おびただしい数の異形の影が、アクリル板を覆い尽くしていた。

 握り拳ほどの大きさの呪霊が大群となって押し寄せ、視界からことごとく光を奪っている。飛行虫特有の羽音は幾重にも重なり合い、思考を妨げるほどの轟音となって空気を震わせる。透明なアクリル板に呪い自身の肉体を打ち付ける鈍い音が、みるみる霞んでしまうほどだった。

 これでは外の様子がほとんどわからない。わたしたちのゴンドラだけが襲撃を受けているのか、それとも大観覧車そのものが攻撃されているのかすらも。

 座席から立ち上がり中腰になったわたしは、身体を縮こませて気味の悪さを訴える。

「これテレビで観たことある……アフリカでよくあるバッタの大量発生……」
「奇遇だな、俺もだ。それにしたって数が多い……一体どこから湧いたんだ」

 忌々しげに呟く伏黒くんの双眸が、黒一色に変わったアクリル板を凝視する。途方もない焦りに襲われながら、わたしは周囲に視線を彷徨わせて息を呑んだ。喧しく響く羽音の雄叫びに負けまいと、天井を指差しながら声を張り上げる。

「伏黒くん、あれ!」

 伏黒くんが導かれるように人差し指の示す方向を追った。飛び回る羽虫のような呪霊たちの僅かな隙間から、観覧車とゴンドラを繋ぐ鋼鉄製の支柱が見えている。そこに群がる呪霊たちはあろうことか、剥き出しにした鋭い牙で臙脂色の鋼鉄を細かく削り取っていたのだ。

「……ゴンドラごと落とすつもりか!」

 血相を変えた彼が怒号を放つ。わたしはびりびりと震え続けるアクリル板に手を添えた。本来なら見えているはずの地上に目を落とし、強い危機感を抱いたまま口早に呟く。

「早くなんとかしなきゃ。こんなものが落ちたら怪我なんかじゃ済まない」

 多くの人が犠牲になるだろう。穏やかな幸せに満ちた休日があっという間に奪われるだろう。それどころか、きっと一生癒えない傷を負うことになる。

 わたしはすぐに鼻先を彼へと転じた。

「伏黒くん急がないと――」
「他人のことばっかだな」
「え?」

 脳を揺さぶるほどの喧しい羽音のせいでよく聞き取れなかった。伏黒くんは「なんでもねぇよ」と言うと、絶景を遮る呪霊の大群を睥睨しながら両手の親指を交差させる。

「――“鵺”」

 濡れた黒い影がゴンドラの外へ伸び、羽虫がけたたましく騒ぎ始めた。突如姿を現した外敵に応戦しようと、一部の呪いたちがアクリル板から瞬く間に離れていく。

 ようやく視界に淡い光が差した。どうやら襲われているのはこのゴンドラだけらしい。

 安堵したのも束の間、「邪魔だ!どけ!」と鋭い怒号が耳朶を打った。見れば、彼の喚び出した怪鳥じみた鵺は黒塗りの壁に阻まれていた。無数の呪いに群がられているせいで動き回ることすら難しい状態だ。その間にも、赤い支柱に絡み付く呪いは黙々と鋼鉄を削り続けている。

「他に飛べる動物っていないの?!」
「いるならとっくに出してる!」

 苛立ちを放った伏黒くんの顔が焦燥に歪む。わたしは懸命に頭を回転させた。

「扉を破って飛び降りる?」
「鵺が足止めされている以上、落ちれば即死だ」
「あの犬や蛇に受け止めてもらうとか」
「この状況で地上まで無事に落下できると思うか?」

 彼の言う通りだった。無防備に落下するわたしたちをみすみす見逃すはずもない。

 しかし、このままでは駄目だ。ゴンドラはもうすぐ頂上に到達する。鋼鉄を噛み砕く呪霊たちの動きがひどく忙しなくなってきた。確実に殺すなら高所から落としたほうがいいに決まっている。この速度なら頂上で落とされる可能性はなくとも、それに近い高さで落とされるのは確実だろう。

