「Twinkle, twinkle, little star,」

 悠然と立ち並ぶ楡の木立が、雨に打たれてぱらぱらと軽快な音を立てる。四季折々の花を楽しめることで有名なフラワーガーデンに植えられているのは、なにも色鮮やかな花々だけではなかった。ここでは花を付ける樹木もそうでない樹木も、大勢から愛される花と同じように分け隔てなく育てられている。

「How I wonder what you are.」

 ほとんど開いていない唇から、雨音にかき消されるほどの小声が漏れる。東屋の小さなベンチに腰掛けるわたしは口をぴったりと閉じると、スマホから視線を持ち上げた。

 白く滲む雨のカーテンの向こうには、傘を開いて草花を楽しむ客の姿がまばらに見える。この屋外ガーデンには雨宿りや休憩にちょうどいい西洋風の東屋がたくさんあるものの、葉群れに隠れてしまうこの場所は他に比べて人気がない。加えてこの雨模様のせいで、東屋はわたしひとりだけのものだった。

 ポピーを見ると言って伏黒くんと別れてここに来たけれど、花を愛でるような気分にはなれなかった。今は何を見たところで明るい気持ちになれるはずもない。

 細かい文字を映し出すスマホに再び視線を注ぎながら、耳に染み付いた歌詞を途切れ途切れに口ずさむ。

「Up above the world so high, like a diamond in the sky.」

 それはマザー・グース――今も歌い継がれる優しい童謡だった。“きらきら星”として有名なその歌詞は、日本語より英語のほうがずっと馴染みがある。お兄ちゃんが歌ってくれる童謡は、いつだって英語ばかりだったから。

 わたしがまだ小さかったころ、身の毛もよだつような化け物、所謂呪いのせいで何度も怖い思いをした。周りにわかってもらえず寂しい思いをしたし、それが原因で仲間はずれにされたことも少なくなかった。

 涙が溢れて眠れない夜に、お兄ちゃんがよく枕元で歌ってくれた。わたしの背中をそっと撫でるように叩きながら。不安を取り除こうとするみたいに。

 あの優しい歌声と穏やかな眼差しを思い出したまま、呪術高専からのメールを映すスマホをなぞった。小さな文字がつらつらと並んでいる。ひどく冗長でまわりくどい内容を要約するとこうだ。

 樹が身分を偽っていたこと。今後は呪術規定に反した樹を呪詛師として扱うこと。樹と関係している特級呪霊を速やかに祓除すること。

 処分を告げるメールを削除すると、スマホを仕舞って青い風船を見つめる。どうすることもできず持ち歩いているそれの持ち手にくくり付けられたメッセージカードは、雨に濡れたせいですっかり青く滲んでしまった。

 お兄ちゃんは語学が堪能だった。英語や中国語、スペイン語にアラビア語にフランス語。いつどこで身に付けたのかはわからないけれど、息をするようにごく自然に多くの言葉を使いこなしていた。だから街中で困っている海外からの観光客の道案内は慣れたものだったし、通訳として出張に赴くことも少なくなかった。お兄ちゃんはわたしの自慢だった。

「君は一体誰と暮らしていたんだ」

 芯まで冷えるような家入先生の声が、頭の後ろで撹拌する。マザー・グースを口ずさむ優しい歌声と穏やかな眼差し。背中に添えられた温かくて大きな手。その記憶を上書きするように蘇る「公文書が改竄されていた」と告げた家入先生の氷塊じみた響き。

 お兄ちゃんは被害者だ、鱗の呪いが引き起こした一連の事件とは無関係だ――そう信じたいのに、言われてみればメッセージカードの筆跡はお兄ちゃんのものとよく似ている。

 手書きの英語に触れる機会はそれほど多くないから、わたしには些細な違いなど見極められない。見間違いだと、勘違いだと思いたいのに、揺れる心には疑いの種がばら蒔かれ続けている。“お兄ちゃんは誰なんだ”という疑問とともに。

 小刻みに震える両手を握りしめ、わたしは即座にかぶりを振った。不安を取り除く一番の呪文を掠れた声で唱え始める。

「Twinkle, twinkle, little――」

 しかし童謡はすぐに途切れた。反射的に立ち上がると、全身を強張らせたわたしは首を振って周囲を見回した。焦燥が腹の底から湧いている。

 今、どこからか刺すような視線を感じたのだ。それも、遊園地に残穢を撒いた呪いの気配を伴って。

「……何もいない、よね」

 どれだけ目を凝らしてみても、呪いの姿は確認できない。濡れた楡から大きな雨粒が滴り落ちていく。肌が粟立つようなひどい寒気がした。

 気味が悪い。とにかく早くここから離れようと逸る足を踏み出そうとしたとき、左の足首に妙な圧迫感を感じた。どうしてだろう、足が重い気がする。稲妻のように背筋を走り抜けた嫌な予感を確かめるように、ゆっくりと視線を落とす。

