「どうなってんだ?!二階建ての寮の中だよな、ここ!」

 驚愕に染まった素っ頓狂な声音がうわんと響き渡る。「寮には見えないね」と首を傾げながら同意すると、わたしは再び視線を目の前の建造物へと戻した。

 それは単に建物と呼ぶにはあまりにも猥雑だった。ありとあらゆる建造物が折り重なって、隙間なくひしめき合っている。首が痛くなるほど空を見上げてみても、天井はおろか群青の一片さえも見えない。ひとつどころに密集した巨大な無機物が、息の詰まるような圧迫感を絶え間なく与えてくる。

 コンクリート製のふたつの施設が断絶した世界の向こうで、薄闇を横切るようにして大小の配管が無尽に伸びる。何が通っているのかもわからぬ無数の管に、壁面から奇妙な角度で迫り出したダクト。時おり放電する壊れた蓄電板。誰かが咽び泣くような音を立てているのは、おそらく建物の壁に設えられた室外機の群れだろう。

 蜘蛛の巣のように張り巡らされた得体の知れない建造物は、無計画に増築を繰り返した結果というよりも、建造物自らが意思を持って増殖したと表現するほうがずっと相応しく思えた。

「おおお落ち着け!メゾネットよ!」

 あの豪胆な野薔薇ちゃんが動揺するほどの不測の事態。膨大な呪力に頭から丸呑みにされたような感覚。わたしはこの感覚をよく知っていた。夜ごと夢を通して誘われる、生者も亡者もいない静謐な世界。つまり無機物がひしめくこの世界も、呪力によって構築された生得領域だった。

「扉は?!」

 はっと我に返った伏黒くんが焦燥に駆られた声音を放つ。導かれるように後ろを振り返れば、領域と外を繋ぐ両開きの扉はどこにもなく、縦横無尽に伸びる配管が幾重にも張り巡らされているだけだった。

「ドアがなくなってる!」
「なんで?!今ここから入ってきたわよね?!」

 虎杖くんと野薔薇ちゃんが揃って目を剥いた。現実感を欠いたまま唖然と立ち尽くすわたしに、伏黒くんが冷静な表情で問いかける。

、領域は使えそうか?」
「……ううん、駄目。ごめんなさい。ここからだと空が遠すぎるみたいで……」

 わたしは目を伏せてかぶりを振った。雨空の代わりに配管が埋め尽くすこの場所からでは、わたしの声はきっとうまく届かないという確信があったから。

 無力感に肩を落としていると、「いけるか?」と小さな声音が聞こえた。視線を落とせば、彼の式神である白いほうの“玉犬”が、主の問いかけに呼応するように目を輝かせている。伏黒くんはすぐに告げた。

「大丈夫だ。こいつが出入口の匂いを覚えてる」

 八方塞がりで踊る他なくなっていた虎杖くんと野薔薇ちゃんの顔に、満面の笑みが咲き乱れる。呪霊を感知するために喚び出された玉犬は、その見た目通りの特技も持ち合わせているらしい。途端に玉犬を褒めちぎり、毛むくじゃらの身体を存分に撫で回すふたりを、伏黒くんが「緊張感!」と呆れた様子で窘めた。

「やっぱ頼りになるな、伏黒は。お前のお陰で人が助かるし、俺も助けられる」

 そう言って、虎杖くんが翳りも衒いもない笑顔を浮かべる。わたしも玉犬の頭を優しく撫でながら、太鼓判を押すように何度も頷いてみせた。

「伏黒くんは本当に頼りになります」
は特にそうだよな。“困ったときの伏黒”的なとこあるし?」
「そう、すぐ頼っちゃう。昨日だって夜中に部屋の電球変えてもらって……」

 執拗な着信で真夜中に叩き起こされた伏黒くんは、「なんで俺なんだよ……」とぶつぶつ文句を言いつつも、眠そうな目をこすってわたしの部屋の電球を取り替えてくれたのだ。「甘え過ぎだろ」と虎杖くんがけたけたと楽しげに声を上げて笑い、それにつられてわたしも笑った。

