電柱から点々と続く痕跡を辿るように、わたしたちは寝静まった住宅街を歩いていた。

 静かだった。住人が避難を終えた街からは生き物の気配がしなかった。満ちる孤独をひしひしと感じた。

 加えて、夜と呼ぶにはどこか違和感のある暗闇が、その孤独を増長させている。だというのに、等間隔で設置された道路灯は深く黙したままで、本来の役目を全く果たしていない。

 暗い夜道を進みながら、わたしは前を歩く伏黒くんに問いかけた。

「どうして急に夜になったの?」
「“帳”を下ろしたからだ」
「……とばり」
「一種の結界だ。俺たちの姿を隠し、呪いを炙り出す」

 抑揚のない答えに居た堪れなさが募る。足手まといだという自覚が乾いた唇をこじ開けた。

「何も知らなくてごめんなさい」

 伏黒くんは丁字路を右に曲がる寸前、ほんの一瞬だけこちらを見据えた。白群の瞳と微かに視線が絡む。

「何も知らないんじゃなくて、何も教えられなかっただけだろ」

 侮蔑の色など露ほども浮かばないその双眸が、わたしの胸を軽く衝いた。足が止まりそうになり、我に返ると慌てて角を曲がる。

 お兄ちゃんが自分の仕事について詳しく話すことはなかった。“人を傷つける化け物を追い払う仕事”だと言うだけで、何を訊いても、核心めいたことは何も話してくれなかった。

 闇よりもなお黒い、伏黒くんの後頭部を見つめる。

 大人びた空気を纏う彼が同い年だと知ったのは、悟くんと葬儀場でピザを食べているときだった。妙に気遣われるのが嫌で、その日のうちに、他の人たちと同じように普通に接してほしいと彼に頼んだ。わたしもそうするから、と。

「恵のこと、恨んでないの?」

 突然不愛想な喋り方になった伏黒くんを見て、悟くんはそんな疑問を抱いたらしい。通夜の終わった葬儀場で、わたしは答えを探すようにしばらく俯いた。それから、曖昧な顔でぽつっと本音を呟いた。

「……わかんない」
「そっか」
「でも、この理不尽を伏黒くんに押し付けるのは、ちょっと違うかなって」
「大人じゃん」
「子どもだよ」

 悟くんは満足するまで、わたしの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。「はいい女になるよ」と茶化すように笑いながら。

 突然の喪失に散らかった感情は、未だに整理できていない。それでも、この理不尽を誰かのせいにするのは違うような気がしていた。大きな渦と化した途方もない感情、その矛先を向けるべき相手が確かに存在しているからこそ。

 感傷に浸るように歩いていたら、急に伏黒くんが立ち止まった。何かが背中を這いずる嫌な感覚がして、ぱっと顔を上げる。

 ひどく寂れたアパートが目に入った。至るところに大きなヒビが刻まれた薄汚い壁に、塗装が剥げて変色した古そうな扉。いかにも曰くつきといった空気が漂っている。

「どうやって戦うつもりだ。そもそも呪いと戦ったことは?」

 振り返った伏黒くんに、わたしはかぶりを振ってみせた。

「わたし、戦わないよ」
「は?」
「伏黒くんに戦ってもらうから」
「人任せかよ……」

 うんざりした様子でぼやくと、彼はアパートの敷地内に足を踏み入れた。色褪せた鉄の階段を上りながら、別の質問を口にする。

「式神は喚べないのか」
「式神?」
さんが使役してた大蛇だ」
「円のこと?円はお兄ちゃんの友達だよ」
「……友達?……つまり、の術式じゃないんだな?」
「どうなんだろう……ごめんなさい、詳しいことはよく知らなくて」

 階段から遠く離れた角部屋の前で、会話が途切れる。くすんだ赤茶色の扉と対峙する伏黒くんの表情はひどく険しい。彼の邪魔になる行動は控えたほうが良いだろう。わたしは彼から離れるように半歩下がった。

