扉の閉まる音が耳を打った直後、わたしは糸でも切れたようにその場にへたり込んだ。猛烈な嘔吐感がせり上がってきたのは、おそらく裂けた胃壁からの出血のせいだろう。わたしは身をふたつに折って、真っ赤な吐瀉物を純白の床に吐き散らした。

「……痛い」

 恐怖と激痛に震える声を絞り出し、懸命に正気を保とうとする。少しでも気を緩めれば意識があっという間に白むような気がした。滲む涙が視界の解像度を著しく下げていく。冷たくなり始めた唇の端を強引に持ち上げた。

「お兄ちゃんも虎杖くんもすごいなぁ……」

 右腕の感覚が消失した代わりに、耐えがたい激痛が全身を蝕んでいる。気丈に振る舞う気力も失せるほどのそれにとうとう堪えきれず、平静を装っていた顔をぐしゃぐしゃに歪めた。伏黒くんと野薔薇ちゃんがいないなら、痩せ我慢をする必要はもうどこにもなかった。

 ひどく息苦しかった。肺をほんの少し膨らませることすら今は難しい。逆流した血液と汚物のせいで、気管が塞がっているのかもしれない。

 浅く荒い呼吸の隙間から、女性の悲鳴にも似た鳥の鳴き声が聞こえる。呪霊の前でいつまでも膝を折っているわけにいかないとわかっていても、崩れた下半身にはもうほとんど力が入らない。

 額に嫌な脂汗がびっしり浮かんでいた。低く呻きながら再び血染めの何かを吐き出すと、わたしは揺れ動く視線を右前方へ向ける。

 ただ白いだけの領域に横並びになった、十三の扉。そのひとつを見つめたまま、言うことの聞かない下肢を厳しく叱咤して立ち上がる。

 岩のように重くなった身体を懸命に引きずって前へ進む。その刹那、悲鳴じみた鳴き声が途切れた。続いて地面を蹴る音が耳を打つ。激怒したように赤らんだ猿の顔が視界の端に映り、焦燥に駆られた足を必死に動かした。

 目当ての取っ手に縋り付いたときには、呪いがすぐ真後ろまで肉薄していた。瞬きする暇もなく、視界がぐるりと回転する。それでもわたしは扉の取っ手を離さなかった。身体が吹き飛んだ衝撃で扉が開いたのがわかった。満足したように左手が緩む。地面に激しく叩き付けられながらも、こじ開けられた扉に焦点を合わせ続けた。

 激痛の中で、扉の向こうから雪崩れるように現れた人影を見る。

 坊主頭の少年がふたり、赤い斑点の付いた床に倒れ込んだ。白いシャツに紺のジャージという出で立ちは、つい先ほど見つけたばかりの遺体とよく似ている。

 床に投げ出された少年の指先が動き、次いでふたりの口から小さな呻き声が漏れた。強張っていたわたしの唇が一気に緩んだ。

「良かった……」

 単なる足止めのためにこの場に残ったのではない。この領域に誰かがいるような気がしたから。けれど見つけたところで伏黒くんに制止されるとわかっていたからこそ、わたしがたったひとりで残る必要があったのだ。

 ほっと安堵の息をついたわたしの視界に、薄暗い影が落ちる。激痛を堪えながら見上げれば、異形の姿をした呪霊の尾と目が合った。正確に言えば目が合ったような気がした。視力が悪いのか、それともすでに失明しているのか、その焦点はずっと小刻みに揺れ動いている。

 大蛇の上唇に行儀良く並んだピット器官を見つめる。蛇の一部には赤外線を感知するピット器官を持つ種類がいくつか存在する。第三の目と呼ばれるそれすらもうまく働いていないのかもしれない。

