「恵がを避けてるのって、が津美紀に似てるから?」
「……いきなり何ですか」

 軽薄という言葉を丹精込めて煮詰めたような声音が、学生寮へ戻るつもりの伏黒恵を引き止めた。コンビニの白いレジ袋を片手に、嫌悪感を剥き出しにした顔で振り返る。

「全然違いますよ。あと念のため訂正しておきますけど、別に避けてるわけじゃないんで」
「そうなの?てっきり似てるから冷たくしてるのかと思ってたんだけど」

 新緑の隙間を縫うように降り注ぐ夕陽で、呪術高専は穏やかな茜色に染まっていた。恵を見つめるサングラスの男の白絹じみた髪やその両手からぶら下がる大きなレジ袋も、温かみのある淡い橙色を帯びている。

 その穏やかさとは全く真逆の、飽食した悪魔にも似た笑みが“術師最強”を冠する男の口端に浮かぶ。無性に腹の立つそれを見たせいか、恵の声が少しばかり硬度を増した。

「どこが似てるって言うんですか」
「わざと冷たくしてることは認めるわけだ」
「俺の質問に答えてください」
「え、それ僕に言わせる気?」

 ややおどけたような口調を作った五条から、恵はうんざりと視線を逸らした。真面目に答える気など毛頭ないこの男に取り合うだけ、時間の無駄というものだろう。

 恵は重いため息をひとつ落とすと、無駄に図体のでかい五条のずっと向こう、正門近くで白いプリントを拾い上げているを視界の中央に映した。

 の脇にいる伊地知が「すみませんすみません」と何度も謝る声音が微かに聞こえてくる。きっと不注意か何かでばら撒いてしまったのだろう。しかしはどこか楽しげな様子で、膝や衣服が汚れることも厭わず、地面にしゃがみ込んで大量のプリントに手を伸ばしている。

「……少なくとも、津美紀はコンビニの募金箱に躊躇なく千円札を突っ込む性格ではなかったです」
「ってことは?」
「お釣りは一円もありません。に“残りは好きにしていい”って言うからですよ」
「あ、それは気にしなくていいよ。ならきっとそうするだろうなと思っておつかいを頼んだわけだし。うーん、なんだか僕がイイコトをした気分だな。にお菓子わけてあげよっと」

 悪戯を思い付いた子どものように茶目っぽく笑うと、五条は軽やかにその長身を翻した。スイーツやら菓子やらがたっぷり詰め込まれた重そうなレジ袋が揺れる。恵はそのひょろ長い背中に怪訝な声を投げた。

「術式のこと、本当に言わないつもりですか?」
「だって明日は恵と遊園地デートするだけじゃん。言う必要ある?」
の術式なら言っても言わなくても同じだと思います。それにこの二週間、は呪術について何も教わっていません。明日は調査なんですよね?呪力や残穢のことすらわからない人間に、一体どうやって調査しろって言うんですか」

 抗議の言葉に振り向いた五条は、ひどく面倒臭そうに後頭部を掻いた。

「じゃあそこだけ恵が教えてあげてよ」
「いい加減そうやって俺に全部押し付けるのやめてください。俺じゃなくて五条先生から教えたほうが――」
「それじゃの修行にならないでしょ」

 さも当然のように遮ると、売れない悲劇俳優のようにやれやれとかぶりを振ってみせる。まるで話が見えない恵は眉間に深い皺を寄せた。

「……修行?」
「呪力とか身体能力とか呪術に関する知識とか、そんなのは正直どうでもいい。だっての実力も潜在能力も、最強であるこの僕と遜色ないんだからね」

 愉悦に揺れる笑みを刻んだ五条は、怪訝な表情を浮かべた恵にゆっくりと近づいた。そして唇を横一文字に結ぶ恵の胸板の中央を、長い人差し指でトンと軽く突いた。

「僕が本当に鍛えたいのは、のココだよ」

 刹那、五条の黒いサングラスの向こうで光が消えた。いつもの軽薄な色すら持たない氷点下の双眸に恵は瞠目する。恵をまるで仇敵のように鋭く睨み据えると、五条は底冷えのする声で静かに囁いた。

「今、の善性は揺れている。死んだ樹のせいで。そしてそれに深く関わった君のせいで」

 五条の指が恵から離れる。たった数秒触れられていたその場所が、遠慮なしに深く抉られていた。突如浴びせられた責め句に脈打つ速度が一気に増す。恵は狼狽を不必要に気取られないよう、その表情を硬く強張らせるだけで精一杯だった。