 ベンチの下から伸びた青白い手に、足首を掴まれていた。

「ひっ」

 引きつるような小さな悲鳴が漏れた。力なく足首を掴むそれは間違いなく人間の手だった。

 あまりの怖気に身体が凍り付き、一歩も動くことができない。手から離れた青い風船が東屋の天井にぶつかる。栓を失ったように冷たい汗が噴き出していた。

 恐怖に震える視線が、血の通っていない真っ青な手をなぞる。手首に細いヒモでくくり付けられているのは、“I miss you.”と青いインクで書かれたあのメッセージカードだった。

 早く逃げろと頭の中で警鐘が鳴り響く。呪いの気配がしたのは気のせいではなかったのだ。激しく脈打つ心臓の音がすぐ耳元で聞こえていた。手を振り払うため足に意識を集中させたとき、その青ざめた手に小さな黒子を見つけた。

 親指の付け根にぽつんと浮かぶ黒いそれ。今もなお克明に記憶に刻まれる、幼いわたしの背中を優しく叩く手。「おやすみ、」と囁く柔らかな声音。連鎖的に記憶が溢れ出し、霊安室で見た光景までもが呼び起こされる。喉がひゅうっと鳴った。

「こ、れ……まさか……」

 お兄ちゃんの遺体には、左肘から先がなかった。

 吐き気が込み上げて咄嗟に口を押さえた。逆流する酸っぱい液体を喉奥に押し込めて、足首を掴んだままの青白い手に視線を注ぐ。

「……どうして……こんな、こと……」

 そのとき、子どもの楽しそうな笑い声が耳朶を打った。はっと我に返ったわたしは素早くベンチに座り直すと、青白い手ごと隠すように左足をベンチの下へ突っ込んだ。

 こんなものを誰かに見られてはまずい。この穏やかな休日に無用な混乱など招きたくなかった。

 客が近付いてこないことを祈りつつ、素早くベージュのブレザーを脱いだ。それから念入りに周囲を確認すると、切り落とされた手をブレザーで覆い隠すようにして拾い上げる。鱗の呪いに切断されたまま行方知れずになっていたお兄ちゃんの左手は、ひどく重く感じられた。

 わたしの双子の兄だという子どもの遺体。ピエロから手渡された青い風船。切り落とされたお兄ちゃんの左手。その全てにメッセージカードが添えられていた。加えてここはお兄ちゃんと約束した遊園地だ。

 相手の狙いはどう考えてもわたしだった。まんまと誘き出され、罠に嵌められたのだろう。ブレザーを被ったお兄ちゃんの左手をきつく抱きしめる。

「……悪趣味だよ」

 おそらく目的はわたしを殺すためではない。伏黒くんの言う通り、殺したいだけならもうとっくに殺しているはずだ。だからこれは電柱に置かれていたあのサムシングブルーの花束と同じ。網膜に焼き付いた“I miss you.”の華奢な文字に嗤笑を見る。

 わたしを嘲笑いたいのだ。わたしは家族がすり替わったことにも気づかず、実の兄でもなんでもない男を“お兄ちゃん”と呼んで長い間ずっと慕い続けたのだから。

 真実を知る者からすれば、腹がよじれるほど滑稽だったことだろう。目を覆いたくなるほど愚かだったことだろう。間抜けなわたしを名指しで嘲笑いたいがために、ここまで手の込んだことをしているに違いなかった。

 胸に抱いたお兄ちゃんの左手に目を落とすと、口端にぎこちない笑みを灯した。

「……伏黒くんには、見られたくないなぁ」

 家入先生との通話を終えても、伏黒くんは余計なことを何も言わなかった。わたしを笑うことも同情することもなかったし、何ひとつ責めたりもしなかった。ただ事務的に「何か覚えていることはないか」と訊いただけだった。

 罪悪感に滲む白群の瞳がありありと浮かぶ。ただでさえ気を遣わせているというのに、これ以上余計な心労を負わせたくなかった。責任感の強い彼の足枷になりたくなかった。

 一刻も早くこの左手を人目に付かない場所へ移すべきだ。伏黒くんが戻ってきてしまう前に。

 青い風船とともに、わたしは最寄りのコインロッカーへ急いだ。屋内施設は雨宿り目的の客で混雑していた。ごった返す人の波に押されつつ、僅かな隙間を縫うようにして足早に曲がり角を曲がる。

 急いていたせいだろう、向こう側からやって来た相手と出会い頭に衝突した。後ろへ軽くよろめいたものの、左手を落とすことはなかった。申し訳なさに相手の顔も見れず、その場で頭を下げる。

