!入学おめでとう!」

 談話室に足を踏み入れた瞬間、乾いた破裂音が響き渡った。驚いたせいでびくっと肩が持ち上がる。状況を把握するため何度か目を瞬かせれば、役目を終えたクラッカーを握る悟くんと視線が絡んだ。

なら大丈夫だって信じてたよ。仕事も、もちろん面談もね」

 わたしが悟くんと再会したのは、夜蛾学長との面談が終わった翌日――つまり、呪術高専への入学が正式に決まった翌日だった。

 ようやく荷解きを終えて一息ついたとき、突然、部屋の扉を叩く音が聞こえたのだ。訪ねてくる相手に心当たりはない。誰だろうと不審に思いながら扉を開けば、ゆるっとした黒のスウェットに身を包んだ伏黒くんが立っていた。そのかんばせにうんざりとした表情をべったり張り付けながら。

「……えっと、伏黒くん?どうしてここに?」
「ちょっと来い」
「ここ女子寮だよ?伏黒くんは入っちゃ駄目だよ?」
「そんなこと言われなくてもわかってんだよ。が五条先生の着信に気づかねぇからだろ」
「えっ、嘘っ?!」
「嘘じゃねぇ。何のためのスマホだよ……とにかく、つべこべ言わずさっさと来い」
「……はい、本当にごめんなさい」

 というわけで男子寮の談話室にお邪魔することになり、悟くんの賑やかな歓迎を受けたのだ。ちなみに、悟くんからの数回の着信に全く気づかなかったのは、スマホを充電しながら部屋を片付けていたせいだろう。

 伏黒くんの機嫌は直っているように見えたものの、男子禁制の女子寮に白昼堂々侵入させてしまった気まずさから、隣に座るのはさすがに気が引けてしまった。悟くんと並ぶようにして、年季の入ったソファに腰を下ろすことにした。

 悟くんは上半身を丸め、笑顔でわたしの顔を覗き込んだ。

「改めて、入学おめでとう。制服と学生証は受け取った?」
「ありがとう、ちゃんと受け取ったよ。サイズもピッタリだったけど、その……」

 渡された制服を思い出しながら言い淀む。わたしは気恥ずかしさを誤魔化すように、両手をゆっくり擦り合わせた。

「巫女さんみたいな感じで……制服というより、ちょっとコスプレっぽいというか……」
に似合うだろうなぁと思って勝手にカスタムしちゃった。って言っても、歌姫が高専通ってたとき着てた制服の丸パクリなんだけどね。袴に刺繍があるかないかの違いだよ」
「それって完全に五条先生の趣味を押し付けてますよね?」
「え?いやいやいやいやそんなことないよ」

 伏黒くんの鋭い眼差しに白々しく否定を返すと、悟くんは気を取り直すように軽く咳払いをする。

「恵の書いた報告書、さっき読んだよ。昨日の一件、誰が読んでもわかりやすくまとめられていたと思う。あれなら伊地知も上への報告が楽だろう。ま、そこは評価してあげるけど、肝心なところが丸ごと抜けてた。あれじゃ赤点だよ」

 指摘された伏黒くんは眉をひそめた。

「肝心なところですか?」
「そう。ド素人のには無理だとしても、恵は気づかないとね。術師として先輩なんだしさ」
「……ヒント」
「ん?」
「……ヒントください」
「今回祓った準一級呪霊に関して何か気づいたことは?」

 底意地の悪い笑みを浮かべた悟くんが質問を投げかける。険しい顔をした伏黒くんが思案を始めて数秒後、焦れた様子の悟くんが形のいい唇を開いた。

「はーい時間切れーっ!恵もまだまだだね。戦闘中にぼーっとしてるようじゃ、いつまで経っても老若男女にモッテモテなナイスガイ五条悟にはなれないよ」
「別にアンタになりたいとは1ミリも思ってませんけど、気づいたことってどういう意味ですか?あの呪霊には一体何があるんですか?」

 隠し切れない苛立ちを含んだ問いに、悟くんは軽薄な笑みを浮かべてみせた。

「そいつはサムシングブルーを置いた犯人じゃない」

 告げられた事実は談話室に重い沈黙をもたらした。やがて、瞬きすることすら忘れた様子で、伏黒くんが低く呻く。

「……俺たちが祓ったのは、事件とは全く無関係な呪いだった?」

 悟くんは鷹揚に頷くと、何がそんなに楽しいのか、愉快げに肩を揺すって長い足を組んだ。

「そういうこと。サムシングブルーなんて複雑な人間の文化を理解できるほど、知能が高い呪霊に見えた?」
「……いいえ」
「僕はね、恵にもっと観察眼を養ってほしいと思ってるんだよ。前もって得た呪霊の特徴と出現した呪霊の特徴を照らし合わせて、本当にその呪霊が祓除対象なのかを確かめる――それくらいは息をするように出来てもらわないと困る。でないと簡単に殺されるよ?樹のときみたいにさ」

