「……なんで俺がこんな目に」

 まるで罰ゲームでも受けているような顔で、ベージュのブレザー姿の伏黒くんが低く呻いた。

 その黒い頭には擬人化したネズミのキャラクターを模した陽気なカチューシャが乗っかり、買ったばかりのシナモン味のチュロスが右手に力なく握られている。浮かれた格好とは対照的なほど虚無に満ちた白群の瞳を周囲に向けて、途方に暮れたように立ち尽くしていた。

 右を見ても左を見ても、人、人、人。この辺りのランドマークにもなっている直径百メートルの大観覧車が有名なこの遊園地は、国内でも一、二を争うほどの抜群の人気を誇る。ただでさえ客入りが多いのに、今日が週末ということもあってか、輪をかけて非日常を楽しむ多くの客でごった返していた。

 いずれも家族連れや恋人連れ、友人同士といった人々の表情は、曇天の空など一瞬で霞むほど陽気に輝く。アトラクションに乗った子どもたちの明るい歓声があちこちから響き渡り、賑やかで穏やかな休日の朝を彩っている。

 伏黒くんとお揃いのカチューシャを着けたわたしは、ストロベリー味のチュロスを頬張りながら、足繁く行き交う人々をにこにこと笑顔で見つめた。

「伏黒くん、顔が死んでるよ」
「……だろうな」
「もっと笑顔じゃないと怪しまれるよ」
「むしろ彼女に無理矢理連れて来られた哀れな彼氏に見えるだろ……」

 疲労と心労にひび割れた声を絞り出すと、苦虫を飲んだ顔の伏黒くんがチュロスを控えめにかじった。

 わたしは初々しい恋人同士らしい空気感を演出するため、伏黒くんとの距離を少しだけ詰めてみる。しかし数秒も経たないうちに彼の身体が真横に移動し、あまりに露骨なその態度に胸の内で苦笑をこぼした。

「人がいっぱいだね。先週のゴールデンウィークはもっとすごかったんだろうな」
「仕事を済ませてさっさと帰るぞ」
「うん」

 小さな首肯を合図に、チュロスを持った伏黒くんが人混みの間を縫うように進んでいく。似合わないカチューシャの乗った黒い頭が少しずつ遠ざかって、僅かに焦りが湧いた。

 こんなところで迷子になりたくなかった。彼の連絡先を知らないからこそ。

 だからといって一秒でも早く遊園地を去りたい背中に、待って、などと身勝手な声をかけるのは気が引けた。遅いだとかノロマだとか思われたくなくて、喰らい付くように必死に追いかける。涼しい顔を取り繕ったままで。

「変死体が見つかったのはここだ」

 伏黒くんはそう言いながら、遊園地の中央に設けられた広い噴水広場で足を止めた。早足で歩いたせいで少し呼吸が乱れていたけれど、そんなことはおくびにも出さず彼の声に耳を傾ける。

「噴水に浮かべるような形で、鱗に覆われた子どもの死体がバラバラにされていた。ただこの死体ってのがどうにも変で、報告書によれば長期間冷凍保存されていた形跡があるらしい。ある種のミイラだな」

 事前に配布された報告書の内容を丁寧におさらいしてくれているのは、わたしがあまりに惨い死体の写真に音を上げて、それ以上はまともに読み進められなかったせいだろう。

 呪術師のクセに情けないと罵られることも覚悟していたのに、読みかけの報告書を押し付けたとき、彼は決してわたしを非難したりしなかった。どこか諦めたように目を伏せて、「俺が読んでおく」と言っただけだった。とはいえ、腹の内でどう思っているのかは知らないけれど。

 報告書の内容を頭に叩き込んできたらしい彼は、笑いさざめく人々が集う噴水へと向かった。その後ろをついて歩きながら、わだかまっていた質問を投げかける。

「その子の身元はわかったの?」
「まだ不明だ。死因も含めて家入さんが調べてくれてる。どうかしたのか?」
「ううん……早く家族に会いたいだろうなと思っただけ」

 伏黒くんが足を止めかけて、けれどすぐに大きな一歩を踏み出した。彼の纏う空気が硬度を増したのがわかった。

 また余計なことを口走ってしまった後悔には今は蓋をして、消耗を微塵も感じさせない顔を取り繕った。彼の脇を抜けて、先んじて噴水へ到着する。

 死体が浮いていたとは露ほども思えない、穏やかに揺れる水面に視線を落とす。目を凝らさずとも、負の感情を源とする“呪力”の痕跡がはっきりと視認できた。両手をきつく握り締めながら、小さな声で呟く。

「こんなところに……」

 霧のような水飛沫を肌で感じていると、隣に並び立った伏黒くんが懐から長方形のカードを取り出した。ゆっくりと顎を持ち上げて、色褪せたメッセージカードの上を走る華奢な青い英文を網膜に焼き付ける。

