「……一体どういうことだよ」

 無意識のうちに、焦燥混じりの苛立ちが乾いた唇からこぼれ落ちていた。だが、その鋭い響きは薄暗い森の中に反響することなく沈んでいく。助けが来ないことを示すように。

 伏黒恵の双眸には、不吉な影がひとつ映っていた。顔を隠すようにフードを深く被った黒衣の影――その手には、肘から先を引き千切られた人間の腕が握られている。それに食い込む鋭利な鉤爪は、およそ人間のものではなかった。

「今日は特級相手の仕事じゃねぇはずだろ……」

 招かれざる客は、まるで時が止まったように微動だにしない。

 恵が浅い呼吸を繰り返すたび、鉄さびた香りが鼻孔を焦がした。右斜め前方から痛みに呻く声が聞こえている。

 黒いスーツ姿の若い男が、草の生えた地面に片膝をついて、痩せた背中を小さく丸めていた。男の左肘から先は忽然と消え、その傷口からは真っ赤な鮮血が止めどなく溢れている。

「予定外の呪霊に、乱入されることは……まあ、よくある……こと、なんだけど」

 掠れた不明瞭な声が恵の耳を打つ。ふらふらとよろめきながらも、男はなんとか立ち上がった。その細い右手は自らの横腹をきつく掴んでいる。白い骨がのぞくほどの大きな穴を、少しでも塞ぐために。

「……ごめんな。俺が、馬鹿だった……油断した俺のせい、だ……」

 男の自虐的なその一言が恵の意識を貫く。

「それってどういう――」
「伏黒君……君は、逃げろ」

 こぼれた疑問を遮ったのは、有無を言わさぬ響きだった。

「必ず、情報を持ち帰れ。どうせ俺は、助からない……今、避けるべきは共倒れ、だろ?」

 そこには強い覚悟があった。説得の余地などないことはわかっていた。それでも恵は諦めたくなかった。記憶をひっくり返して、必死で言葉をかき集める。

「……ゴールデンウィーク」
「え?」
「ゴールデンウィークは妹さんと遊園地に行くって言ってましたよね?!あの約束はどうするんですか!」
「あー……」

 男は言い淀んだあと、すぐに唇を割った。どこか吹っ切れた様子で、淡い笑みすら含ませながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「俺さ、もう……目がほとんど、見えてなくてさ……アイツに気を遣わせて遊園地、なんて……俺が嫌だよ」

 全身から熱が引いていく感じがした。それ以上は何も言えず、恵はただ奥歯をきつく噛んだ。血の気の失せた青白い顔を前に向けて、男は掠れた声を放った。

「――おいで、“円”」

 その呼び声を合図に地面が盛り上がり、暮夜に濡れた漆黒の大蛇が顔を出す。車でも簡単にひと呑みしそうな顎を持つ大蛇は、男に寄り添うようにとぐろを巻いた。血を溶かした赤瞳はフードの影を射殺さんとばかりに睨み付けている。

 焦点の合わなくなった男の視線が、青ざめた恵の顔を優しく撫でた。死を目前にした人間の目ではなかった。慈愛に満ちた光が宿るその瞳を、恵はよく知っていた。――そう、嫌というほどに。

「供犠の花に、代わりはいない……きっと次こそ、妹の番だ。アイツを――を、出来の悪い兄貴に代わって……守ってやってくれ。アレを封じる、方法は……どこかに、必ずあるはず、だから」

 血染めの唇に穏やかな笑みが宿る。

「頼んだぜ、伏黒君」