 黒い大蛇は咥えていたわたしの右腕をぼたりと落とすと、心底不思議そうに首を傾げた。

「何故、わかったの、です、か」
「わたし、運が良いんです」
「神も仏も、いつだって、貴女の、味方ですねぇ」

 たどたどしい日本語を操る黒蛇はどこかうれしそうに呟く。複雑に絡み合う膨大な呪力の中に身に覚えを感じ、わたしは掠れた声を絞り出した。

「……とても酷いことをされたんですね」
「そう、ですね。そうかも、しれ、ません。ですが、殺されなかっただけ、良かった、と、思うことに、しました。この痛みの、お陰で、薬も少し抜け、ましたから。もうあの御方の、記憶や感情が、流れ込むことも、ありません。貴女を殺したい、という、呪いの本能、には、抗い切れない、ですが」

 苦しげに話す呪いの言葉に耳を傾けながらも、思考はこの領域からの逃走経路を割り出すためにそのほとんどを費やしていた。

 片腕を失くした上に腹腔を貫かれたわたしが、この呪霊相手にふたりを抱えて逃げるのはどう考えても無理がある。となれば、眼前の呪霊を退けて逃げる他ないだろう。

 地面に転がったまま、荒い呼吸を繰り返す。こんな不可能を可能に出来る人間など“最強”の悟くんくらいだろう。押し寄せる絶望に歯噛みしていると、黒い大蛇が穏やかに言った。

「それに、どうせ殺される、なら、貴女が良い。だから今日、望んでここに、来たんです」
「……え?」
「貴女だけを、攻撃、することで、貴女が目的だと、思わせれば……貴女は必ず、足止めを、買って、出ます……そう、すれば、簡単に、ふたりきりに、なれます、からねぇ」

 何度も目を瞬かせるわたしを見下ろして、大蛇が笑みを含んだ声音で得意げに続ける。

「ふふ……作戦成功、です」

 耐えがたい痛みの中で、わたしは思考の糸を手繰った。一体どこから“作戦”だったと言うのだろう。

 ――かくて、時は三十分ほど遡る。



* * *




“それマジ?”

 わたしのスマホがその短いメッセージを受信したのは、伊地知さんの運転する社用車から降りた直後だった。強張った身体を念入りに伸ばしつつ、片手でスマホを操作する。“マジだよ”と打ち込んだ文字が並ぶ画面を、小さな雨粒が何度か打ち付けた。

「ハイ私助手席!」と一番乗りで野薔薇ちゃんが助手席を陣取ったため、わたしは伏黒くんと虎杖くんに挟まれる形で後部座席に乗ることになった。社用車の後部座席には三人乗れるとはいえ、伏黒くんと虎杖くんは成長期の終わっていない男子高校生である。ここに来るまでの道中、わたしがとても窮屈な思いをしたのは言うまでもない。

 そぼ降る小雨の中、傘も差さずに現場へ向かう。辺りは深緑に囲まれていた。湿り気を帯びた地面を踏みしめて進む。しとしとと降る雨を分厚い冬服が吸い込み、歩くたびに身体からじんわりと汗が滲んだ。二重の意味で気が滅入った。もう七月だというのに、衣替えはまだ先らしい。

 隣を歩く伏黒くんに「暑いね」と同意を求めれば、「今日はまだ涼しいほうだろ」と素っ気ない返事が返ってくる。それから思い出したように、「梅雨が明けたら地獄だな」とうんざりとした様子で言葉を付け足した。

 先導していた伊地知さんが足を止めた。年季の入った建物が眼前に見えている。伊地知さんが今回の任務について改めて説明し始めた。わたしはそれを聞きながら、こっそりと悟くんとのメッセージのやり取りを再開する。

“僕そんな話何ひとつ聞いてないんだけど”

 現在地方へ出張中の悟くんはずいぶん怒っている様子だった。いつもなら数多く併用されるスタンプや絵文字が、今日に限ってことごとく消え失せているのがその証拠だ。

 西東京市にある英集少年院、その運動場上空に“呪胎”が現れたのがおよそ三時間前。今回の現場である受刑在院者第二宿舎には、未だ五名の在院者が呪胎とともに取り残されているという。

