とカップルのふり?!」
「すじこっ?!」
「……マジで冗談がきついですよ」

 呪術高専敷地内――男子寮一階談話室。

 分厚いファイルをローテーブルに投げ出すと、ソファに座る伏黒恵はひどい頭痛でも堪えるようにこめかみを押さえた。揃って驚嘆の声を上げた二年生のパンダと狗巻棘は、項垂れる後輩に何と声を掛けるべきかと互いに顔を見合わせている。

「そもそもなんで俺なんですか。調査なら狗巻先輩でも禪院先輩でも、七海さんでも猪野さんでも伊地知さんでも新田さんでも良かったはずでしょ。こんなのどう考えても嫌がらせですよ」
「すっげー根に持ってるな……」
「しゃけ……」

 パンダと棘が知る限り、こうも愚痴をこぼす恵など見たことがない。凛々しい直線を描く眉の間には、爆発しそうなほどの不満がわだかまっている。パンダはため息をつく恵の隣に腰を下ろすと、励ますようにぽんと肩を叩いた。

「仕事とはいえ女子と遊園地デートだろ?恵だって多少はうれしいんじゃないのか?」
「あの、それ本気で言ってます?」

 真冬を感じさせるほど凍てついた双眸が、パンダをきつく睨み付ける。見かねた棘が顔の前で腕を交差させてバツ印を作ると、険しい顔つきで何度もかぶりを振った。

「おかか」
「ああ、なるほど。相手が悪いわけか」

 パンダは合点がいったように手を打った。そして不思議そうに首をひねる。

「別にが嫌いってわけでもないんだろ?」
「……嫌いではないですけど」
「こんぶ」

 観察眼に長けた棘が翳った顔で肩をすくめる。気まずさから目を伏せた恵を一瞥して、パンダは困った様子で頬を掻いた。

「死んだ樹の妹だもんな……恵が苦手意識を持つのは当然といえば当然か……」
「しゃけ……」
「でもは恵と普通に接してるよな?」
「おかか」
「狗巻先輩の言う通りです。あれ、完全に“大人の対応”ですよ」

 即座に否定した棘の言葉に同意するように頷くと、恵は自虐的な口調で躊躇なく告げた。

は俺を嫌ってます。今回の話を聞いたとき、この世の終わりみたいな顔してたんで」

 感情の欠けたの横顔がたちまち蘇る。は無茶を吹っ掛けた五条に対して何も言わなかったし、五条が去った後も今回の仕事について嘆くことはなかった。ただその表情には何の色もなく、それが逆に恵の心を波立たせた。

 ――言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいだろ。

 ひどく胸がざわつくような手持ち無沙汰を解消すべく、投げたばかりのファイルを再び手に取った。明日に控えた調査の内容を記した資料に目を通しつつ、自らに言い聞かせるように抑揚なく言った。

「普通に考えて無理でしょ。兄貴を見殺しにしたやつと仲良くするなんて」
「見殺しって……特級相手じゃ仕方ないし、ふたりとも死ぬよりマシだった。でもそれはだってちゃんとわかってるはずだろ」
「わかってるから大人の対応なんですよ」

 資料に目を滑らせたまま、恵は言葉を継いだ。

「最初に会ったとき、訊かれました。さんと俺、どっちが強かったかって」

 ファイルをめくる指を止めると、干乾びた唇を小さく動かす。

「生き延びるために自分より弱い仲間を見捨てた卑怯者――の頭ン中じゃ俺はそういう人間なんです。まあ事実なんで、否定はできないですけど」

 全く感情の宿らない声で紡がれていたからこそ、余計にパンダと棘は心配になった。押し黙った恵に戸惑いを含んだ視線を向けて、重い沈黙を破るようにゆっくりと尋ねる。

「本当に大丈夫なのか?」
「高菜」
「五条先生からの斡旋となれば、俺やに拒否権なんてまずありません。仕事だって割り切りますよ。そうするしかないんで」

 諦念の色が走る声音が途切れたそのとき、場違いなほど楽しげな笑い声が談話室に響いた。全員の視線がカーテンの開いた大きな窓に向く。輪郭のおぼろなその笑声はどうやら外から聞こえているらしかった。

