「伏黒くん。それ、ひとくちだけちょうだい」
「……太るからバニラだけにするんじゃなかったのか」
「だからひとくちだけなんです」

 悪戯っぽく唇を尖らせれば、「勝手にしろ」と呆れ返った響きとともに宇治抹茶味のソフトクリームが差し出される。嘆息する伏黒くんから食べかけのそれを受け取ったものの、遅れて自らの考えなしの行動にひどく気が咎めた。少しだけ遠慮がなくなった彼の厚意に寄り掛かりすぎている気がして。

「食べないのか」
「……本当にいいの?」
「だったら食うな」
「いいえ食べます」

 きっぱりと告げて濃厚な抹茶ソフトをひとくち堪能すると、まだ半分以上残っているそれを手渡した。伏黒くんは噴水広場を横切る無秩序な人混みを眺めつつ、特に抵抗もない様子で薄緑色を舐め取る作業に戻る。

 傍らに立つ彼の顔を盗み見る。その表情は相変わらず淡白で無愛想ではあるものの、険を孕んだ空気はすっかり消え失せている。

 あの口喧嘩以降、伏黒くんはどこか遠慮がなくなり、口数も明らかに増えた。ささくれにも似た罪悪感は時おり思い出したように滲むけれど、わたしと目が合うとそれを皮膚の下にそっと押し隠し、すぐになんでもない顔を取り繕うようになった。

 わたしへの態度を軟化させた伏黒くんの本心はわからない。樹の正しさを証明するように、一日でも早く彼自身の日常に戻ってほしいという、ひどく身勝手なわたしの願いに寄り添ってくれているだけかもしれない。

 ただそのおかげと言うべきか、罪悪感に覆い隠されていた彼の本質が、わたしにもようやく垣間見えるようになった気がした。彼に対する複雑な思いは変わらないけれど、その本質に好感を抱く自分がいることも事実だ。

 お兄ちゃんのことがなかったら、友だちになれたのだろうか。口が悪いくせに根は真面目で、人一倍責任感が強く、とても優しい伏黒くんと。

 とはいえ、お兄ちゃんが今も生きていたなら、こうして彼に出会うこともなかったのだろうけれど。

?」

 訝しむような響きに意識を引き戻され、はっと我に返ったときにはすでに遅かった。怪訝な色を浮かべた白群の双眸と深く視線が絡んでいる。

 彼の薄い唇からごく微量の親しみを含んだ、しかしどこか諦めきった様子のため息がひとつ落ちる。物欲しそうな目に見えたのだろう、いくらか量の減った抹茶ソフトがずいと差し出された。何度か目を瞬くと、「残り全部食っていい」と言いながら伏黒くんがさらにこちらへ腕を伸ばす。

 そういうつもりで見ていたわけではない――そう否定するのは簡単だけれど、だったら何故見ていたのかという話になるし、正直に“友だちになれたかもしれない可能性の話”をしたところで失笑されるだけだろう。なにより、せっかくの彼の厚意を無下にするのはいかがなものか。

 宇治抹茶の贅沢な渋みの中に上品な甘みが潜んだ絶品ソフトクリームの誘惑。休憩と称して嫌がる伏黒くんの手を引き、長い行列に並んでまで買い求めたものだ。小さく喉が鳴る。抗いがたいそれを抵抗もせず受け入れて、笑みを浮かべながらわたしは再び手を伸ばした。

「お言葉に甘えるね」
「ああ。存分に太れ」

 一言余計な伏黒くんをきつく睨み付けつつ、抹茶ソフトをあっという間に胃に収める。口の中に僅かに残る渋みを喉奥に押し込んで、噴水広場に溢れる例外なく楽しげで屈託ない笑顔を目でなぞった。

 伏黒くんと時間をかけて辿った残穢は、広大な敷地内でぐるりと円を描くようにして同じ場所へと戻っている。

「これからどうするの?もう一回調べる?」
「正面ゲートにも他の通用口にも残穢の痕跡はなかった。侵入経路が不明となると、五条先生のような空間転移を使った可能性も否定できない」
「……えっと」
「瞬間移動って言えばわかるか?」
「じゃあ、呪いはここから急に現れたってこと?」
「そういうことだ。それにしても」

