頭を守ろうとするかのようにきつく抱きしめられたときには、全身に凄まじい衝撃が走り抜けていた。

 轟然とした音が響き、反射的に目を閉じた。歯を食いしばった。骨がたわむ感じがする。それでも身体が離れないよう、必死に伏黒くんにしがみついた。

 落下の反動で身体が大きく跳ね、息つく暇もないまま固い何かに叩き付けられる。激痛とともに、脳がぐるぐると回る感じがした。揺れが収まってようやく、衝撃を殺せぬまま地面かどこかを転がったのだろうと察した。

 何が起きたのかよくわからなかった。ただ、大きな衝撃が二度来たことは理解した。

 耳元でげほげほと力なく咳き込む声が聞こえて、わたしはようやく重い目蓋を持ち上げた。おぼろに霞んだ視界が次第に輪郭を帯びていく。まだ判然としない意識を呻き声が覚醒させた。

「あぁクソ……痛ぇ……マジで死ぬかと思った……」

 わたしたちは濡れた地面に放り出されていた。痛みを堪えて視線を動かせば、すぐそばにひどく丈夫そうな野外テントが見えた。きっとあの上に落ちて、そのまま地面に投げ出されたのだろう。テントの中でチュロスを売る店員が、青ざめた顔でこちらを見ている。

 野外販売のために設置されたテントはそれほど大きくない。あんな高所から狙ってこのテントの上に落ちることなど不可能だ。

 今さらながら冷や汗を噴いた。運が良いというより他に形容できない。今日はよほど神様と仏様の気前が良かったらしい。

「重い。早くどけ」

 胸の下から地鳴りのような声がして、わたしはすぐに身を起こした。互いの手はしっかりと繋がれている。なんとなく指を絡めたまま、仰向けに倒れる彼をそのまま引っぱり上げた。

「ごめんなさい。庇ってくれて本当にありがとう」

 苦しげに咳き込む伏黒くんが膝を伸ばし、すぐに眉間に皺を寄せた。いつの間にやら周囲に傘を差した野次馬が集まってきている。通路の真ん中でもつれるように倒れたのだから、きっと無理もないだろう。

 テントから「大丈夫ですか!」と店員が駆け出してくるのが見えて、わたしはびくっと肩を持ち上げた。

「えーっと……」
「……まずいな。一旦離れるぞ。走れるか」
「う、うん」

 頷くわたしの手を引いて、伏黒くんが一目散に駆け出した。驚愕に目を瞠る人々を押し退けるようにして。

 にわか雨の中を無我夢中で走った。濡れた地面を踏むたび、小さな水飛沫が舞った。呼吸がどんどん乱れて、息が苦しかった。ぜいぜいと荒れた声がやけにはっきりと聞こえる。身体は熱を帯びていったけれど、重なった手のほうがずっとずっと熱かった。

 生きているのだと思った。伏黒くんもわたしも、ちゃんと生きている。あの大きな観覧車から飛び降りて生きているなんて、一体誰が信じるのだろう。

 なんだか可笑しくなってきて、気づけばわたしは声を上げて笑っていた。

「……?」

 足も止めず振り向いた伏黒くんが、まるで異星人にでも遭遇したかのような微妙な視線を寄越す。それがますます可笑しかった。堪えようとしたけれど駄目だった。わたしは上体を折り曲げながら声を上げて笑った。走るスピードが落ちて、彼はやがて足を止めた。

 走ったせいで息が続かないのに、落ちたせいで全身が痛いのに、ちっとも笑いが止まらない。自分ではもうどうしようもできない衝動に突き動かされていた。笑いすぎて涙まで出てくる始末だ。

 伏黒くんと手を繋いだまま、わたしはひとりその場にしゃがみ込んだ。気の済むまで掠れた笑い声を上げ続けた。

 こんなに笑ったのは、お兄ちゃんが死んで、初めてのことだった。



* * *




「始末書、覚悟しとけよ」
「えっ」

 臙脂色の大観覧車を見つめる伏黒くんに、わたしは短い驚嘆の声を返した。緊急停止した観覧車に乗っていた最後の乗客が地上に降り立ったのを遠目に確認すると、どこか安堵した表情で彼は身を翻した。