 教え子の青ざめた顔を視認した五条は困った様子で頬を掻くと、普段と変わらない口調で説明を加え始める。

「あのね、僕は別に君やに意地悪をしたくて、ふたり揃ってのおつかいや調査なんて頼んでるわけじゃないんだよ?樹が死んだ程度で崩れる善性なら逆に危険なんだ。あの術式はおそらく使いこなせない」

 恵の片眉がぴくりと跳ねた。樹が死んだのは些細なことだとでも言いたげな口振りが信じられなくて。

 五条は恵の様子など気にも留めず、レジ袋の中からシュークリームを選び出した。が「悟くんはコレ絶対好きだよ!間違いない!」と力説しながら買い物カゴに放り込んだものだ。クリームをこぼさぬよう器用に頬張りながら、黙りこくった恵に問いかけた。

「呪術の“呪”って文字には、“祝う”って意味もあるって知ってる?」
「……はい、知ってます。“呪”も“祝”も神に祈りを捧げる人を表す会意文字――神の前で祝詞をあげるという意味があって、それが次第に幸福を祈る場合には“祝う”を、不幸を祈る場合には“呪う”を……そうやって分けて使われるようになったんですよね?」
「その通り。ま、呪術師なら知ってて当然なんだけど」

 あっという間にシュークリームを食べ終えた五条は悪戯っぽく付け足すと、クリームの付いた指を舌で舐め取りながら言葉を継いだ。

「僕らが使う呪術は他者を呪う力だ。呪霊を祓うことが主な目的だからね。でも、の呪術はちょっと違う。他者を祝うことが目的――つまり、同じ呪術といえど“祝い”の色が濃いんだよ」

 深く腕を組んだ五条の眼差しは、すでに伊地知と楽しげに談笑するへと向けられている。

は人の持つ良心に寄り添い、人に降りかかる数多の害を祓う。他者の息災を願うための、“呪い”の力を持たない“祝い”の呪術。呪力の根源である負の感情をそのまま使うわけじゃないんだ。これってある意味地獄じゃない?」
「……地獄?」

 恵が小さな声で問い返すと、五条は軽薄な響きで答える。

「簡単に言えば、恵が憎いと思いながら恵の幸せを願う、みたいなものだからね」
「……矛盾してますね」
「そう、そんなこと普通はできない。恵や憂太たちにはもちろん、僕にも無理だ」
「でもはそれができるってことですか?」
「“選ばれた人間”故にね。でも今はそれが揺らいでるから問題なのさ」

 を見つめる五条の目が細くなった。そこにはこの胡散臭い男にしては珍しいほどの、慈愛にも似た柔らかな光が宿っている。

「僕はに正しく復讐させてあげたいんだよ。決して揺らぐことのない善性で下す、一片の迷いもない正しい選択――それができるような人間になるのが先だ。相手が呪霊とはいえ半端な気持ちで他者の死を“祝えば”どうなるか……そんなこともわからないほど、恵はガキじゃないだろ?」

 その問いかけに恵は目を伏せた。

と一緒が嫌だとか、そんなガキみたいなワガママ言うつもりありませんよ」
「うーん、それじゃちょっと足りないかな」

 勿体ぶった響きに視線を持ち上げれば、その声音には不釣り合いなほど剣呑な眼光が恵を睨めつけている。背中を走る嫌な予感が現実になることを、恵はすでに察していた。

「……まさかとは思いますけど、ともっと一緒に過ごせと?」
「理解が早くて助かるよ」

 五条の視線を追うように、恵はを見据えた。間違いなくの修行のためだった。そもそも最初から拒否権などないことは充分に理解していた。

 恵はどこか気のない声音で、しかし決然と応じてみせる。

「……わかりました」
「悪いね」
「別にいいですよ。これ以上嫌われても痛くも痒くもないんで」

 吐き捨てられた言葉に小さく苦笑すると、「を守ってあげて」と言い残した五条がと伊地知のもとへ軽やかに駆け出していく。「ー!お菓子あげるー!」と子どものように叫びながら。

 走る勢いそのままに正面から五条に抱きつかれたは、大型犬を相手にするようにけらけらと笑い声を上げた。手渡された菓子を笑顔で受け取ると、その場で封を開けて五条や伊地知とともに食べ始める。きっと、ひとりで食べるのが忍びないとでも思ったのだろう。菓子を頬張る三人はひどく楽しそうだった。