 ひどく陰鬱そうな声を切ると、伏黒くんが今にも泣き出しそうな空を仰ぐ。どこか気だるげな視線の先には巨大な鉄の輪――臙脂色の大観覧車がそびえ立っていた。

「なんで観覧車は素通りなんだ?」
「屋内だからだと思うよ」
「……あんなのも屋内だって言うのかよ」
「雨がしのげて扉があるなら、れっきとした部屋だよ」

 悠々と稼働する大観覧車から伏黒くんに焦点を移すと、ぱちんと両手を打ったわたしは意気揚々に切り出した。

「ねぇ知ってる?あの大観覧車が一番上に来たとき好きな人とキスをすると末永く結ばれる、ってジンクス」
「知らねぇ。興味ねぇ」
「意地悪。もうちょっと会話しようよ」

 あまりに呆気なく切り捨てられたことに、肩を落としながら小さく文句を垂れる。とっておきの話題が空振りに終わるなんてあんまりだ。彼は目を逸らして嘆息すると、やがて同情するように唇を割った。

「……お前は試したことあんのか?」
「ううん、一度もないよ。そもそも観覧車に乗ったことなくて」
「意外だな。高所恐怖症ってわけでもないんだろ」
「わたしじゃなくて、お兄ちゃんがね」

 軽く片眉を動かした伏黒くんから視線を外し、再び臙脂色に塗装された大観覧車を見上げる。

「お兄ちゃん、観覧車だけは駄目だったから」
「なんで」
「空が近すぎるんだって」
「……は?」
「ジェットコースターは乗れるのに、よくわかんないよね」

 この曇天模様には全く似合わない、澄み渡った夏空みたいな優しい笑顔を思い出す。

「遊園地?いいよ。じゃあ、の乗りたいもの全部乗れるよう、俺がファストパス取っておくから。あ、でも観覧車だけは勘弁な」

 茶目っぽく付け足されたその言葉が、頭の後ろでたしかに響いたような気がした。感傷の欠片が胸の奥でじわりと滲む感じがして、口端を持ち上げながら目を伏せる。

 それ以上、もう何を言えばわからなくなった。あらゆる言葉が取り上げられて、どこかへ放り投げられた気分だった。その間も彼は一言も発することなく、ただわたしの言葉を待っていた。

 今はひとりになりたかった。外れかけた仮面を被り直す時間がほしかった。ぎこちない笑顔を浮かべながら、伏黒くんに頼りない声音で告げる。

「わたし、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「ここにいる。別に慌てる必要はないからな」
「……うん、ありがとう」

 彼の気遣いに小さく頭を下げて、すぐ近くのトイレへ向かう。幸い、さほど待ち時間はなかった。狭い個室の扉を閉めると、平常心を呼び戻すように何度も深呼吸を繰り返した。

 深い喪失感に穿たれているのに、相変わらず涙は一滴も出ない。お兄ちゃんが死んでからというもの、涙腺はすっかり枯れ果てたままだ。きっと泣けたら楽になれる、感情の整理がもっとうまく出来るようになる、そんな気がするのに。

 乱れた感情を何とか整え、足早に伏黒くんのもとへ戻ったというのに、何故かそこに彼の姿はなかった。忽として消えている。無秩序に揺蕩う人波の中に彼の姿を求めたものの、どれだけ目を凝らしてみても一向に見つかる気配はない。

「……どこ行っちゃったんだろ」

 互いに連絡先を知らないとなれば、この噴水広場から離れるのは得策ではないだろう。伏黒くんもトイレに行ったのかもしれないと思い直し、わたしはその場で待つことにした。

 行き交う人々にあてもなく視線を注いでいたそのとき、噴水のそばで子どもたちに風船を配るピエロと目が合った。色とりどりの風船を持った陽気なピエロに、おいでおいでと優しく手招きされる。

 ひとり待ちぼうけている姿が寂しそうに映ったのかもしれない。辺りに伏黒くんの姿が見えないことを確認すると、少しくらい離れても大丈夫だろうと判断して、わたしはピエロに駆け寄った。