「わたしの不注意で本当にすみません!怪我はありませんか?」
「平気です。こっちこそ――って、?」

 名を呼ばれて頭を持ち上げれば、ドリンクを手にした伏黒くんが立っていた。ここで最も会いたくない人に遭遇するとは思ってもみなくて、わたしはお兄ちゃんの左手を隠すように抱きしめる。

「……伏黒くん、どうしてここに?」

 この場を切り抜ける方法を考えながら問いかけると、何故か息切れしている伏黒くんはうんざりとした様子で肩を落とした。

「それはこっちの台詞だ。なんで勝手に移動してんだよ……あちこち探したんだからな」
「ごめんなさい……」
「何かあったのか?」

 どこか切迫した空気を帯びた質問に、わたしはすぐにかぶりを振った。そして動揺を気取られないよう、いつもの調子で付け加える。

「ううん、なんでもないよ。伏黒くんこそ」
「……俺も別に、何も。そろそろ合流したほうがいいかと思って」

 言葉を区切ると、白群の瞳がいびつな形のブレザーに落ちた。凛々しい眉間に深い皺が刻まれていく。

「なんだそれ」
「たいしたものじゃないよ。ねぇ、伏黒くんの持ってるそのドリンクってたしか春限定の――」
「話を逸らすな」

 白刃にも似た鋭利な声音でぴしゃりと切り捨てられる。露骨な態度が疑念に繋がったのだろう、彼はわたしの腕を半ば強引に掴んで、人の往来を妨げない通路の端まで移動した。声量を落としつつ、ひどく険しい視線で問い質す。

「また何か渡されたのか?」
「ううん、違うよ。落とし物。総合案内所へ届けに行かなくちゃと思って」
「総合案内所?……それ、が向かってた方向と逆だろ」
「……あっ!」

 墓穴を掘った。引きつった愛想笑いを浮かべながらじりじりと後ずさると、厳しい視線とともに伏黒くんがたった一歩でその距離を詰めた。

「見せろ」
「伏黒くんに見せるほどのものじゃ」
「さっさと見せろ」

 強い語気で遮られ、わたしは視線を彷徨わせた。見ないほうがいいに決まっている。この左手が切り落とされた瞬間に立ち会っていたかもしれないなら、尚更。

 俯いたまま首を左右に振れば、彼は小さく嘆息した。

「……悪かった」
「え?」
「俺の言い方が悪かった。頼むから見せてくれ」

 打って変わって丸みを帯びた響きが耳を打つ。これ以上はもう無理だと思った。わたしは伏黒くんに近づくと、人目を盗むようにしてブレザーを少しだけ捲ってみせた。彼が息を呑んだのがわかった。

「……これ、まさか」

 血の気を失った伏黒くんが唇を震わせる。わたしは同意を示すように頷いた。

「うん。お兄ちゃんのだと思う」

 決して人目に触れないよう、再びブレザーですっぽりと覆い隠す。包んだそれをきつく抱きしめながら、わたしを睨み付ける彼から目を逸らした。間を置くことなく厳しい言葉が飛んでくる。

「なんで隠そうとした」
「……なんでって言われても」
「ここに来たのは調査のためだ。情報を共有するためだ。なのにそれを隠してどうする。何かあってからじゃ遅いだろ」

 もっともな言葉だった。肌を刺すような視線が痛い。「ごめんなさい」と小声で謝ると、わたしは目を伏せて続けた。

「迷惑になると思ったから。わたし、伏黒くんにもうたくさん迷惑かけてる。これ以上、余計な迷惑かけたくなくて」
「だからって……」

 何かを言いかけた声音は尻すぼみになり、あっという間に途切れる。居た堪れなかった。けれどそれは口を噤んだ彼も同じだろう。互いの間に流れる重い沈黙が明白に物語っている。

 一分ほど黙り込んだ伏黒くんは、「」と小さな声音で口火を切った。

 顎を持ち上げると、真剣な気遣いの色を灯す双眸と視線が絡む。その目をさせたくなかったのに。逃げるように鼻先を背けたわたしに、彼は心配を一滴だけ垂らした抑揚を欠いた口調で問う。

「それ、持つの平気か?」
「……平気だよ」
「コインロッカーに急ぐぞ。他の奴に見られるとまずい」
「……うん。早く行こう」

 伏黒くんの背中を追うようにして、コインロッカーが並ぶ一角まで急いだ。運良く空いていたコインロッカーにお兄ちゃんの左手と青い風船をを横たえるわたしの後ろで、彼は伊地知さんに連絡を取っていた。

 通話を終えると、感情の読めない瞳を寄越した。

「すぐに補助監督を派遣してくれるそうだが、今日はほとんど出払ってるせいで少し時間がかかるらしい。鍵は持ったまましばらく遊園地にいてくれって」
「そっか……じゃあ鍵は伏黒くんが持ってて」
「……いいのか?」
「うん。わたしが持つより安全だと思う」
「わかった」