「俺もお前も“帳”なしで術式使って、挙句の果てには観覧車から飛び降りたんだぞ。伊地知さんは何も言わなかったが、五条先生と夜蛾学長は別だ。それらしい言い訳でも考えておくんだな」
「……ちなみに、伏黒くんの言い訳は?」
「“全部のせいです”」
「ひどいっ!」

 落下寸前だったゴンドラが落ちることはなかったし、あのとき観覧車に乗っていた客も誰ひとり例外なく全員無事だった。緊急停止した観覧車の周りには、伊地知さんが手配してくれたらしい警察官や係員が大勢集まっている。

 しばらく休止になると聞いて申し訳なさに心が痛んだけれど、幸い誰も命を落とさなかったのだ。穏やかな休日を楽しむ人々も、調査にイヤイヤ駆り出された伏黒くんも。だから、今回はそれで良しとしよう。

 雨はすっかり止んでいた。未だ居座ったままの鉛色の雲を見上げながら、その場で深く伸びをする。足音が付いてこないことを不審に思ったらしい伏黒くんが振り返った。どこか冷めたようなその視線が交わった瞬間、わたしはにっこりと笑った。

「うん!吹っ切れた!」

 伏黒くんが驚いたように表情を弛緩させる。わたしは彼に駆け寄ると、朗らかな声で告げた。

「わたし、お兄ちゃんを信じたい。だって家族だから」
「……
「お兄ちゃんは理由もなく嘘をつく人じゃない。誰かを傷つける人じゃない。きっと何か理由があったんだと思う。だからその何かを探したいし、もし本当にお兄ちゃんが誰かを傷つけたのなら一緒に償いたいと思う。お兄ちゃんの家族として」

 お兄ちゃんは“樹”の記号を手に入れた、どこの誰とも知れない赤の他人だ。でも、間違いなくわたしの家族だった。もちろん、今この瞬間も。

 共に過ごしたこの十年は、注がれ続けた深い愛情は、決して嘘偽りではない。わたしの魂が、たしかにそう叫んでいる。

「それ、付き合ってやる」

 薄い唇が紡いだ真面目な響きに耳を疑った。何度も目を瞬きながら、わたしはおずおずと問いかける。

「……いいの?」
「乗り掛かった船だしな。俺もさんが何を隠していたのかはっきりさせたい。あの鱗の呪いとの繋がりも気になる」

 お兄ちゃんを見殺しにした罪悪感からの提案かと思ったけれど、彼の双眸に浮かぶのは一片の迷いもない強い意志だった。伏黒くんは自らの意思でそう決めたのだろう。こちらを真正面から見据えたまま、きっぱりと言い切った。

「疑うのは俺がやる。だからは“樹”を信じろ」
「……うん。ありがとう、伏黒くん」

 口元を綻ばせると、すぐに彼はそっぽを向いた。

「だから、ってのは変だが……」
「伏黒くん?」
「……だから、……その……アレだ……」
「どれ?どうかしたの?」
「あー……」

 ひどく悩ましげな様子で彼は額に手を当てる。言おうか言うまいか、散々迷った挙句に、やはり言うことに決めたらしい。視線を逸らしたまま、彼らしくない控えめな声を放った。

「……連絡先」
「え?」
「だから……連絡先。お前勝手にどっか行くだろ」
「その言葉そっくりそのままお返ししますっ」

 互いにスマホを取り出して連絡先を交換する。機械にさほど強くないわたしが「どうすればいいの?」と訊けば、伏黒くんはわたしのスマホを覗き込みつつ、慣れた手つきでメッセージアプリを操作していく。わたしは目を丸くした。

「……なんか意外」
「何が」
「スマホ得意なんだね」
「どういう意味だよ」
「時間が空いたときって、伏黒くん、いつも読書してるから。わたしみたいにスマホ触らないし、苦手なのかなって思ってた」
「無駄な情報が溢れてんのが嫌いなだけだ……ほら、登録したぞ」
「ありがとう!」