 緊張感に欠けた和やかな空気から目を背けるように、伏黒くんは感情の凪いだ怜悧なかんばせをやや伏せる。わたしは緩やかに笑みを静めて彼を見つめた。わたしの発言が気に障ったのかと不安が僅かに首をもたげる。しかし彼は感情を一切表に出さず、冷たいコンクリートに視線を落としたまま小さな声で呟いた。

「……進もう」



* * *




 容赦なく込み上げる嘔吐感に、堪らずわたしは膝を折った。酸っぱい胃液とともに今朝食べたものが逆流する予感がして、腹を覗き込むように背中を深く丸める。おぞましい血臭が鼻孔を焦がし、今しがた見たばかりの赤黒い肉の塊が脳裏を掠めた。

 もう駄目だった。恐怖と嫌悪感に侵された声帯が異様な悲鳴を上げる。堪え切れずその場に嘔吐していると、震える背中に温かくて大きな手が添えられたのがわかった。羞恥心も忘れ、涙と涎を垂れ流したぐしゃぐしゃの顔を上げる。歪んだ視界に伏黒くんの顔を見つけた。

「平気か」
「……う、ん」
「全部吐け。そのほうが楽だろ」

 視線の高さを合わせるように屈んだ彼のずっと向こうに、朱に染まった大きな肉の塊を見てしまった。見慣れない酸鼻な光景を拒絶するように、口からぼたぼたと吐瀉物がこぼれ落ちていく。彼は嫌な顔ひとつせず、嘔吐するわたしの背中を優しく擦り続けてくれた。

「惨い……」
「三人――で良いんだよな」

 凄惨な状況に呻いた野薔薇ちゃんに、伏黒くんが冷静な声を添える。わたしは息苦しさに耐えながら、解像度の低い視線を持ち上げた。

 複雑怪奇な施設内を進んだわたしたちに突き付けられたのは、筆舌に尽くし難い惨状だった。

 吹き抜けの部屋の壁に雪崩れ込む、上半身だけになった少年の遺体。そしてそのすぐそばに転がったふたつの巨大な肉塊。そのふたつも間違いなく人間だった。肉塊からは切断された人間の手足が確認できたから。あらゆる尊厳を完膚なきまでに破壊された肉塊は、切り刻んだ身体と内臓とを捏ね上げて作られたものに違いなかった。

 かろうじて上半身の残る遺体に虎杖くんが駆け寄る。虎杖くんは遺体と向き合ったまま、しばらく黙り込んでいた。その様子を心配したのだろう、野薔薇ちゃんが丸くなった背中に近づいたとき、

「この遺体、持って帰る」
「……え」

 普段の明るさが鳴りを潜めた虎杖くんの静かな言葉に、野薔薇ちゃんが声を詰まらせる。わたしは汚れた口元を拭うと、伏黒くんに支えられながら立ち上がった。必死で吐き気を抑え込みつつ、飛び散った肉片を避けて虎杖くんのもとへ向かう。

「あの人の子どもだ。顔はそんなにやられてない」
「でもっ」
「遺体もなしで“死にました”じゃ納得できねぇだろ」

 抑揚に欠いた揺るぎない声音が耳朶を打つ。制止の言葉を探す野薔薇ちゃんの脇をすり抜けると、わたしはしゃがみ込んだままの虎杖くんに問いかけた。

「虎杖くん、こっちのふたりを抱えられる?」

 首だけで振り返った虎杖くんは、ひどく驚いた様子で瞠目した。腰から下を惨たらしく引き千切られた遺体を見るだけで、喉奥から胃液の酸っぱさが込み上げる。わたしは脂汗を滲ませながら事切れた遺体に手を伸ばすと、見開かれたままの目蓋をそっと優しく下ろした。