 無感情な白群の瞳がわたしを撫で付けた。

「死体の手にはこのメッセージカードが握られていた。書かれている言葉は――“I miss you.”」
「“君が恋しい”」

 凄惨な現場を収めた写真の中でも、そのメッセージカードを握った手の写真だけはまだ直視ができた。調べてみれば、砕けた筆記体で記されていたのは誰かへの恋しさや寂しさを伝えようとする異国の言葉だった。

「遠く離れた異性に対して使うことが多いってネットに書いてた。殺された子とまた何か関係があるのかな」
「さあな。関係があろうがなかろうが、すべきことは同じだ」

 きっぱりと告げると、伏黒くんはわたしの瞳を見据えた。真剣みを帯びた声音が耳を打つ。

「今から俺たちが調査するのは遊園地に残された残穢――つまりここに残っている呪力の痕跡を辿る。遊園地はある意味隔離された空間だ。他の呪霊経由とはいえ侵入経路や移動経路を絞り込みやすい。鱗の呪いを追う上で、きっと何らかの手がかりになる」
「どうして死体が見つかったときに調べなかったんだろう?警察がいたから?」
「いや、そもそも大型連休で高専に人がいなかったからだろ。まずは――」

 噴水からぽつぽつと続く残穢を追っていた伏黒くんの双眸から、次第に感情が消えていく。気になって視線の先を辿ってみれば、軽やかな音楽に合わせてくるくると回るアトラクションが目に入った。

 噴水広場から最も近い場所にあるそれをしばらく見つめて、わたしは首をひねってみせる。

「コーヒーカップ?」
「……そうだな」
「はっきりとは見えないけど、乗り場まで続いてない?」

 確認するように問うと、「……かもな」と伏黒くんが小さな声で答えた。彼の青い瞳はまるで死にかけの魚のように光を失いつつある。

 ひとりで先走るわけにもいかず、わたしは伏黒くんの死にそうな顔をじっと見つめた。

 似合いもしない浮かれたカチューシャを頭に乗せておいて、その上チュロスを片手に人混みの中を歩いておいて、今さら一体何を恥じることがあるのだろう。そんな思考がうっかり顔に出てしまっていたのか、やがて伏黒くんは腹を括ったように鋭い目になった。

「……直接確かめるしかねぇな。乗るぞ」
「えっ」
「乗るぞ」
「う、うん」

 捨て鉢になった様子で大股で歩き出した伏黒くんは、待ち時間すら嫌なのだろう、優先的にアトラクションに乗れるファストパスを惜しみなく使用し、残穢が色濃く残るコーヒーカップに乗り込んだ。

 彼が目を皿のようにして手がかりを探しているうちに軽快な音楽が流れ始め、そして。

「あー……」

 覚束ない足取りでコーヒーカップから降りた伏黒くんは、人が行き交う通路の脇で苦しげに呻いた。眩暈を堪えるために額に手を当てる彼に、わたしはそうっと声をかける。

「大丈夫?」
「……調査って言ってんのにあんなに本気で回す奴がいるか?」
「ごめんなさい。お兄ちゃんと乗るときはいつも本気で回してたから、つい……」

 周りに合わせて控えめに楽しむつもりが、思わずいつもの調子で楽しんでしまった。突然の高速スピンに目を回した伏黒くんに、「ごめんなさい」と何度も謝罪を重ねる。

 彼はしばらく額を押さえると、感情の滲まない声で口火を切った。

「……先週さんと来るはずだった遊園地って、ここなのか?」
「そうだけど……それ、お兄ちゃんから訊いたの?」

 その問いに返事は返って来なかった。伏黒くんは蒼白した顔でこちらを睨み付ける。

「で、次は?」
「……あのジェットコースターだと思う」

 コーヒーカップに隣接する建物をおずおず指差せば、悲哀に満ちた長いため息が聞こえた。残穢はコーヒーカップと同様に、どういうわけか乗り場まで続いている。伏黒くんが重い足を踏み出した。

「……行くぞ」
「もうちょっと休憩したほうが」
「列に並んでる間に治る」

 冷たい声で真っ向から切り捨てると、感情の浮かばない怜悧な双眸でジェットコースターをなぞる。そこには一片の迷いもなかった。



* * *




「もう乗りたくねぇ……」
「でもファストパスがあって良かったね。待ち時間も少ないし、悟くんに感謝しなくちゃ」

 絶叫マシンさながらのウォーターライドを終えて、わたしたちは濡れすぼった合羽から袖を抜いていた。

 最前列に座ろうとしたわたしに「正気か?」と怪訝な顔を向けた伏黒くんのために最後列を選んだというのに、水飛沫の勢いは予想以上で、合羽はぐっしょりと濡れている。伏黒くんの目はもはや死魚とそう変わらず、露店で買った可愛いスポーツタオルで湿った髪を黙々と拭く姿には、ある種の哀愁すら漂っていた。

