「パンダ先輩、唐揚げがあと二食分で終わります!」
「もうすぐ揚がる!あと一分待ってくれ!」
「了解です!」

 パンダ先輩の張り詰めた声音に笑顔で頷くと、わたしは欠伸を噛み殺しながら黄ばんだ壁を見上げる。

 丸い壁時計の針が正午を通り過ぎて数分。食堂の調理場は喧騒に包まれていた。

 巨大な天ぷら鍋からは、激しい雨音にも似た騒がしい音が絶え間なく溢れている。二足歩行するジャイアントパンダそのものにしか見えないパンダ先輩は、まるで人間のような両手を使って、目に見えぬほどの凄まじい速さでキャベツの千切りをしている。そのつぶらな黒い瞳は時おり天ぷら鍋をなぞり、衣を塗した鶏肉が黄金色に変わっていくさまをしっかりと見届けていた。

 わたしたちは今、呪術高専唯一の食堂が最も賑わう時間帯の中にいる。正午を知らせるチャイムの音を合図に、呪術を学ぶわたしたち学生だけではなく、ここで働くほとんど全ての職員が脇目も振らず食堂に集まってくるためだ。

 食堂の空席はほとんどなくなり、職員たちの声で一気に騒がしくなる。いつもは静かな食堂も、平日のお昼時だけは活気づいた賑わいを見せていた。寮生活を送る学生だけが利用する朝と夕方の閑散ぶりからは、全く想像がつかないほどに。

 呪術高専から最寄りのコンビニまで徒歩十五分という立地の悪さも理由のひとつだろう。しかし食堂が人気を集める最たる理由は、その食事代が全て無料だからだ。

 食券システムはなく、提供されるのは日替わりメニュー1種類と、おにぎりや菓子パンといった出来合いの軽食のみ。とはいえそれら全てが無料ともなれば、ここで食事を済ませようとする人間がほとんどだった。

 この食堂を主に利用するのは寮生活を送るわたしたち学生ではあるものの、呪術高専に通う生徒の数は両手で事足りるほど少ない。もともと呪いを視認できる人間の数自体が少なく、またその中から呪術師を目指そうとする人間はもっと少ないからだろう。

 たった数人の生徒のために食堂を開放するのは勿体ないということで、職員にも気軽に利用してもらおうと昼食を無料で提供することにしているらしい。伊地知さんによれば、賞味期限間近の食材を破格の安さで仕入れることで、夢のような“全職員昼食無料”を実現しているそうだ。

 銀色のボウルに山盛りになっている細いキャベツを、白い大きな皿の上に乗せる。また欠伸が漏れたけれど、白いマスクのお陰で誰にも見られていないだろう。何日も続けて夜更かしをしたような猛烈な眠気と戦いながら、まだ熱を持った唐揚げをキャベツに沿うように五つ盛りつけていく。

 そのとき、わたしの視界にうっすらと影が落ちた。また次のお客さんが来たのだ。この皿は前のお客さんのもので、わたしの斜め前で盛り付けをじっと待ってくれている。早く盛り付けなければ、と焦りが滲んだ。

 カウンター越しに「今日のメニューって……」と呟く声がした。盛り付け終わった皿を片手に顔を上げ、先ほどから何度も口にした言葉を元気よく再生する。

「今日は特製唐揚げ定食です!」
「……あ?」

 どこか疲れた顔をした伏黒くんと目が合った。早朝任務から帰ってきた彼はプラスチックのトレーを両手に持ったまま、違和感の源を見出そうとするようにわたしを数秒注視した。そして。

「……だよな?」
「うん、そうだよ。すごいね、よくわかったね」

 見事的中させた伏黒くんに、笑顔で頷いてみせる。

 調理場に立つため、わたしの全身は白に覆われている。サイズの大きい調理服は体型を完全に包み隠しているし、大きなマスクと帽子で顔もほとんど窺い知ることができない。鏡の前に立ったとき、わたしですら自分が誰だかわからなかったというのに。

「いや声でわかるだろ。ってか、お前そこで何してんだ」
「配膳のお手伝いだよ」
「は?なんで」
「調理員の宮田さんが体調不良でお休みなの。そのうえ鈴木さんのお子さんが急に発熱しちゃったらしくて……ほら、今日ってもともと小林さんが旅行でお休みだったでしょ?伊地知さんから人が足りなくて大変だって聞いて……」

