幽霊や妖怪といった不可思議な存在を、心の底から信じている人は少ない。

 好奇心をくすぐる生き物たちは、今やオカルトの範疇に閉じ込められてしまった。人間の理解を超えた不思議なものは、科学技術の発展とともにひとつずつ消えていったから。

 けれど、この世界のキワには、確かに存在しているのだ。

 ――科学からの追放を逃れた、身の毛もよだつ化け物が。

「遺体の損傷が激しいことから、お兄さんの死因は不慮の事故――高所からの転落死ということになりました」

 感情を抑え込んだ淡泊な声が聞こえて、はっと我に返った。

 きつく抱えた膝に埋めた頭を持ち上げれば、すぐ目の前に伊地知さんがいた。黒いスーツが汚れることも厭わず、鈍い光を宿した床に片膝をつくようにして。

 わたしは霊安室の前から一歩も動けなかった。

 一体どれくらいの間そうしていたのかわからなかった。すりむいた膝に大きなかさぶたができるほど長い時間だということだけは確かだった。冷たい壁に背中をあずけながら、折りたたんだ膝を抱きしめて小さくなっていた。激しい嵐が過ぎ去るのをじっと待つように。どこにも行く場所なんてなかったから。

「死亡届にはそのように記載をし、すでに役所には連絡を済ませています」
「はい」
「すでにご存知かもしれませんが、呪霊による被害であることは伏せられます。今回こうして事実をお伝えしているのは、さんが呪霊の存在を知っているからです。事実の口外は控えるように、どうかお願いします」
「わかりました」

 口角を持ち上げて頷くと、伊地知さんは薄い唇を僅かに開いた。しかしその隙間がそれ以上大きくなることはなく、迷いを含んだ視線を背けるにとどまった。きっと、気の利いた言葉が何も見つからなかったのだろう。

 学生時代からずっと身を粉にして働いていたお兄ちゃんは、毎年毎年、両手では数え切れないほどの葬儀に参列していた。同じ職場の人が亡くなった、と寂しそうに告げて。

 長雨が続きがちな梅雨の時期は特に多くて、毎日葬儀に足を運ぶことすらあった。お清めの塩で真っ白に染まった玄関前の無機質な床を踏みしめるたびに、葬儀に参列していないわたしもひどく悲しい気持ちになった。

 とうとうお兄ちゃんの番が来たのだ。未だ科学に追放されることのない化け物が、お兄ちゃんの命を容易く奪っていったのだ。

「お通夜は明日、告別式は明後日を予定しています。喪主はさんに務めて頂きますが、全てこちらで取り仕切りますので――」

 それからしばらく、事務的な報告が淡々と続いた。

 黙って耳を傾けていたものの、話の大半は頭に入ってこなかった。脳髄がお兄ちゃんの死を拒んでいるせいで。言葉を尽くして説明してくれる伊地知さんには、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「もうすぐお兄さんを葬儀場に移送しますが、さんも一緒に行きますか?」

 最後に告げられたその言葉だけは、かろうじて理解できた。一歩も動きたくなかったけれど、お兄ちゃんと離れるほうがずっと嫌だった。

 わたしが小さく首を縦に振ると、伊地知さんはひどく優しい表情を浮かべた。

「わかりました。車を用意しますので、ここでしばらく待っていてください」
「ありがとうございます」

 廊下の向こうに消えていく伊地知さんの背中を見送ったあと、わたしは視線を少しだけ移動させた。たったそれだけで、肋骨の中にどろりと濁った何かが広がる。自分が心無い醜悪な生き物になったような気がした。

「まだ帰らないんですか?」

 自分でもびっくりするほど、意地の悪い響きだった。なんて嫌味なやつなんだろうと思われているに違いなかったけれど、返ってきたのは特に傷ついた様子もない切れ長の視線だった。

「もうしばらくここにいます」

 そう答えた少年の声質は低く、どこか無機的で、わたしの感情を逆撫でるには充分だった。もはや汚泥と化した黒い塊が肋骨の中で蠢いている。わたしは伏せた顔を両膝の間に深く埋めた。少しでも平静を取り戻したくて。

 どうして立ち去ろうとしないのか、わたしは理解に苦しんだ。彼は謝罪をしたあとも、ずっと廊下に立っていた。アルマジロのように身体を丸めて縮こまったわたしに話しかけることもなく、沈黙を保ったままわたしのそばにいた。わたしから一歩も離れようとはしなかった。

 彼のことはよく知らない。伊地知さんから聞かされたのは、“伏黒恵”という彼の名前と彼がお兄ちゃんの後輩だということだけだ。お兄ちゃんが命を賭して守る価値のある人間だったのかも、よくわからないままだった。お兄ちゃんのほうが弱かったというなら、尚更。

 膝を強く抱え込みながら、わたしは唸るように声を絞り出した。

「あの……正直言って、ありがた迷惑です」
「……だと思います。あなたにとっては」

 彼は他人事のような口振りでそう言った。でもその声には後悔や罪悪感がうっすらと滲んでいて、お兄ちゃんを見殺しにした後ろめたさがあるのだろうと思った。罪の意識が彼の足をこの場に縫い付けているのだろう、とも。

「ひとつだけ、お願いをしてもいいですか」

 わたしが彼に突き付けたのは、拒否権のない要求だった。僅かな沈黙を挟んで、彼はこう言った。

「どうぞ。何でも言ってください」

 何でも。今日会ったばかりの他人相手にそう易々と口にするべきではない言葉が飛び出したのは、やはり罪悪感があるからなのだろう。後悔から溢れたそれを利用することに躊躇いを覚えたのも一瞬だけで、すぐにわたしはすげなく返した。

「お兄ちゃんの顔の布を、取ってもらえませんか?」
「……え?」

 どこか調子の外れた声が響いた。重い頭を持ち上げれば、彼はぽかんとした顔でわたしを見ている。きっと無理難題を課せられるとでも思っていたのだろう。呆気に取られる彼にだめ押しをするように、わたしはぎこちない笑みを返した。

「わたしには、ちょっと無理だから」

 彼はゆっくりと目を伏せると、「わかりました」と静かに答えた。