「“樹”が使用していた銀行口座の振込記録から、自らの名義でもう何年も同じ貸し倉庫を借り続けていたことがわかりました。そこから見つかった大型冷凍庫に、樹くんの毛髪や皮膚が付着していたそうです」
「……貸し倉庫?」
「はい。しかもそれが呪術高専からずっと離れた宮城県の貸し倉庫で」

 スマホ越しに発せられたその解答に、伏黒恵は訝しむように眉根を寄せた。

 にわか雨を遮る小花柄の折り畳み傘を握り直しつつ、周囲を警戒するように慎重に視線を配る。鉛色の空から降り出した雨につられ、遊園地のあらゆる場所で色彩豊かな丸い花が咲き乱れていた。

 生憎の雨模様でも変わらず楽しげな人々の言笑が恵の耳を横切るたび、伊地知の深刻な声で紡がれる説明がいかに場違いかを痛感する。この遊園地で特に人気のワンハンドメニューを求める長蛇の列から離れることも考えたものの、うんざりするほど長い行列に加わってすでに三十分が経過している。加えてそぼ降る雨に晒され続けているせいで、刻々と湿り気を帯びていく偽物の制服に不快感が滲んでいた。今さら最後尾に並び直す気力は残っていない。

 とはいえ、さすがにこの人混みの中で注目を浴びるような愚を犯すわけにもいかず、恵は声量をさらに落として質問を重ねた。

「なんでまた宮城なんです?」
「貸し倉庫近くには特級呪物を保管している公立高校があります。おそらく何か関係があるのではないかと」

 伊地知はそこで一旦言葉を切ると、いつもと変わらぬ温厚で丁寧な響きにごく微量の緊張を混ぜた声音で続ける。

「“樹”が樹くん殺害の実行犯かどうかも含めて調査中ですが、樹くんの死に何らかの形で関わっているとみて間違いなさそうです」
「……そうですか」
「ただ上層部は早々に結論を出しました。“樹”は呪霊に与した呪詛師だ、と」
「物的証拠が揃っている以上、そう考えるのは当然ですよね」
「はい。“樹”はさんを利用するために家族を偽ったものの、情が移ったことで件の呪霊と内輪揉めに発展、その末に殺されたのではないか――上はそう睨んでいるようです」

 前方の家族連れがちょうど一歩分進み、恵もその流れに乗って空いた距離を詰める。恵には不似合いな可愛らしい傘が前後に当たらぬよう注意を払いつつ、湧いた疑念を小さな声に乗せた。

「妥当な推理だとは思いますけど、結論を急いだ理由は何ですか?」
「夏油傑に続き呪術高専からまた呪詛師が出てしまった上に、与していた呪霊は今も人殺しを続けている。責任問題に発展しかねないから早く処理したい――というのはおそらく建前です」
「……本音は?」

 ゆっくりと問い質せば、やや間を置いて伊地知は気まずそうに切り出した。

「……ここだけの話ですが、“樹”は上からかなりの汚れ仕事を任されていました。彼の身辺を探られると色々と都合が悪いのでしょう。警察にはすでに捜査の中止を求めたようなので、私たちの調査も今日明日で打ち切られると思います」

 記憶の蓋が開かれたように、恵の耳の奥で五条の浮ついた声音が反響する。

「術師として無能だった樹が、を呪術界から遠ざけるために一体どれだけのものを差し出してきたと思う?」

 あのとき聞いた言葉の意味をようやく理解できた気がした。恵は静かに目を伏せ、思考の糸を手元に手繰り寄せる。

 数多くの術師と補助監督を束ねる上層部としては、樹が呪霊と繋がっていた証拠が揃っただけで充分なのだろう。仮に今ここで都合の悪い何かが公になったとしても“呪詛師樹”の企てだと言い逃れができるし、自分たちは利用されていただけだと被害者面をすることすら可能だ。

 言い訳ができる内に調査を打ち切りたいという見え透いたその魂胆に、恵はひどく気が滅入った。死人に口無し。樹が死んだ今なら言いたい放題なのだから。

 伊地知は軽く咳払いをして気を取り直すと、恵のために内情の説明を続ける。

「とにかく事を急ぐ上層部から、“樹”と繋がっていた件の呪いを発見次第速やかに祓除するよう、先ほど通達が下りました。五条さんは“老害にしては動きが早すぎて引く”と呆れていましたよ」
「ああ、それならさっきメール見ました。準一級以下の術師が発見、または遭遇した場合は逃走を最優先し、必ず情報共有を行うこと――とか何とか。五条先生は“樹”のこと、何か言ってました?」

