「伏黒くん、白馬に乗って。白馬」
「は?」
「だって今日はわたしの王子様なんでしょ?」

 目を点にした伏黒恵の手を引いて、が待ちきれない様子でメリーゴーランドへ駆け寄る。調査のために与えられた特別なファストパスを惜しみなく使うふたりには長い待ち時間など存在しない。長蛇の列をするりと追い越し、瞬く間に柘榴色の艶やかな台座を踏んだ。

 恵の視界を独占する二階建ての巨大メリーゴーランドは、それ自体がまるでひとつの城のようだった。豪奢なシャンデリアを思わせる無数の天井灯が、馬や馬車を模した色鮮やかな座席を眩く照らしている。

 瞳を輝かせるは恵と指を絡めたまま、二階へ続く煌びやかな階段を軽やかにのぼっていく。「走るな!」と注意した恵が最後の一段を踏んだところで、の華奢な指が一匹の白馬をまっすぐに示した。彫刻めいた装飾が隅々まで施されたそれの座席には、噴水広場に残されていた残穢と同じものが僅かにこびりついている。

 外から観察するだけではなく、残穢の残った座席にわざわざ座ってアトラクションに搭乗しているのは、呪霊がそこで何を見ていたのかを探るためだった。

 アトラクションから見える景色に何か手がかりがあるかもしれない、という五条の考えに賛同したのは恵だ。洞察力が優れているのは圧倒的に恵のほうだし、術師としての経験の差から考えてみても、この白馬には恵が乗って然るべきなのだろう。とはいえ。

 一秒も経たぬうちに、恵は無邪気に笑うからそっと視線を外した。繋がったままの小さな手をやんわりと振り払うと、白馬には目もくれず自らの座席を吟味し始める。

 腰に手を当てたが不満げな顔で恵を睨み据えた。

「……伏黒くーん?」

 我先にと目当ての座席を目指す子どもたちが、歓声を上げながら恵の脇を抜けていく。通路を充分に空けてやりつつ、しかし怜悧な双眸は座席をなぞったまま、恵はひどく素っ気ない口調で告げた。

「断る」
「どうして?」
「今日の俺は王子じゃなくて彼氏だからな」

 売れない新人俳優よりも下手な棒読みで返事をすれば、の眉間の皺がますます深くなった。

「意地悪」
「だったらお前が乗ればいいだろ」
「しょうがないなあ。じゃあわたしが伏黒くんをお姫様にしてあげます。それでは恵姫、お手をどうぞ」

 かつて異国で使用されたと思わしき馬車の前で腰を折り曲げ、微笑を浮かべたが召使いのように恭しく手を差し伸べる。恵は何も見聞きしなかったことにして、馬車にそっと腰を下ろした。派手な白馬に乗るよりは、馬車のほうが幾分マシというものだろう。

 無視されたことに腹を立てるかと思いきや、は鼻先を逸らして笑いを堪えていた。疑問符の付いた視線を送れば、即座に小さな声が返ってくる。

「ちっとも似合わないね、恵姫」
「うるせぇよ。次それ言ったら帰るからな」

 メリーゴーランドなど柄ではないことくらい、他でもない恵自身が最も理解していた。だから本当は乗りたくなかったのだ。重いため息をひとつ落とし、陰気な瞳を外へ向ける。アトラクションの起動を待ちわびる老若男女の期待に満ちた表情が視界に入り、ますます気が滅入った。

「伏黒くん、こっち向いて」

 反射的に声をしたほうを向けば、白馬に乗ったがスマホを構えていた。のほほんとした人畜無害な笑みに嫌な予感を覚える。

「……何してんだ。残穢は映らないって教えたよな?」
「え、違うよ?伏黒くんの写真、悟くんに送ろうかなって」
「やめろ。マジでやめろ」
「伏黒くん史上最高のキメ顔して」
「するわけねぇだろ、ふざけてんのか――って、おい!撮るな!人の話を聞け!」

 怒号にも似た恵の声音がシャッター音をかき消したそのとき、明るく軽快な音楽が降り注いできた。日本では“きらきら星”として有名なマザー・グースに合わせ、メリーゴーランドがゆっくりと回転を始める。

 制止を無視してスマホを構え続けるは、いつまでも幸せそうに笑い続けていた。



* * *




「楽しかったね」
「そう思ってんのはだけだ」
「そこは嘘でも楽しかったって言うところだよ?」

 どこか茶目っ気を含んだ非難がましい視線に晒され、恵は逃げるように顔を背けた。人の往来を縫うように進むたび、恵の手からの小さな手がこぼれそうになる。どこか遠慮がちに繋がるそれを自然に引き寄せつつ、何度も緩く繋ぎ直していく。