「外に出れば領域が使えると思う。わたしが身体を元に戻すから、全員連れて帰ろう?」
「サンキュ。じゃあはそのまま――」

 しかし虎杖くんの指示は中途半端なところで途切れた。無機的な表情の伏黒くんが、虎杖くんを強く掴み上げたせいで。

「あとふたりの生死を確認しなきゃならん。その遺体は置いてけ」
「振り返れば来た道がなくなってる。あとで戻る余裕はねぇだろ」

 虎杖くんがいたって冷静に返せば、伏黒くんの双眸に剣呑な光が宿った。喪服めいた制服を引っ掴んだまま、忌々しげに唇を捲り上げる。

「“あとにしろ”じゃねぇ。“置いてけ”っつったんだ」

 眼前の相手を激しく睨み付け、怒りを孕んだ声音で明晰に告げた。

「ただでさえ助ける気のない人間を、死体になってまで救う気は俺にはない」

 刹那、虎杖くんの無骨な手が鞭のように伸び、伏黒くんの胸倉を乱暴に掴み上げた。金髪の下のこめかみに青筋がくっきりと浮かんでいる。虎杖くんは低く唸るように尋ねた。

「どういう意味だ」
「ここは少年院だぞ。呪術師には現場のあらゆる情報が事前に開示される。そいつは無免許運転で下校中の女児をはねてる。二度目の無免許運転でだ」

 氷の針めいた鋭い感情を含ませた言葉を、伏黒くんは真正面から叩き付けた。全く予想もしていなかった事実に肺腑を抉られたのだろう、虎杖くんは驚いたように言葉を詰まらせる。硬度を増した声音で、畳み掛けるように伏黒くんが言葉を継いだ。

「お前は大勢の人間を助け、正しい死に導くことに拘ってるな。だが自分が助けた人間が将来人を殺したらどうする」
「じゃあなんで俺は助けたんだよ!」

 牙を剥いて虎杖くんが憤然と怒号する。咆哮した虎杖くんを伏黒くんが射殺さんばかりに睨み付けたのも束の間、怒りに滲んだ白群の視線は物言わぬ死者に腕を回したわたしを深々と貫いていた。

「おい。お前まで何してんだ」

 地鳴りめいた低音で問いかけられ、たちまち身が竦む。ついさっきまで背中を優しく撫でてくれた伏黒くんとは別人だと思った。怯みそうになるのをぐっと堪え、覚悟を決めて彼と視線を深く絡める。

「ごめんなさい……でも、帰りを待ってる人がいるから」

 彼の眉間に幾重もの皺が穿たれる。白刃のように鋭利な視線だけをこちらに寄越し、説伏するように言葉を紡いだ。

「俺たちに課された任務は何だ」
「……寮に取り残された五人の救助」
「違ぇよ。“生存者”の確認と救助だ」
「伏黒くんの言いたいこともわかるよ。でも、たとえそれがどんな人だろうと、きちんと弔ってあげたい。大切な人のところへ帰らせてあげたいの」
「弔う?そのために俺たちが弔われる側になってもか?俺たちは死ぬためにここに来たわけじゃねぇんだぞ」
「……それもわかってる。だからわたしをここに置いていって。死んだ人たちと一緒に帰るから」

 身勝手な我儘に巻き込むわけにはいかないと、わたしは唇の端にぎこちない微笑を拵える。その考えが彼の神経を逆撫でることをわかっていながら。案の定、伏黒くんが怒りを剥き出しにした瞬間、

「いい加減にしろ!」

 野薔薇ちゃんの怒号が鼓膜を激しく叩き付けた。張り詰めた空気をずかずかと踏み付けながら、わたしたちの間に割って入ってくる。

「時と場所をわきま――」
「え?」

 あまりに突然のことに、わたしは愕然とした。野薔薇ちゃんの身体が、コンクリートの床に染み出した黒い影に沈んでいたのだ。何の前触れもなかった。暮夜に染まった海か、底なし沼にでも突っ込んだかのような有り様だった。助けを求めるように天に伸びた左手を残して、その痩躯は漆黒の影にどっぷりと浸かっていった。

「釘……崎?」

 虎杖くんと伏黒くんが雷に撃たれたように硬直する。次の瞬間には伏黒くんが血相を変えていた。その視線の先に壁面に埋まった血塗れの玉犬の姿が見える。生々しい死の凄惨な状況に悲鳴を上げる間もなく、焦燥に駆られた声音が恐怖に揺れる意識を穿った。

「虎杖、!逃げるぞ!釘崎を探すのはそれからだ!」

 しかし、わたしたちは身動きひとつ取れなかった。目と鼻の先に、絶望の形をした影が躍り込んでいるせいで。白と黒の異様な容貌をした呪霊が、そこに悠然と立っていた。