走っていた。

 逢魔時に飲まれた街を、懸命に走っていた。行方を阻むビルの谷間を。影の落ちた細い路地裏を。大勢の人の行き交う大通りを。道は知らなかった。方角だけが頼りだった。スマホに目を注ぐ一瞬すら、今はただ惜しくて。

「あっ、さん?!や、やっと繋がった……」

 頭の中で生真面目な声が響いていた。さっきからずっとそうだった。固定電話の受話器を通して聞いた会話が、飽きることなく何度も繰り返し再生されている。職員室を飛び出した瞬間から、ずっと。

「お久しぶりです、お兄さんの同期の伊地知潔高です。お正月は大変お世話になりました。授業中でしたよね?突然の連絡で驚かせてしまって本当にすみません」

 荒れた呼吸のせいで喉がひゅうひゅう鳴っている。全身から汗が噴き出し、高熱に侵されたかのように身体が熱い。両足の感覚は半分くらい抜け落ちて、筋肉の疲労感はすでに感じ取れなくなっている。

 少ない体力はとっくに底をついていたけれど、それでも足を止めなかった。止めようとは思わなかった。今はほんの少しでも前へ進みたくて。

 赤信号の横断歩道を数歩で渡り、甲高いクラクションを無心でくぐり抜ける。交差点の角を曲がったとき、

「時間がないので用件だけ伝えます。今から言うことを、どうか落ち着いて聞いてください」

 転がる空き缶に気づかず、蹴つまずいて転んだ。身体の前面に重い衝撃が走り、くぐもった悲鳴が口から漏れる。膝を派手にすりむいたような気がしたけれど、確かめている時間はなかった。そんなことにかまける余裕はどこにもなかった。

 鈍い痛みに奥歯を軋らせながら、すぐに地面に手をついて跳ねるように立ち上がる。

 歩道を踏みつける足裏の感覚は、壁をひとつ隔てたように遠のいていた。脳の中枢を揺さぶる生真面目な声音だけが、確かな輪郭に縁取られている。わたしを決して逃すまいとするように。

「お兄さん――樹さんが、先ほど亡くなりました」



* * *




 もう立派な大人だというのに、お兄ちゃんは暗いところが苦手だった。

 眠るときも白い照明を点けていないと駄目で、子どもみたいだと茶化すといつも困ったように笑っていた。わたしと同じ場所で眠るときだけは気を遣って照明を消してくれたけれど、寝つきが悪くて夜中に何度も目が覚めたのだろう、翌朝には目の下にうっすらと青いクマができていた。

 だから、お兄ちゃんはここではゆっくり眠れないだろうなと思った。この霊安室は照明が暗すぎて、きっと眠りが浅くなってしまうだろうから。

 飾り気のないベッドの上に、白い布を被ったお兄ちゃんが横たわっている。入学したばかりの都立高校からほど近いこの市民病院に運び込まれたのは、唯一の肉親であるわたしを慮ってのことだろう。

 救急車が到着したときには、すでに心肺停止の状態だったらしい。もうその時点で助かる見込みはなかったのだろう。お兄ちゃんは手術室に運ばれることもなく、冷たくて暗い霊安室にひとりぼっちで、ずっとわたしを待っていたのだ。

 涙は出なかった。顔に被せられた白い面布を剥ぎ取る勇気も。ベッドの脇に突っ立って、“お兄ちゃんだという遺体”を黙って見つめることが、今のわたしにできる精一杯だった。

 霊安室の白い扉がやけに重く感じられた。ゆっくりと押し開けて廊下に出ると、よれたスーツに身を包んだ伊地知さんが気遣うような視線をくれた。

「後は全てこちらで手配します」
「でも、そういうわけには……」
「今だけは甘えてください。同僚としてではなく、大人として、彼の友人としてのお願いです」

 眼鏡の奥の怜悧な瞳は赤く、腫れぼったい。伊地知さんの中で、お兄ちゃんの死が雪崩を打つように襲ったのだと悟った。

 わたしはその優しさに甘えることにした。提案してくれたのが伊地知さんだったというのも理由のひとつだけれど、そもそも葬儀の流れ自体よくわからなかった。だから今は頼るべきだと思った。うまく働かない頭では、結局何も決められないような気がして。

 伊地知さんが頭を下げて立ち去ると、壁際で立ち尽くしていた少年と目が合った。

 喪服めいた黒い制服姿の少年だった。年齢はわたしと同じか年上に見える。墨を溶かしたような黒髪と切れ長の冷めた瞳が印象的だった。

 彼は決して自分から目を逸らさなかった。それがわたしに対する誠意だとでも言うように。わたしは抑揚のない声で、滑らかに問いかけた。

「あなたとお兄ちゃん、どっちのほうが強かったですか?」

 追い詰めるような言い方だとわかっていた。最低な質問をした自らを腹の底で強く詰った。でも、そうでもしなければ気が済まなかった。やり場のない感情と折り合いを付ける方法なんて、これっぽっちも思いつかなくて。

 やがて彼は目を伏せた。固い拳を作る両手が震えている。

「俺です」

 きっぱりと告げると、次の瞬間にはその腰が深く折れ曲がっていた。黒い頭頂部がわたしの眼前に惜しげもなく晒される。

「お兄さんを守れず、本当に申し訳ありませんでした」