 正午も過ぎ、ずいぶんと客足の増えた遊園地の敷地内をのんびりと歩いていた。普段の速度よりもずっと遅いそれに違和感が拭えない。隣を歩く黒いローファーの歩幅が恵よりもずっと小さく、またその速度もいくらか遅いせいだった。

 手を繋いだことで迷子になる心配がなくなったからなのか、は歩きやすい速度で歩くようになった。必然的に恵が合わせることになったものの、明らかなその違いに内心ひどく驚いてしまった。

 これが本来の歩く速さだとしたら、今日だけでなく今までずっと、は恵に合わせてずっと無理をしてきたのだろう。なんとなく申し訳ない気分になり、恵は最大限に譲歩した、しかし険の残る口調で告げた。

「……楽しかった。これで満足かよ」
「じゃあもう一回乗る?」
「帰る」
「やだやだ待って!調子に乗ってごめんなさい!」

 明後日の方向へ歩き出した恵をが懸命に引き止める。しかし数秒も経たぬうちに謝罪の声が途切れた。なんとなく気になって振り返れば、の顔からことごとく表情が消え失せている。

?」
「……あの子、泣いてる」

 どこか虚ろな視線を追えば、人混みの向こうに火が付いたように泣く子どもと必死であやす母親の姿が見えた。嫌な予感に駆られながらも、珍しくもないその光景に恵は淡々と答える。

「子どもは泣くもんだろ」
「ううん、そうじゃなくて」
「……だったらどういう意味だ」

 説明を求めたその直後、自らの予感の正しさを証明するような言葉が耳を打った。

「ごめんね、伏黒くん。ちょっとだけここにいて」

 は早口で言い終えるや否や、恵をひとり置いて泣き声のほうへ一直線に駆け出していく。制止の声をかける暇すらなかった。

「……あのお人好し」

 温もりの残る手で額を押さえつつ、吐き捨てるように悪態をつく。どうせまた面倒事に首を突っ込むつもりなのだろう。だからといって放っておけるわけもなく、恵はすぐにの背を追いかけた。

 ごった返す人の波を抜けてやっと追い付いたときには、すでには子どもをあやす母親に声をかけていた。

「どうかしたんですか?」
「あの、いえ、すみません……怖い怖いってずっと泣いてて……たまにあるんです。この子、何か変なものでも見えているみたいで」

 困り果てた様子の母親に導かれるように周囲を見渡せば、すぐそばに立つ異国風の歩道灯から呪霊がぶら下がっていた。見るからに低級であるその呪霊が人に害を与えようとする気配はほとんど感じられない。

 とはいえ、軟体動物じみた身体の至るところに大量の目玉がくっ付いており、その全てがぎょろぎょろと不規則に動き回っている。恵の目から見ても不気味だった。恐怖を煽られた子どもが泣き出すのは至極当然だろう。

「こんにちは」

 そう言いながら、は大声で泣きじゃくる子どもを優しく覗き込んだ。呪術や呪霊の知識をほとんど与えられてないは、この事態に一体どう対処するつもりなのだろう。スプーン一杯ほどの興味が湧いた恵は、しばらく動向を見守ることにした。

 抱きかかえられた子どもが母親の肩からそっと額を外す。涙で濡れた顔をようやく晒すと、はその瞳に悪戯な色を灯した。

「君も見た?アイツ、すっごく怖いよね」
「……み、みえる、の?」
「うん。お姉ちゃんにも、こっちの無愛想なお兄ちゃんにも、ちゃんと見えてるよ」

 無愛想は余計だろ――そう思ったものの、恵は何も言わなかった。きょとんと目を瞬く子どもに曇りのない眼で見つめられ、途端に居た堪れない気分になる。居心地の悪さに困惑していると、に視線で促され、恵は「ああ、見えてる」と渋々頷いた。

 母親から離れた子どもは垂れた鼻水をすすりながら、涙で嗄れた声で尋ねる。

「……こわいんでしょ?なんで、な、なかないの?」
「お姉ちゃんもお兄ちゃんも、魔法を使ってるからだよ」

 が視線を合わせるようにその場にしゃがみ込むと、不思議そうな声音が返ってくる。

「……ま、ほう?」
「そう、魔法」

 優しく答えるは目元に笑みを溜めた。

「もう大丈夫だよ。お姉ちゃんが君にも特別な魔法をかけてあげるね」
「……いいの?」
「もちろん。ちょっとだけおてて貸してくれる?」

 はそっと手を差し出すと、期待と懐疑に満ちる子どもの小さな手を取った。ポシェットから取り出したオレンジ色のサインペンで、もちもちとした手の甲に少しずつ模様を描いていく。