 夕暮れに染まる穏やかな光景を見つめていた恵の耳の奥で、ふいに澄んだ声が響いた。

「誰かを呪う暇があったら、大切な人のことを考えていたいの」

 きかん気な弟を宥める柔らかく穏やかな響き。他愛ない幸福を溶かし込んだ、どこまでも透明な笑顔。

 水底から浮上するように蘇ったその記憶を否定するように、恵は苦しげに顔を歪めた。腹の底から溢れる嗄れた低音が唇からこぼれ落ちていく。

「……似てねぇよ」

 振り払うようにかぶりを振ってみても、透き通った微笑が消え失せることはない。レジ袋を掴む手に力が入り、ビニールの擦れる小さな音が響く。

 いつも笑って、綺麗事を吐いて。

「人を許せないのは悪いことじゃないよ。それも恵の優しさでしょう?」

 恵の性根すら肯定した伏黒津美紀は、疑う余地のない善人だった。誰よりも幸せになるべき人だった。それでも不平等に呪われた。病院の白いベッドに横たわる津美紀の痩せた姿が、恵の感情を片っ端から掻き乱していく。苛立ちを含んだ爪先が強く地面を蹴った。

「……クソ、なんで思い出すんだよ」

 は津美紀に似ていない。顔も性格も何もかも。だというのに、何故か既視感を覚えてしまう。それはきっとが津美紀と同様に、ごく当たり前の幸せを、平等を享受すべき善人だからだろう。

 すぐそばにいたのに、伏黒津美紀は呪われた。

 すぐそばにいたのに、樹は呪われた。

 頭を抱えて叫び出したくなるような罪悪感に打ちのめされる。誰にも言われずとも、恵はを守るつもりだ。から兄を奪い、平等を享受する機会を奪った者の責任として。それこそ死ぬ気で守るつもりだ。もちろんそれは比喩などではなく、言葉通りの意味で。

 それでも。恵は居た堪れず顔を深く伏せた。「を守ってあげて」と言い残した最強を冠する男の声が頭の中でうわんと響く。心の奥底に押し込めていた不安が引きずり出される。

 ふたりと同じように、も呪われるのではないか?弱い自分ではまた同じことを繰り返すだけなのではないか?

 奥歯を軋らせながら視線を持ち上げたとき、ふとと視線が絡んだ。遠くからでもはっきりとわかる、花が咲いたような穏やかな笑み。兄によく似たそれが恵の心を容赦なく穿つ。

 はぽつんとひとり立ちすくむ恵に向かって、「伏黒くーん!」と弾むような大声で叫んだ。そしておいでおいでと手招いてみせる。菓子を一緒に食べようという意味だろう。

 恵はどうすればいいのかわからなくなり、くるりと身体を半回転させて学生寮へ歩を進めた。を中心とするあの穏やかな光景に加わる権利は、恵にはないような気がして。

 自室へ続く男子寮の階段を重い足取りで上る。最愛の兄を見殺しにした相手に取るべき行動とは思えなかった。どうして見捨てたのかと罵られて憎まれて、当然のことをしたのだ。しかしが恵に抱く複雑な感情を露骨に示すことはなかった。

 どうしてそうも頑なに態度を変えようとしないのか、恵には微塵も理解できなかった。



* * *




 に感じた津美紀の既視感は、いつまでも恵の心を蝕み続けた。

 針のむしろにされている感覚。お前が弱いせいだと常に後ろ指を差されるようだった。お前では救えないと耳元で嘲笑されるようだった。行き場を失った自らへの苛立ちが積み重なり、心の隙間でずっと燻っていた。

 遊園地という賑やかで穏やかな日常。津美紀や樹やが享受すべきだった他愛ない日常。そんなものを絶えず眼前に突き付けられ、途方もない後悔への直視を余儀なくされ、きっと己の無力感から逃げ出したくなっていたのだろう。

 だから、口を滑らせてしまったのだ。ほとんど八つ当たり同然に。

「だから行くって言ってんだよ。お前は俺がいないほうがいいんだろうけど」

 我に返ったときには遅かった。口を突いて転がり出た鋭利な言葉は、とうにをまっすぐに貫いていた。今さら後には引けず、煮え立つ感情に身を任せるように睨み付けた。は瞬きひとつせず、目を丸くしたまま硬直している。

