堂々と見逃す。強い術師ならその態度に苛立つ場面だろうけれど、わたしはただ感謝していた。術式を使うだけの僅かな時間が欲しかったから。

 瞠目する虎杖くんの乾いた唇に、己のそれを隙間なく押し当てた。身体を廻る呪力を虎杖くんへ譲渡する。鼓膜を通すことなく聞こえる機械音声が淡々と報告をした。

【呪力過剰投与60%――オーバードライブ】
「“リライト”」
【対象における5%以上の余剰呪力を確認、音声コマンド入力完了――索敵モードから殲滅モードへ即時移行します】

 唇を離せば、混乱した様子で目を瞬く虎杖くんで視界はいっぱいだった。わたしは気まずさを含んだぎこちない笑みを向ける。

「ごめんなさい。ただの気休めかもしれないけど」

 呪力の使い方すら教わっていない虎杖くんに呪力を与えても意味はないかもしれない。けれど、可能性がゼロではないなら今は賭けるべきだと思った。闇雲だろうと縋るべきだと。

「……うわ、俺ココから出たらぶっ殺されんじゃね?まぁでもどうせ殺されんなら伏黒のほうがいいけど」

 虎杖くんは早口でそう言うと、来た道を引き戻るように駆け出した伏黒くんに続こうとするわたしに、いつもと変わらない茶目っぽい微笑を寄越した。

「伏黒のフォロー、頼んだからな」
「うん、任せて。だから絶対無事でいてね」
こそ」

 その言葉に小さな笑みを返して、わたしは振り向きもせず地面を強く蹴った。流れていく視界の中で、虎杖くんが呪霊に飛び掛かるのがかろうじて見えた。恐怖と焦燥にわたしの心臓を鷲掴みにされている。決して端から死ぬつもりではないだろう。けれど、その覚悟すらも過分に含んだ態度だった。

 無力感に苛まれたまま、前方を疾駆する黒い背中を追う。赤黒い遺体が視界の端に映った。そのすぐ目の前を通り過ぎる瞬間、上半身だけの遺体に向かって、伏黒くんの左手が目にも止まらぬ速さで伸びる。

 見れば、少年の白いシャツの胸元が破れている。そこに縫い付けられていたはずの名札だけが引き千切られていた。わたしは思わず声を漏らした。

「……伏黒くん」

 素早くポケットに突っ込まれた彼の左手を見つめる。怒りを孕んだ声音の裏に隠された彼の本音を、ようやく見たような気がした。

 死んでほしくないなと思った。足止めを買って出てくれた虎杖くん、急にいなくなった野薔薇ちゃん、待機している伊地知さんを始めとする補助監督のみんな。誰にも死んでほしくないけれど、その中でも伏黒くんは、伏黒くんにだけは、死んでほしくなかった。

 責任感が強くて誰よりも優しい伏黒くんの、他愛もない当たり前の幸せを、ちゃんと守りたいと思った。

 ――だから、わたしは。



* * *




 ともすれば無意識の闇に落ち込もうとする自らを叱咤する。明確な死が足音も立てず、一歩ずつ、刻一刻と近づいている気がした。

 伏黒くんが、虎杖くんや野薔薇ちゃんや伊地知さんたちが、無事に逃げられますように。強く願いながら、浅く荒れた呼吸を何とか繋ぎ続ける。

 わたしを見つめる大蛇の感情は冬の海のように静かなものの、濁った双眸には時おり底なしの殺意が掠めていた。狸の身体に乗っかった猿の顔にも敵意が宿ったり遠ざかったりしている。異形の獣はちぐはぐな感じがした。その大きな肉体の中で沸騰した殺意が行ったり来たりを繰り返しているのだ。

 呪霊は本能的に人間を殺す。大蛇がその本能に抗えないというのは事実なのだろう。けれど、その本能の裏側では鱗の呪いが息を潜めている気がした。この大蛇もまた、きっと他の呪いと同じように利用されたに過ぎない。息苦しい肋骨の内側で途方もない憎悪が滲むのがわかった。

 急に寒さを覚えて、床に倒れ込んだまま身体を丸める。失血死の三文字が脳裏を過ぎった。立ち上がる気力はもう残っていなかった。

 このままでは死を望む呪霊よりも先に死んでしまいそうだけれど、囚われた少年ふたりのことを思うとこんなところで死ぬわけにはいかなかった。それにわたしにはまだやり残したことがある。どこにも行けない憎悪を置いて逝けるほど、諦めの良い性格でもなかった。

