漆黒の影から這い出た白絹のように滑らかな躯体が、その瞬間、わたしの猛烈な睡魔をことごとく吹き飛ばした。眠気をたっぷり含んだ重い目蓋が、いとも容易く持ち上がる。わたしは目を見開いて、その巨大な生き物を確かに捉えた。

 白い大蛇がそこにいた。

 伏黒くんの影から伸びるように現れた白蛇は、人間を頭からひと呑みしそうな大顎をかっと開いた。赤黒い洞窟からせり出した鋭い輝きが、瞬く間に呪いの胴体に深々と潜り込む。ぐしゃりと肉の陥没する湿った音が微かに鼓膜を叩いた。

 白蛇の大顎がみるみる朱に染まっていく。白が紅に変わるその様子を見届けながら、わたしはお兄ちゃんの友達である“円”のことを思い出していた。

 大蛇の円が初めて家にやって来たのは、お父さんとお母さんがいなくなった頃だった。働くために呪術高専への転校を決めたお兄ちゃんが、留守番の間わたしが寂しくないようにと連れて来たのが円だった。

「蛇は終わりのない円環を表すんだ。だから名前はマドカ。円周率の“円”で、マドカだよ」

 お兄ちゃんはそう言って、初めて見る大蛇に怯えるわたしの首に容赦なく円を巻き付けた。恐怖よりもその巨躯に相応しい重みに参ってしまうと、お兄ちゃんは声を上げて笑っていた。

 円の艶やかな身体は絵の具でべったりと塗り潰したような黒一色で、どうやらニシキヘビの仲間らしく、体長は三メートルを優に超えていた。伏黒くんの喚び出した白蛇に比べて、円の顔はより平べったく、どこか間の抜けたようなひどく愛嬌のある顔をしていた。一見するとまるで鼻孔のような、赤外線を察知するためのピット器官が上唇に行儀よく並んでいたせいだろう。

 お兄ちゃんが仕事で家にいないとき、円はどこからともなく現れて、ずっとそばにいてくれた。

 とても人懐っこい性格だったけれど、空腹になると鶏肉を何キロも食べるから、餌の買い出しはいつも大変だった。脱皮の手伝いをしないと機嫌がうんと悪くなり、わたしに巻き付いて離れないことなど日常茶飯事だった。

 そういえば、と思う。

 お兄ちゃんが死んだあと、円は一体どこへ行ったのだろう。



* * *




「本当にごめんなさい」
「だからもういいって言ってんだろ」

 何度目かの謝罪に、伏黒くんはうんざりとした様子だった。けれど、わたしには謝るより他に何を言えばいいのかわからなくて、さっきよりも小さな声で「ごめんなさい」をぼそぼそと口にする。

 相槌の代わりに落ちたのは、ひどく短いため息だった。彼の物憂げな背中から苛立ちが僅かに立ちのぼる。

 居心地の悪い沈黙が流れ、前を進む黒い後頭部から目を逸らした。背負ったバックパックが急に重く感じた。骨壺をきつく抱きしめて、細い坂道を黙々と歩く。

 襲い来る獰猛な睡魔に抗えず、あっさりと意識を手放したわたしは、伏黒くんに揺さぶられて目を覚ました。

 辺りの景色はいつの間にか、閑静な住宅街から草木が覆い茂る長閑な郊外へと変貌を遂げていた。眠気を引きずりながらも促されるまま車から降り、この長い坂道の先にあるという呪術高専を目指してひたすら歩いている。

 伏黒くんは大容量のボストンバッグを涼しい顔で運んでいる。「自分の荷物くらい自分で持つよ」と言い張ったのに、彼は頑として首を縦に振らなかった。「ひとりで持てる量じゃねぇだろ」と言って。

 まだ昼日中だというのに周囲はいやに静かだった。聞こえるのはわたしたちの足音くらいだろう。舗装の行き届いていない坂道を歩いているだけで、得も言われぬ不安感に襲われる。バックパックを背負い直すと、重い沈黙を破るように口火を切った。

