雨が降っていた。

 降水確率100%の天気予報は期待を裏切ることなく、早朝から地雨が降り続いている。鉛色の分厚い雨雲に覆われているせいで、辺りはすでに日が落ちたかのような様相だ。

 決して弱くない雨脚にもかかわらず、樹が運び込まれた公立病院には、外来患者や見舞い目的の人々が引っ切り無しに訪れている。大きさの異なる色彩豊かな傘。正面玄関前で停車する自家用車やタクシー。来訪者を誘導する警備員の声が、絶え間ない雨音に滲んでいく。

 年季の入った病院の通用口、雨垂れの落ちるその軒先で伏黒恵はひとり佇んでいた。正面玄関の自動ドアに飲み込まれていく人々の姿を、ぼんやりと見つめながら。

 もうかれこれ十時間は経過している。通りがかった看護師に「冷えますよ」「風邪を引きますよ」と何度か声をかけられたが、恵は頑としてその場から動こうとはしなかった。

 病院の中に恵の居場所はなかった。容赦なく突き付けられる無力感や罪悪感。湧き上がる後悔は渦を巻いて恵を襲った。まだ外にいるほうが気分はいくらか楽だった。

 黒い制服はたっぷりと湿気を吸っている。地面を打って跳ね返った雨粒も。四月半ばとはいえ、夜はまだまだ肌寒い。いつもなら日が傾き始めているはずの空を見上げながら、風邪を引くと面倒だなと他人事のように考える。

 恵が漫然と視線を戻そうとしたそのとき、

「終わったよ」

 待ち望んだ声音が耳朶を打った。覇気のなかった白群の瞳に微かな光が宿る。

 通用口の扉を開けて軒先に出てきたのは、白衣を纏った中肉中背の若い女だった。どこか人形めいたその横顔に疲労の色は全く浮かばない。

 その女――家入硝子は恵の隣に並び立つと、鉛色に濁った空を軽く一瞥した。

「間もなく葬儀場に移送される。今夜の通夜には間に合うだろう」
「ありがとうございます。無理を言ってすみませんでした」

 長丁場の検死を終えたばかりの家入は何も言わず、手に持っていた缶コーヒーを一口含んだ。家入が樹の検死を担当したことは幸運だった。恵が知る中でも指折りの医師である家入が、重要な手がかりを見逃すなど万が一にもないだろう。

「遺体だが、あまり綺麗な状態とは言えない。被呪状態での検死はあれが限界だった」
「化粧で誤魔化せる範囲ですか?」
「ああ。だとしても、の妹には悪いことをしたよ」
「それは俺から説明しておきます」

 あれほど兄の検死を拒んでいた妹を説得したのは、他でもない五条悟その人だった。

「今は僅かな手がかりでも得るべきだよ。向こうの寝首を掻くためにもね」

 は五条の助言に従った。己が復讐を果たすために。

 ずいぶんと早く葬儀場に向かったに遺体の状態を説明するのは気が滅入るものの、最初に検死を提案したのは恵自身だ。こればかりは致し方ないだろう。

 恵は降りしきる雨に目をやった。

「何かわかりましたか?」
「残念だが目新しい情報はなかった。“何もわからない”ということがわかっただけだ。君の姉と同じように」

 付け足されたその言葉は、恵を少しだけ嫌な気持ちにさせた。だが、そんなことはおくびにも出さなかった。代わりに「詳しく教えてください」と詳細の説明を要求する。

 家入は再び缶コーヒーに口を付けると、一片も表情を変えることなく切り出した。

の顔や身体を覆っていた鱗……あれは爬虫類の、蛇の鱗だ。そして家は蛇神信仰の家系だ」
「……蛇に祟られた、ってことですか?」
「と思うだろうが、話はそう単純じゃない。と同様の殺され方をした人間は全国各地に存在する。この十年間で五百人。見つかっている数だけでそれだけだ。おそらくもっと死んでいるはずだよ」

 さして古くもない自らの記憶と重なる説明に、恵は静かに呼吸を繰り返した。決して感情を掻き乱されないように。平静さを保ちながら、続く家入の声音に耳を傾ける。

「正体不明、出自不明。動機も規則性もまるでわからない上に、相手は雑魚呪霊を経由して術を使用してるから残穢も辿れない。ご丁寧に術式の“癖”もその都度変えて、足が付かないよう徹底してる。まるでサイバー犯罪の手口だな」
「呪いにそこまでの知性が?」
「“特級”は私たちの物差しでは測れない。今回の件なんて特にそうだろ。どこまで本気かは知らないが、あの五条が祓えないと断言したんだ。厄介な相手には違いないよ」
「……祓えないって、それ、どういうことですか」
「見た人間がいないからな。伏黒以外は」