 やがて建て付けの悪い扉が開かれ、彼の背中越しに部屋を覗いた。眼前には絵の具で塗り潰したような闇が広がり、室内は判然としない。

「真っ暗だね」
「気配がする。油断するな。電気は?」
「ううん、駄目。点かないよ」

 玄関の照明灯と繋がるスイッチを何度操作しても、カチカチと空しい音が響くだけだった。一足先に土足で部屋に上がっていた伏黒くんの背中は、その黒髪と黒一色の制服のせいだろう、すでに輪郭がぼやけている。

「ブレーカーが落ちてんのか、もう電気は通ってねぇのか……」

 緊張の滲む声音を追いかけようとしたときだった。

 ぽた。

 左腕に、何かが落ちたような感覚がした。ぬいぐるみを抱える左腕に目を凝らせば、紺色のブレザーに一円玉ほどの丸い染みができている。

 ぽた、ぽたぽたぽた。

 瞬く間に染みが増えた。上から何かが落下してきたようだった。卵の腐乱臭によく似た異臭が鼻腔を焦がし、頭の後ろで警鐘がうるさく鳴り響く。

 確かめるように、わたしはゆっくりと顎を持ち上げた。天井を視界に入れたとき、あまりの怖気に全身が凍った。

 四つん這いの男が、天井に張り付いている。

 重力を無視してべったりと天井にへばり付く男は素っ裸で、腕と足が四本ずつあった。白い首は真後ろを向き、眼球はなく、黒い眼窩がこちらを見下ろしている。蛇を思わせるほど長い舌からは絶えず唾液が垂れていた。

 腕を濡らした正体に気づいたところで、ようやく喉が震えた。

「……伏黒くん」
「なんだ」

 振り返った伏黒くんは目を瞠ると、たちまち血相を変えた。視界に入った四つん這いの男に焦点を固定し、

「走れっ!」

 叫ぶと同時に彼はパンッと手を打った。胸の前で両の親指を絡め、両手で即座に何かを描き出す。

「――“鵺”」

 冷たい声に呼応して、彼の足元から伸びる影が生き物のようにうねった。黒い影は瞬く間に輪郭を持ち、そして確かな実体を持った。

 それはまさしく怪鳥だった。およそ鳥とは呼べぬ異様な容貌をした巨大な生き物は、羽根を広げると天井に沿って飛んだ。弾丸じみた凄まじい速さで。伏黒くんに向かって駆けるわたしの頭上をすり抜けたときには、呪いの濁った悲鳴が耳を打っていた。

 伏黒くんがベランダへと繋がる窓を開け放った。

「飛び降りろ!」
「えっ」
「いいから早く!」

 切迫した声音に下唇を噛む。たとえこの高さから落下しても、よほど打ちどころが悪くなければ即死することはあるまい。そう信じて、ベランダの手すりを強く掴んだ。

 ええいままよ。覚悟を決めると、跳躍するように手すりを飛び越える。

 受け身を取る暇もなかった。落下の衝撃が全身を襲ったものの、予想よりもずっと軽いそれに拍子抜けする。呻きながら顔を上げれば、バクのぬいぐるみが身体の下でぺしゃんこになっていた。どうやら代わりに衝撃を吸収してくれたらしい。

 助かったと思っていると、猫のような身軽さで着地した伏黒くんに腕を引っ張られた。「立てるか」と早口で問われ、わたしはすぐに頷いた。彼の腕を支えにして一気に立ち上がる。

 右足を前に踏み出そうとしたとき、足首をぐんっと強い力で引っ張られた。目を落とせば、唾液に濡れた呪いの舌が幾重にも巻き付いている。呪いはベランダの手すりに蔦のように絡み付き、こちらに向かって長い舌を伸ばしていた。その手は暗闇の中でもわかるほど、何かでべったりと濡れている。

「……ほとんど壊されたな」

 吐き捨てるように言うと、伏黒くんは再び両手を重ねた。今度は開いた左手を右手で覆うようにして。

「――“玉犬”」

 影から喚び出されたのは、黒い体毛に覆われた大型犬だった。玉犬と呼ばれた大型犬は、わたしの右足を拘束する舌を一息に噛み千切る。解放されたその隙に、倒けつ転びつ、急いで呪いとの距離を取った。

 ベランダを見つめる伏黒くんは苦い顔をしていた。振り向けば、呪いの舌に絡め取られた玉犬が宙に浮いている。体毛に埋もれるほど、その舌は玉犬の躯体を深く絞め付けているようだった。