 失せた血液を埋めるように呪力を全身に廻らせながら、ふと気になったことを問いかける。

「……どうしてあのふたりだけが、生きたまま、ここに?」
「殺すな、と、言ったのに、殺しました。ぐちゃぐちゃに、しました。あれは、言葉を理解、しない。理解する気が、ない。だから、人間をここに、隠したん、です」

 項垂れた大蛇は声音を落とした。

「脳が、壊れでもしたら、困り、ます」
「……脳?」
「移植が、できません。人間の場合、心停止から、すぐに、脳の神経細胞が、死に始めます……ある程度、生かして、おかなければ、移植はきっと、難しい」
「脳を誰かに移植をするんですか?」
「呪いの身体、は、繋げられる、ことが、わかりました。だから、次にあの御方は、呪いの身体に、人間の脳を、移植しようと、しています――人間と呪い、その、境界線を探すため、に」

 全く話について行けないわたしは相槌を打つことすらできない。だからこそ、つっかえながら声を継ぐ大蛇の言葉を真剣に聞き入った。

「“神の器官”“示現体”“供犠の花”――人類の、絶対的な味方である、貴女とともに、生きるためには、自らもまた、人間であるという、ことを、証明しなければ、ならない。人間である、という、証明。貴女に、愛される価値がある、という、証明」

 大蛇はそこで言葉を切ると、やや間を置いて再び口を開いた。

「人間の脳へ、呪いを容れる――似て非なる、証明をする、準備は、できています。しかし、そのためには、貴女の一部を……初期化、しなければ、ならない。術式を使うための、大義名分が、必要になる。そのための、私、です。そのための、化学兵器、です」

 鼓膜を叩いた言葉に瞠目したわたしの眼前で、大蛇がその身を真っ二つに折った。黒に濡れた頭を何度か振ると、裂けた大きな口から小型の機械がこぼれ落ちる。スマホと同じ大きさのタブレット端末が地面を打つと、かつんと甲高い音が鳴った。

「この領域外……第二宿舎の二階に、化学兵器を、設置しました。シアン化、カリウ、ム。別名、青酸カリ。いいえ、正確には――酸と混ぜて気化、させた、シアン化水素、です。この装置に、一定の呪力を流すと、遠隔操作で、シアン化カリウムと酸が、混ざり合い、約一万人の致死量に、相当する量が、気化し、空中に溢れ出しま、す」
「……本当に、ここに有毒ガスをばら撒くつもりで」
「杉沢病院での、あれは、実験、でした。遠隔操作で、物質を、気化させることが、できるか、という……今は、呪術で事を起こすと、すぐに、バレますからねぇ。昔何度か、お会いしました、が……五条悟は、本当に、すごい術師ですよ」

 大蛇は装置を再び丸呑みにして、白く濁った双眸をこちらに向ける。

「しかし、五条悟は、出張中、です。住民を避難させた、とは言っても……この近くに、いる人間は、おそらく全員死ぬ、でしょう。装置が反応、するのは、私の呪力だけ。つまり、大量無差別殺人を、防ぐには、私を殺せば、いいだけの話、です。単純です、よねぇ?」
「そんな話、どうやって信じろって――」
【術式使用条件クリア。直ちに呪力を投与してください】

 耳を疑うわたしの声を遮ったのは、抑揚に欠けた機械音声だった。それが呪霊の言葉が真実であることを証明しているような気がした。暮夜に染まる蛇の頭を見つめる。呪術に対する策は充分に練っていても、化学兵器――それも毒ガスに対する策など何も講じていないはずだ。きっとこのままでは多くの命が消えるだろう。平板な声音が脳裏に直接響いた。

【直ちに呪力を投与してください】

 まとまらない思考を抱えたまま、わたしはかろうじて言葉を押し出した。

「……ここには、伏黒くんは」

 呪霊と相対するとき、いつも隣にいてくれた彼はどこにもいない。急に心細さが襲った。独りだと思い知らされるようだった。遠のいていた痛みが戻ってくる。滲んだ涙のせいで視界が白く濁った。目の前の呪霊を止めなければならないとわかっていても、立ち上がることすら困難な状況で、どうすればいいのか皆目見当もつかない。

【直ちに呪力を投与してください】
「……無理だよ。伏黒くんも、力になってくれる人も、ここには誰もいない」
【直ちに呪力を投与してください】
「あのふたりは普通の人だよ。どれだけ呪力を流しても意味がないし、きっと過剰な呪力に身体が耐えられない。そんなことできないよ」
【直ちに呪力を投与してください】
「だからここには誰も――」

