気がつくと、暗い歩道にひとり立ち尽くしていた。

 辺りには深い夜の匂いが充満しているものの、狭い歩道には道路灯はひとつもない。頼りは片側二車線の道路を行き交う車の前照灯だけだった。

 一体いつからここにいるのだろう。

 考えようとするとこめかみに激痛が走った。あまりの痛みに歯を軋らせたそのとき、「」と背後から誰かに名を呼ばれた。男か女かもよくわからない声だった。最初は聞き間違いかと思ったけれど、その声が二度三度と続いたので警戒心から身体が強張った。

 おそるおそる振り返れば、目の前に、錆びた横断歩道橋が伸びている。黒い空に浮かび上がる巨大な赤い満月に、見覚えのある人影が映り込んでいた。

 瞠目した。そして呼吸を忘れたまま、赤茶に変色した階段を一気に駆け上がる。小気味のいい金属音が静寂の中に木霊した。横断デッキの上で足を止めると、わたしの唇が微かに震えた。

「……お兄ちゃん」

 蚊の鳴くような小声で呼びかけたにもかかわらず、お兄ちゃんはゆっくりとこちらを向いた。

 ちょうど横断デッキの中心にいるお兄ちゃんは、黒のスーツに身を包んでいた。仕事でよく着ていた安物のスーツだ。お兄ちゃんはどこか困ったような笑みを滲ませた。

「遊園地、一緒に行けなくてごめんな」

 その言葉に軽口を返す余裕はなくて、代わりに強くかぶりを振った。少しでも伝わればいいと願って。お兄ちゃんは橋の欄干に両手を乗せると、僅かにこちらを振り返った。唇が穏やかな弧を描いている。

「じきに魔が哭く。贖いの夜が来る。真なる人を騙る魄に気を付けろ」

 夏空のような爽やかな笑みを残して、お兄ちゃんは橋から身を投げた。ほんの一瞬のことだった。喉がひゅうっと鳴った。

「嫌だ、待ってよ!わたしをひとりにしないで!」

 もつれるような足取りで欄干に駆け寄り、身を乗り出して橋の下を覗き込んだ。そこにあったはずの道路は忽然と消えていて、一帯が恐ろしく濃密な黒に埋め尽くされていた。

 お兄ちゃんの姿を探すように目を凝らしたとき、地面を覆う闇がぞわりと波打った。わたしはその存在をはっきりと認識する。込み上げる恐怖で、身動きひとつ取れなくなる。

 一片の光も通さない闇が、確かな輪郭を描き出す。巨大な顎を持つそれは蛇だった。広大な海そのもののような質量を持つ、巨大な蛇の形をしていた。

 大蛇は勿体ぶるように目蓋を開いた。いっそ艶やかな闇を押し広げ、哀切に濡れた血染めの双眸が現れる。

「――供犠の花よ、神籬よ。無名指の咒に還れ」

 逃れようと腰から身をひねる。視界の端に、爛々と輝く赤い月が見えたのも束の間のことだった。瞬く間に視界は闇に飲まれ、身体が浮き上がった。足裏の感覚が抜け落ちて、反射的に目を閉じた。

 暗闇から放り出される気分に襲われ、遠くで誰のものかもはっきりとしない声を聞いた。

 鉛のように重い目蓋をゆっくりと押し上げる。眠気をたっぷりと含んだ眼球に、穏やかな日差しが容赦なく突き刺さった。眩しさを堪えるように、鼻先に触れていたふわふわのぬいぐるみに顔をきつく押し付ける。夢はとっくに輪郭を失い、霧散したあとだった。

「……ん」

 小さく呻くと、右隣から長いため息が聞こえた。伏黒くんは窓枠に腕を乗せて頬杖をつくと、顔を逸らしたまま面倒臭そうな声を漏らす。

「いつまで寝てんだ。いい加減に起きろ」
「……ごめんなさい。このぬいぐるみ、抱き枕にちょうどよくて……」

 ぼそぼそと言い訳を口にしながら、眠気を振り払うために何度か瞬きを繰り返した。指紋ひとつない窓ガラスの向こうには、閑静な住宅街が広がっている。カーナビに表示された時刻に愕然とした。どうやら一時間以上も眠り込んでいたらしい。伏黒くんが呆れるのも無理もないだろう。

「あと十分ほどで着きます」と伊地知さんが言った。伊地知さんが運転する車に乗るのはお兄ちゃんの葬儀以来のこと――つまり、一週間ぶりのことだった。

 お兄ちゃんは検死のあと、すぐに火葬された。

 真っ白な骨になったお兄ちゃんを見ても、涙は一滴も出なかった。弔問客のすすり泣く声が耳にべったりとこびりついていて、泣かないことを責められているような気がして居た堪れなかった。欠けてしまったものを埋めるように、冷たい骨壺をずっと抱きしめていた。

「抱きしめるならもっと可愛いものにしてよ。僕の目の保養にならないでしょ」

 不服そうな悟くんに骨壺を取り上げられ、代わりに腕の中に押し込まれたのは巨大なバクのぬいぐるみだった。今まさにわたしの腕を独占し、眠気を呼び起こしている張本人である。