 事は一刻を争うのだ。きっと緊急事態だからこそ悟くんへの連絡が遅れたのだろう。珍しく不機嫌な悟くんを宥めるように、素早く文字を打ち込んでいく。

“緊急事態だから仕方ないよ”
“は?尚更意味わかんねーよ。僕これでも担任ですけど。最強以前に担任なんですけど。そもそも担任に連絡が来ないっておかしくない?”
“おかしいの?”
“おかしいの。こっちも妙だし、完全にキナ臭くなってきたな”
“妙って?”
“もう何体か殺したけど自然発生した呪いじゃない。おそらく鱗の呪いが一枚噛んでる。僕をから引き離したいってことは何かするつもりだろうな。伊地知も含めて全員今すぐそこから逃げられる?”

 雨に濡れた画面をじっと見つめたまま、わたしは眉間に皺を寄せる。宿舎から逃げられずにいる少年たちのことを考えると、すぐに“うん”とは言えなかった。

「……
「逃げるって言っても……」

「見殺しになんてできないし……」
っ」

 どうすべきか真剣に考え込んでいたせいで、伏黒くんの小さな声音に気づくのが遅れる。はっとして顔を上げれば、呆れ返った様子の彼と目が合った。

「……な、なに?」
「スマホ見んな。睨まれてんぞ」

 囁くように指摘されて我に返る。そうっと視線を動かせば、伊地知さんがこちらを鋭く睨み付けていた。「さん、話は聞いていましたか?」と冷ややかな声で問われ、わたしは誤魔化すようにぎこちない笑みを結んだ。嘆息した伊地知さんが口を開いたそのとき、

「あの……あの!」

 切迫の色を孕んだ女性の声が耳朶を叩いた。反射的に声のしたほうを振り向けば、後方に四十代半ばくらいの女性が立っている。伊地知さんとは別の補助監督がその後ろを走っているのが見えた。補助監督を振り切ってここまでやって来たのだろう。

「正は――息子は大丈夫なんでしょうか?」

 口早に紡がれた言葉にわたしの顔が強張った。女性と対するように前へ歩み出た伊地知さんは「面会に来ていた保護者です」とわたしたちにしか聞こえない程度の小声で呟くと、不安に表情を曇らせる女性に対して端的に説明を加えた。

「何者かによって施設内に毒物が撒かれた可能性があります。現時点でこれ以上のことは申し上げられません」

 一切の感情を凪いだ響きに何かを感じ取ったのか、瞠目した女性は「そんな……」とたちまち声を震わせた。次の瞬間には、伏せた双眸から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちている。

 ハンカチを握り締めた女性は補助監督に連れられて、来た道をとぼとぼと引き戻っていった。縮こまるように丸くなった背中を見送ると、わたしは手早くスマホを操作する。

“悟くん、ごめんなさい。いってきます”

 それだけを打ち込むや、わたしはスマホをポケットに仕舞い込んだ。呪術高専を出発する前、伏黒くんに言われた言葉が耳の奥で蘇る。

「いくら人手不足だからって、呪胎が特級に成るかもしれねぇ状況で入学したばかりの俺たち一年が派遣されること自体おかしい。念のため五条先生に連絡しておけ」

 わたしは視線を持ち上げて、少年たちが取り残されたままの宿舎を見据える。少しずつ強まる雨脚で視界が煙っている。そぼ降る雨の向こう側で、底知れぬ悪意が渦巻いている気がした。

「伏黒、釘崎、

 揺るぎない響きが撹拌する雨音に、小気味いい音が沈んだ。ずっと黙っていた虎杖くんはひとしきり指の関節を鳴らすと、強い語気をまっすぐに放つ。

「助けるぞ」

 間断なく野薔薇ちゃんが「当然」と鼻息を荒くした。続けてわたしも「うん、絶対に助けよう」と深く頷いて呼応する。

 冷めた目をした伏黒くんだけが無言だった。白群の瞳は何もかも見透かそうとするように、ただ前だけを見つめていた。