「雨が降る?」
「うん。おきるとね、いつもあめがふってるの。ざーざーいうの」

 傑くんの膝の上は、幼いわたしの特等席だった。

 鍛え上げられた硬い太ももは決して座り心地が良いわけではなかったけれど、傑くんに後ろから優しく抱きしめてもらいたくて、わたしは決まっていつも膝の上を占領していた。今思えば、大柄な傑くんの腕の中にすっぽりと収まる感じが好きだったのだろう。とても温かくて、安心感に満たされるから。

 伏黒くんに「何か覚えていることはないか」と問われても、無言で首を振って否定せざるを得ないほど、幼い時分の記憶は虫にでも喰われたようにひどく不明瞭で曖昧だ。

 それでも、はっきりと思い出せる記憶がいくつかある。鮮やかな鱗に覆われたお父さんとお母さんの血だらけの遺体。お兄ちゃんが連れてきた円のずっしりとした重み。保育園の運動会に飛び入り参加した悟くんの得意げな笑顔。

 そして、傑くんとふたりきりで雨の話をした、この記憶だ。

 保育園に通っていたわたしのお迎えは、いつだって一番最後だった。お兄ちゃんは息を切らして迎えに来てくれたけれど、急な仕事や補習で来られない日も少なくなかった。

 そういう日は必ず、お兄ちゃんと親しかった傑くんが迎えに来てくれた。お兄ちゃんが帰るまで家で一緒にテレビを観たり、夕飯を作ったりして、同じ時間を穏やかに過ごしたのだ。

 傑くんはわたしの話をいつも楽しそうに聞いてくれる。この日もそうだった。夜の香りが漂うアパートの窓に目をやって、傑くんは不思議そうに首をひねった。

「今日は朝からずっと晴れだったけど……こっちは雨が降ったの?」
「ううん、おそとじゃないよ。あたまのなか」
の頭の中で雨が降るの?」
「うん!きょうもいっぱいふった!」
「そうなんだ。雨の音、怖くなかった?」
「ぜんぜんこわくないよ。あめがふるとね、ここがぽかぽかするんだよ」

 そう言いながら胸に両手を当てると、傑くんは大きな手でわたしの頭を撫でた。心地いい低音が耳朶を打つ。

「それはきっと“慈雨”だね」
「じう?」
「そう。その雨はにとっていつか大きな恵みとなる。だから恵みの雨という意味で慈雨。どうかな?結構良いネーミングだと思うんだけど」
「……め?」

 傑くんが口にする言葉は幼いわたしには難しかった。意味がわからず何度も目を瞬くわたしを、傑くんは後ろから覗き込んだ。優しげな光が灯る双眸を柔和に細めると、聞き取りやすいようにゆったりとした口調で告げた。

「恵み」
「めぐみ?」
「幸せをあげるってことだよ」
「しあわせ……」

 噛み砕くように繰り返して、わたしは頭を過ぎった違和感を拾い上げようとした。幼心にも、その言葉に僅かな引っかかりを覚えたから。

 穏やかな傑くんの顔を見つめ返し、ぶんぶんとかぶりを振る。

「わたし、もうしあわせだよ?」

 ポカンとなった傑くんは、やがて確認するように問い返した。

の幸せって、何?」
「えっとねー……さみしくないこと!」
「寂しくないこと?」
「うん!だって、ひとりぼっちがいちばんかなしいから」
「……そうかもしれないね」

 複雑そうな表情で小さく頷く傑くんにもたれかかる。どんなに体重をかけてもびくともしない身体は、衣類越しでも充分に温かい。わたしは腰からひねるようにして振り向くと、顎先を持ち上げてへらっと笑った。