「伏黒くん」
「……なんだ」
「その……初めてだった?」
「初めて?」
「えっと、あの……」

 しかしその先を声に乗せるのはばつが悪く、すぐに唇を横一文字に結ぶ。

 ずっと気にしていたことだった。気味の悪い四つん這いの呪いを退けるためにはああする他なかった、致し方なかったとはいえ、間違いなく不快な思いをさせただろう。もしキスが初めてだったというなら、わたしは取り返しのつかないことをしてしまったことになる。謝って済むような問題ではない。

 罪悪感から目を伏せていると、前方から「違う」と短い返答が返ってきた。陰鬱な気持ちが少しだけ和らいだものの、身勝手な行動をきちんと詫びたくて、わたしは再び謝罪を口にした。

「本当にごめんなさい」
「謝るのはもういい。それで?」
「……それで?」

 促された意味がわからずオウム返しにすると、伏黒くんは足を止めて振り返った。眉根に深い皺を刻んだまま、少量の苛立ちを混ぜた声音で言う。

「ちゃんと説明しろ」
「あ、うん」

 わたしはすぐさま頷き、そして笑顔で告げた。

「強くなれます!」
「……は?」

 豆鉄砲をくった鳩のように、伏黒くんがポカンとした。どうやらうまく伝わらなかったらしい。わたしは白群の瞳を見つめながら、ゆっくりと言い聞かせる。

「だからね、強くなれるんだよ」
「いや、それはわかってる」
「うん」

 相槌を打つと、伏黒くんの顔がたちまち引きつった。

「……おい待て。それだけか?」
「うん。そうだけど?」

 すると彼はわたしから目を逸らし、頭痛でも堪えるようにこめかみを指で押さえた。口角の筋肉が小さく痙攣をしている。わたしが小さく首を傾げると、まるで地鳴りのような声が続いた。

「……どんな風に」
「どんな?」
「呪力過剰投与、あれはどういう意味だ」
「わかんない。ジュリョクって何のこと?」
「……だったら、あの妙な声は?」
「わたしの声じゃないよ」

 澄んだ白群に沸騰するような怒りが滲んだのも一瞬のことで、伏黒くんは静かに息を吐き出した。呼吸に合わせてゆっくりと肩が落ちていく。

 再びわたしを見据えた彼の顔は無表情そのもので、読み取れるような感情は何ひとつ浮かんでいなかった。

「……が何も知らないってことはわかった」
「強くなれるってことは知ってるよ?」
「それは何も知らないのと一緒だろ」
「全然違うよ」
「なんでそこで意地になるんだよ……」

 伏黒くんの無表情があっという間に崩れ、呆れ返った様子で視線を持ち上げた。

さんはその術式のことを知ってたんだよな?」
「うん。でも、お兄ちゃんは“危険だから絶対に使うな”って」
「……本当に使ってよかったのか」
「ピンチだったから仕方ないと思う」
「笑顔で開き直るところじゃねぇだろ……」

 小さく肩をすくめると、どこか疲れの滲んだ顔をこちらに向ける。

「その術式、誰にでも使えたりするのか?」
「多分。条件さえ満たせば」
「……なるほどな」

 呟いた伏黒くんの双眸が何かを探るように細くなる。何もかも見透かそうとする視線にわたしの身体がたちまち張り詰める。彼はすぐに薄い唇を割った。

「お前、さんに門限を決められてただろ。もしくはさんの許可なしでは自由に外出できなかった。違うか?」

 それは質問というより確認だった。わたしは声を震わせた。

「……どうして」
「そしてのスマホはさんに位置情報がわかるよう設定されている」
「どうして知ってるの?」
「全部俺の推論だ。そうなんだな?」

 問い詰めるような口振りに思わず目を背けた。白い骨壺を見つめて小さく首肯する。

「……うん。五分置きに、お兄ちゃんに位置情報が送られる。スマホを家に忘れると怒られるし、学校まで安否確認の連絡が来た」
「それならほぼ確定だな」
「どういう意味?」