 立ち上がった棘が窓から外の様子を確認すると、「ツナツナ」と指を差した。

 恵とパンダが腰を上げてみれば、窓からそれほど遠くない場所で、が作業着姿の中年男と肩を揺すって笑い合っている。

 見覚えのある作業着だった。あの作業着の男はおそらく、呪術高専内に設置された自販機の設置や管理を担う会社の人間だろう。その証拠に、男はCMでもよく見るメーカー名が印字された段ボール箱を載せた台車を押している。

「……またかよ」

 窓の外を覗いていた恵が毒づく。視線の先にいるは、自販機の補充に訪れた男と同じように、段ボールの載った台車を押していた。その背中には、マレーバクを模した呪骸がおんぶ紐でくくり付けられている。

 この呪術高専は驚くほど広大であるものの、敷地内での車の利用は一切禁じられている。しかし呪術高専に設置されている自販機の数は多く、全ての補充をひとりで行うには骨が折れるだろう。それが重い台車を押して何度も往復する必要があるなら、尚のことだった。

 笑顔で台車を押すは、中年男と談笑しながら女子寮へ歩を進めた。きっとこれから寮内に設置された自販機の補充に向かうのだろう。恵が呆れた様子で呟いた。

「……ほんと飽きねぇな、アイツ」
「困ってる人は放っておけないんだと。お人好しだった樹にそっくりだ」
「しゃけしゃけ」

 棘が相槌を打つと、パンダが思い返しながら言った。

「樹のヤツ、先輩だからって何かと俺たちの世話焼いてくれてさ。俺たちが仕事のたびに連絡くれたし、少しでも居心地が良くなるようにって上に掛け合うなんてこともザラだったよな」
「しゃけ。こんぶ」
「そうそう。棘と憂太は特に世話になってた」
「いくら」

 樹は呪言のせいで人から誤解を受けやすい棘、そして現在は海外へ渡って不在の乙骨憂太に特別目をかけていた。恵が憂太から聞いた話では、三人で頻繁に夜中の食堂に忍び込んでは、簡単な夜食を作ってこっそり腹を満たしていたらしい。

 棘も憂太も、樹の葬式ではずっと泣いていた。棘の口元を隠すネックウォーマーは涙を含んで色濃く変色していたし、憂太にいたっては石のように動かなくなり、涙目の真希に何度も背中を蹴られていた。

 樹の話題を避けようとするより、恵を気遣うことなく堂々と思い出話に花を咲かせるパンダや棘と一緒にいるほうが、ずっと気が楽だと恵は思った。気遣われていることが痛いほどわかるからこそ、といると息が詰まりそうだったから。

 男に続いて女子寮に入っていくを優しい目で見送ると、棘は噛みしめるような口調で言った。

「ツナマヨ」
「そうだな。きっと樹の背中を見て育ったからだろうな」

 感慨深げに同意するパンダの言葉が、人好きのする樹の穏やかな笑顔を脳裏に呼び起こす。恵はソファに戻ると、飽きもせずファイルに目を落とした。その双眸には打って変わって、ひどく真剣な色が宿っている。

 ひとつも見落としのないように。準備を怠ることなどないように。を危険に晒す可能性を、少しでも減らすために。

 ファイルと向き合う恵のその表情は、硬く強張っていた。



* * *




さんってお人好しですよね」

 恵はそう言って、背油の浮いた豚骨ラーメンから顔を上げた。

 濃厚スープが絡んだちぢれ麺を今まさに口に含もうとしていた男は、後輩から掛けられた突然の言葉に瞠目する。真横に座る恵を見つめてしばらく考えこんだあと、どこか気の抜けた笑みを浮かべた。

「そうかな?」
「はい。優しすぎるくらいだと思います。いくら五条先生に任されたからって、普通はここまでしないですよ」

 淡々と説明を加えると、男は何度も瞬きを繰り返した。その様子に恵は思わずはっとなった。この言い方ではまるでその親切が迷惑だとでも言っているようだ。なんとなく居心地が悪くなり、しかし平然を装って胸焼けしそうな豚骨ラーメンを胃へと流し込む。

 呪術高専に入学したばかりの恵が最も世話になっていたのは、恩人かつ担任の五条でもなければ、先輩である二年生の棘やパンダたちでもない、一回り近く年の離れたこの男――三級術師の樹だった。