「じゃあ、すぐるくん、しあわせだね」
「……え?」
「わたしといっしょだもん。さみしくないね」

 言うと、傑くんは勢いよく噴き出した。一体何がそんなに可笑しいのか、肩を震わせてしきりに笑うその姿に、わたしは不満を示すように頬を軽く膨らませる。

「なんでわらうのー」
「ごめん、そういうつもりじゃなくて」

 笑いを堪えながら言葉を切って、わたしの両脇を掴んで持ち上げる。そして向かい合うように座り直ったわたしを、真正面からぎゅっと抱きしめた。

 無造作に垂れる長い黒髪が顔に触れてくすぐったい。白いTシャツからはお香のような匂いがして、それを抱きすくめるように傑くんの大きな背中に腕を回した。

 陽だまりにも似た柔らかな響きがすぐ耳元から聞こえる。

「私が今こんなにも幸せなのは、が私に幸せを分けてくれたからだよ。神様と仏様から与えられた優しい心を、は私に分けてくれたんだ」
「……かみさまと、ほとけさま?」
「うん。だからね、次は他の人にも分けてあげてくれないかな?」
「めぐみってこと?」
「そういうこと。すぐに覚えて偉いね」

 褒められて面映ゆくなったわたしは小さな笑みを漏らした。そっと身体を離した傑くんの微笑をまっすぐ見つめて、疑問を表すように首を傾げる。

「だれにあげればいいの?」
「ひとりぼっちで寂しそうな人に」

 傑くんは優しげな声音で付け足した。

「その人にとって、きっとの存在が慈雨になるはずだから」



* * *




 物心ついたときからずっと、雨の音が好きだった。不思議と心が落ち着くから。優しい気持ちになれるから。

 この辺りのランドマークとして人々から愛される世界最大級の大観覧車。全高およそ百メートル。一周に要する時間は約十五分。多色入りの色鉛筆を思わせる色彩豊かなゴンドラは、雨天でも楽しめるよう屋根の付いた個室の作りになっている。

 曇りのない透明なアクリル板を、そぶ振る雨が絶え間なく叩く。雨粒は次第に小さくなっているものの、空は相変わらず濁った鉛色だ。まだしばらくは止みそうにないだろう。

 ゴンドラの緩やかな上昇に合わせ、人々や建物が徐々に小さくなっていく。わたしは感嘆を漏らしながら、冷えたアクリル板に右手を添えた。

「すごいね。雨でも良い眺め。観覧車に乗らずに死んじゃうなんて、お兄ちゃん、きっと人生損したね」
「……そうかもな」

 窓枠に腕を乗せて頬杖をつく伏黒くんは、視線を交わすことなく素っ気なく呟いた。すぐ隣には陽気なカチューシャが置かれている。誰も見ていないからと外すことにしたらしい。

 六人乗りのゴンドラは想像よりもずっと広い。加えて互いが最も遠くなる位置に座っているせいだろう、物理的にも精神的にも彼との距離を感じる。だからといって腰を落ち着けてしまった以上、今さら立ち上がって席を移動するのは不自然だ。

 途切れることのない雨音だけが沈黙に沈む。とはいえ気まずさを覚えたのも初めだけで、目線の位置が高くなるにつれ、その沈黙がむしろ心地よくなっていった。

 雨に濡れたアクリル板越しに咲き乱れる傘の数を数えていたものの、どんどん小さくなるそれを数えるのはそろそろ限界だった。居心地のいい沈黙に浸るのも悪くないけれど、ふたりきりになれたこの機会をもっと有効に活用すべきだという気もする。

 わたしは左斜め前に座る彼に視線を移すと、観覧車に乗るずっと前から口の中に溜めていた質問を投げかける。

「ねぇ、伏黒くん。伏黒くんの目から見たお兄ちゃんって、どんな人だった?」

 アクリル板を見つめる彼の顔に、驚嘆と狼狽を混沌とさせた複雑な表情が滲む。けれどそれもほんの一瞬のことで、すぐに表情を消して無愛想な声音を寄越した。

「……迷ってんのか」
「よくわかんなくなっちゃって」

 そう言って目を伏せると、アクリル板から離した右手を膝の上に置いた左手に絡めた。握ったり離したりを繰り返しながら、今の自分の気持ちを言葉に変える。

「自分の目で見てきたものを信じたい。でも、それじゃ駄目な気もして」

 伏黒くんは窓枠から腕を外し、わたしを見つめた。それからどこか躊躇いを含んだ様子で不器用な沈黙を十秒ほど続けると、迷いを振り払うように唇を割った。

は、自分の名前が好きか」
「え?」
「“”っていう自分の名前だ」

 答えを口にするより早く、感情に欠けた淡泊な声音が鼓膜を震わせていた。

「俺は自分の名前が嫌いだ。“恵”なんて、どう考えても性別も知らないで適当に付けた名前だろ。命名した父親があっという間に蒸発したのがその証拠だ。きっと今も俺の知らないどこか遠くでのうのうと生きてる」