 鼻先を逸らした彼からどこか照れ臭そうな空気を感じ取って、わたしも胸の奥がくすぐったいような面映ゆい気持ちを抱える。口端に浮かぶ笑みを隠すように、メッセージアプリに追加された“伏黒恵”の三文字を何度も目でなぞった。何の画像も設定されていない飾り気のないアカウントがいかにも彼らしい。

 伏黒くんのアプリにも“”の名前が並んでいるのだろう。友だちみたいだと思うと、なんだかちょっとうれしかった。

 ふと思い出したように、伏黒くんがスマホを片手に尋ねる。

は変なヤツから連絡が来たことはないか?」
「ないよ。伏黒くんは来るの?」
「……まぁ、そうだな」

 小さな声とともに複雑な表情が返ってくる。きっと本気で困っていることがあるのだろう。わたしはポケットに手を突っ込みながら、意気揚々と声を張り上げた。

「なんと!今日はそんな伏黒くんだけにとっておきの商品をご紹介しますっ!」
「うるせぇ。勝手に番組始めんな」
「じゃじゃーん!家秘伝お手製シール!」

 指で摘まんだ三センチ四方の小さなシールを、自慢げに見せつけるように差し出す。何の変哲もない白いシールには、ひどくシンプルな模様が直線で描かれている。縦に四本、横に五本。直線がただ交差しただけのそれは、わたしが黒のボールペンで描いたものだった。

 子どもの落書きじみたそのシールを、伏黒くんは嘲ることなく注視した。

「ドーマンの呪符か」
「ドーマン?」
「ああ。蘆屋道満だ」
「それ誰?」
「……呪術史の教科書を読め」

 嘆息混じりに言うと、話を先に促すように言葉を継いだ。

家秘伝ってことは、代々受け継がれてきた呪符なのか?」
「ううん、盛った。悟くんに言われて作り始めただけ」
「景品表示法違反じゃねぇか……で、効果は?」
「イタズラ電話も迷惑メールも一切来ないよ。これは本当。お兄ちゃんと悟くんは機種変するたびにシール貼り替えてるし、伊地知さんもそうかな。これ本当は伊地知さんの分なんだけど、先に伏黒くんにあげるね」
「伊地知さん?」
「一昨日スマホ変えたんだって」
「だからか……」

 何かを納得したように頷いたあと、呪符だというお手製シールに白群の双眸を移動させる。躊躇いがちに伸ばされた彼の手に、わたしは小さなシールを握らせた。

「もらっていいのか」
「うん、すぐ作れるし。バッテリーに貼ってね。効果バッチリだから」
「助かる」

 伏黒くんはスマホとシールを仕舞うと、しかめっ面で言った。

「外出するときは絶対に連絡しろよ。絶対だからな」
「何それ。お兄ちゃんみたい」

 思わず笑い声を漏らせば、彼の額に刻まれた皺がますます深くなる。相変わらず、わたしの身を案じてくれているのだろう。きっと、お兄ちゃんとの約束を守るために。

 それには触れなかった。そうしたほうがいいと思った。やっと友だちっぽい関係になれたのだ、わたしの些細な言葉ひとつで台無しにすることもあるまい。

 わたしは代わりに目を細め、揶揄するような視線を注ぐ。

「別にいいけど、ついてきてくれるの?」
「……行けるときはな」
「本当?適当なこと言ってない?」
「言うわけねぇだろ。信じろよ」

 どこか腹立たしげな声に目を瞠った。はっとなった伏黒くんがばつが悪そうに目を伏せる。まるで自分にはそんな権利などないとでも言いたげな表情だった。わたしは垂れた黒い頭を覗き込みながら、小さく笑んでみせた。