 恵が男と出会ったのは、呪術高専に入学してすぐのことだった。男は恵に対して、呪術高専の案内や生活必需品の手配だけではなく、高専に属する術師としての仕事の流れや報告書の書き方までもを懇切丁寧に教えた。その気の回しぶりは、他人に世話を焼かれることが苦手な恵がすっかり滅入るほどだった。今こうして食べている遅めの夕食も、高専生としての初仕事を終えた恵への労いの意味を込めて、全てご馳走してくれるらしい。

 過剰なほど優しいこの男は、ラーメンをすする恵を横目に首を傾げる。

「うーん……俺は優しくないし、お人好しでもないよ。お人好しっていうのは俺の妹みたいな人間のことをいうんだ」

 人畜無害な笑顔を浮かべたまま、男は言葉を付け足した。

「俺は優しくする人間を選んでるからさ」
「いや、全員に優しいですよね?選んでるようには見えませんけど」
「選んでるよ。優しくしてるのは俺が仕事で関わる人間と、妹の学校関係者だけだ」

 迷うことなくそう告げて、水の入ったグラスを手に取る。脂っぽくなった咥内を水で流すと、男は思考を整理するようにぽつぽつと言った。

「これは俺の自論なんだけど、人間は優しくしたり優しくされたりした記憶をそう簡単には忘れられない生き物だと思う。だから俺が誰かに優しくしておけば、万が一俺に何かあったとき、その誰かが“の妹だから”ってきっと妹の助けになってくれるだろうなって思ってて」

 意外な言葉にポカンとなった恵は、箸を止めて男を見つめる。

「妹さんのために優しくしてるんですか?」
「そうだよ。アイツのために“優しくてお人好しな樹”を演じてる。四六時中、全力でね。だから本当のことを言えば、伏黒君のことも他の人間のことも至極どうでもいいんだ。俺が大事なのはだけだから」
「……さんって極度のシスコンだったんですね」
「違うよ。でも説明も面倒だからそういうことにしてるかな」

 あははと楽しそうに声を上げて笑う男に、恵は訝しげな視線を送った。

「なんで敢えて今それを俺に言うんですか。黙っておけばいいのに」

 ここで馬鹿正直に本心を暴露するメリットが何ひとつ思い浮かばない。すると男はにやっと口角を吊り上げた。

「だって伏黒君って善人が苦手だろ?」

 予想外の指摘に、恵の心臓が大きく脈打った。動悸が異様に早まるのを自覚する。いつだって緊張感のないこの男が、“ダメ術師”“役立たず”と裏で陰口を叩かれているこの男が、そんなことを口にするとは夢にも思わなくて。

 走る動揺をひた隠しながら、恵はラーメンを口に含む。

「……根拠は?」
「根拠って言われると難しいな。強いて言うなら、誰かに優しくしている俺を見るときのすっげー嫌そうな顔?」

 悪戯な笑みを浮かべたその直後、男の顔から一切の表情が消え失せていた。穏やかな空気はすっかり鳴りを潜め、何もかもを見透かすような双眸だけが、たった一度も瞬きをすることなく恵をじっと見据えている。

「君は善人が苦手だ。そして俺の本心を知って無下にできるような人間でもない。君は優しいし正義感の強い人間だから、俺の想いを踏みにじるような真似は絶対にしない。だから変に優しくするより、こう言っておくほうが君には響くだろうと思ったんだ」
「……妹さんのために?」
「そう。のために」

 最愛の妹の名を告げると、男はふっと表情を緩めた。血の通わない瞳にたちまち穏やかな色が戻ってくる。「響いただろ?」と茶目っぽく笑みを作ると、再びラーメンと向かい合う。

 恵はどっと汗をかいていた。ラーメンの熱さのせいではなかった。冷たくなった手で箸を掴むと、ちぢれ麺をすくい上げながらぼそりと言った。

「……前言撤回します。さんって性格悪いですね」
「うん、そうだよ。知らなかった?」

 茶目っ気たっぷりに笑うその仕草は、しかし計算され尽くしたもののようには見えなかった。ラーメン屋の店主に代金を支払うときも、タクシーの運転手に行き先を伝えるときも、男はその穏やかな人となりを決して崩すことはなかった。

