「だって明日は金曜日だよ!また誰かが殺される!幸せになるはずだった人たちが、また悲しい思いをする!そんなの、絶対に嫌だ!」

 の悲痛な叫びは、伏黒恵から反論の意力を跡形もなく奪い去った。

 思えばは初めから、死んだ花嫁たちに自らの兄を重ねていた。「悔しかっただろうな」と独り言ちたの横顔は伽藍洞そのものだったし、その奥にほんの一瞬、混濁した狂気が迸るさまを恵は確かに見たのだ。

 あのときと同じだ。「探す手間が省けた」とこぼしたとき、の双眸に光はなかった。深い悲しみは狂気とも取れる殺意に変わっていた。

 恵はそれと全く同じ色を見た。式を挙げることなく死んでいった花嫁たち。彼女たちに平等に与えられた、不平等な現実。その理不尽が、兄の死と深く繋がっていた。が抱いたのは同情ではなく共感だと確信した。

 勝ち目はない、馬鹿なことはやめろ――そう言えれば良かったのだが、恵にそれはできなかった。無駄だとわかっていたから。

 唯一の肉親だった兄が死んで、“まだ”一週間だ。赤の他人、それも兄の死に際を知る恵の言葉や行動で踏みとどまることが叶うなら、そもそもが呪術高専に通うことを選ぶはずもないだろう。

 だから、恵は考えた。まんまと呪霊に拘束されたを助けながら、あらゆる可能性を考え続けた。額にうっすらと汗が滲むほど。すぐに策を講じなければならなかった。厄介な強敵を突破し、を無事に呪術高専に送り届けるために。

 式神の行使で呪力は著しく減少し、その影響から思考は精細を欠いていた。それでも恵は脳を過熱状態に追い込んでまで、目の前の呪霊に勝つ方法を貪欲に求め続けた。

 きっとそのせいで、注意力が散漫になっていたのだろう。突飛と言わざるを得ないの咄嗟の行動に、全く対応できなかった。

 呪霊から離れることばかり考えていた恵の視界が、突然大きく揺れた。そして次の瞬間には、の顔が網膜いっぱいに映し出されている。

 意味がわからず、ただ両目を大きく見開いた。遅れて、唇に柔らかな感触が広がる。

 恵の脳は一瞬、理解を拒んだ。戦闘中、それも呪霊を眼前にした呪術師の行為ではなかったし、が兄の仇ともいえる恵に対してそんなことをするはずがないと思ったからだ。

 しかし、軽く触れるだけだった唇はぴったりと隙間を埋めていく。まるで最初からひとつだったかのように。

 それでようやく、恵は己の状況を理解した。

 ――は?

 唖然とした。どういうわけか、に口付けられている。前屈みになった上体ごと頭を引こうとしたが、に胸倉を強く掴まれていてそうもいかない。

 数秒経ってようやく唇が離れる。しかしその直後、困惑する恵をさらなる混乱へ陥れる一言が投下される。

【呪力過剰投与25%――オーバードライブ】

 妙な感覚だった。抑揚のない機械音声が聞こえたことではない。その音声が耳を通さず、直接的に脳へ伝わったからだ。

 身体がやけに熱い。日に焼けるというよりも、発熱したときの感じによく似ていた。

「少しの間だけ、我慢してね」

 呆然とする恵に、はつたない笑みを向けた。

 呪力過剰投与とは何だ。今のは一体誰の声だ。は俺に何をした。

 理解が全く及ばない。疑問が際限なく溢れている間にも、体温はみるみる上昇していく。立っていることが困難になり、を横抱きにしたまま、恵はその場で片膝をついた。

「伏黒くんっ!」

 その声に叩かれて、はっと顔を持ち上げる。呪いがすぐ目と鼻の先まで迫っていた。咄嗟につま先に力を込めて、呪いと向き合ったまま後ろへ跳躍する。その瞬間、両脚の筋肉が異様な熱を孕んだ。

 ほんの数メートル、後退するつもりだった。アパートとそれに面する道路の境界線まで退くつもりだった。

 しかし、恵の足裏が地面を捉えることはなかった。代わりに背中に激痛が走り、恵はくぐもった呻き声を漏らした。突然襲ったその衝撃に耐えられず、を腕から落っことす。小さな悲鳴が耳を打った。