 唇の両端を三日月の形に吊り上げたピエロが、わたしの顔をそっと覗き込んだ。白塗りのかんばせに浮かぶ紅瞳には、ピエロには似つかわしくない穏やかな光が灯っている。きっと心配してくれているのだろう。

 遊園地に悲しい顔は似合わないとでも言うように、恭しい仕草でピエロが青い風船を差し出した。

「ありがとう」

 笑みをこぼして受け取れば、ピエロは優しくわたしの頭を撫でた。子どもたちにしていたのと同じように。急に自分が幼くなったような気がした。なんとなく照れ臭い気持ちを抱えたまま、子どもたちに風船を配るピエロの背に視線を注ぐ。

 やがて風船を配り終えたピエロは、周囲に向かって陽気に手を振りながら噴水広場を後にした。

「ばいばーい」

 手を振り返していると、「!」と聞き覚えのある声に名を呼ばれた。振り向けば、息を切らした伏黒くんが立っている。わたしは小さく首を傾げた。

「どこ行ってたの?迷子?」
「なんでそうなるんだよ……残穢の持ち主の気配がしたから、ちょっとな。勝手に離れて悪かった」

 気まずそうに後頭部を掻く彼に間断なく尋ねる。

「見つかった?」
「いや、しばらく追いかけたら消えた。なんだったんだ」

 愚痴をこぼすと、白群の瞳が空中でぴたりと固定された。風船を見つめていることに気づいたわたしは、その双眸に呆れた色が走るより早く、弾んだ声で自慢してみせる。

「見て!ピエロにもらった!」
「お前な……そんなモン持って歩き回るつもり――」

 突として言葉を切った伏黒くんの顔がみるみる青ざめる。周囲の目が集まるのも気づかぬように、血相を変えて声を荒げた。

「……おい、そのピエロどこへ行った!」
「えっ」
「どこへ行ったって訊いてんだ!」
「えっ、えっと……た、たしか、あっちのほう」

 ごった返す人の波の先を指差せば、鬼気迫る形相で目を凝らした伏黒くんがやがて地団駄を踏んだ。

「……クソッ」

 何事かと風船に目をやって、そこではたと気づく。風船の持ち手の先端に長方形のカードがくくり付けられている。色褪せたそれに嫌な予感がした。震える指でカードをそっと裏返す。

 そこに書かれていたのは、網膜に焼き付いたままの青い英文と全く同じ文章だった。

「……“I miss you.”」

 華奢な筆跡で綴られたそれを読み上げると、伏黒くんが焦燥と苛立ちを含んだ声音で言った。

「文章がまるっきり一緒ってだけじゃねぇ。ご丁寧に残されたその残穢、あのとき見た鱗の呪いと全く同じだ。ピエロに化けていたのは経由された呪いか、もしくは鱗の呪い本体の可能性が高い」
「……追いかけなきゃ」

 自らの口からこぼれ出たとは思えないほど、それはひどく冷ややかな響きだった。壊れた人形のようだと思った。感情が暴発しそうになるのを懸命に押し留め、ほとんど反射的に地面を蹴った。

 けれども体軸が大きく前に傾いただけで、足はそれ以上先には進まない。風船を持つ手に鈍い痛みが走っていた。振り返ったわたしを伏黒くんが睨み付けている。わたしの手首を強く握り締めたまま。

「探すだけ無駄だ。もう逃げた後だろうし、どう考えても人殺しが目的じゃない」
「……でも」
から俺を引き離しておきながら、どうしてすぐにを殺さなかった?はもちろん誰ひとり殺してないことがその証拠だろ」

 決して離すまいとする意志の籠った眼光に射抜かれ、頭を麻痺させるほどの激情はみるみる萎んでいった。「ごめんなさい」と掠れた声で謝ると、追走の意図がないことを確認するようにしばらく視線を注がれる。一分ほど経ってようやく、彼はわたしの手首を解放した。