 弾かれたように顔を上げれば、苦い表情を浮かべた伏黒くんが硬い声音で告げる。

さんはその術式を悪用されることを危惧した。だからお前に何も教えなかったし、関わらせないようにしたんだ」
「悪用?」
「どの程度まで強化できるのかは知らないが、その術式さえあれば弱い術師も格段に強くなれる。才能や努力を度外視して。悪用を考える輩が現れても何らおかしくない」

 彼はそこで一旦言葉を切って、わたしをまっすぐに見据える。なんとなく嫌な予感がした。身構える間もなく、真実味を帯びた言葉が淡々と放たれる。

「そしてその術式は、さんを襲った鱗の呪霊も狙っている」

 瞠目するわたしをよそに、伏黒くんは説明を加えた。

「単なる悪用を恐れただけにしては監視が過剰すぎる。その術式を理由に命を狙われていたと考えるほうがよっぽど自然だ。さんはずっと鱗の呪霊を警戒していたんだろう。だから、の家族が順番に殺されたというより――」
「……最初から、わたしが目的だった?」
「おそらくな」

 険しい顔で頷くと、間断なく言葉を続ける。

「だとしたら、五条先生が呪術高専に転入させた理由も納得できる。術師への勧誘が目的ではなく、の保護が本当の目的だろうな。都合のいいことに高専は全寮制だ。高専に悪用を考えそうな輩が全くいないわけじゃないが、それでも特級呪霊に狙われるよりはマシだからな。自分の目の届くところに置いておけば安心だとでも考えたんだろ……五条先生らしい」

 わたしは語り続ける伏黒くんの顔をまじまじと見つめた。視線に気づくことなく、彼はなお言葉を継ぐ。

「過度な外出の制限……屋内は安全だった可能性が高い。さんはすでに何らかの規則性に気づいていたはずだ。そう考えると――って、どうかしたのか」
「伏黒くんってすごいね。わたし、そんなこと一度も考えたことなかった」

 素直な感想を口にすると、たちまち伏黒くんが嫌悪感を丸出しにした。

「そうやってずっと過保護な兄貴の言いなりで生きてきたんだな」

 鋭利な視線に串刺しにされ、わたしは視線を落とした。冷たい骨壺が目に入り、それをぎゅっと抱きしめる。

「……うん、そうかも」

 目を伏せたまま、わたしはぽつぽつと言った。

「お父さんとお母さんがいなくなって、それからずっと、お兄ちゃんはわたしのために働いてくれた。少ない休みの日は、決まってわたしを遊びに連れて行ってくれた」

 骨壺を抱く両腕に力が入る。諦めたような伽藍洞の声がこぼれ落ちていく。

「……訊けなかった。詳しく訊こうとすると、いつも悲しそうな顔するから。お兄ちゃんを困らせたくなかった。嫌われたくなかった。お兄ちゃんが知らなくていいことだって言うなら、お兄ちゃんが駄目だって言うなら、そうなんだろうなって。でも」

 声がうまく出なかった。身体のどこかで絡まったようだった。数回呼吸を繰り返して、その先の言葉をゆっくりと紡ぐ。

「でも、もうちゃんと自分で考えなくちゃね……ひとりになっちゃったし」

 顎を持ち上げてぎこちなく笑うと、伏黒くんは目を逸らして俯いた。

「……悪かった」
「え?」
「無神経なこと言って」

 その言葉に、肯定も否定もできなかった。わたしはただ「早く行こう」とだけ言った。小さな声に押されるように進み始めた伏黒くんの足取りはどこか重く、わたしたちは呪術高専に辿り着くまで深い沈黙を保ち続けた。



* * *




 長い坂道の先で待ち構える呪術高専の出入口には、やけに年季の入った“都立呪術高等専門学校”の看板が掲げられていた。伏黒くんの後に続いて門をくぐり抜ければ、あちこちに点在する和風建築の建物に思わず目を瞠る。この広大な敷地丸ごと文化遺産や重要文化財だと言われても納得してしまうほど、歴史的に価値がありそうな建造物が建ち並んでいる。