「Twinkle, twinkle, little star, how I wonder what you are.」

 それはメリーゴーランドでも聴いたマザー・グースだった。恵には耳馴染みの薄い英語の歌詞を口ずさみながら、はどこか日向の匂いがする穏やかな笑みを浮かべている。

 の周りだけ時間の流れが違うような気がした。真剣な、しかしそれでいて思いやりに満ちた柔らかな横顔に不覚にも見入っていることに気づき、恵はすぐに鼻先を背けた。

 サインペンの蓋を閉めると、は限りなく優しい視線を持ち上げた。手の甲を見つめた子どもが、ぱちぱちと涙目を瞬かせる。

「……おほしさま?」
「そうだよ。このお星様が君を守ってくれるから」
「ほんとう?」
「うん、本当。そのおててをアイツに向けてみて」
「……こう?」

 言われるがまま、子どもが呪いに向かって手の甲を掲げる。は子どもの肩を優しく抱き寄せると、茶目っ気たっぷりの口調で言った。

「それでね、強い気持ちで願うの。どっか行っちゃえ!って」
「ど、どっかいっちゃえ」

 子どもは涙を含んだ掠れた声を絞り出した。その直後、子どもの願いに弾かれるように、目玉だらけの呪霊は血相を変えて電柱から跳躍する。建物を飛び移るようにして、あっという間に姿をくらましてしまった。

「ほらね、どっか行っちゃった」

 が得意げな顔をすれば、あんなに泣いていたのがまるで嘘のように、子どもは晴れ渡った満面の笑顔を浮かべてみせた。

「すごーい!ありがとう!」
「どういたしまして」
「このまほう、ぼくにもつかえる?!」
「もちろん。怖いなって思ったときはお星様を描いてみて。今みたいにおててでもいいし、折り紙でも、もっと小さな紙でも大丈夫だよ」
「わかった!」

 先ほどとは打って変わって大はしゃぎする子どもを見た母親が、戸惑いと安堵がない交ぜになった複雑な表情で頭を下げる。

「あ、ありがとうございます」
「あの、いえ、そんな。お子さんに勝手に落書きなんかして本当にごめんなさい」

 は母親以上に深く頭を垂れると、ポシェットから取り出した小さな名刺を躊躇いがちに手渡した。そして、名刺を見つめる母親に真摯な声で囁くように伝える。

「差し出がましいとは思うんですけど……お子さんのことで本当に困ったときは、一度ここに連絡してみてください」
「……呪術師、補助監督……伊地知、潔高?」
「きっと助けてくれると思います。そのときは、必ずわたしもお力になりますので」

 母親に連れられた子どもは首をひねって振り返ると、ぶんぶんと大きく手を振った。それに応えるように、隣に立つが穏やかな笑顔で手を振っている。

「おねえちゃん、ばいばーい!」
「ばいばーい」
「おにいちゃんも、ばいばーい!」
「伏黒くん」
「……わかってるって」

 恵は申し訳程度に手を振ると、まだ手を振り返しているに問いかけた。

「お前、いつもあんなことしてんのか?」
「……うん。いつもはお兄ちゃんの名刺だけどね」

 ようやく手を下ろしたの横顔に柔らかい色が揺蕩う。

「何とかしてあげたいなって思うんだ。呪いが怖くて泣きたくなる気持ちも、見えてしまうことを共感してもらえないつらさや寂しさも、よくわかるから」

 その優しい表情にまたも視線の先を穿たれそうになり、恵は気を紛らすように疑問を重ねた。

「さっきのアレはさんに教わったのか?」
「ううん、違うよ。アレは悟くんに小さいとき教えてもらった“おまじない”」

 が「子どもっぽいよね」と照れ笑いを浮かべると、恵は首を左右に振るようにして即座に否定する。

「アレもれっきとした呪術の一種だ」
「伏黒くんの呪術より全然すごくないけど……」
「“血”に頼る術式とは全くの別物だからな」

 いかにも物知らずな顔をして首をひねるに、恵は淡々と説明をしていく。

が描いたのはセーマン――つまり五芒星だ。晴明桔梗印ともいって、強い魔除けになる。安倍晴明くらいは知ってるだろ」
「ええっと……すごい陰陽師?」
「……まぁ今はその認識でいい。セーマンはその安倍晴明が作った呪符だ。五条先生から他に何を教わった?」
「それでもどうしても駄目なときは、仏様を頭で想像しながら“オン・アミリティ・ウンハッタ”って唱えるんだよって。それで絶対大丈夫だからって」
「……軍荼利明王の結界術?」