 どう相槌を打てばいいのかわからなかった。唇を横一文字に結んで聞き入るわたしから目を逸らし、伏黒くんは大粒の雫が流れ落ちるアクリル板から外を眺めた。

さんは初めて会ったとき、俺の名前を“良い名前だね”と言った」

 くぐもった雨音が響くゴンドラに、彼の冷静な声音が重なっていく。

「だから俺は嫌いだと正直に返した。どう考えたって適当な名前だと。そしたらさんはこう言った。“たしかに適当な名前だ。もちろん手抜きではなく、相応しいという意味で”って。こだわりがなかったんじゃなくて、こだわり抜いたからこそ“恵”なんじゃないかと真剣な顔で言い始めた」

 薄い目蓋が気だるげに伏せられる。僅かに覗く白群の瞳はわたしに決して感情を読み取らせようとしなかった。

「君が幸せに恵まれますように。人や物やお金だけじゃない、運も才能も環境も――たくさんのものに恵まれて、君が何不自由なく幸せに暮らせますように」

 その瞬間、雨の音が消えたような気がした。わたしの耳に届いたのは、小さな声音で静かに紡がれる祈りの言葉だけだった。明確な輪郭を伴って鼓膜に落ちたそれは戻ってきた雨音と撹拌していく。

 彼は抑揚のない声音をぽつぽつと継いだ。

さんは“名付けてくれた人の想いが透けて見える、とても素敵な名前だ”と笑った。名前は個を識別するための記号に過ぎないけれど、その記号を愛するかどうかで人生の豊かさも変わるよ――そう、わかったように付け足して」

 言葉を一旦区切ると、口端を微かに緩めた。ようやく伏黒くんに感情が滲む。ひどく自虐的な苦笑を唇に宿しながらも、その青い瞳には底のない嫌悪感が浮かんでいる。

「俺はそのお気楽な解釈に虫唾が走った。そんなに良い話なわけがない。俺の父親は金のためなら平気で子どもを売るような“ろくでなし”なんだからな」
「……売った?」

 聞き捨てならない不穏な言葉に反応すれば、彼は首を小さく左右に振った。

「もう済んだ話だ。不幸自慢がしたいとかに同情してほしいとか、そういうつもりは一切ない。気にすんな」
「……うん」
「でも俺は親に売られたことを話せなかったし、だからってさんを嫌いにもなれなかった。なんとなく。理由なんかわかんねぇけど」

 伏黒くんの声はそこで途切れた。冷めた瞳が再びアクリル板をなぞる。

 彼の優しさがうれしかった。迷っているわたしのために、心のずっと奥深く、人目に晒されることのない柔らかい場所を明かしてくれたのだから。

 耳の奥で響く彼の言葉を反芻しながら、わたしは小さく笑った。

「話してくれてありがとう。すごくお兄ちゃんらしいね」
「……そうだな」
「伏黒くんはまだ自分の名前が嫌い?」
「当たり前だろ。好きになる日なんて一生来ねぇよ。断言してもいい」
「そっか。でもわたしは好きだよ、“恵”って名前」
「……は?」

 戸惑ったように眉をしかめる伏黒くんに真摯な瞳を返した。

「伏黒くんにぴったりだと思う。伏黒くんは誰かに幸せを分けてあげられる優しい人だから」

 お兄ちゃんが死んだあの日、伏黒くんはずっとそばにいてくれた。霊安室の前から動けなくなったわたしから離れようとしなかった。ひどい言葉を叩き付けても、どれだけ拒絶を示しても、わたしを決して孤独にしなかった。わたしの身を案じてくれた。