 言うと、調理場の奥で鶏肉を一口大に切っている伊地知さんに視線を送る。猫背になって無心で鶏肉の山を作り、黙々と衣を塗している伊地知さんの瞳は真剣そのものだ。話しかけてはいけない気がして、正午を過ぎてからはパンダ先輩としか会話していない。

 伏黒くんはわたしの目線を追ったあと、天ぷら鍋から唐揚げを取り出すパンダ先輩に視線を移動させた。

「パンダ先輩もか?」
「うん、甘えちゃった」
「そう、甘えられちゃった」

 茶目っ気たっぷりに言いながら、パンダ先輩が大量の唐揚げとキャベツをわたしの隣に置く。天ぷら鍋の前に戻っていく毛むくじゃらの背中に、伏黒くんが気遣うように訊いた。

「良かったんですか?」
「ぜーんぜん問題ない。今日は非番で暇だからな。むしろ結構楽しかったりして」

 パンダ先輩の弾んだ声音にわたしの頬が綻んだとき、

ちゃーん、まだかーい?」

と、左斜め前方から穏やかな声がした。呪術高専の清掃を担当する白髪頭の佐藤さんだった。

「あ、ごめんなさい!」

 はっと我に返ると、カウンターに置かれたトレーの上に、持っていた皿を乗せる。ご飯と味噌汁を急いで用意して、それらを漬物小鉢とともに空いたスペースに並べた。

「本当にごめんなさい。大変お待たせしました」
「こっちこそ急かしてごめんね。ありがとう。そうだちゃん、今日もお願いしていいかな?」
「はい、もちろんです!」

 元気よく返事をすると、「……お願い?」と伏黒くんが剣呑な目つきを寄越した。その鋭い視線に気づいたのか、佐藤さんがにっこりと笑んでみせる。

「何も危ないことじゃないよ。ここの掃除を手伝ってもらっていてね。老いた身体では限界があるから助かってるんだ」

 なんだか面映ゆい気分になり、わたしは顔の前でぶんぶんと両手を振った。

「わたしも使っている場所ですし、誰にでも出来ることですから……」
「いやいや、本当に助かってるよ。じゃあ放課後、よろしくね」
「こちらこそお願いします」

 佐藤さんに会釈をすると、伏黒くんに視線を滑らせた――つもりだったのに、わたしの目の前に立っているのは何故か狗巻先輩だった。わたしの隣で山盛りになっている唐揚げを、子どものようなキラキラした目で見つめている。いつもの眠そうな眼差しとは大違いだ。もしかすると、唐揚げが好物なのかもしれない。

 伏黒くんはといえば、後からやって来た真希先輩にも押しのけられ、カウンターの端まで追いやられている。きっと先輩たちには逆らえなかったのだろう。

 カウンターの上にトレーを置くと、狗巻先輩が目元に笑みを刻んだ。

「こんぶ」
「狗巻先輩、いらっしゃいませ。順番抜かしちゃ駄目ですよ?」
「おかか」

 うんざりした様子で伏黒くんを指差して、わざとらしくかぶりを振る。“遅い、待っていられない”と言いたいのだろう。込み上げる笑みを噛み殺しつつ揚げたての唐揚げを提供すると、しゃもじを片手に問いかける。

「ご飯は大盛りでいいですか?」
「しゃけしゃけ。ツナマヨ」

 左手の人差し指と中指をピンと立てた狗巻先輩は、真面目くさった口振りで言った。とうとう堪えきれなくなり、軽く噴き出しながらお茶椀を置く。眩いばかりの薄茶色の視線に導かれるように、菜箸で摘まんだ大きな唐揚げをそうっと皿に追加した。