「なんでこのタイミングでに接触してきた。しかも全く同じメッセージカード。まさか子どもの死と何か関係があるのか?」

 考え込むように腕を組み、視線を落としてぶつぶつと呟く伏黒くんから鼻先を逸らす。居た堪れなかった。逃げるように、手に掴んだままの青い風船を見上げた。鉛色の薄暗い空に、純粋な青がくっきりと映えている。

「……サムシングブルー」

 無意識だった。口を突いて出た言葉に自分でも驚いた。我に返ったように伏黒くんが顔を持ち上げる。その双眸は驚愕に歪んでいた。

「……なんだって?」
「この青い風船も、ある意味サムシングブルーじゃないかなって……」
「いや、そんなわけ――」

 動揺を孕んだ声音を遮って、耳馴染みの薄い無機質な着信音が鳴り響く。彼はポケットからスマホを取り出すと、努めて平静を保った口調で応答する。

「はい、伏黒です……、家入さんだ」

 その言葉に頷いたときには、伏黒くんはスマホのスピーカーボタンを押していた。呪術高専の専属医師である家入先生の、艶やかながらもどこか無感情な声音が鼓膜を叩いた。

「子どもの身元がわかった。その連絡だ」
「わざわざすみません。でもそれだけならメールでも良かったんじゃないですか?」

 伏黒くんが素直な疑念をぶつければ、僅かな間を置いて返事が返ってくる。

「家族に伝えるべきだと思ってな」
「……家族?」
「その遊園地で死んでいた子どもは――樹だ」

 最初、何かの聞き間違いかと思った。冗談にしては笑えないと思った。必死に助けを求めるように、同じ言葉を聞いた彼に視線を送って言葉を失う。瞠目した伏黒くんが硬直していたせいで。

 途端に脈打つ心臓を押さえ付けて、わたしは懸命に問い返した。

「……どういう、ことですか」
、どうか落ち着いて聞いてほしい」

 そう前置きをすると、抑揚のない声が詳細な説明を付け加えていく。

「DNA型鑑定から、遺体の子どもはと血縁関係があることがわかった。長い間冷凍保存されていたあの遺体は樹――死因はショック死、死亡時期はおそらく六歳前後だろう。私はの父母が“事故死”したのと同じ時期だと睨んでいる」
「でもお兄ちゃんは、先月――」
「戸籍謄本を始めとしたあらゆる公文書が改竄されていた」
「……あ、あの、意味がよく……」

 理解が全く追い付かない。言葉の意味を噛み砕くだけの処理能力はなく、ただ伝えられた言葉をわたしとはまるで無関係な単なる記号として受け止めるだけで精一杯だった。

 こちらの動揺をすくい取った家入先生は間を置くと、やがて滑らかに続けた。

「今朝、改竄前の戸籍謄本を伊地知が徹夜で見つけ出した。それによれば家の子どもはふたりだけだ。樹と。ところがこの兄妹は二卵性双生児――つまり樹とは同い年のはずなんだ」

 悲鳴を上げる心臓を鷲掴みにされた気がした。脳が理解を拒んでいる。わたしは深く俯くと、その場で何度も首を左右に振った。

「……そんなの、そんなの変です。おかしいです。だ、だってお兄ちゃんは二十六歳で、伊地知さんと同い年で――」
「すまない。君が留守にしている間に、部屋に保管されていた“樹”の遺骨を無断で調べた。あの“樹”と君との間に血縁関係は存在しない。全くの赤の他人だ」

 何の反応も出来なかった。全ての感覚がただ音もなく剥離していった。わたしひとりだけが薄い半透明の膜で隔たれ、誰もいない場所に取り残されていくようだった。

 もう何も聞きたくなかった。今すぐここから逃げ出したかった。逃げ惑う視線が手の中の色褪せたメッセージカードをなぞる。

 ぽたっと何かが落ちてきて、青いインクが滲んでぼやけた。とうとう雨が降り出したのだろう。次第に強くなる雨脚が青い文字をぐちゃぐちゃにしていく。



 雨粒に溶けた英文から視線が動かない。“I miss you.”――“君が恋しい”。

「君は一体誰と暮らしていたんだ」

 家入先生の声が、遠くで聞こえていた。