 家入から樹について聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのが五条の軽薄な笑みだった。六眼を持ち合わせる“最強”は兄妹と親しかったし、の術式のことも当然のように熟知している様子だった。あの五条がこの件をどう受け止めているのかがとかく知りたかった。

 事のついでを装って付け足した恵の質問に、伊地知はかの男の浮ついた口振りを再現しながら答える。

「“知らなかったから驚いたよ。が心配だな”とだけ」
「……知らなかった?」

 恵は思わず釣り込まれるように繰り返した。声量を上げたい気持ちを抑えつつ、努めて平静に問いを重ねた。

「それ確実に何か知ってますよね?あの五条先生が何も知らないほうが逆に不自然ですし」
「私もそう思って問い質してみたんですが、知らぬ存ぜぬの一点張りで」
「でもそんなはず――」
「“樹”は十年前、金策を理由に呪術高専に途中入学してきました。つまり五条さんを含めた私たちが知っているのは、戸籍謄本を改竄したあとの“樹”だけなんです。家が蛇神信仰の家系とはいえ、さんの両親は一般人で呪術界との繋がりはありません。本当に何も知らない可能性も高いかと……」
「……そうですか」

 期待外れの結果に肩を落として、恵はさらに足を前に進める。少しずつ雨脚が強まり、傘を打つ雨粒の勢いは増していく。

さんは大丈夫ですか?」

 ひとつ息を吸い込んだ伊地知が、ひどく不安げに問いを口にした。恵は濡れた地面をじっと見つめる。ひとりにしてほしいと願い出たの淡い笑顔を思い出していた。

「ずっとへらへら笑ってましたけど、相当無理してると思います」
「そんなの当然ですよ……たったひとりの家族と暮らしたこの十年を否定されたんですから……今、一緒にいるんですか?」
「……いいえ。しばらくひとりにしてほしいって言われたんで、別行動です。フラワーガーデンでポピーでも見てるんじゃないですかね」
「そうですか……」

 重く沈んだ声音がそこで途切れ、やがて伊地知は躊躇いがちに続けた。

「“樹”のことで、何か思い出した様子はありましたか?」
「今のところは何も。兄貴が入れ替わったこともよく覚えてないらしいです。そもそも両親の葬式に出た記憶も曖昧だとか」
「仕方ないでしょうね……家族が死んだ精神的ショックに付け込まれたのではないかと家入さんが言っていました。そして幼いさんはそれを受け入れた。心が壊れることを防ぐための、ある種の防衛反応です。強い悲しみから逃げるために自ら記憶を切り離し、都合よく書き換えたのだろうと。きっと、そうでもしないと生きていけなかったのでしょう」
「……誰もアイツを責められないですよ」

 伊地知の慨嘆に対し、煙った瞳を伏せた恵が小さな声を返した。重々しい沈黙が流れ、雨音混じりの言笑だけが鼓膜を叩いていた。先に口を開いたのは伊地知だった。

「“樹”の身元も含めて引き続き調査を続けます。また何かわかったら連絡しますので……とは言っても、いつまで続けられるかわかりませんが……」
「頼りにしてます。よろしくお願いします」

 淡々と締めくくると、恵はスマホを仕舞い込んだ。ふと気づけば、いつの間にか行列の二番手まで辿り着いている。手軽に食べられるワンハンドフードを提供する派手な色合いのキッチンカーから漂う食欲をそそる匂いは、雨の中でもしっかりと恵の鼻孔を焦がしていた。

 仲良さげな家族連れが提供口から離れ、先頭が入れ替わる。陽気なカチューシャを付けた恵に、若い女の店員は人好きのする笑みを浮かべてみせた。

「いらっしゃいませ。いかがなさいますか?」

 満面の笑みで紡がれた問いが鼓膜を叩くより早く、恵はメニュー表に目を滑らせていた。しかし一秒も経たぬうちに恵の眉間に深い皺が穿たれる。一体何を選べばいいのか皆目見当もつかないせいで。

 無理な強がりを続けるを励まそうなどと、上から目線の偉そうなことを考えたわけではない。家入との通話を終えるなり、まるで仮面でも被るように白々しい笑顔を貼り付けたに掛ける言葉はなく、「ひとりにしてくれる?」との弱々しい申し出に「今は危険だからそばにいさせてくれ」とは口が裂けても言えなかった。

 話すきっかけが欲しいだけだった。決して恵に対して弱音らしい弱音を一切吐かないと合流して、開口一番心身を案じる言葉を掛けられるだけの鈍感さは持ち合わせていない。

「お客様?」

 店員に急かされた恵はひどく焦った。殻に閉じ籠るに話しかけられるだけの正当な理由が欲しい、ただそれだけのために長い行列に加わったのだ。

 人気、おすすめ、お得――逡巡を誘うような言葉がメニュー表にたっぷりと散りばめられている。どれもこれも決定打に欠けるのは、単に恵がの喜ぶ顔を想像できないからだった。