 それがたとえ途方もない罪悪感からだとしても、わたしが命を狙われているからだとしても、見捨てようと思えば簡単にそう出来たはずなのだ。むしろそのほうが気持ちはずっと楽だっただろう。

 けれど、伏黒くんはそうしなかった。たったひとりの家族を喪ったわたしに寄り添ってくれた。それはあの日だけではない。今この瞬間もそうだ。“恵”という温かい名前にぴったりだと思った。その性格も、行動も。

 片眉を持ち上げた伏黒くんの顔を尖った感情が掠める。わたしは身を乗り出しつつ、茶目っぽい視線でつついてみせた。

「あ、今イラっとしたでしょ?」
「ああそうだ、よくわかったな。何を言われようと嫌いなもんは嫌いだ」
「じゃあわたしが伏黒くんの分まで好きでいます」

 胸を張って得意げに言えば、彼は表情をほんの僅かに弛緩させた。しかしすぐにふいっと鼻先を逸らし、

「……なんだそれ。勝手にしろよ、お人好し」

と、雨に紛れるほどの小声で吐き捨てる。最も感情を読み取りやすい目元が長い前髪に隠れたせいで、本気で苛立っているのか単なる照れ隠しなのかよくわからない。

 後者だといいなと思いつつ、彼が告げたばかりの言葉をなぞるように話題を変えた。

「お兄ちゃんにとって、樹の名前は記号だったのかな」
「さあな。けど他人に成り代わるための、ただの記号としての人生だったなら……きっとはそこまで悩んでないし、俺だって何も迷ってない」
「え?」
「何を信じるべきか悩んでるのはだけじゃない」

 無愛想に返された意外な言葉に目を瞬く。どこかで少しばかり安堵したわたしは、迷いを含んだ唇を二度三度と開閉させ、ついに意を決して口を開いた。

「あのね……笑わないで聞いてくれる?」
「ああ」
「双子のお兄ちゃんがいます、こっちが本物です――なんて言われても、正直そこまで実感がないんだ。全く覚えてないせいかな、遺体の写真を何度思い出しても自分のことだと思えなくて。血の繋がった家族なのに、わたし薄情だよね」

 自ら口を開いておきながら反応が怖くて、伏黒くんから逃げるように視線を背けた。アクリル板に目をやれば、ゴンドラはもうずいぶんと高いところまで上昇している。大観覧車の頂上が次第に近付いていた。

「実感がなくて当然だろ。それを薄情とは言わねぇよ」

 耳朶を打った声音がわたしを会話に引き戻した。もっと厳しい言葉が飛んでくるものだとばかり思っていたから拍子抜けする。伏黒くんは何の衒いも迷いもない顔で告げた。

「家族に血の繋がりは関係ない。家族を測るのは交わした言葉や共に過ごした時間だ」

 わたしは目をぱちぱちと瞬いた。

「なんか説得力あるね」
「嫌味か?」
「ううん、本音だよ」

 額に深い皺を刻んだ彼に向かってかぶりを振る。嘆息した伏黒くんは少しだけ表情を緩めると、どこか居た堪れなさそうな様子で視線を動かした。

「……俺もと同じだからな」
「同じ?それってどういう――えっ?!」

 しかし疑念の言葉は即座に驚嘆の声へと変わる。どういうわけか、急に視界が暗くなったのだ。まるで突如として夜が訪れたかのように。

 状況を把握しようとわたしは慌てて首を左右に振った。次の瞬間には雨音をかき消すほどの喧しい羽音が鼓膜を乱暴に叩いている。頭痛を引き起こすほどの大合唱に顔をしかめる。

 深い夜に侵されたのではない。ゴンドラの周りを無数の何かが飛び回っているのだ。

「何これ!む、虫?!」
「違う。虫の形をした呪いだ」

 緊張の走る白群の双眸が、黒く染まったアクリル板を射抜かんばかりに睨み付けていた。