 項垂れた伏黒くんはうんともすんとも言わなかった。悪びれもなく彼の痛いところを容赦なく抉る悟くんは本当に性格が悪いと思いながらも、わたしは唇を横一文字に結んで悟くんの滑らかな声音に耳を傾け続けた。

「あとはそうだな……伊地知から話を聞いた時点で疑問を持ってほしかったかな。首があるなら花嫁の身体はどこにあるのか、恵は気にならなかったわけ?」
「……残っていたのは首だけじゃなかったんですか?」
「たしかに、呪いに遭遇して普通に死ねたら御の字。ぐちゃぐちゃにされても死体が見つかればまだマシだよ。でもその先入観に囚われすぎ。もっと柔軟に考えようよ」

 挑発的に唇を吊り上げると、悟くんはわたしに問いを投げた。

、花嫁に相応しい場所ってどこだと思う?」
「……チャペル?」
「うん、そうだね。花嫁の遺体はチャペル――今回の現場から最も近い結婚式場のチャペルに横たえられていた。決まって毎週金曜日、色鮮やかな鱗に覆われた状態でね」

 心臓が大きく脈打つ。心拍数が急上昇し、手のひらにうっすらと汗が滲んだ。ひどい息苦しさに襲われ、混濁した感情が瞬く間に渦を成す。わたしは掠れた声を懸命に絞り出した。

「……悟くん、最初から知ってたの?」
「もちろん。だからこそこの案件をの初仕事に選んだんだ。相手がどういう奴なのかを知るには良い機会かなと思ってさ」
「もしわたしたちが、鱗の呪霊と出会っていたら……」
「いや、それはないよ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「……今回の現場が屋内だから、ですよね?」

 淡々とした響きが差し込まれ、わたしは前方に視線を送る。見れば、伏黒くんの膝の上に置かれた両手は固い拳を作っていた。その顔には一切の表情が浮かんでいない。

 言葉の意味を汲み取れなかったわたしは、小さな声でゆっくりと尋ねた。

「屋内だからってどういうこと?」
「鱗の呪霊は屋内には現れない。だからあの部屋に棲む呪いとは無関係だと踏んで、五条先生は俺たちを指名したんだ」
「あれ、そこには辿り着いてんの?上出来だよ」

 満足げに笑った悟くんは事務的に説明を続ける。

「花嫁を殺したのも、チャペルに置き去りにしたのも、電柱にサムシングブルーを置いたのも、鱗の呪霊で間違いない。ただ遺体から首を切り離して部屋に持ち帰ったのは、恵たちが祓った呪いだろうけどね」
「でもそれじゃ電柱や道路に残った残穢と矛盾が――」

 しかし伏黒くんの台詞は途中で途切れた。そしてすぐに奥歯を軋らせ、憎々しげに唇を歪める。

「そういうことかよ」

 こぼれた呟きに悟くんが深く頷いた。

「他の呪霊を経由するって厄介でしょ?」
「こんなのわかるわけないですよ……」
「だから観察眼を養えって言ってるんだ。もっと相手をよく見ること。祓うことも大切だけど、それじゃ大事なことを見落とすよ」

 ふたりが話している間、わたしは隙間なく閉じた両膝にずっと目を落としていた。「、どうかした?」と悟くんに顔を覗き込まれ、わたしの肩は面白いように跳ねた。

「じゃあ、また誰かが殺されるってこと?」
「今日は金曜だけど、チャペルに遺体は見つからなかった。サムシングブルーもね。きっとたちがあの呪いを祓ったことが影響してるんだろう。の頑張りは無駄じゃなかったんだよ」
「……よかった」
「何かあったらすぐに教えるよ。心配しないで」

 悟くんの優しい声音に頷いていると、伏黒くんがうんざりした様子で言った。

「ここまで人間の文化を理解するほど知性があるんですね」
「言っただろ。一筋縄じゃいかない相手だって」

 当然のように言うと、整った鼻先がこちらに向けられる。

「だからには今日から早速修行をしてもらうよ。四六時中ね」

 いっそ毒々しい笑みを浮かべながら、悟くんはマレーバクのぬいぐるみを差し出した。

 見覚えのある色や形ではあるものの、その大きさは二回りほど小さくなっている。抱きしめやすいサイズになったそれを受け取ると、どういうわけか猛烈な眠気に襲われた。漏れそうになる欠伸を噛み殺しながら、悟くんの説明に耳を傾ける。