 のことを、何も知らないと思った。

 何が好きで、何が嫌いか。それは食の嗜好だけではなかった。という人間を構成する要素を、恵はほとんど何も知らなかった。

 ――否、何も知ろうとしなかったのだ。兄を喪ったの地続きの日常を知る恐怖が勝っていたせいで。途方もない罪悪感に打ちのめされることを無意識的に避けていたのだろう。

「女子の好みってよくわからないんで、その……教えてほしいんですけど」

 何の足しにもならない下らぬ矜持はその場で握り潰した。羞恥心を一息に飲み込んで、恵は努めて平静を装って尋ねた。

「元気の出るやつで、おすすめってありますか」



* * *




 折り畳み傘を差した恵はふたつの炭酸ドリンクを片手で器用に持ちながら、のいるフラワーガーデンを目指して緩慢に歩き続けていた。キッチンカーの店員に食べ物も勧められたものの、の食欲は失せているだろうと予想し、飲み物だけを購入したのだ。

 マンゴー味とピンクグレープフルーツ味の炭酸ドリンクはどちらも底に向かうほど色が濃く、写真映えするような美しいグラデーションを作り出している。四角い氷とともに浮かぶ色彩豊かなゼリーは星やハートの形にくり抜かれており、見る者の目を楽しませる効果がありそうだ。

 こんなものを渡したら、はきっと驚くだろう。そして噴き出しながらこう言うのだ。「伏黒くんには似合わないね」と。

 それでいいと思った。話すきっかけになるなら、何でも。

 弱まりつつある雨音に耳を傾けていたそのとき、スマホが着信を知らせた。恵はさらに器用に折り畳み傘をドリンクを持つ指に引っ掛けると、空いた手でスマホを操作する。着信の相手は伊地知だった。

「お疲れ様です、伊地知です。任務中だというのにすみません。くんのことで大事なことがわかったので、念のため連絡しておこうかと」
「大事なこと?本当の身元とかですか?」
「いえ、それはまだ……くんが貸し倉庫を借りていたことがわかりまして」

 ひどく重々しげに付け足された情報に、恵はポカンとした。

「もう聞きましたよ、それ」
「えっ、もう?!家入さんにですか?」
「……徹夜で疲れてるんですか?それはさっき伊地知さんが電話で――」

 しかし恵の声は最後まで続かなかった。控えめに差し込まれた言葉のせいで。

「あのぅ……私、電話なんてしてませんけど……」
「……え?」

 その瞬間、恵は自らの顔から血の気が引く音をはっきりと耳にした。

「……お恥ずかしながら昼過ぎにスマホを落としまして、今やっと見つけたところなんです。とても親切な方が交番に届けてくれたようで……いや、世の中まだまだ捨てたもんじゃないですよ」

 のほほんとした暢気な口調は続けて、「伏黒くんのほうがお疲れなのではないですか?」とひどく心配そうな言葉を紡ぐ。だがその間にも恵の身体は首筋に白刃でも押し当てられているかのように硬直し、黒い前髪に隠れた額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。

「……最悪だ」
「え?伏黒くん?どうかしまし――」
「すみません、また連絡します!」

 伊地知の問いを遮った恵の声は強い緊張を孕んでいた。気が急いていた。スマホを仕舞うほんの数秒すら惜しいほどに。

 迂闊だった。何ひとつ疑わなかった自分を責めた。アレは、鱗の呪いは、伊地知を騙ったのだ。さも平然と。サムシングブルーを理解するほど知能が高いということが一体どういうことなのかを、本当の意味で今やっと理解した。「“特級”は私たちの物差しでは測れない」と言った家入の言葉が蘇る。伊地知からスマホを盗むことはもちろん、複雑な電子機器の操作も相手にとってはあまりにも容易だったのだろう。

 焦燥に駆られていた。恵自らの居場所をはっきりと口にしたのだから。

 そしてそれと同時に疑念が湧いた。何故わざわざ伊地知の名を騙ってまで恵に接触を試みたのだろう。アレが口にした情報の信憑性もそうだが、そもそもその内部情報は一体どこから仕入れたというのか。

 しかし今は思念の糸を手繰っている場合ではない。思考を素早く切り替えた恵はつま先に力を込める。

 フラワーガーデンにはたしか屋内バルコニーもあったはずだが、そのほとんどが屋外だ。きっと、が観に行くと言ったポピーの花も。

「……!」

 勢いよく濡れた地面を蹴って、恵は全速力で駆け出した。