 否定を繰り返そうとしたところで、視界を占める大蛇のかんばせにはっとなった。

「……身体が、耐えられない?」

 呟いたわたしは力の抜けた左手をそっと伸ばした。確信が稲妻のように全身を駆け抜けていた。滑らかな漆黒の鱗を撫でる。今から何をされるか察しているはずの大蛇は、しかしながら決して一切の抵抗をしなかった。わたしに殺されることが本望だとでも言うように。

「わたし、どうしても守りたい人たちがいるんです」
「ええ、もちろん、知っています」

 うれしそうに笑みを滲ませて頷くと、黒蛇はゆっくりと言葉を継いだ。

「貴女は、そうやって、大切な人たちを守るために、誰も傷つけないために、好きになる人間を、選んだ。自縄自縛の呪詛を、選んだ。けれど、その呪詛が誰も傷つけない、ということは、絶対に……絶対に、有り得ない。ならば、貴女の全てを、受け入れてくれる人を、本気で好きになる、ほうが、良いとは、思いませんか?」
「……傑くんにも、似たようなことを言われました。でも、意味がよくわからなくて」

 無数の冷たい鱗の下に、生き物の熱がたしかに宿っている。これからこの熱をわたしが奪うのだと思うと自然と手が震えた。熱の代わりに死を容れる恐怖に。たとえそれが望まれたことであっても。

「彼は、とても優しい人、です。きっと、貴女の宿業を、共に背負って、くれる。貴女の罪過を、笑って赦して、くれる。だから……次の恋は、本当の恋は、もっと、身勝手で、良いんですよ。たくさん、たくさん我儘を言って、困らせてやるくらいが、ちょうど、良いんです」

 きかん気な妹に言い聞かせるように、柔らかな響きが鼓膜を優しく撫でる。わたしは視線を逸らすと、首を小さく左右に振った。

「……でも、わたしが伏黒くんを好きになったって、きっと迷惑なだけです」
「おや?誰も、彼が、伏黒恵だとは、一言も、言っていません、が」

 茶目っぽく告げられた言葉にポカンとして、込み上げる羞恥に下唇を噛んだ。くつくつとひどく楽しそうに喉を鳴らす声が大蛇の口から溢れる。

「その名を口に、出来るなら、すでに解呪は成った、ということでしょう。自縄自縛の複雑な呪詛を、この短期間で解く、など……ふふ……誰の仕業かは、明白、ですねぇ……」

 満足しきったその響きが耳を打った瞬間、視界が暗闇に埋め尽くされていた。漆黒の躯体を持つ大蛇が、わたしの唇にちょんと鼻先を押し付けていたのだ。身体を廻る呪力が急速に減少するのを感覚する。

【呪力過剰投与120%――オーバーヒート】

 頭蓋骨にまで響くような平板な機械音声。その刹那、異形の獣が細くて長い呼吸を吐き出した。心地好い疲労感に満ちるような表情が顔いっぱいに広がる。ほっと安堵したような息が途切れるや、巨体はそのまま白い床に崩れ落ちた。双眸から濁った光すらも失せつつある大蛇の頭を、わたしは優しく撫で付ける。

「お兄ちゃんによろしくね――“円”」
「……はい。さんの幸せを、いつまでも、願っています」

 ひどく優しい声音だけを残して、その身は瞬く間に消え失せた。まるで幻のように。

 ただ白いだけの殺風景な領域が消滅し、わたしの頬に触れているのは冷たい床ではなく濡れたコンクリートだった。そぼ降る雨に煙る視線の先に、少年ふたりの姿があることを確認する。どうやら無事に領域から脱出できたようだった。

 伏黒くんたちの安否が脳裏を過ぎる。まだ行かなければならないところがあった。助け出したふたりを託すためにも、伊地知さんに連絡をしなければとスマホに手を伸ばしたそのとき、抑揚のない機械音声が意識を深々と穿った。

【対象の祓除完了。罪過の誓約に従い、直ちに指定の記憶を削除します】
「……えっ?」

 響いた言葉を反芻する暇もなかった。次の瞬間には驚愕に染まった意識が焼き切れていたせいで。ただ、闇に呑まれる直前、感情に欠けた声音をたしかに聞いた気がした。

【“最も大切な人”――“夏油傑”に関する一切の記憶を削除開始】