 全長約一メートル、重さ約二キロ。特徴的な白と黒の模様から、おそらくモデルはマレー半島を中心に分布するマレーバクだろう。体表を覆う毛皮は本物のように艶やかで、まるで生きているかのように温かい。じんわりとした温かさがまた眠気を誘うのだ。

 抱き枕にぴったりなぬいぐるみに顔を埋めていると、隣から怪訝な声音が飛んできた。

「それ、誰からもらった」
「悟くんだよ。肌身離さず持ち歩くことが修行だ、って。でもこの子を抱いてると、眠気がひどいから……」

 そこで言葉を切ると、大きな欠伸をひとつ落とす。また眠りこけてしまいそうだった。「呪力量の設定がおかしいのか?」と独り言ちた伏黒くんが、こちらへ軽く手を伸ばした。

「その呪骸、ちょっと貸してみろ」

 じゅがい。意味の結ばない言葉を脳内で反芻しながら、乞われるままにバクをそっと差し出す。節のはっきりした指先がバクの腕に触れた――次の瞬間、伏黒くんの肩が大きく跳ねた。即座に手を引っ込めると、彼は顔を引きつらせる。

「……どうなってんだ」
「それ、呪力を食べるんですよ」

 漏れた疑問に答えたのは、伊地知さんだった。

「触れた人間の呪力を吸収し続ける――夜蛾学長渾身の力作だそうです。あまり触らないほうがいいと注意を受けました。底をつくまで呪力を喰われるぞ、と」
「……俺、多分今ので四分の一は持っていかれました」
「私なんてうっかり触ってしまって、今ほとんど呪力がない状態ですよ」
「それ大丈夫なんですか……」

 次第に二人の会話が遠ざかっていく。バクに手を引かれるようにして、眠りの海に少しずつ沈み込んでいるせいで。抗いがたい眠気と戦っていると、訝しむ声が耳朶を打った。

「……はなんで眠気で済んでんだ」
「安眠効果、抜群……」
「そういう話じゃねぇよ」
「……ん」
「だから寝るな!」

 鋭い響きにぴしゃりと頬を打たれ、わたしは懸命に目蓋を持ち上げた。バクのぬいぐるみを手渡されてからというもの、暇さえあればずっと眠り続けている。修行だと言われた以上は手放すわけにもいかない。このままでは駄目だと目蓋に力を入れたものの、一秒も経たぬうちに瞳に暗幕が下りてしまう。

 襲い来る眠気と熾烈な戦いを繰り広げていると、

「……は呪術師についてどこまで知ってんだ」

と、急に伏黒くんが質問を切り出した。とはいえ、さして興味もなさそうな口振りに、眠気覚ましとしての会話なのだろうとすぐに察する。その気遣いに感謝しながら、わたしは頭の中をひっくり返して回答を探り出した。

「えっと……化け物を殺す仕事をしてる人?」
「化け物じゃなくて呪い、または呪霊だ。その呪いがどうやって生まれるかは?」
「……ううん、知らない。ごめんなさい」

 言うと、彼は僅かな間を挟んで「……まぁ、そうだろうな」と呟いた。

「呪いは人間の負の感情が集まって生まれたものだ」
「そうなんだ」
「興味なさそうだな」
「……うん、そうだね。あんまり興味ないかも」

 堪えきれず、わたしは大きな欠伸を落とす。伏黒くんが確かめるように訊いた。

「……本当に良かったのか」
「呪術高専のこと?」
「ああ」
「お金もないし、行くところもないし、むしろちょうどよかったよ」

 真っ赤な嘘だった。心配性のお兄ちゃんは自分に万が一のことがあったときのために、わたしが生活に困らないだけの蓄えを用意していたから。多額の死亡退職金と生命保険金、そして貯金の詰まった隠し口座。それは税金を支払っても余りあるほどだった。大学卒業までの生活は充分に保障されていた。

 呪術師養成に特化した学校だという、東京都立呪術高等専門学校――略して呪術高専――に通うと決めたのは、他の誰でもない自らの意思だった。

 二週間前に袖を通したばかりの制服とも、今日限りでお別れだ。この紺のブレザーを脱いで、伏黒くんと同じような黒一色の制服を着るのだろう。借りていた賃貸アパートは今朝引き払い、車のトランクには骨壺と必要最低限の荷物だけが押し込められている。わたしの帰る場所は、もうどこにもないのだ。

「ところでどこに向かってるの?呪術高専ってもっと郊外だよね?」

 話題を逸らすように、わたしは首を傾げた。悟くんからは入学にあたって適性検査を行うとだけ聞いている。てっきり呪術高専で行うものかと思っていたのに。目的地を探るようにカーナビを見つめるわたしに、ひどく呆れ返った視線が向けられる。

「何も聞いてねぇのかよ……」
「……本当にごめんなさい。行けばわかるって悟くんに言われて……」
「あの野郎……」

 憎々しげに呟くと、伏黒くんはどこか疲れた様子で告げた。

「仕事だ。今から呪霊を祓う」