もっと、動揺すると思っていた。

 ドラマや映画のように、遺体にすがりついて泣いたり、悲痛な声で名前を叫んだり、訳がわからなくなるほど気が動転するものだと予想していた。大切な人を失った喪失感がたちまち襲いかかってくるはずだ、と。

 少なくとも、お父さんとお母さんが死んだときはそうだった。だからわたしはお兄ちゃんの顔を見るまで、両手を強く握りしめていた。少しだけ伸びた爪が手のひらに食い込んで痛かったけれど、死の喪失感を遠ざけてくれるなら何でもよかった。

 たとえ僅かであろうとも、動揺を気取られたくなかったのだ。お兄ちゃんの後輩が、伏黒くんが見ている前で取り乱すのはみっともないと思ったし、なによりそんなみじめな姿を見られたくはなかった。どうしても。他の誰でもない、伏黒くんにだけは。

 しかし、それは杞憂に終わった。緊張に震えていた身体は、今や静かに凍り付いている。わたしの心臓まで止まったのかと錯覚するほどに。

 すぐ目の前に、お兄ちゃんがいる。白い布をはぎ取られたお兄ちゃんが、わたしから涙や悲しみや嘆きやそういうものを全て、根こそぎ奪い去ってしまったのだ。

 永い眠りについたお兄ちゃんの、その穏やかな顔のほとんどが――色鮮やかな鱗に覆われているせいで。

 それは間違いなく鱗だった。親指の爪ほどの大きさの鱗がびっしりと、お兄ちゃんの顔の表面を這っている。まるで肌の代わりのように、一面に。

 魚類や爬虫類の身体を守るそれと、質感は全く同じように見える。

 薄暗い照明が落ちる安置室でもはっきりと認識できるほど、無数の鱗は目を瞠るばかりの鮮やかな色を宿していた。見る角度によって、その色は魔法のように移り変わっていく。鮮烈な虹色が網膜に映し出され、わたしの意識を強く捕らえて離さない。

「……見つかったときには、そうなっていました」

 深い沈黙に小石を投げ込まれ、わたしはゆっくりと顔を上げた。お兄ちゃんの傍らに立つ伏黒くんは、切れ長の瞳をじっと伏せている。囁くような声の響きからは、悲しみが変わらず読み取れた。途方もない後悔と罪悪感も。

「いつそうなったのか、これが何の呪いなのか……現時点では何もわかりません。ただ何らかの形で被呪……“呪われている”のは間違いありません。それも、現在進行形で。検死をすれば、呪われたのが生前なのか死後なのか、ある程度はわかると思い――」
「いいです、必要ないです。このまま、綺麗なまま、弔ってください」

 わたしは首を左右に振って拒絶を示した。それは懇願だった。死因はもうすでに決まっている。不慮の事故。高所からの転落死。つまり、お兄ちゃんは打ちどころが悪くて死んだのだ。

 後輩を庇って死んだという不変の真実は、お兄ちゃんの遺体とともに永遠に葬り去られる。なかったことにされる。どれだけ調べようとも、嘘にまみれた死因が覆ることはない。

「お願いします。検死させてください」

 謝罪したときと同じように、伏黒くんは腰を深く折ってみせた。譲る気など微塵もなさそうな直線的な響きがわたしをひどく困惑させる。

 強情な彼の姿勢に動揺を覚えながらも、わたしは視線を鮮やかな鱗に移動させた。死んだお兄ちゃんの顔を見つめるだけで、わたしの心は驚くほど凪いでいく。月も星もない深い夜に沈むように。

 わたしは伏黒くんに対して何も言わなかった。

 今ここで彼と会話をすることは得策ではない気がした。議論の余地を与えてしまうからだ。根気強く話せば説得できるなどと勘違いさせてはいけない。

 検死はしない。必要ない。揺るぎない姿勢を貫くように、鱗に彩られたお兄ちゃんの顔を見つめ続けた。唇を横一文字に結んだまま、手のひらに食い込んでいく爪の痛みだけを感覚しようとした。

「……遺族であるあなたの気持ちを尊重するべきだということは、わかっています。でもお願いします。お兄さんの遺体を詳しく調べさせてください。被呪したまま弔うのは危険です。明日の通夜には必ず間に合うよう手配します。だから……お願いします」

 それでも伏黒くんは言葉を続けた。時おり詰まりながらも、検死の必要性を説いた。わたしの気が変わるようにと、懸命に言葉を尽くして。

 頭を垂れた彼の訴えに耳を傾けながら、お兄ちゃんの頬にそっと触れた。そろそろ伊地知さんが迎えに来る頃だろう。名残惜しむように、優しく指を這わせていく。

 鱗に溺れた肌に生前の柔らかさはない。指に引っかかるような、ざらざらとした冷たいプラスチックのような感触の奥で、硬直した肉が静かに眠っている。覆ることのない死を告げている。

 冷たい頬から手を離しながら、わたしは視線を滑らせた。「わたし、もう行きます」と小さな声で言うと、伏黒くんがやっと頭を持ち上げる。彼がまた何かを言いかける前にと、逃げるように踵を返せば、しかつめらしい声音が耳朶を打った。

「お兄さんが死ぬ間際に言っていました。次はきっと妹の番だ、と」

 はっとした。思わず振り向けば、覚悟の宿る双眸がこちらを見据えている。反射的に息を呑んだ。

 伏黒くんは迷いを振り切った表情のまま、明朗に言葉を継いだ。

「俺にあなたを守らせてください」

 決意に満ちた声が、霊安室の中に確かに響いていた。