 そうなれば、地上で楽しげに笑い合う人々は――

 迷っている暇などなかった。わたしは一縷の望みを懸けて叫んだ。

「伏黒くん!」
「却下だ!」
「でも!」
「でもじゃねぇ!」

 荒々しい怒声が響き、逃げるように目を伏せた。そこまで嫌なんだと少しだけ傷付きながら。彼が嫌がるのはもっともだけれど、さして頭が良いわけではないわたしには他の方法がひとつも思い浮かばない。

 伏黒くんは呪霊を振り払おうとする鵺に絶えず呪力を送り続けている。けれどもう頂上だ。時間がない。ゴンドラが落ちてしまう。

 ふと、霊安室に漂う静謐な空気が蘇る。

 白い布を被った、たったひとりの家族の遺体。もう二度と「」と優しい声で呼んではくれない。「また心配ばっかりかけて」と困り顔で叱ってくれることもないし、「が幸せなら俺も幸せだから」と頭を撫でてくれることもない。初夏の香りがする爽やかな笑顔を見せてくれることも、もう二度とない。

 こちらに背を向ける彼の制服をきつく掴んで、わたしはか細い声で告げた。

「お願い。もう誰にも死んでほしくないの。伏黒くんも含めて」

 伏黒くんが振り返る。彼は何も言わなかった。それが答えだった。

 わたしは彼の肩に手を添えた。高さのないゴンドラでは背伸びの必要はなかった。戸惑いに揺れる白群の両瞳を見つめたまま、顔を覗き込むようにしてそっと口付ける。伏黒くんの唇はかさかさに乾いていた。多分、わたしも。

 肋骨の辺りからじんわりと熱が滲む感じがする。この大観覧車にまつわるジンクスが頭を掠め、ひどく申し訳ない気持ちが募った。本当なら好きな人とするべきところを、色々と台無しにしてしまった。心の中で謝るたび、身体を廻る呪力が減っていくような気がした。

 ほんの数秒足らずの口付けを終えると、鼓膜を通すことなく脳髄に直接冷たい機械音声が響いた。

【呪力過剰投与30%――オーバードライブ】

 感情を完全に欠落させた響きの直後、わたしは間髪入れずに告げた。無意識だった。それは頭の中に突然降ってきた、意味もわからない単語だった。

「“リライト”」
【対象における5%以上の余剰呪力を確認、音声コマンド入力完了――索敵モードから殲滅モードへ即時移行します】

 滑らかながら無機的な声が何らかの要請に応じる。苦しげな顔をした伏黒くんが荒い息を漏らした。

「……殲滅?」

 その瞬間、頭上の空気が激しく振動した。ついにゴンドラが落ちるのかと身構えたものの、決してそうではなかった。

 代赭色の両翼を大きく広げた鵺が透明なアクリル板から覗く。勢いよく羽を広げることで、群がる呪霊を一瞬のうちに弾き飛ばしたのだろう。

 先ほどとは打って変わって、鵺は呪力に満ち溢れていた。鵺の肉体を廻る暴力的なまでの呪力が代赭の翼に収束する。

 金色の丸い双眸に獰猛な怒りを灯すや、目にも止まらぬ速さで縦横無尽に宙を旋回した。

 羽虫たちが果敢に攻め立てるものの、弾丸と化した鵺の前では為す術もない。白刃じみた翼にたちまち切り裂かれていった。攻撃の衝撃でアクリル板が割れる。四散した無数の呪いの残骸は落下し、打ち付ける雨粒と撹拌していく。

「畳み掛けろ!」

 乱れた呼吸で伏黒くんが指示を出す。すでにゴンドラに貼り付く呪霊の姿はない。残っているのは支柱を喰い千切らんとする呪霊たちだけだ。

 彼の声に呼応して、支柱めがけて鵺が戦闘機のように鉛空を滑空する。呪霊は凄まじい風圧に吹き飛ばされ、無慈悲な両翼に木っ端微塵に切り裂かれた。それでも支柱にしがみつく呪霊は下肢に備わる鋭い鉤爪が容赦なく抉った。