 伏黒くんの後ろを歩いて数分。黒い重厚な扉を持つ立派な建物の前で、彼はようやく足を止めた。

「この先で学長との面談だ」
「わかった。案内してくれてありがとう」
「本来なら五条先生が案内するはずだったんだけどな……」
「仕方ないよ。悟くん、忙しいから」

 会話には互いの距離を測ろうとするような気まずさが残っていた。居心地の悪いそれから一刻も早く逃れたくて、建物へまっすぐに進もうとしたとき、

「五条先生に聞いた話だが、下手を打つと入学できないらしい」
「えっ」

 思いもよらぬ発言に、弾かれたようにその場で立ち止まる。戸惑いを含んだ視線を送ると、伏黒くんが鼻先を背けた。僅かな沈黙を挟んで、わたしに再び白群の双眸を戻す。

「……呪術を学んで、お前は何がしたい」
「呪術を、学んで?」
「俺が面談で訊かれたことだ。も同じことを訊かれるかはわかんねぇけど」

 ぶっきらぼうに言った伏黒くんを見つめて、わたしは首をひねった。

「伏黒くんはなんて答えたの?」
「……さあな。忘れた」

 きっと忘れたのではなく、単に言いたくないだけだろう。唇を結んだ彼にそれ以上の詮索はせず、代わりにわたしは骨壺を差し出した。

「面談が終わるまで預かってくれる?」

 一瞬怪訝な顔をしたものの、彼はそれをすんなりと受け取った。

「これ、どうするんだ?」
「四十九日が終わったら、川に流すよ」
「川に?」
「うん。お父さんとお母さんの時はそうしたの。だから、お兄ちゃんも同じように弔ってあげたいなって」

 バックパックを肩から下ろし、わたしは深々と頭を下げた。

「少しの間だけ、よろしくお願いします」
「……ああ」

 身軽になった身体で地面を踏んだ。緊張で脈がどんどん速くなる。鉄の扉に手をかけ、ふと振り返る。白い骨壺を抱く伏黒くんと視線が絡んだ。わたしは彼に小さく礼をしてから、建物の中にゆっくりと入った。



* * *




 一体どういうことだろう。強面をした壮年の男がぬいぐるみを縫っている。

 黒いサングラスをかけた髭面の大男だった。男は温かい日の差し込む明るい部屋の奥で、山のようなぬいぐるみに囲まれながら、ただ黙々と手芸に勤しんでいる。

 彼が“夜蛾学長”だろうか。確信は持てなかった。とはいえ相手が誰であれ、部屋に入って無言を貫くのは失礼にあたるだろう。わたしはその場で腰を折った。

です。よろしくお願いします」
「樹のことは残念だった」

 耳を打った言葉にはっと顔を上げる。聞き取りやすい低音が淡々と続く。

「アイツほど熱心に仕事に取り組み、呪霊被害に遭った人々の心に寄り添った術師はいなかった。本当に惜しい術師を失くしたよ」

 夜蛾学長はぬいぐるみを作る手を止めぬまま、ようやく本題に入った。

「呪術高専に入学したいと?」
「はい」
「何のために」

 その厳しい口調が伏黒くんの落ち着いた声音を呼び起こす。耳の奥に反芻しながら、自らの考えをひとつにまとめていく。黒く濡れたサングラスの奥に、値踏みするような瞳が見えた気がした。

「呪いを学び、呪いを祓う術を身に付け、その先に何を求める」

 その問いに答えるため、大きく深呼吸をした。持ち上がった肩をゆっくりを落としながら、真剣な面持ちの夜蛾学長をまっすぐに見据える。

 それはきっと、心配性のお兄ちゃんが顔を覆いたくなるような選択だろう。わたしを守り続けてきたお兄ちゃんの気持ちを蔑ろにする選択だろう。

 それでも、一矢報いたいのだ。お父さんとお母さんを、お兄ちゃんを殺した化け物を、わたしは決して許さない。何があろうとも、絶対に。握りしめた拳に力が入り、食い込んだ爪は今にも皮膚を破りそうだった。

 目の前が赤に染まるほどの、確固たる覚悟を告げた。

「正しい復讐をするためです」


卯月 了