 の言葉に眉をひそめると、問い質すように声を張った。

「お前、まさか神仏との感応能力が高いのか?」
「……感応?」
が五条先生から教わったのはどちらも呪術の一種だ。だが普通はちょっと願ったくらいじゃ強い効果なんて得られない。例えば俺が同じようにセーマンを描いたとしても、さっきみたいに呪霊を追い払うことはおそらく不可能だろう」
「どうして?」
「才能がないって言ったらそれまでなんだが……感応するために必要な信仰心が俺には一切ないからな」

 呪術師と呼ばれる人間が使用する呪術は、先天的に刻まれた“生得術式”がほとんどだ。神仏との感応、つまり神仏に力を借りることによって発動する呪術は、何かを封印する際などの長期的な効果を求める場合には重宝されているものの、それ以外で使用されているところを見る機会はあまりにも少なかった。

 宗派もその修行法も眩暈がするほど複雑化している上に、呪術がまともに使用できるようになるまでに相当な時間を要するとなれば、“古いやり方だ”と揶揄されるのも無理もないだろう。

 とはいえ、が神仏を強く信仰し、日夜修行に励んでいる様子はない。となれば、残された可能性はひとつ――はおそらく、生まれつき神仏との感応能力が高いのだ。

 恵は自らの考えを裏打ちするため、さらに質問を重ねた。

「“声”が聞こえることは?」
「声……」

 考え込むように視線を落とし、やがては明るい顔で手を打った。

「あ、それって“慈雨”のこと?」
「慈雨?」
「朝起きるとね、頭の中で雨音がするんだ。晴れでも雨でも関係なく。ザーッて結構激しい雨音なんだけど、ものすごく心が落ち着いて、優しい気持ちになれるんだよ。だから“慈雨”。ちなみに命名は傑くんだよ」
「……傑って、まさか夏油傑か?」

 恵は目を瞠りながらも、すぐに震える声で確認した。お人好しにも程があるの口から出るはずもないその名に、動揺を隠せなかった。するとはきょとんとした表情で首を傾げる。

「うん、その傑くんだけど……知ってるの?」
「知ってるも何も……」

 記憶にも新しい去年のクリスマスイブ、新宿と京都で未曽有の呪術テロが起こった。“百鬼夜行”と称して各地に千の呪いを放ち、呪術師との総力戦を繰り広げた最悪の呪詛師――それが“夏油傑”だった。

 百を超える一般人を呪殺し呪術高専を追放された呪詛師と、は一体どこで知り合ったというのだろう。の術式のことが頭を過ぎり、恵はに警戒されない程度の他愛ない質問を選び出していく。

「……よく会ってたのか?」
「毎年、夏休みと冬休みの間だけね。連絡もなくうちに来て、“今からどこへ行きたい?”って言うの。映画とかゲームセンターとか水族館とか、お兄ちゃんと悟くんには内緒でたくさん遊びに行ったよ。傑くん、元気にしてるかなぁ」

 思いを馳せるように遠い目をするから、恵は思わず視線を背けた。

「……いや」
「どうかしたの?」
「夏油傑は……」

 それ以上は言葉にできず、唇を横一文字に結んだ。のその様子では、夏油傑が呪術規定に反した罪ですでに処刑されたことを知らないのだろう。最悪の呪詛師といえど、多くの人間を呪殺した大罪人といえど、にとってはかけがえのない存在だったのだ。

 最愛の兄を喪ったばかりのから、もう何も奪いたくはなかった。そんなのはあんまりだと思った。から二度も大切な存在を奪うようなことは、恵にはできなかった。

 考えるようなふりをして、恵は自然に答えてみせた。

「……多分、きっと元気だろ。他に何か聞いたことはあるか?」
「傑くんがよく言ってた。呪術の“呪”って文字には“祝う”って意味もあるんだ、って。だからの呪術は誰かを呪ったり傷つけたりする力じゃない、誰かの幸せを願うための優しい力だから大事にするんだよ、って」

 似たような話を昨日、五条の口から聞いたばかりだった。瞠目する恵をよそに、はゆっくりと言葉を継いでいく。

「お兄ちゃんは危ないから絶対に使うなって言ったけど、わたしは傑くんの言った通りなら素敵だなって思ってるよ」

 陽だまりにも似た優しい声音が心地よく耳を打つ。恵の視線はもうをなぞっていなかった。人混みの中に点々と続く残穢を追いながら、ぽつっと独り言ちる。

「……狙われてんのはの術式だけじゃねぇな」
「え?」

 うまく聞き取れなかったのだろう、の顔で不思議そうな色が揺れる。恵はそれに答えることなく、しかし代わりに華奢な手を掴んだ。ごった返す人の波の中でも決して離れてしまわないよう、五本の指をたしかに絡めながら。

「ぼうっとすんな。置いてくぞ」
「う、うん」

 はどこか驚いた様子で、緩慢に歩き出した恵の後に続いた。