 圧倒的だった。蹂躙という言葉が相応しいほどに。

 支柱に残った最後の一匹を、鵺が筋肉質なその足で捻り潰す。鉤爪から鮮やかな赤が滴り落ちた瞬間、

【タイムイズオーバー】

と抑揚のない無感情な機械音声が脳髄を穿った。仕事を終えた鵺の身体はまるで液体のように輪郭を失い、あっという間に消え去った。

 固唾を呑んで見守っていたわたしは、ようやく細い息を吐いた。

「ギリギリセーフ……」
「いや、全然セーフじゃねぇ」

 しかし伏黒くんが即座に否定する。わたしの呪術のせいだろう、険しくしかめた顔にはびっしりと脂汗が浮かび、雫となって顎から垂れている。

 彼の視線の先を追えば、ゴンドラ上部の金属部分がひどい虫食い状態だった。それと繋がるのは、呪霊たちが一心不乱に喰い破っていた支柱だ。

 その金属もまたゴンドラと観覧車を繋ぐ命綱なのだと気づいたわたしの耳に、金切り声にも似た軋んだ音が飛び込んでくる。全身から血の気が引く音をはっきりと聞いた。

「このままだと俺たちの重みで落下するぞ」

 追い打ちをかける言葉に眩暈を覚える。上空で轟いた異音に係員が気づいたのだろう、観覧車はいつの間にか緊急停止している。ゴンドラはまだほとんど頂上にいた。危機が去ったわけではなかったらしい。

 伏黒くんが息も絶え絶えに親指を交差した――が、何も現れない。眉間に深い皺を刻んだまま、何度も同じ動作を繰り返す。だというのに、先ほどまで勇猛果敢に戦っていた鵺は一向に姿を現さない。

「……どういうことだ?……なんで術式が使えねぇんだよ……」

 ひどく困惑した瞳がこちらを向く。わたしは思い付く可能性を口にした。

「……時間切れになったから?」
ッ!」
「ごめんなさいっ!」

 間断なく謝ると、気まずそうに目を伏せた彼が言った。

「だったらさっきの、もう一回やれば――」
「ごめんなさい、多分無理だと思う。小さいとき面白がった悟くんに何度もキスされたんだけど、時間を空けないと駄目だった。あの声、聞こえなかった」
「……五条先生が出禁になった理由はそれか」
「出禁?」

 伏黒くんは反問には答えず、苦虫を噛み潰したような表情で地上を見下ろす。金属の軋む音が雨音と混ざり合っていた。わたしはひび割れて大きな穴の開いたアクリル板に視線を送った。

「ここから飛び降りよう」
「……さっき言ったよな?この高さから落ちれば即死だって」

 確認するような声音が、雨に濡れ始めたゴンドラ内部に響く。わたしは笑って頷いてみせた。

「きっと大丈夫!」
「はぁ?“きっと”って何の根拠があって――」
「ゴンドラは落ちないし、わたしたちも助かる。誰も死んだりしない。絶対に大丈夫だよ。わたし、運は良いほうだから」

 まるで冬眠中に叩き起こされたクマのような声で、伏黒くんは低く唸った。

「運が良いって……」
「おみくじは大吉以外引いたことないんだよ?」

 悪戯っぽく付け足したわたしは彼の無骨な手を取った。遊園地を歩き回ったときと同じ、仲睦まじい恋人のように互いの指を深く絡めていく。

 神様仏様、どうかお願いです。伏黒くんを助けてください。――心の中で口早に祈りを捧げると、頭の後ろで激しい驟雨の音が聞こえたような気がした。

 未だ躊躇いの残る青い双眸をまっすぐに見据え、わたしは高らかに告げた。

「わたしを信じて!」

 伏黒くんの答えも待たず、ぽっかりと空いた穴からそのまま飛び降りる。呼吸を忘れる高さに息を呑んだ。着けたままのカチューシャが凄まじい風圧のせいであらぬ方向へ飛んで行く。覚悟はしていたものの、怖気が全身を廻るのがわかった。

!」

 鋭い声がして、恐怖に侵されるわたしの手がぐんっと強く引き寄せられた。空中で身体が回転する。焦燥に顔を歪める彼が空いたほうの手でわたしの頭を掻き抱く。

 額が伏黒くんの肩に触れた。何故だろう――たったそれだけで、全身に立ち込めていた恐怖が霧散した。たしかな安心感が、そこに溢れていた。