「……何がどうなってんだ」

 表情を凍り付かせた伏黒恵は驚愕に奥歯を軋らせる。白群の瞳に映るのは鉛色の無機質な鉄扉だ。円形の白い部屋の壁一面に、色も形も全く同じ扉が規則正しく並んでいる。その数は十三。西洋では特に呪術的な意味を持つその数字は漠然とした焦燥と化し、恵の心を間断なく揺さぶっていた。

「最初から俺たちを誘い込むつもりだったのかよ」

 西東京市の上空に出現した呪胎から成った、名もない特級仮想怨霊。それが展開したと思わしき不完全な生得領域――そこで最も呪力の薄い場所にある鉄扉を開けば外へ出られるはずだったのに、恵の目論見は見事に外れた。

 出入口だと思っていた重い扉の先に、全く別の領域が広がっていたせいで。

 見境なく雪化粧を施されたような、ただ白いだけの領域。色を持っているのは壁に横並びになった頑丈そうな鉄扉だけだ。

 その主こそ領域の中心で悲鳴じみた薄気味悪い声で鳴く、一匹の異質な獣だった。

 獣は異様な容貌をしていた。真っ赤な猿の顔に、毛深い狸の胴体。伸びる手足は勇ましい虎のもので、黒い大蛇が尻尾のように揺らめいている。全く別の生き物の肉体同士を無理矢理縫い合わせたような、痛々しい継ぎ接ぎだらけの獣は、源頼政が退治したとされる物の怪――つまり軍記“平家物語”に登場する“奴延鳥”にそっくりだった。

 痛いほどの静寂を裂くように、赤く染まった猿の口からトラツグミに似た声がこぼれ落ちる。恵の額に冷や汗が浮かんだ。一目見ただけでわかる。これも間違いなく“特級”であるということを。

 獣の尻から伸びた黒蛇の姿は、恵の記憶にも新しい。杉沢病院で恵たちを襲ったあの呪霊本体だ。しかし見開かれた双眸は焦点が合っておらず、肘から先しかない人間の細腕を咥えたまま、何かを探すように懸命に首を振り続けている。

「こうやって人間の腕を落とすの、呪いの中で流行ってるのかなぁ」

 落ち着いているとも、取り乱しているともつかない掠れた声が、蒼白な恵の鼓膜を叩いた。「悪趣味だね」と言葉を続けると、その声の主が覚束ない足取りで恵の前方へと進んだ。小さく丸まった華奢な背中が通り過ぎると、鉄さびたような血臭が鼻孔を焦がした。恵の視界に映る少女の右肘から先はどこにもない。ぼたぼたとこぼれる血液が、白い床を鮮やかな赤に染め上げている。

 少女の右腕が忽然と消えたのは、この領域に足を踏み入れた瞬間だった。少女のすぐ隣にいた恵は何の反応もできなかったし、それは蛙そっくりの式神“蝦蟇”に咥えられたままの野薔薇も同じだった。腕が切り取られたことを事が終わってから気づいたのだ。

 ただ、恵にとってはこれが三度目だった。一度目は樹、二度目は虎杖悠仁、そして三度目は――己の無力さに苛まれる恵の思考を遮るように、囀る奴延鳥を見据えた野薔薇が小さな声で疑問を口にした。

「コレどうやって外に出んの?」
「……いや、こっちは多分出られねぇ」
「はぁ?!なんでよ?!」
「完全な領域だからだ」

 焦燥の色を浮かべる恵はきっぱりと答えてみせた。これは恵たちが脱出したばかりのあの不完全な領域とは違う、術式を付与して構築された完全な領域だ。領域外に逃げるのはほとんど不可能に等しい――恵がそう思考した瞬間。

「ううん、ちゃんと出られるよ」

 短いけれども玲瓏な響きが、恵の耳朶をたしかに打った。恵と野薔薇が揃ってそちらを見る。丸くなった猫背を正しながら、少女は感情の消え失せた声音で告げる。

「十三番目の天使は道を塞ぐ者。だから十三番目の扉を開けばいい」
「……?」

 まるで意味の結ばない言葉に恵が眉をひそめると、少女は一音一音を区切って三種祓詞を唱えた。

「ト、ホ、カ、ミ、エ、ミ、タ、メ」

 古くから伝わる祈りの言葉が途切れるや、細い左腕が緩やかに持ち上がる。人差し指が示すのは、恵から見て十時の方向にある無機質な鉄扉だった。

「あの扉からならきっと領域の外に出られるはずだよ」

 疑う余地などなかった。明朗に告げられたそれが今はどんな言葉よりも信じられた。恵と野薔薇の目に僅かな希望が走る。トラツグミの声で囀る獣に動く気配はない。今がチャンスだと思った。恵が少女の肩を支えて逃亡しようとしたそのとき、

「……やっぱりわたしには虎杖くんみたいに格好良いことは言えないな」

 どこか自虐的な台詞が、恵の意識を深々と穿った。

「伏黒くん。野薔薇ちゃんを連れてここから逃げて」

 その言葉は恵に数刻前に聞いた咆哮を思い出させる。決して揺らぐことのない決意。恵に全てを託した覚悟。恵はあのとき、何もかもを振り切ってきたのだ。たったひとりで逝った男とよく似た背中をそこに置き去りにして。

「馬鹿言うな、お前まで何考えてんだ!あそこから逃げられるんだろ?!だったら――」
「虎杖くんが身体を張ってくれたんだよ?わたしもそれに報いたい。あとね、あの呪いの狙いは多分わたしだと思う。だからみんなが安全なところに逃げられるまで、わたしが責任をもって足止めするよ」

 獣と対峙するように前を向く少女は毅然としていた。自分になど構うなと恵に告げるように。差し出されるもの全てを拒むように。恵の記憶が激しく刺激される。全身に冷たい血液が駆け廻り、微かな痛みを肋骨の内側へと集め始めている。

「……お兄ちゃんの気持ち、今やっと理解できたかも」

 淡い微笑を含んだ響きで呟かれた言葉に、恵は一瞬で声が詰まった。獣に向かって歩き出す黒い背中に、「っ!」と野薔薇が金切り声で叫ぶ。恵の全身から音を立てて血の気が引いていく。あのときと――樹が死んだあの日と同じように。

 数歩進むと、少女はそこで初めて恵を振り返った。何故か少女の口から血が滴り落ちている。恵はそこで遅れて気づいた。少女の腹に小さな穴が穿たれていることを。初撃で負傷したのは右腕だけではなかったのだろう。

 茶目っぽい視線が蒼白になった恵を優しく撫でる。まるで別れを惜しむかのように。

「野薔薇ちゃんを安全なところへ避難させたら、すぐに虎杖くんを助けに行ってあげて。絶対に絶対だよ?」

 濁った朱に染まった唇に、兄と瓜ふたつの穏やかな笑みを宿して。

「頼んだからね、伏黒くん」