「それは学長が作った呪骸だ。内側に呪いを宿した人形って言えばわかりやすいかな。前のやつは昨日の戦闘でボロボロになったみたいだし、持ち運びしやすいように小型化してもらったんだ。こいつでしばらく修行するよ」
「どうやって?」
「この一週間と何も変わらない。片時も離れることなく、ただその呪骸とともに生活するだけだ。ちなみに目標はこいつを抱えたままでも眠くならないこと」

 不敵な笑みを浮かべると、悟くんはわたしの頭を優しく叩いた。

「ってことで、しばらくは普段通りの生活をしてよ。この呪術高専に慣れながらね。ならきっと、夏休みに入る前には眠気とは無縁になってるはずだよ」

 わたしは頷きながら、大きな欠伸をひとつ落とす。少しでも気を抜くとたちまち眠りの世界へ誘われてしまいそうだ。暴力的な眠気と戦いながら、重い目蓋を懸命にこじ開ける。

 あっさりと説明を終えた悟くんに、伏黒くんが抗議の声を上げた。

「五条先生、修行の意味やの術式については――」
「まだ教えるつもりはないよ。土台がきちんと整ってからだ。それに何もわからない子にいきなりたくさん教えても混乱するだけだろ」
「教えないほうが危険です。昨日みたいなことがないとも言い切れません」
「そうかもね。この呪術高専で術式を使わず過ごせるとは僕も思ってないよ。でも事は急くべきじゃないし、だからこそ恵には話しておいたんだ。の正しい復讐のためにね」

 そこで言葉を切ってすぐ、「ああ、でも」と悟くんが大事なことでも思い出したように続ける。

「樹に“危険だから絶対に使うな”って言われたんだっけ?その理由だけ教えてあげるよ」

 口端に勿体ぶった媚笑が浮かぶ。嫌な予感すらするその笑みから一寸も視線を動かさず、わたしはバクのぬいぐるみをきつく抱きしめた。溜まった唾を喉奥に押し込めて、悟くんの言葉を真剣な面持ちで待つ。

 悟くんはわたしの耳元にそっと唇を寄せると、まるで手品のタネでも明かすかのように、悪戯っぽく囁いてみせた。

「術式の発動条件がキスだから」

 一瞬ポカンとしたものの、込み上げる羞恥に声を詰まらせる。熱くなった顔を隠すように、ふわふわのぬいぐるみに鼻先を深く押し付けた。悟くんは肩を揺らして笑っている。きっとわたしの反応を楽しみたかっただけなのだろう。

 まんまと罠に嵌められた悔しさに呻いていると、悟くんが笑みをたっぷりと含ませた声でさも当然のように告げる。

「だってこんなに可愛い女の子がどこの馬の骨とも分からない人間と節操なくキスしまくるんだぜ?どう考えても危ないよ。いつか絶対勘違いする奴だって出てくるじゃん。恵とか」
「は?」

 何の前触れもなく話の矛先を向けられた伏黒くんは、心外だとでも言うふうにたちまち顔を歪めた。

「勘違いなんてしません」
「えー?ほんとにー?」
「絶対しません、あり得ません」
「なんかそこまで否定すると逆にフラグみたいじゃない?」
「へし折るんで大丈夫です」

 一切の感情が死んだ冷たい言葉にけらけらと笑うと、悟くんはようやく腰を持ち上げた。身体をほぐすように軽く伸びをしながら、羞恥に項垂れるわたしに鼻先を向ける。

「あまりにも眠いようなら我慢せず寝ること。でも、その呪骸は絶対に手放しちゃ駄目だからね」

 そう言い残し、悟くんは談話室を後にした。



* * *




「結構な量になったねぇ」

 集めた落ち葉が詰まった大量のゴミ袋を見つめて、清掃員の佐藤さんが苦笑をこぼした。ちり取りが飲み込んだ落ち葉をゴミ袋に流し込みつつ。わたしは佐藤さんに視線を送る。

「あとはわたしが捨てておきますね」
「いいのかい?」
「はい、任せてください」
「じゃあ、お願いしようかな。ちゃん、いつもありがとう」

 次の清掃場所に向かった佐藤さんを笑顔で見送ると、中身が溢れないよう注意しながらゴミ袋の口をきつく閉じる。中身はほとんど落ち葉とはいえ、ぱんぱんに膨張したゴミ袋はずっしりと重い。

 ゴミ袋が並んだ正門近くは、呪術高専の敷地内でも落ち葉が目に付きやすい場所のひとつだった。緑に溢れる呪術高専では落ち葉など珍しいものではない。

 しかしもう五月だというのに落ち葉が減らないのは、きっと生えた雑草に埋もれるように落ち葉が隠れているからに違いない――この際だからと木の根元なども徹底的に掃除してみれば、ゴミ袋はいつの間にか六つになっていた。どうりで緑の濃くなる時期になっても、落ち葉が減らないわけである。