 やがてはその穏やかな瞳に迷いの色を灯したまま、それでもどこか恵を気遣うように声を震わせた。

「そんなことないよ。伏黒くんがいてくれると心強いと思ってる」
「そう言う割には顔が引きつってるけどな」

 わざとだった。もうどうにでもなれと思った。の被った偽善の仮面が外れることを望んでいた。

 恵は遊園地までの道中、五条に指示された通り、無知なに対して呪力や残穢の説明をした。は恵の説明に耳を傾けていたものの、さほど興味はないように見えた。「難しいね」と困り顔で笑うだけだった。今日の天気の話や食堂の新しいメニューの話、高専に住み着いているという野良猫の話など、恵にとってはどうでもいい話をしているほうがずっと楽しいようだった。

 は呪術のことなど何も知らなかった。最愛の兄が生きてさえいれば、呪いに溢れたこんな世界に足を踏み入れることなどなかっただろう。ただのお人好しでいられたのだろう。

 途方もない罪悪感が恵を蝕む。どうすれば償うことができるのか――に出会ってからというもの、時間があればそればかり考えてきた。恵の償いを拒むばかりのに、普通に接してくるに、どう接すればいいのかもわからない。恵の中で、もう何もかもが限界を迎えていた。

 やや間を置いて、はゆっくりと息を吐いた。迷いを置き去りにした真摯な瞳が恵を見据えている。しかしそれも一瞬のことで、柔らかな双眸に悪戯な笑みが浮かんだ。

「それ、お互い様だよ?」

 真正面から嫌味を、持て余した感情をぶつけたつもりだった。それでもなお普通に接するが信じられなかった。

 恵はそこでようやく、己の認識が間違っていたことに気づいた。

 はずっと守られる側の人間だと思っていた。何も知らず、何も教えられず、蝶よ花よと育てられてきた穢れを知らぬ人間だと。それ故に善人なのだと。だからこそ、誰彼構わず優しくできるお人好しなのだと。

 ――選んだ結果が、これなのか。

 に感じた津美紀の既視感。も津美紀と同じように、選んでいただけだった。

 偽善や事なかれ主義とは全く違う、恵の幸せを想った選択。確固たる信念のもとに築かれた、の正義。

 は樹と暮らした世界の延長線上で生きることを、恵に望んでいる。樹のいない世界を生きるのではなく、樹と過ごした世界で今まで通り、普段通りに生きることを望んでいるのだ。樹の死を枷にするのではなく、樹の死を決して無駄にしないように。

 不平等が平等に与えられたこの世界で、樹を見殺しにした伏黒恵も例外なく、平等を享受できるように。

「困ってる人を見て見ぬふりはできないよ」

 いつも笑って、綺麗事を吐いて。

「子どものわたしにできるのは、ちょっとした募金とか、被災地の特産物を買うとか、そういうことだけだから」

 ひどく真面目な顔で、おつかいの釣り銭を躊躇なくコンビニの募金箱に詰め込んで。

「お人好しっていうのは俺の妹みたいな人間のことをいうんだ」

 いつか聞いた樹の言葉が耳の奥で反響する。恵は溢れる笑みを噛み殺せず、顔を伏せるようにして小さな笑い声をこぼした。

 ――さん、コイツお人好しなんてレベルじゃないですよ。

 度を越えた、超が付くほどの、それこそ腹を抱えて笑ってしまうほどの、馬鹿同然のお人好しだ。

「……そうかもな」

 苛立ちはとっくに消えていた。それは諦めにも似ていたが、気分はすっきりとしていた。

 きっとその瞬間、恵はに負けたのだろう。の善性の前に膝をついたのだ。には何を言っても無駄だし、そもそも恵の理解が及ばない遥か星辰の彼方に住んでいる。言うなれば宇宙人を相手にしているようなもので、普通に接してくるの態度に逐一腹を立てるほうが馬鹿なのだ。

 津美紀の透き通った笑顔が脳裏を掠めた。津美紀ほどの善人はいないと思っていたが、も相当なものだろう。とはいえ、他者の幸福を願うことに関して完全に常識から逸脱しているを、津美紀と同じ善人の枠に入れるのはいかがなものかという気もするが。

 は右手を差し出しながら、茶目っ気たっぷりに告げた。

「じゃあ一緒に楽しもっか、恵くん」

 不快げに顔をしかめた恵は調子に乗るなと思いつつも、の右手に視線を落とした。もう迷いはなかった。自分のそれより一回り以上小さい華奢な手をするりと掴む。少しでも恋人同士に見えるよう、指を軽く絡めていく。

「こんな茶番これっきりだからな、

 恵は自らの口端がほんの少し緩んでいることに、全く気がつかなかった。