「うん。伏黒くんを信じる」

 照れているのか、伏黒くんが妙に赤い顔をついっと背ける。正面ゲートに爪先を固定すると、ゆっくりと歩き出した。わたしの歩幅に合わせるような、緩慢な足取りで。

「帰るぞ」
「えっ、パレードは?もうちょっとで始まるよ?」
「駄目だ。遊びに来たんじゃねぇんだぞ」
「じゃあせめてお土産だけでも。悟くんたちに頼まれてて」
「……五分だけだからな」
「ケチ!意地悪!プラス五分!プラス五分ください!」
「ああもうわかったから耳元で叫ぶな!」

 透き通った雨の残り香がする。伏黒くんと歩く距離が、少しだけ近付いたような気がした。



* * *




「ええ、やはり祓われてしまいました。想定内です」

 同時刻、遊園地正面ゲート付近。西洋風の建物の壁にもたれかかるようにして、ひとりの青年が黒いスマホを耳に添えている。白のTシャツに色褪せたジーンズというラフな出で立ちの青年は、両耳に付いた大量のピアスと同じ金色の双眸をぎらりと光らせた。

 その猛禽類じみた視線が遠目になぞるのは、制服を纏った少年少女の姿だった。

「いえ、今回の目的は兄様と供犠の花の再会です。念願叶った兄様はそれはそれはもう大層お喜びで……あれほど愛していたのですから当然でしょう?今もしきりに供犠の花を気にしておいでのご様子……ええ、身を案じていらっしゃるのです。まこと可愛らしい御方ですよ」

 脱色した金髪を人差し指に絡めながら、人混みに消えていくふたつの背中を最後まで追い続ける。

「私には兄様のように強い呪霊を使役できないのです。私自身が弱いせいで。貴方の術式と似たようなものですよ――夏油」

 うっすらと笑みを浮かべると、青年はかぶりを振った。しかしその仕草はどこか白々しいものだった。

「いいえ、次は私が出向きます。ですからどうぞ安心なさってください。星は嘘を吐きません。予定通りすぐに魔が哭きます……そのときに供犠の花を。ええ、我々の始まりに相応しい夜を」

 沈黙したスマホを仕舞うと、青年が歩き出す。その視線は依然正面ゲートに向けられており、どこか楽しげな表情で舌なめずりをする。形のいい唇をなぞった舌の先端は、まるで蛇の如くぱっくりと半分に割れていた。

 青年がよそ見をしていたせいか、それとも端から避けるつもりがなかったのか――どちらかは判然としないが、青年の足に幼い子どもが勢いよくぶつかった。濡れた地面に尻餅を付いた子どもは状況を把握できていないのだろう、丸い瞳をぱちぱちと瞬いている。

「おやおや、大丈夫ですか?」

 膝を折った青年が子どもに声をかけると、すぐに母親らしき若い女が駆け寄ってきた。

「す、すみません!」
「いいえ、元気で結構。そうでなければ我々に繁栄はありません」
「……はい?」
「せいぜい生き永らえて多くの子を成してくださいね」

 にっこりと笑うと、青年は立ち上がった。気味が悪そうに遠ざかっていく親子連れに胡散臭い笑みを振り撒きつつ、どこか呆れた声音で独り言ちる。

「夏油の考えはわかりませんね。兄様の仰る通り、人間は滅ぼすのではなく家畜として扱うべきです。難儀なことに呪いから呪いは生まれませんし、それが一番だと思うんですがね……まぁ計画通り兄様が供犠の花と繁殖できるようになればいいだけの話なんですが――おや?」

 何かに気づいたように、金色の両瞳を濁った空に向ける。轟音とともに空中を走り抜けるジェットコースターを見送ると、悪戯っぽく口端を歪める。

「ジェットコースター、意外と楽しかったですね。遊園地は呪いだけの世界にも必要だと兄様に進言することに致しましょう……さて、最後まで気を抜かずに帰りましょうか。家に帰るまでが遠足、と人間は言いますしね」

 含み笑った声をかき消すように、遊園地を楽しむ人々の笑いさざめく声が響く。軽やかなステップを踏む青年の足が不吉な線を描きながらその場でぐるりと一周すると、その姿はまるで蜃気楼のように忽然と消えた。


皐月 了