 とはいえ、これでしばらくは落ち葉に悩まされることもないだろう。生長を続ける草木から大切な栄養素を奪っただけのような気がしなくもないけれど、そこは致し方あるまい。

 そんなことを考えていると、

「……ここにいたのかよ」

 ふいに息切れした声が耳を打った。振り向けば、肩で息をする伏黒くんと目が合った。呼吸を整えるように上体を折り曲げ、熱で掠れてしまった声音で告げる。

「五条先生が呼んでる。さっさと来い」
「わざわざ探してくれたの?ごめんなさい。電話してくれればよかったのに」

 文明の利器を頼ることを提案すれば、彼は気まずそうに目を逸らした。

「……いや、連絡先知らねぇし」
「あー……そうだったね……」

 居た堪れない空気が流れ、墓穴を掘ったことを激しく後悔する。伏黒くんが相手でなければ、きっと連絡先を交換する流れになっただろう。伏黒くんだって、わたしが相手でなければ連絡先の交換を提案したに違いない。うっかりしたなぁと深く反省する。

 互いにとって相手が悪かったのだと言い聞かせ、適当な質問でお茶を濁すことにした。

「急ぎの用?これ焼却炉に運び終わってからでもいい?」
「……また頼まれたのか」
「そんな感じ」
「次から次へと……断ればいいだろ」

 その面倒臭そうな物言いを視線で抑えて、わたしはかぶりを振る。

「困ってる人を見て見ぬふりはできないよ」

 こちらを見据える白群の瞳に明確な嫌悪の色が走ったかと思えば、その双眸はすぐに乾いた地面に落ちた。きっとわたしを偽善者だとでも罵りたいのだろう。

 彼の眉間に刻まれた深い皺から目を逸らし、おんぶ紐で固定したバクのぬいぐるみをしっかりと背負い直す。そして両手でゴミ袋を掴むと、柔らかな声を意識して問いかける。

「場所は男子寮の談話室?」
「……そうだ」
「先に行って待っててくれる?」

 ゴミ袋は全部で六つ。ここから焼却炉まで三往復は大変だろうけれど、修行だと思えばなんてことはないはずだ。真希先輩への筋トレの報告にもなるだろう。

 気合いを入れて歩き出そうとしたとき、無表情の伏黒くんがむんずとゴミ袋を両手で四つ掴み上げた。足早に焼却炉に向かう背中を、わたしは慌てて引き止める。

「伏黒くん、いいよ。大丈夫だよ。わたしが引き受けたことだから――」
「待ってる時間が惜しい」

 有無を言わさぬ響きで鋭く遮られては、もうどうしようもなかった。わたしはゴミ袋を両手に、遠ざかっていく黒い背中を急いで追いかけた。



* * *




「恵とに任務を与えます」

 談話室のソファで踏ん反り返る悟くんが、ローテーブルの上に置いた二枚のチケットを指差した。その一枚を伏黒くんに手渡すと、残ったもう一枚に目を落とす。わたしは小さく首を傾げた。

「……遊園地のチケット?」
「たしかここって一昨日アトラクションの整備不良が見つかったところですよね?ゴールデンウィークなのに突然休園になって、客が大騒ぎしたとか何とかって……この遊園地がどうかしたんですか?」

 伏黒くんの問いかけに、悟くんはわざとらしく肩をすくめた。

「それは表向きの理由だよ」
「……呪いによる被害が出たってことですか」
「そう。一昨日、開演前の遊園地の広場で変死体が見つかった。鮮やかな鱗に覆われた子どもの死体がね」

 付け足されたその言葉がわたしから平常心を奪おうとする。視界から明度が失われていくようだった。わたしは両手を握りしめて、悟くんをまっすぐに見据える。明確な指示を待つことだけが平静さを取り戻す唯一の術のような気がして。

「ふたりに詳しい調査を頼みたい。ってことで、はい」

 足元に置いていた大きな白い紙袋を、わたしたちにひとつずつ手渡す。中身を取り出した伏黒くんが怪訝な顔をした。

「……スーツ?いや、まさかこれ」

 紙袋に手を突っ込めば、ベージュのジャケットとチェック柄のスカートが出てきた。胸ポケットに校章を模したエンブレムが付いているこのデザインは、もしや――

 嫌な予感が背中を撫で付けた瞬間、悟くんは悪魔のような嗤笑を浮かべた。

「怪しまれるとアレだし、初々しい高校生カップルのフリして行ってね。頭にカチューシャ着けてさ」
「はあっ?!」
「えぇっ?!」

 わたしたちは声を揃えて叫ぶと、磁石が引き合うように顔を見合わせた。伏黒くんが深く俯いて、「勘弁してくれ……」と額に手を当てる。それはこっちの台詞だと思いながら、わたしはきつく下唇を噛んだ。あまりのことに文句のひとつも言えず、悪夢のような提案が夢であることを強く願う他なかった。