 暴露したあとも態度を変えるようなこともなく、相変わらず恵に優しかった。赤の他人である恵を気遣ってくれた。

 樹は間違いなく善人だった。

 幸せになるべき人だと思った。不平等な現実のみが平等に与えられたこの世界で、ごく当たり前の幸せを、平等を享受できればいいと思った。呪われることもなく、溺愛する妹と他愛もない穏やかな日々を送るべきだと思った。

 ――そう、思ったのに。



* * *




「わかんねぇ……」

 ベージュのブレザーに着替えた恵は、自室のベッドで仰向けに倒れていた。その傍らには分厚いファイルが投げ出されている。隅から隅まで読み込んだそれには今回の変死体の詳細や調査内容については書かれていても、鱗の呪霊のことまでは記されていなかった。

 樹は“次こそ妹の番だ”と言っていた。しかし殺害されたのはではなく、とは無関係な花嫁や子どもだ。ただ樹自身が以外はどうでもいいと言っていた以上、その他大勢は頭数に加えていない可能性は否定できないだろう。

 恵は額に手の甲を乗せて、白い照明灯をぼんやり見つめる。最後に交わした言葉を最初から思い返しながら、蚊の鳴くような小さな声に乗せていく。

「油断した俺のせい……情報を持ち帰れ……供犠の花に代わりはいない……次こそ妹の――」

 独り言ちる声はそこで途絶えた。肋骨の奥から、ざわざわとした何かが立ち上がろうとしている。息が浅くなるのがわかった。恵の掠れた声音が、やがてその違和感を拾い上げる。

「……供犠?」

 恵の目が大きく見開かれていく。跳ねるように勢いよく身体を起こすと、蒼白した顔を手で覆いながら唇を震わせる。

「ますます意味がわかんねぇよ……」

 供犠――それはつまり“生贄”のことだ。もしもが生贄だというなら、

「……は“何に”狙われてんだ?」

 固く閉じていた蓋が、封印を破って開いたような感じがした。肋骨の内側で、とてつもなく不吉な影が蠢いている。額にうっすらと汗がにじんでいた。

 ふと視線を持ち上げれば、とっくに集合時間を過ぎていた。額に噴いた汗がたちまち冷たくなる。慌てて準備を済ませると、との待ち合わせ場所である正門前へ全力疾走した。見覚えのある背中に謝罪の言葉をかける。

悪い、待たせ……た……」

 振り向いたに思わず絶句した。オシャレに疎い恵にもわかるほど、は頭の天辺から足のつま先まで抜かりなく着飾っていた。

 は桜色に染まった唇を柔和に持ち上げた。兄によく似た穏やかな笑みが浮かぶ。

「ううん、大丈夫だよ。あと十分待たせるようなら男子寮に突撃してやろうと思ったけど」

 恵は何も言えなかった。兄を見殺しにした恵に言いたいことは山ほどあるだろう。それでもは兄に与えられた不平等を受け入れ、渦巻く感情をひた隠し、恵に普通に接してくる。まるで恵を許そうとするかのように。

 沈黙に不安を覚えたのか、の眉尻が下がった。チェック柄のスカートを指で摘まむと、ぎこちない笑みを目元に刻む。

「えっと、変かな?」

 問われた恵はかろうじて感想を絞り出した。

「……気合い入ってんな」
「“彼氏と初めてのデートっていう設定で”って、悟くんに口酸っぱく言われたから」

 そう言うと、は律義に頭を下げた。緩く巻かれた髪がふわりと揺れる。

「この間みたいに足を引っ張らないよう頑張るので、一日よろしくお願いします!」

 兄妹が揃って苦手だ。疑う余地のない善人だから。ごく当たり前の幸せを、平等を享受するべき人間だから。呆れるほどお人好しである妹のは、特にそうだろう。

 そして、善人であるこの兄妹から平等を享受する機会を取り上げたのは――恵だ。

「……行くぞ」
「うん」

 は笑顔で頷くと、恵の横に並んで今日の天気について話し始めた。「午後から雨かもしれないから折り畳み傘を持ってきたんだよ!」と自慢げに胸を張る。同級生に接するような、とても自然な感じで。恵への苦手意識など微塵も感じさせず、普通を装って。

 恵は適当に相槌を打ちながら、肋骨から溢れ出しそうな混濁した黒い感情を持て余す。

 そうやって“悪人”である伏黒恵を許そうとする、“善人”のが、苦手だ。