 こちらを一瞥すると、伏黒くんはきっぱりと告げた。

「やめだ、今の俺たちには荷が重い。一旦退くぞ」

 わたしは視線を持ち上げて、呪いをじっと見据えた。伊地知さんの話が頭を過ぎる。下卑た嗤笑に歪んだ首を睨み付けると、震える唇をそっと開いた。

「ここで逃げて、すぐに誰かが祓ってくれるの?」
「……なんだって?」

 問い返す低い声に肩がびくっと跳ねた。それでも、自らを鼓舞するために懸命に声を張った。

「だって明日は金曜日だよ!また誰かが殺される!幸せになるはずだった人たちが、また悲しい思いをする!」

 恐怖を刻む両足に力を入れて、地面を強く踏み付けた。四つん這いの呪いと対峙するように。

「そんなの、絶対に嫌だ!」

 わたしは一心不乱に駆け出した。嘲笑を浮かべた呪いは玉犬を投げ飛ばすと、勢いよくベランダから飛び降りる。

!……ああクソッ!」

 焦燥に満ちた声を振り切るように、四つん這いの呪いに突撃する。捕縛しようと伸びてきた長い舌を避けるため、上体を屈めて走った。崩れることのない嗤笑を、きつく睨み付けながら。

 あともう少しで手が届くというところで、突然、地面の感覚がなくなった。

 一瞬で視線の高さがアパートの二階の高さと並ぶ。首に絡み付いた生ぬるい感触を脳が捉えた。自由自在に伸縮する舌に身体を持ち上げられていた。重力がわたしを地面に引き下ろそうする。巻き付いた舌に気道を塞がれ、まともに呼吸ができず、くぐもった悲鳴が唇から漏れた。

「戦うならもっと冷静になれ!」

 下から叱咤する声が響いたとき、眼前に黒い塊が飛び込んできた。

 血塗れになった鵺だった。

 鵺は呪いの脳天めがけて急降下すると、抱えた衝撃を全てぶつけるように体当たりをした。隙を突かれた呪いは、しかし僅かに後退することでその攻撃を躱してみせる。

 それで充分だった。気が逸れたことで首を絞める舌は緩んでいた。支えを失った肉体が地面に向かって落下する。呼吸をするので精一杯で、筋肉がまるで言うことを聞かない。

 背中からの落下を予感した。衝撃を備えるため、目蓋をぎゅっと閉じる。

 刹那、すぐそばで息を飲む気配がした。身体が何かに引っかかったような感覚に目を開いてみれば、わたしを受け止めた伏黒くんが眉根を寄せている。

「生きてるな」
「……伏黒くん」

 どうしてわたしを置いて逃げなかったのだろう。表情に疑問を滲ませれば、小さな声が返ってくる。

「……守るって言っただろ」

 その言葉に目を瞠った瞬間、彼はわたしを横抱きにしたまま後ろへ飛んだ。呪いが猛然と駆け出したのだ。その進路を塞ぐように鵺と玉犬が割り込んだ。

「今は距離を取るのが先だな」と呟く伏黒くんの横顔を射抜くように見つめる。

 消耗戦になれば不利なのは確実にこちらだろう。伏黒くんが喚んだ鵺も玉犬も満身創痍だ。ならば小手先だけの時間稼ぎなどせず、さっさと決着をつけるほうがいい。

「ごめんなさい。文句はあとで聞くから」
「は?何言って――」

 怪訝な顔をする伏黒くんの胸倉を両手で掴むと、力任せに自分のほうに引き寄せた。

「んっ?!」

 自らの唇を伏黒くんのそれにぴったりと重ね合わせた。溢れる驚愕を塞ぐようにして。かさついた唇は強張っていた。あとでたくさん謝ろうと思いながら、互いの境界線を消すように隙間を埋めていく。

 それは数秒足らずのことだった。唇をそっと離したとき、頭蓋骨の中で誰かが囁いた。まるで機械音声のような、ひどく無機質な響きで。

【呪力過剰投与25%――オーバードライブ】

 強引に唇を奪われた伏黒くんは絶句していた。まるで状況を飲み込めていない彼に、ぎこちない笑みを向ける。

「少しの間だけ、我慢してね」