 家入はきっぱりと言った。そこで初めて恵は家入に鼻先を向けた。詳細を促す視線に気づいた家入は、調子を変えずに言葉を継いだ。

「残穢の追跡は不可能。ただ、何らかの条件を満たした被呪者の前にだけ姿を現す。しかも出会ったが最後、確実に殺される――そういう呪いだ。こちらから仕掛けられないんだから、易々と祓えないのも当然だろうな」

 すると恵がどこか腑に落ちない様子で言った。

「……いや、俺、生きてますけど」
「君は例外だよ。十中八九、死に際にが何かしたんだろう」

 当然と言えば当然の台詞を返され、恵は口を閉じる他なかった。情報を持ち帰れ――樹はあのとき確かにそう言ったのだ。おそらく、恵をたったひとりの例外にするために。

 家入は缶コーヒーを飲み干すと、険しい表情を浮かべる恵に視線を送った。

「わからないことだらけの呪霊だが、ひとつだけ弱点がある」
「弱点?」
「火に弱い。遺体を燃やせば容易く術は解ける」

 鉤爪を持つ黒衣の影が頭を過ぎる。告げられた弱点を反芻したときには、すでに家入は通用口の扉に手をかけていた。そして、先ほどよりもずっと落ち着いた声音で付け加えた。

「これはの専任案件だった。私にも、よく相談に来ていたよ」

 扉の閉まる金属音が雨音と混じり合う。恵は奥歯を軋らせて俯くと、爪が深く食い込むほど強く両手を握りしめた。絶え間なく地面を打つ雨粒の音だけが、飽きることなくいつまでも鼓膜を叩き続ける。



* * *




「小学生だった君に声をかけたのと同じ頃に、僕はにも声をかけていてね」

 葬儀場へと向かう社用車に軽薄な声が響いた。後部座席に座る五条は、その無駄に長い足で運転席を堂々と蹴飛ばしている。運転手を務める伊地知潔高を不憫に思いながらも、恵は雨に濡れる窓ガラスを目でなぞった。

「しかし悲しいかな、シスコンのお兄ちゃんに見事追い返されたわけだけど」

 くつくつと楽しそうに笑うと、恵の反応など特に気にかける様子もなく続けた。

「恵の目から見てもわかるくらい、樹ってば全然仕事ができなかったでしょ?“こっちが迷惑だ、術師辞めろ”って何回も言ったんだけど、その度にアイツ、“妹のためだ”って絶対に譲らなくてさ」

 五条の言う通り、その年齢にしては樹の実力はあまりに低かった。もちろん手を抜くことなく修行を積み重ねてきたのだろうが、それでも術師になったばかりの幼い恵との実力差は歴然だった。

 つまり、樹は術師としての才能に全く恵まれなかったのだ。人好きのする性格だけが救いだったと断言してもいい。術師を手助けする補助監督の道を選んだほうがよかったのではないかと恵はたびたび思っていたし、恵以外の人間からの評価もそう大差はなかった。

「術師として無能だった樹が、を呪術界から遠ざけるために一体どれだけのものを差し出してきたと思う?それに比べれば僕と恵の取り引きなんて可愛いもんだよ、ホント」

 呪術師と補助監督では俸給も待遇も比べ物にならない。たったひとりの妹のために、兄は呪術師で在り続けることを選んだのだろう。向いていないから辞めろと周囲から何度罵られようとも。

 視線だけで五条をなぞると、険しい表情で唇を割った。

「そこまで知ってて、なんで」
「別にいいんじゃない?これは本人の意志だ。それに憎い相手を呪い殺したいなんて、呪術師の本懐って感じで最高だろ」
「だからって」
「恵だってわかってるはずだよ。あの手の人間を放っておけば、ひとりで勝手に復讐に走るってこと。だからあのとき止めたんじゃないの?」
「そ、れは……」

 言い返す言葉はそれ以上見つからず、恵は口をつぐんだ。息の詰まるような沈黙が流れて数分も経たないうちに、社用車は葬儀場に到着した。シートベルトを外した五条が茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべる。

「無茶しないように見ててあげてよ。樹との約束なんだろ?」

 駐車場に降り立った恵は、安っぽいビニール傘を鉛色の雨空に向かって大きく開いた。葬儀場の軒先に立つが視界に入る。肋骨の奥から湧き出す罪悪感が、恵の身体を僅かに強張らせた。

 すぐにでも目を背けたかった。の唯一の肉親を奪ってしまった事実から。助けられなかった自らの弱さから。

 しかし恵の中に蒔かれた五条の言葉が、家入の言葉が、樹の言葉が、それを決して赦さなかった。溢れる感情を塗り潰すように、を視界の中心に収める。軒先でぼんやりと雨空を見上げるの表情は空虚で、今にも消え失せてしまいそうだった。

 ――二の舞にしてたまるかよ。

 ビニール傘の柄を強く握ると、恵は雨に濡れたアスファルトに大きく一歩を踏み出した。