 恵はすぐに視線を動かした。どうやら道路を飛び越え、アパートの向かいに建つ一軒家の塀に背中からぶつかったらしい。

 跳躍した距離は十メートルを遥かに超えている。

 あり得ないと思った。咄嗟の判断からの跳躍だったし、後退には不向きな体勢だった。加えて、恵はを抱えていたのだ。自らの身体能力では到底不可能な所業だろう。

「……何が、どうなって」

 全身を廻る血液が沸騰している。汗腺という汗腺から、滝のような汗が噴き出していた。目が霞み始めるほどのひどい高熱に侵されていく。

 五感の感覚は遠のいていたが、どういうわけか、全身に呪力が満ちていた。それは元通りだとか満タンだとか、そんな生易しいものではなかった。間欠泉から一気に噴き出すような感覚。恵を構成する細胞のひとつひとつで、意思を持った呪力が暴れ狂っているような感覚だった。

 その間にも呪いが猛然と飛び込んでくる。己の身に何が起きたのか――そんな些事に気を取られている暇はもうない。無駄な思考は捨て去って、恵は高熱を帯びた肉体に新たな意志を叩きこんだ。遠く離れた己の影を力任せに手繰り寄せる。

 刹那、風を切る音がした。

 ――速い!

 瞠目する恵と呪いの間に割って入った鵺は、縦横無尽に宙を飛び回った。傷から溢れた血を撒き散らしながら。しかし、その鋭い瞳には敵に抗わんとする強い意志が満ちている。

 鵺は凄まじい速さで空を飛んだ。呪いの黒い眼窩も長い舌も、鵺どころかその残影すら捕らえられない。苛立った呪いが金切り声で嘶くほどだった。

 翻弄している隙を突くように、恵は印を刻んだ。ほとんど無意識だった。恵の影がぬるりと伸び、塗装された道路を真っ黒に濡らす。玉犬の代わりにどうしてそれを喚ぼうと思ったのか、自分でもよくわからなかった。

「――“大蛇”」

 漆黒の沼からぬっと顔を出したのは、あまりにも巨大な白蛇だった。鵺に気を取られていた呪いが蛇を認識したものの――すでに遅い。

 無慈悲な牙を露わにした白蛇が、瞬く間もなく、呪いを頭から丸ごと飲み込んだ。強靭な顎が呪いの肉体を深く穿ち、多量の血液がぼたぼたと牙の間から滴り落ちた。

 呪いが噛み砕かれていく様子を見届けた恵が、ゆっくりと息を吐き出したとき、

【タイムイズオーバー】

と、平板な機械音声が頭蓋骨の中でうわんと響いた。意識下へ直接語りかける不可思議な声音。まるでそれを合図にするように、恵の全身から一瞬で熱が引いた。骨や筋肉が悲鳴を上げるような異様な疲労感だけが残され、集中力がぷつりと途切れる。二体の式神は実体を失うと、恵の影へと戻っていった。

 恵はを見た。近くで座り込んでいたが、僅かに眉をひそめる。

「身体は大丈夫?つらくない?」
「……平気だ。それよりさっきの――」
「うん、そのことなんだけどね……」

 遮るように言ったの頭が、突然ふらふらと揺れ始める。

「ごめんなさい……全部、あとで聞く、か……ら……」

 目蓋が瞳を深く覆い隠すと、は道路にべしゃりと崩れ落ちた。

 途端に恵の肩が強張り、ざあっと音を立てて血の気が引いた。「?!」と血相を変えて駆け寄ってみれば、は小さな寝息を立てている。ただ眠りに落ちただけのようだった。

「説明してから寝ろよ……」

 叩き起こしてやろうかと思ったが、気持ち良さそうに船を漕ぐに毒気を抜かれる。ため息をひとつ落としたそのとき、恵のスマホが伊地知からの着信を知らせた。呪霊の祓除を確認する連絡だろう。

 疲弊した視線を高く持ち上げる。まやかしの夜が明けようとしていた。