深い喪失の輪郭が、妹思いだったお兄ちゃんを浮き彫りにする。
お兄ちゃんはいつだってわたしを優先してくれた。仕事がどれほど忙しくても授業参観や運動会といった学校行事には必ず顔を出してくれたし、「家族を優先させてくれない女の子は嫌だな」と言って彼女と別れることも多かった。
「駄目な兄貴でごめんな」
それがお兄ちゃんの口癖だった。でも、わたしは自己評価の低いお兄ちゃんのことが大好きだった。どれだけ味覚音痴でも、整理整頓が苦手でも、駄目な兄だと思ったことは一度もない。
そんなお兄ちゃんが、わたしのことを黙って置いていくはずがなかった。
真摯な瞳を向ける伏黒くんから鼻先を逸らす。きっと彼にわたしを託したのだろう。彼にそんな目をさせるほどの言葉を最期に投げかけたのだ。だからこそ、彼はあれほどまでに検死にこだわっているのだろう。
お兄ちゃんらしいなと思いながら、わたしは全ての感情を硬直した表情筋の向こう側に隠した。手の指先がずいぶんと冷たい。身体の内側で、何もかもが凍り付いているような気がした。
「それ、本当にお兄ちゃんが言ったんですか?……次はわたしの番だ、って」
「はい」
「そっか……よかった」
安堵の声がぽろりとこぼれ落ちていた。無意識だった。それはわたしの手に余るほどの、隠し切れない感情だったから。
「探す手間が省けた」
抑揚のない低音が、腹の底から溢れ出す。怒りも悲しみも滲まない伽藍洞のそれは、伏黒くんを怯ませるには充分だった。わたしはその場で小さく頭を下げる。
「たくさんご迷惑をかけたと思います。本当にすみませんでした。お兄ちゃんの言ったことは全部忘れてください。それから……ひどいことを言ってごめんなさい。心配してくれて、ありがとうございました」
つたない笑みとともに伝えるべきことを告げると、流れるような動作で霊安室をあとにした。廊下に伊地知さんの姿はない。手続きか何かに手間取っているのかもしれない。
病院の玄関で待とうと歩を進めた瞬間、後方で扉が開け放たれる音がした。
「待ってください!」
耳朶を打つ声音に振り向く暇もなかった。早足でやってきたかと思えば、伏黒くんはわたしの進路を塞ぐように回り込んだのだ。苦虫を噛み潰したような、ひどく険しい顔で。
「何をするつもりですか」
「あなたには何の関係もないことです」
「無謀です。ド素人が殺せる相手じゃない」
「わかってます、そんなこと」
早口で言った。本心だった。彼の脇を通り抜けようとすると、強く肩を掴まれる。振り向いた先にあったのは、こちらを射抜く強烈な視線だった。そこには怒りにも似た光が滲んでいる。
「アンタは何もわかってない。むざむざ死にに行くつもりか」
わかっている。お兄ちゃんを奪った相手に太刀打ちできるなどとは端から思っていない。重要なのは結果ではなかった。自分がどうなるかではなく、自分がどうしたいか。そんな意思を込めて、わたしは小さくかぶりを振る。
「……死んだお父さんとお母さんも、お兄ちゃんと同じだった」
伏黒くんの眉間に刻まれた皺が、より一層深くなった。
肩を掴む手は緩むどころか強さを増し、わたしをその場に固定しようとしていた。彼の指先は肉も筋肉も通り越し、骨をがっちりと掴んでいる。走る痛みに眉根を寄せてみても、伏黒くんは唇を結んだまま微動だにしない。
それからしばらく、不毛な睨み合いが続いた。互いに理解していたのだ。そこにどんな理由があろうとも、相手の意思を尊重するのは難しいということを。
わたしたちはあまりに真剣だったせいで、軽やかに近付いてくる足音に気づけなかった。はっと我に返ったのは、どこか胡散臭い声音が飄々と響いたときだった。
「ねぇ。ふたりで見つめ合って、何してんの?」
凄まじい速さで振り返った伏黒くんの背後に立っていたのは、異様な容貌をした若い男だった。
やけに背が高く、白髪頭をしている。それも、ただの白髪ではない。美しい絹糸を束ねたような、透き通るような白だった。外はもう夜だというのに、何故か黒くて丸いサングラスを掛けている。瞳が隠れていても、男の顔立ちが整っていることは嫌というほどわかった。
とにかく縦に長い印象を与える男はかつて、急な仕事が入ったために帰らざるを得なくなったお兄ちゃんの代役として、保育園の運動会に参加したことがある。リレーでぶっちぎりの一位を収め、黄色い声援を独り占めにし、「可愛いのために張り切っちゃった」と悪戯っぽく笑いながらわたしと手を繋いで帰ってくれた。
「女の子に乱暴は駄目じゃない?」
骨張った大きな手が、わたしの肩に伸びたままの伏黒くんの手首を掴んだ。肩から痛みが消えれば、硬直していた筋肉がふっと緩くなる。
会うのはせいぜい半年に一度。でもそのたびにあのお兄ちゃんが止めに入るほどわたしを甘やかすその男は、いつもと変わらない軽薄な笑みを結んだ。
「久しぶり。元気にしてた?」
「……悟くん」
「食欲はある?今から何か食べに行こうぜ」
「でも」
言い淀みながら霊安室に焦点を合わせると、悟くんはわたしの頭をぽんぽんと叩いた。
「そうだね。デリバリーでも頼もっか」
その提案に頷くより早く、伏黒くんが掠れた声を絞り出していた。
「……なんでここに」
「なんでって、謝罪だよ。教え子が弱くてすみません、って。仕方ないよね。だって僕、君の担任だし」
さも当然と言うような堂々とした口振りに、彼は言葉を失った。ばつが悪そうに目を伏せたけれど、逃がすつもりもないのだろう、悟くんは顔を覗き込むようにして質問を始めた。
「蒸し返すようで悪いけど、と何かあったの?」
「……いえ。別に、何も」
「何もないのに肩まで掴んで睨み合いなんて変じゃない?」
「五条先生には、関係のない話です」
「つれないこと言うなよ、寂しくて泣いちゃうぜ?どうせが仇討ちでも考えたんだろ?」
さして興味もない明日の天気でも口にするように、些事であることのように付け足されたその言葉は、伏黒くんだけでなくわたしをも驚かせた。
きつく眉根を寄せた伏黒くんが即座に唇を割る。
「わかってるなら――」
「わかってるから来たんだ」
一片の迷いもない強い語気が彼を瞬く間にたじろがせた。悟くんはどこか得意げな笑みを浮かべると、黒いサングラス越しにわたしを見つめる。
「ああ、安心してよ。復讐するな――なーんて、そんな毒にも薬にもならないようなこと、僕は一切言うつもりないからさ」
「……え?」
「誰のためにもならない?死んだ人間はそんなこと望んでいない?赤の他人は口を出すなって話だよねぇ。人が何のために生きるかは与えられた自由なんだから」
そこで僅かな沈黙を挟むと、勿体ぶるように腕を組んでみせた。まるでその抗弁に説得力を持たせようとするかのように。
「ただ……その方法は選ぼうよ」
それは魂まで揺さぶる響きだった。
「が呪い殺そうとしているのは、一筋縄じゃあいかない相手だ。復讐するなら悔いのないように、殺し損ねることのないように、露ほどの禍根も断つように……つまり、正しく復讐するべきだと僕は思うね」
「……正しい、復讐?」
「そう。今のに必要なのはその技術だ」
悟くんはきっぱりと言った。そして、わたしに手を差し伸べるように言い添えた。
「呪術師として、正しく復讐してみない?」