 鍵を手渡したわたしに向かって、伏黒くんが無言でドリンクをふたつ差し出した。意味がわからず、わたしは目をぱちぱちと瞬かせる。ここに来るまで彼がずっと大切そうに持っていたそれは、この遊園地でしか飲むことのできない春限定の炭酸ドリンクだった。

「やる。好きなほう選べ」

 顔を逸らして告げられた無愛想な台詞に、わたしは再び瞬きを繰り返す。いつまで経っても手放さないから、てっきりひとりで飲むつもりなのだろうと思っていた。どうやら渡す機会を伺っていただけらしい。

 限定ドリンクは長い行列ができるほど人気だ。買い求めるには長蛇の列に並ばなければならない。この雨模様とはいえ、客の数は決して少なくなかったはずだ。

「わざわざ並んでくれたの?」
「……俺のついでに決まってんだろ」
「似合わないね」
「うるせぇよ」

 伏黒くんが器用に片手で持つふたつの限定ドリンクは、色彩の濃淡を楽しむことのできる写真映えを狙った超人気商品――だったはずなのに、透明の容器に注がれた液体はもうすっかり一色に変わり果てている。

 半分ほどにまで減ったマンゴー味とピンクグレープフルーツ味のそれは彼が飲んだわけではなく、おそらくわたしを探して走り回る中でこぼれてしまったのだろう。こぼれず残った色鮮やかなゼリーが、溶けて小さくなった氷の代わりのようにびっしりと浮かんでいた。

「混ざってるし、こぼれてるし、氷もずいぶん溶けてるし」
「嫌なら飲むな」
「ううん、いただきます」

 悩むことなくマンゴー味を受け取った。本当はどちらでも良かったのだけれど、甘党ではなさそうな伏黒くんのために甘いマンゴー味を選んだ。タンポポ色に染まったそれを、その場でひとくち飲む。わたしは笑いながら言った。

「すっごくおいしい」

 本当のことだった。炭酸はほとんどなくなっていたし、氷が溶けたせいかマンゴーの風味はぼんやりとしている。その上ちょっとぬるくなり始めているものの、限定ドリンクはびっくりするほどおいしかった。容器を掲げながら茶目っぽく笑ってみせる。

「ありがとう。ちょっと元気出た」
「……忘れないうちに、傘、返しておく。助かった」

 話題をすり替えるようにわたしに折り畳み傘を手渡した伏黒くんは、どこか照れ臭そうに背を向けた。その黒い後頭部を見つめながら、わたしはストローを咥える。

 友だちになれたら良かったのに。そうしたら、もっと気楽に互いを気遣うことができたかもしれない。迷惑をかけることを避けるのではなく、たくさんの感謝を返せばいいと寄りかかることができたかもしれない。

 固く閉ざされたコインロッカーに視線を移す。きっとこれは叶わぬ願いだ。わたしが友だちになりたいと言えば、後ろめたい伏黒くんは必ず頷いてくれるだろう。でも、それでは何の意味もない。そんなのは友だちでもなんでもない。

 何があろうと、わたしたちは“樹”のことをなかったことにはできない。だからこそ、伏黒くんの足枷を増やすわけにはいかなかった。

 出会い方が悪かったのだと言い聞かせていると、彼はそのまま歩き出した。人混みに紛れようとする背中に慌てて声を掛ける。

「どこ行くの?」
「俺が――他人が近くにいたんじゃ、気晴らしになんねぇだろ。こんなことがあった以上、さっきみたいに遠くまで離れるわけにはいかないけどな」

 振り向きもせずに言うと、彼は「出来るだけ屋内にいてくれ」と小さな声で付け足した。わたしの返事も待たず、足早に立ち去ろうとする。息の詰まるような罪悪感の滲む背中に、はっとなった。

 駄目だと思った。ひとりになってしまう気がした。わたしではなく――伏黒くんが。

「伏黒くん待って!」

 制止の声に足を止めた伏黒くんがようやくこちらを振り向いた。駆け寄るわたしを怪訝な表情で見つめている。わたしはたどたどしく切り出した。

「えっと、その……気晴らし、付き合ってもらえませんか?」
「……俺が?」
「うん。ひとりだと、余計なこと考えちゃって」

 どこか迷った様子で彼は薄い目蓋を少しだけ下ろし、やがてゆっくりと首肯した。諦念の色が混じった青い双眸がまっすぐこちらを見据える。

「……わかった。それで、何に付き合えって?」

 問われたわたしはガラス窓を見つめた。視線が捉えているのは、四角い窓には到底収まり切らないほどの巨大な鉄の輪だ。

「観覧車、一緒に乗って?」