 コーヒーカップに回転ブランコ、フリーフォール、ウォーターライド、そしてジェットコースターを三種類。屋外で楽しむアトラクションを片っ端から攻めるのは、残穢が座席にまでべったりと残されているせいだった。

 タオルを首にかけた彼の声に、もどかしげな響きがこもる。

「目ぼしい手がかりは特になし。ある程度は予想してたことだが……」
「なんだか普通に遊園地を楽しんでるみたい。あ、次はあのメリーゴーランドに向かったみたいだよ」
「メリーゴーランド……」

 伏黒くんが地獄を目の前にしたような表情で呻いた。子どもたちの歓声が響くそれに乗れと言うのはさすがに酷だろう。わたしは自らの顔の前で両手を軽く振ってみせた。

「いいよいいよ、嫌ならここにいて。わたしひとりで行ってくるね」
「……いや、一緒に行く」

 あらゆる感情を殺して絞り出された小声に同情しないほうが無理だった。わたしは困惑を示すように肩をすくめると、今度は数回かぶりを振った。

「大丈夫だよ。無理しなくていいから」
「無理じゃない。行く」
「あれなら外から見るだけでも充分だろうし」
「お前が見落とす可能性もあるだろ」
「でも」
「だから行くって言ってんだよ。お前は俺がいないほうがいいんだろうけど」

 不快げな低い響きが耳朶を打った。思いがけない言葉に息が止まるかと思った。揺れる視線を僅かに向ければ、白群の瞳がこちらを射抜かんとばかりに睨み付けている。動悸が早くなっていくのが嫌でもわかった。

 細かい針にも似た鋭いものが無数に籠められた言葉と態度に、内心ひどく狼狽していた。早く何か言わなければと気持ちだけが急く。肯定の意味を持つ沈黙を作ることだけは避けなければいけない、それだけは理解していたから。

 数秒も経たぬうちに乾いた唇をこじ開けて、強張った固い声を力任せに引きずり出す。

「そんなことないよ。伏黒くんがいてくれると心強いと思ってる」
「そう言う割には顔が引きつってるけどな」

 吐き捨てるようなその指摘に、わたしはゆっくりと息を吐いた。身体中に立ち込めていた焦りが少しずつ抜けていく。嘘にまみれた否定を繰り返すのは白々しいだけだろう。今さら取り繕ったところで何の意味もないのはわかっていた。

 責任感の強い伏黒くんが苦手だ。わたしを見るたび彼は罪悪感に打ちのめされているし、彼なりに気遣ってくれているのがなんとなくわかるから。

 けれど、そういうのはやめてほしかった。普通に接してほしかった。お兄ちゃんが死んだことを思い出すからではない。罪の意識に苦しんでほしくないからでもない。

 嫌悪の中に罪悪感を滲ませる伏黒くんを見据えた。ずれた仮面を被り直すように緊張した表情筋を整えると、悪戯な笑みを浮かべてみせる。

「それ、お互い様だよ?」

 何を言われようとも、わたしは努めて普通に接する。彼に同じことを求めるために。

 後輩を逃がすことを選んだお兄ちゃんの“正しさ”を否定しないでほしい、ただその一心で。

 お兄ちゃんは自らの信念に従って、正しいことをした。伏黒くんを逃がしたことは決して間違いではなかったことを、樹が正しかったことを、彼自身に証明してほしいのだ。

 そうすれば、わたしの心でいつまでもわだかまる、この濁った薄暗い感情は、きっと。

「……そうかもな」

 どこか優しげな響きが聞こえて、はっとする。鼻先を逸らして小さく笑う伏黒くんに、思わず目を瞬いた。求めていたものが、やっと返ってきたような気がした。張っていた肩の力が少しだけ抜ける。

 わたしは満面の笑みで右手を差し出した。そして、彼にとっては嫌がらせにしかならない言葉を茶目っ気たっぷりに告げる。

「じゃあ一緒に楽しもっか、恵くん」

 予想していた通り、途端に伏黒くんが苦虫を噛み潰したような顔をする。けれどもその表情とは裏腹に、彼の無骨で大きな手はわたしの手をするりと取った。

「こんな茶番これっきりだからな、

 節の張った長い指が絡むや否や、何故か右手に猛烈な痛みが走った。視線を落として唖然とする。どうやら伏黒くんはとんでもない力でわたしの手を握り締めているらしい。

 骨がみしみしと悲鳴を上げている。周囲の目が集まることなどお構いなしに、わたしは憤然と叫んだ。

「痛い痛い痛い!」
「さっさと来い」