「もう、仕方ないですね。ご要望通りふたつ多くしておきます。本当は多くてもひとつだけなので、内緒ですよ?」
「いくら」
「残さないでくださいね」
「しゃけっ」

 味噌汁と小鉢を乗せ終えると、「美味そうに出来てるな」と歯を見せて笑う真希先輩に目を移した。

「真希先輩はどうしますか?」
「全部大盛りで」
「了解です!」
「昼飯は食べたのか?」
「はい。味見でたくさん食べたのでお腹いっぱいです」
「なら良かったよ。今日も午後から私と筋トレだし、腹ごしらえは万全にしておいてもらわねぇとな。のために特別メニューを考えてきてやったんだ、覚悟しとけよ」
「うっ……あの、わたしまだ昨日の筋肉痛が……」
「返事は?」

 地鳴りにも似た有無を言わさぬ響きに、わたしは肩をすくめる。真希先輩のトレーに皿が揃っていることを確認しながら、小さく頭を下げた。

「はい……よろしくお願いします……」
「もうしばらく頑張れよ。パンダもな」
「おう、任せとけ!」

 調理場から頼もしい声が返ってくる。悪戯な笑みを残した真希先輩に手を振っていると、険しい顔の伏黒くんがやっとわたしの前に戻ってきた。順番を抜かされ続けた彼はきっとお腹がペコペコだろう。これ以上待たせることのないよう、白い皿に手早くキャベツと唐揚げを盛り付けていく。

「伏黒くんもご飯大盛りでいい?」
「……ああ」
「唐揚げは?」
「……じゃあ、ひとつ追加」
「はーい」

 とびきり大きな唐揚げを皿に乗せていると、伏黒くんが何気なく尋ねた。

「ちゃんと修行はしてんのか?」
「今も修行中だよ。ほら」

 わたしは腰をひねって、やけに膨らんだ背中を見せる。白い調理服の下では、マレーバクのぬいぐるみが背中にがっちりと固定されている。跳ねた油を付着させないためだった。

「事務の村内さんがおんぶ紐を貸してくれたんだ。もう使わないからって」

 自慢するように言えば、彼は片眉を僅かに持ち上げた。

「馴染むの早くないか?」
「そうかな?」
「ここに来てまだ二週間も経ってないだろ」

 炊き立ての白米をよそう手が止まる。白い照明を浴びて艶めくご飯に目を落とし、噛みしめるように告げた。

「お兄ちゃんのお陰だよ」
「……さんの?」
「お兄ちゃん、高専のみんなと仲良くしてたみたい。だからみんなが妹のわたしに声を掛けてくれて、お兄ちゃんとの思い出話をたくさんしてくれて」

 の妹が入学したことを聞き付けると、共に仕事をした呪術師や補助監督だけではなく、呪術高専に関わるみんながお兄ちゃんとの思い出話をしてくれたのだ。お兄ちゃんの死を悼むと同時に、拠り所を失ったわたしを気にかけてくれた。笑顔で話しかけてくれた。だからこそ、わたしは見ず知らずの場所でも自然に馴染むことができたのだろう。

 多くの思い出話を耳の奥で反芻しながら、小さな笑みを落とす。

「わたし、まだお兄ちゃんに助けられてる」

 大盛りのお茶椀と味噌汁、そして小鉢を並べる。トレーを掴む伏黒くんの手には妙に力が入っているように見えた。余計なことを言ってしまったような気がして、落ちた白群の瞳を見つめながら溌溂と告げた。

「はいどうぞ!よく噛んで食べてくださいね!」

 伏黒くんがはっと顔を持ち上げた。「……ああ」と小さく相槌を打った彼を笑顔で見送ると、すぐさま順番を待つ次のお客さんへ目を向ける。

 ――どうしよう、すごく眠い……。

 強烈な眠気がぶり返し、込み上げた欠伸を奥歯で噛み殺す。きっと伏黒くんとの会話で張り詰めていたものが、一気に解けてしまったからだろう。

 伏黒くんはきっと無意識だろうけれど、わたしを映す白群の瞳には時おり罪悪感が滲み出す。だからこれ以上彼が変な気を回さないよう“普通に”会話しただけなのに、なんだかどっと疲れてしまった。今すぐ布団に入って惰眠を貪りたいものの、昼食を求める長い列はまだしばらく途切れそうにない。

 思考を鈍らせる眠気を拭い去りたくて、わたしは元気いっぱいに声を張り上げた。

「大変お待たせしました!今日のメニューは特製唐揚げ定食です!」